6.『目習い』と『手習い』

投稿日: Nov 22, 2013 11:8:41 AM

書道では、良く目習いと手習いと云う言葉が使われる。書道上達の大切なポイントである。

誰しも書の稽古は臨書から始める。お手本を横に置き、良く見てお手本に近い出来映えを目指すのだ。お手本を見て書の感性を高めつつ、書く事によって実力を養う練習法だ。残念な事に、必ず目で見たお手本と己の書いた文字には大きな誤差が生じる。その誤差を縮めるには、良い作品を良く見る事によって感性を高めるのが一番の近道であろう。勿論、書き込んで行く事は当然だ。これは、技術の世界であれば、どの世界でも共通する事である。技術向上には良いお手本と優れた指導者が『絶対不可欠』なのである。

書道の世界であれば、行書は東晋の王羲之、楷書であれば初唐の欧陽詢など良く使われる。私などは、柳田泰雲先生の書塾の学書院で勉強をさせて戴いたが、あまりの自分の感性の無さに7年程で中断をしてしまった。感性の無い人間に良い書など書ける訳がないと思ったのと、直感的に『こりゃ、俺には無理だ!』と感じたからだ。今にして思えば、自分の書ける書を精一杯書けば良かったのだが、心に余裕がなかったようである。

同じ書塾の先輩には天才囲碁棋士の藤沢秀行先生が居られた。良くNHKの番組で特集番組が放映されていたが、秀行先生の書はダイナミックな筆使いではあるが、書家のそれと比べて見ると決してバランスが良いとは思えない。あまり細かい事にこだわらず一気に書き上げる、そんな感じを受けた。しかし、その書は、なぜか私の心に迫って来る。今でも秀行先生の書は写真を引き伸ばして身近に置かせて戴いている。今に思うと、あれは臨書ではなく型破りな自己表現の書であったのであろう。

私は臨書の『枠』から一歩も出られなかっただけに、秀行先生の書は憧れである。秀行先生のような天才肌の人間は別にして、やはり一般人の技術の向上は、コツコツと積み上げて行く『目習い』と『手習い』である。