第二十二回 永年太極拳④

清王朝は中国最後の統一王朝として知られています。前王朝である明を1644年に倒して王朝を樹立し、1911年に孫文らの辛亥革命によって王朝が倒れるまでの267年間がその時代となります。日本で1644年と言えば、三代将軍徳川家光の時代です。1911年は明治44年であり、この時期日本の国産飛行機第1号が初飛行に成功をした年でした。

清が明を倒してから1683年に康熙帝が台湾併合をするまでの40年間がこの王朝の興隆期と言われ、その後、乾隆帝が新疆省を平定した1760年までの、おおよそ80年間が全盛期と言われています。1840年に勃発したアヘン戦争までの80年間が停滞期、1840年以降は王朝の衰亡期とされ、その権力が衰え、中国全体が再び激動の時代へと巻き込まれて行きます。

太極拳の創始者である楊露禅はまさに清王朝の停滞期であった1799年に生まれ、その後衰亡期である激動の時代に生き、太極拳を通して武術家としてその名を後世に残した人物と言えます。

江戸時代に発展した日本武術の特徴は、技術の細分化・専門化にあります。元々は一つの流派の中に剣もあり、槍もあり、薙刀あり、徒手による投げ技、当身技、絞め技などもあった筈です。それらの専門化が進み剣術と言えば、柳生新陰流や一刀流、念流などへ進展し、徒手では投げ技や逆関節技、当身技の柔術として各流派が栄えました。ところが中国武術は一つの流派が総合武術として継承されている所が興味深いと言えます。楊家の太極拳も徒手あり、刀あり、剣あり、槍あり、桿ありと多彩な技術が継承されて来ました。太極拳と言えば徒手が主流のイメージですが、今もなお、様々な技術の継承がされていることは、とても大切な事であり、素晴らしい文化的継承だと思います。

楊式太極拳三代目の楊澄甫の時代にますます太極拳は発展を遂げて行きます。

健侯の長男であり、澄甫の兄である楊少侯は気性がとても荒く剛勇で特に散手が得意でした。堂々とした威風を備えた人物で戦いに臨めばすこぶるその動作は早く、しかも沈着なその拳架は小さめにまとめられており、人に教える時にも先攻を好みました。平生でも鍛錬だけではあき足らず実戦を好みました。ある日、北京の宣武門外で二人の大男が弱い者をいじめているのを見た時です。正義感が強く義憤に感じた少侯は止めに入りましたが、大男の一人がいきなり少侯の顔面めがけて攻撃を仕掛けて来ました。少侯が一瞬小さく沈んだかと思った瞬間、大男は後ろへ大きくのけぞり倒れて立ち上がることは出来ませんでした。左手で敵の拳を上方に外すと同時に、右掌が相手の膻中(だんちゅう:胸部中央の急所)を捉えた猛烈な穿梭による反撃でした。次にもう一人の大男が後ろから頭部めがけてなぐりかかりましたが、少侯は振り向きざまに右拳でその腕を叩き、左掌で払いながら、素早く右拳で敵の腹部急所に捶しました。敵は「うっ!」と言って、その場で両膝を崩し倒れ込みました。見事な搬攔捶の技使いです。

澄甫は日々鍛錬に努め、その技は年輪を重ねるにつれて一層深まり、この道の妙味を悟る境地に到達していました。

ある日、武漢の有力者である劉氏の招きに応じて武漢を訪れた時のことです。その日は武漢武術界の主催で武術試合がありました。劉氏の願いで澄甫の剣の試合出場が望まれましたが、澄甫は再三出場を断りました。是非にという事で致し方なく承諾しましたが、人を傷つけぬように竹剣で相手をする事を認めさせました。

いざ試合が始まると相手は澄甫の意など介さずに真剣をもって対しています。澄甫は竹剣を右手に持ち右足をやや前に出して構えました。一見スキだらけの構えの様にも見えます。右手を少し開き、竹剣の切っ先を斜め下に下げ、どこにも力みは感じられず、何事もない立ち姿にさえ見えます。相手はスキだらけの構えに一瞬戸惑いましたが、容赦なく真剣で澄甫の胸目掛けて刺して来ました。澄甫がやや右に動いたと思った瞬間、相手はしたたかにその手首を叩かれ剣を落としました。その後にも試合の希望に応えて、何人かと相手をしましたが全く相手を寄せ付けませんでした。

澄甫は容貌魁偉にして性格は温厚で、父の健侯の気風を見事に継いでいます。

その拳は表面上、見た目には綿の様に柔らかですが、鋼鉄の様な硬さを内に秘め、引き込んでは飛ばすという、すべて独特の技能を持っていました。拳勢は、まず大きく広げた後、しめてまとめると言う優れたもので、多くの人の賞賛を受けています。まさに楊家中興の祖であり、拳宗と言えます。

つづく