ご存知の方も多いと思いますが、念の為にご説明させて頂きます。
永年(えいねん)太極拳と読みます。永年(えいねん)は地名で河北省の永年県、ここは楊露禅を始祖とする楊家太極拳の発祥の地です。今では様々な太極拳が世に氾濫していますが、それらと楊家直系の太極拳を区別する為に『永年太極拳』と云う名称があります。
古くは河北省広平府永年県、現在は河北省邯鄲市永年県となります。日本では『県』の下に『市』が来ますが、中国では反対の様ですね。今でも楊露禅の旧居が保存されて居り、観光名所としても有名です。
太極拳の創始者、楊福魁(1799~1872)はあざなを禄禅、また露禅とも言われています。日本では露禅と言うあざなで表示される事が多いのですが、中国の書籍や系図などでは楊福魁(禄禅)と言う表示が一般的になっています。永年県南関の農家に生まれた露禅は、幼少時から明るく快活で武術を好んだと伝えられています。成長するにつれ、河南中部にある陳家溝に無敵の拳法がある事を知らされます。それは陳家溝の陳氏一族の内家拳であり、その長の陳長興は天下一の使い手と言われていました。「もし陳長興先生の門弟になれれば、必ずやあなたの武芸は成就するでしょう。」と陳家溝出身の知人に言われ、大喜びで陳家溝に行き、何とか陳長興の門下に入る事を許されます。
今、地図上で永年県から温県の陳家溝までの距離をざっと測って見ると250㎞あります。山あり川ありですが、当時の事ですから当然徒歩で目的地に向かったのでしょう。伝記によると楊露禅は最初の修行で6年間陳家溝に学び、一度故郷の永年に戻ります。永年では武術修業者がとても多く、腕に自信の有る者が露禅に試合を挑んで来ました。ところが、この試合で露禅は敗北を喫してしまいます。発奮した露禅は再度陳家溝に行き、修行に専念します。6年後に一度故郷の永年に戻りますが、再度陳家溝に戻り2年の修行の後に、師の陳長興に認められ、拳法の妙諦を伝授されます。そして師から「お前の術は当世において、もはや無敵だ。」とまで言われるのです。後に北京で数々の試合をし、その全てに勝利し『楊無敵』と評判を得るのを予見していたかのようです。
修行を終え故郷の永年に帰省すると、露禅は師の陳長興に伝授された武術に更に自分独自の工夫を加え新たに太極拳と名付けました。太極拳がこの世に初めて生まれた瞬間です。同郷の武禹襄が清王朝の官吏をしている兄と相談して、露禅を北京の清王朝貴族に紹介し、後に清王朝の武術教師になります。北京では『楊無敵』と評判高く、その地で露禅の太極拳は急速に広がりを見せ始めます。
露禅は三人の男子に恵まれましたが長子が早逝した為、その技は次男の班侯と三男の健侯に受け継がれます。楊家の男子には二つのタイプがあります。一つは剛直で気性がすこぶる荒く、戦えば必ず血を流すまで容赦をしないタイプ。一方は精神力が強く武術にも優れているが普段は温和な性格で人をひきつけるタイプ。次男の班侯は正に前者で、剛直で気性が荒く数々の試合で無敗を誇りましたが、残念な事に弟子に対しては横暴な面があり、また指導する事をあまり好みませんでした。北京で拳術の使い手である劉氏との西四号楼での試合は、北京で大きな話題になりました。ある日、班侯はたまたまあるきっかけで劉氏と試合をする事になりました。試合が始まると劉氏は鋭い攻撃を連続して繰り出します。班侯は最初の攻撃を一瞬かわすと同時に、劉氏をあっという間に壁に叩き付けました。劉氏のからだは壁をぶち抜き、外へ放り出されました。班侯が追いかけると、今度は劉氏が振り向き樣に目を抉って来ました。班侯はこれを素早くかわし、両手で劉氏を大きく投げ飛ばしました。これ以降も数々の試合ですべて勝利を収め、太極拳の評判は高くなるばかりでした。
弟の健侯は三男であったところから「三先生」と呼ばれ、柔和な性格でありながら武術にもすぐれていたので、入門者も多く人気もありました。その腕前は柔剛の調和が取れ、高い境地に達していました。発勁は特に巧妙で、刀・剣・桿も極め、多くの試合に勝ち続けています。まさに楊無敵の評判通りです。
つづく