10.吉田松陰の言葉

吉田松陰の遺訓に『妄(みだ)りに人を師とするべからず、真に学ぶもの在りて師とすべし。』学ぶ者の心得として『簡単に人を先生としてはいけない。この人の持っている、これを学びたいと云うものが有ってこそ先生とすべきである。』続いて『妄(みだ)りに人の師となるべからず、真に教ゆるべきもの在りて師となるべし。』と有る。今度は、教える者の心得として『安易に人を教える立場に立ってはいけない。本当に教えるべきものを持っているかどうか?持っていてこそ先生と云う立場になるべきである。』生徒も先生もはっきりと心に期するものが有ってこそ、向かい合う存在と云う事だろう。

享年30歳、満29歳没の青年が残した言葉だ。江戸期の武士階級は子供の頃から論語を暗唱するくらいの事は珍しくなかったので、人間学には通じていたのだろう。

しかし、現代人はそうは行かない。お金さえ出せば、おおよその事は満たされる。それがすっかり習慣化されているのだ。だから食料品を買うのもテレビを買うのも、同じ物であれば出来るだけ安い方を買う。何かを習う時もそうだ。あそこは、会費がいくらかかる。時間帯は自分の都合に合っているか?まず、先生の事を知るより先に、自分の条件に合っているかどうかが優先される。残念ながら『取り敢えず、やって見よう!』って云う感じだ。気に入らなければ違うインストラクターや講師を探す。忙しい世の中でその先生の人間性や見識は、見る時間も余裕も無いのが実情だろう。教える側の人間も、またこれ余裕が無い。指導資格を取ったら、これを葵の紋の印籠のように、ただひたすらそれを心の拠り所にするしかない。実際に向上し腕が上がると云う事は、どう云うことだろう。何の道でも技術を磨いて来た人間なら分かると思うが、腕が上がるとは、試験に受かった時のように『やったー』と云う感じは全く無いものである。腕が上がり、実力がついて来る事は、感性が上がり物が良く見えて来る事なのだ。その時どう感じるか?自分の技術が向上した事よりも先に、自分の未熟な部分がより鮮明にはっきりと見えてしまう。江戸時代に 『富岳三十六景』を完成させて、一流大家の名声を欲しいままにしていた葛飾北斎が、齢80を超えて実の娘に『この歳になっても、猫一匹思うように描けない。』と言って、ハラハラと涙を流したのはこの為だ。腕が上がれば上がる程、自分の実力に納得が出来ない。だから技術の探求者は、より謙虚になり再び精進を続けるしか無いのだ。

学ぶ側も指導する側も、今一度謙虚に心落ち着かせて、吉田松陰の言葉を噛みしめ、出発し直す事も必要だろう。

局長