東京都葛飾区本田川端町748番地、ここがおいらの生まれた場所。今では町名変更で東立石となっている。昭和40年前後、日本のあちこちで町名変更が行われ歴史を感じさせてくれる地名も随分なくなってしまった。しょうがないね、時代の流れだから。今の巣鴨近くの千石町の交差点も昔は『駕籠町』(かごまち)の交差点と言っていた。あそこは江戸時代からの町名で、将軍家の駕籠役51人が幕府から土地を与えられて住んでいたのが町名の由来。町名としてはすっかり消滅してしまったが、駕籠町公園とか文京区立駕籠町小学校とかいう名前は今でも残っている。葛飾区立石でも本田(ほんでん)という地名は消滅しているが、やはり葛飾区立本田小学校は健在。消防署も本田消防署として残っている。残念ながら本田警察署は2002年に葛飾警察署に改名されてしまった。
昭和30年代は、葛飾区の立石近辺にも映画館がたくさん有った。映画とパチンコが庶民の娯楽の代表だったからね。京成線立石駅の近辺だけでも3館有って、名前は忘れたが東映専門の劇場、ここは当時『月光仮面』などを上映していた。そして金竜座、名前が今思うとカッコイイよね。昔の芝居小屋風の名前で懐かしい。もう一つはオリオン座、昔は最後に『座(ざ)』ってつけるのが普通だった。
おいらが小学校6年のとき、いきなりお母ちゃんに「中学は私立の京華学園中学に行きたい。」と言い出した。今にして思えば、とんでもない馬鹿野郎なことを言ったと思う。当時、我が家は母子家庭で、母は貧乏と大格闘している最中のことだ。父はおいらが5歳の時に病死した。末期の胃がんだった。当時、兄が11歳、次男のおいらが5歳、弟は10ヶ月の赤ん坊だった。群馬県高崎市出身の父の遺産の家と土地を売却して数年は食いつないでいたようだが、3年後に母は働き出した。必死で働いていたんだと思うと今でも涙が出る。私立の中学など金が無いからダメだと言ってくれれば諦めたと思う。ところが母は、すぐに6年の担任に受験する旨を伝える。担任の木下先生も怒った。「ダメですよ、今まで何の用意もせずに、いきなり受験しようなんて、合格する訳ないでしょ!」
そりゃそうだ!担任の木下の言う通り。まともなのは、担任の方だ。
ところが、どうしたことか合格してしまった。
京華学園中学は文京区白山にある。さすが私立の学校だけあって、おいらの家庭のような貧乏な家は無さそうだった。大体が安定したサラリーマンの家庭か、中小企業経営者の子息だ。それでも自分は根が鈍なのだろう、気にせず毎日楽しく通学していた。
ある日、学校の授業で映画鑑賞をするとの話があった。場所は東京銀座。映画館は正確には京橋の『テアトル東京』。おいらの頭の中には、映画館というと金竜座とオリオン座と東映しかないから、なんとなくそんなもんだろうとしか思っていなかった。当日、『テアトル東京』の前に着いてぶったまげたね。こんな大きな映画館は立石には無い!金龍座が何件入るか分からない大きさだ。観客収容人数1000名超。完全に下町小僧は銀座という街に圧倒されて、お上りさん状態だった。そのとき上映された映画の題名は『西部開拓史』。おいらが初めて観るスーパーシネラマ映画だった。音響も最新設備、当時映画看板によく書かれていた『総天然色』映画だ。ついでに『シネラマ』を調べて見た。
デジタル大辞泉の解説によれば、『シネラマ(Cinerama)』とは、
ワイドスクリーン映画の一つ。3台のカメラで同時に撮影したフィルムを、3台の映写機で湾曲した横長のスクリーンに映写して、立体的な画面を得るもの。スクリーンの縦横の比率は1対2.88。1952年、米国で実用化。商標名。
残念ながら大映画館『テアトル東京』は1981年に閉館した。これも時代の流れなんだろうね。
この中学一年の体験の時から、すっかり銀座が好きになった。銀座は奥が深いよ。われわれ庶民から超セレブまで幅広く楽しませてくれる大きさがある。どことなく品格があって、落ち着いている。最近はブランドショップばかりが増えてしまったが、それでも良いところはまだまだたくさん残っている。