第十回『伝統楊式太極拳と簡化24式太極拳』②

楊式太極拳三代伝人の『楊澄甫』もその著書『太極拳體用全書』の中で、「楊式太極拳は完全なものとして作られているので、これを変えてはならない」と言っている。日本の全武術のどの流派でもこの考え方はごく当たり前な常識として認識されている。但し、自ら独自の工夫を加えて一流一派を新たに立てるのは、良しとされている。だから楊式太極拳からも、呉式太極拳の呉鑑泉や孫式太極拳の孫禄堂と言った一流の武術家達を輩出している。一流の武術家はその出身母体も明らかにするが、独立してからは自らの責任で自らの名称を名乗るものだ。

『李景林』が自らの工夫で作った太極拳ならば、李式太極拳とすれば良かった筈だ。一部の識者たちからは、本来の『楊式太極拳』と区別するために『楊式李架』と呼ばれてもいたらしい。

それでは李景林とは、どんな人物であったのだろう。

一般には『李景林』は武術家としてよりも、軍人として有名な人物だ。清光緒11年(1885)に直隷省に生まれ、民国20年(1931)山東省済南市にて死去している。死亡説には1932年と云う説もある。1907年22歳で保定北洋陸軍速成武備学堂を卒業し、清軍の一兵士として革命軍と戦っている。清王朝が倒れ中華民国建国後の1914年黒竜江暫編第1参謀長、1921年奉天陸軍第7混成旅旅長、1922年奉軍東路軍第3梯隊司令、1924年に河北省・山東省の連合部隊の総司令官に昇進している。1926年に下野し、1930年に山東省国術館を創設している。李景林は22歳で軍人となり、その人生のほとんどを職業軍人として過ごしている。260年以上続いた清王朝が倒れ、まさに激動の時代を生きた人物であった。軍人としては順調な出世をしている。また、日本軍との関係も深かったように思われる。その生涯は短く、46年でこの世を去っている。

李景林の経歴を見ると武術家としてよりも、軍人として高い社会的地位を得た名士と言える。

そんな名士が何故、楊式太極拳を改変し『楊式太極拳81式伝統套路』として山東省国術館で必修科目として指導を始めのだろう。事実ではあっても85年前の出来事である以上、今となっては探りようも無い。

この翌年に李景林は46歳で亡くなり『楊式太極拳81式伝統套路』は、その後一人歩きをして行く事になる。

『李景林式81式太極拳』ではなく『楊式』と云う名称を付けたまま広まって行く。

『楊式太極拳81式伝統套路』は伝統楊式太極拳をベースに改変された套路ではあるけれど、その内容に伝統楊式太極拳の風格を見て取ることは出来ない。簡化24式太極拳と同じく別物の套路だ。山東省国術館教務主任を務めていた李玉琳とその子であり、国術館の卒業生でもあった李天驥によって引き継がれて行く。

1956年国家体育運動委員会が編纂した『簡化24式太極拳』は李景林式81式の套路内容を短縮しただけのものだ。その後、北京で『制定拳』として作られる規定楊式太極拳・48式太極拳も全て81式を投影した套路である。政治的運営上は、別段問題無いのだろうが、伝統文化の正しい継承としては大きな問題を抱えている。何も知らない日本人は、あれが天下の『楊式太極拳』と思うだろうし、現にそう信じて練習している日本人愛好家も多い。

ここではっきり申し上げるが、『制定拳』の中に伝統性を伝える楊式太極拳は存在しない。

もし、伝統楊式太極拳を見たければ『YOUTUBE』で傅清泉老師の85式を見ることをお薦めのする。

ついでに、時間があれば81式を見て比較するのも勉強になると思う。全く別物だ。

太極拳の世界は※魑魅魍魎(ちみもうりょう)が多い。逆にまともなものが、とても少ない。呉々も用心されたい。

※魑魅魍魎(ちみもうりょう):種々の妖怪変化(ようかいへんげ)。さまざまのばけもの。