李徳印老師の日本での著作の中に『楊式太極拳』と云う本が有ります。
この中に郭福厚老師の書かれた『恩師・李玉琳を偲ぶ』と云う序文がありますが、その中に出てくる話をご紹介いたしましょう。
李玉琳先生は、簡化24式太極拳の編纂者であり、中国十大武術名士の一人でもある李天驥老師の父君です。
1950年郭福厚老師が28歳の時、突然に喀血した。口から血を噴き出し、それを吐き出すひまなく、窒息寸前で病院に運びこまれた。医師からは、急性肺炎型の結核と診断を受け、右肺に空洞が発見された。すでに、病状は第3期であった。
当時、ストレプトマイシンと云う結核の特効薬があったが、とても高価な薬であった。医師からは治療には、ストレプトマイシンのアンプルが90本が必要と言われたが、全財産をはたいて手に出来たのは30アンプルであった。ストレプトマイシンを注射してからは、ひどい喀血は少なくなったものの、その後も喀血は毎日続いた。すでに治療費は底を尽き、家で養生して1年が過ぎても病状の改善は進まなかった。
その時、親戚の人が『太極拳療法』と云うものがあると薦めてくれた。事前に何人かの医師に相談したが、喀血している人間がスポーツ療法をやるなど問題外と皆反対された。切羽詰まっていた郭福厚老師は、危険を冒す覚悟で李玉琳老師の元を訪ねる。
李玉琳老師は「君と同じような病人が多数治っているのだよ。若いのだから、必ず治って見せると云う気構えで、わたしについて100日間やって見なさい。きっと良くなるだろうよ。」と励ましてくれた。しかし、実際のところの心中は半信半疑であった。通い始めて最初に指導されたのが『蹲椿』(トゥンズワン・そんとう)の動作であった。蹲椿とは、膝をゆっくり曲げて腰を落とし、次には膝をゆっくり伸ばしながら立ち上がると云う動作である。李玉琳老師は「力を抜いて」「姿勢を正して」と注意を与えてくれながら、手を貸してくれたりもした。こうした蹲椿の練習を3回やっては1分間の休憩を入れた。これを3回やっていたので、合計9回やって帰宅するのが習わしになって行った。
李玉琳老師からは、「100日間は朝晩休まず通って治療を受けるように」と言われた。
2週間ほど経った頃、治療の効果が現れたのか、喀血を繰り返す間隔が長くなっていた。暫くすると、喀血は朝晩だけになった。病状が好転している事を李玉琳老師に報告したところ、「よくなる前に、ひどい喀血を起こすと思いますよ」と予想された。はたして、その通りの事が起こった。それ以来、病状は日増しに改善し練習も師の力を借りずに、自力で出来るようになった。2ヶ月後には蹲椿の動作を30回も繰り返す事が出来る様になり、しかも30分は休まずに続けていられるようになった。100日が経った頃には、1年以上苦しめられて来た喀血がほとんど見られなくなり、暮らしもほぼ正常に戻す事が出来た。
その後、郭福厚老師は本格的に太極拳に取り組み、8年後の1958年天津市代表として北京で開催された全国武術大会で太極拳と太極剣の2種目で優勝を果たします。
私はこの話を読んだ時、とても驚きました。ビックリしたのです。日本では太極拳と云えば、中国武術であり身体に良い健康運動として一般に知られています。中国では、その太極拳で病気の治療を実際にやっていたのです。そして効果もあり、治療実績もあげていた。李玉琳老師が太極拳の指導者でありながら、中国医学の素養があったのかどうかは定かでありません。一つの療法としての太極拳療法が、実際に65年前の中国で存在していた事に、私は何か底知れない奥行きの深さを感じ不思議に思うのです。
今でも、太極拳療法って有るのだろうか?