第二十六回『楊式とそうでない楊式』

ここでお話しする楊式と言うのは、楊露禅から楊澄甫に至るまで連綿として受け継がれて来た太極拳を意味しています。もちろん出発点はあくまでも武術の一流派です。強いか弱いか、倒すか倒されるかの世界です。

楊露禅が初めて創始した武術は、彼が陳家溝で体得した伝来の拳法と比較して技法的な理念、その用法など明らかに楊露禅の独自性があらわれています。その一番の特徴は套路の運用がすべて暗勁で統一されている事です。陳式のような発勁動作は影を潜めています。武術でありながらそのゆったりとした動きは、激しさを内に秘め滔々流れる大河のようと言われています。開祖の楊露禅はこの武術を『太極拳』と名付けました。第三代で中興の祖と言われている楊澄甫は太極拳を「綿の中に針を含む芸術」と表現しています。太極拳の動きは柔らかさを要求されますが、本来武術としての太極拳は柔らかさだけでは決して成立する物ではありません。武術である以上、内に剛強なる強さを秘めていなければならないからです。強さを秘めるとは、大きなエネルギーを常に蓄えていると言う事です。柔らかな柔の動きと剛強なエネルギーの蓄えである蓄勁は常に背中合わせに存在していなければ意味がありません。発勁とはそのエネルギーの爆発です。本来の武術である伝統楊式太極拳は柔の動きの中に常に発勁の爆発が準備されています。動作のスピードにも同じ事が言えます。一見ゆったりのんびりしているスピードと表裏一体で存在するのは、目にも止まらぬ素早さ、俊敏なスピードです。これらは武術としての楊式太極拳の最低限の要素です。武術のたしなみがあっても中々出来る物ではありません。

これに反して、健康を目的とした楊式太極拳は誰にでも親しめる『健康体操』です。制定拳も楊式太極拳も健康運動としての愛好者が99%と言った所だと思います。それは、ただ柔らかな動きだけでもゆったりしたスピードでも差し支えはありません。目指すは健康。それで健康が促進されるのであれば、とても優位性のある健身運動です。アメリカのハーバード大学の研究グループによれば、ストレッチ運動だけのグループと太極拳運動だけのグループとの転倒事故率のデータを比較した所、太極拳運動グループの転倒率はストレッチ運動グループの50%であったと報告されています。この運動によって転倒が半減するのですから、素晴らしい。免疫力も大幅に上がったとされる報告もあります。

楊式太極拳の指導者にも、武術性のある楊式太極拳の指導者と、健康運動に特化した楊式太極拳指導の二つの流れがあります。後者の健康運動中心の中国人老師は多く見受けられますが、前者の武術性のある指導者は絶滅危惧種のような状態です。私の知る限りでは楊家親族伝人である傅清泉老師お一人です。ただ日本には傅清泉老師を毎年中国から招聘して、正しい伝統楊式太極拳の公布に尽力されている三代正廣老師が居られます。2021年5月現在、三代正廣老師が伝統楊式太極拳の基礎的なDVDを日本で初めてリリースされる事は、健康運動一色になりつつある太極拳界にとって大きな救いとなるでしょう。

コロナ禍で暗いニュースが続く中、楽しみな話題の一つです。