一流の高い感性を育む大切な条件。
それは、その道への入門が凡そ年齢にして五・六歳から遅くとも十代半ば位までであろう。
しかも、師が一流で無くてはお話しにならない。ここが最も大切。
これが最低の条件である。歌舞伎や能・狂言など文化・芸術の伝統芸継承は正にこれである。音楽や舞踊・武術・太極拳も全く同じ事が言える。
絶対とは言わないが、この時期を逸するとその道で一番大切な感性を磨き養う事が不可能になる。
何故、師が一流で無くてはいけないか?
一流の技を見る事でのみ一流の感性は磨かれて行くからだ。この時期に二流以下のものを見てはいけないし、習ってはいけない。心の目が腐り、大切な感性が腐る。
この一流の感性は、その後の道を歩むにあたっての法灯となり、その後の運命に大きく影響を与える。
幼年期の厳しき良き修行は、その道の基礎を骨の髄まで染みこませる。芯に入る。
しかし、まだここから一人前になるまでに、更に数十年を要すると云う現実もある。
しかも、絶対に一流に成り得る何の保証も有りはしない。ただ確かな可能性のみが其処には存在するだけだ。
後は本人の継続的な努力と志、そして運によるところも大きい。
こう云う人たちの中から、一握りの一流人が確実に育ってくれている歴史が日本にはある。
それでは、この年頃に物事を習い始める事が出来なかった人たちはどうすれば良いのだろう?
ほとんどの人は、大学受験が終わってから好きな事を始めたり、大人であれば子育てが一段落した頃から、多少の余裕が出来て何かを始めたりする。定年退職前後に取り掛かる人も多いだろう。
様々な人たちが多種多様の目的を持ってスタートする。
日常の気分転換が目的でも良いし、ほんの小さな楽しみとしてやるのも良い。手慰みでも良いし、健康のためでも良い。また、本格的に取り組むのも勿論良いだろう。
ただこの場合でも、できる限り良き指導者に習って欲しい。許される範囲でも良いから、良き指導者を探す努力をする事がとても大切なのだ。生徒が西を目指すのであれば、西の方向を指し示してくれる指導者でなければ危うい。出来ない人間が、出来ない人間に教えたとしても何も生まれはしない。先生の先生が、どのような先生かを知ることも一つのヒントになるだろう。運が良ければ一流の系譜に巡り合う事が出来るかも知れない。
幼年期から身に付けた芸は骨の髄に染み込み、その人間の一部になり、決して抜ける事はない。
それに比べ、大人になってから覚えたものはすぐ抜ける。すぐ忘れる。常に怠ることなく稽古していないと、一流の師の指導を受けていても中々進歩は難しい。せっかく綺麗に塗料を塗っても、ちょっと油断をすると、すぐに塗料が退色したり剥落してしまうのによく似ている。せっかく覚えたものが、あっという間に抜けて、素の自分に戻ってしまう。
そんな時は、許される範囲の中で一流に浸って蘇生して欲しい。日本には探せば、一流がまだまだ残っている筈だ。運が良ければ巡り会えるかも知れない。
局長