第二十三回 永年太極拳⑤

楊澄甫は性格温厚で誰にも公平に接した事から門下は栄え、聡明で技量の高い弟子が多く育ったとされています。中には師の意に反して套路を改変し『楊式太極拳81式伝統套路』などと言う怪しい套路の編纂に加担した者も出たようです。まさに、楊家から見れば中国伝統文化継承の裏切り者です。武術文化伝承上の鉄則として、決してその内容を変えてはならないと云うのは最低限の遵守事項が有ります。この絶対項目を破る様な人間は、武術界では人として決して認められません。数多い弟子の中にはどこの世界も同じですが、本当に様々な人間がそれぞれの持ち味・個性・性格・才能・努力などによって育って行きます。腕は立つが気性が荒い人間、心も強く戦えば更に強いが温厚で人には優しい人間、腕はからっきし駄目だが外向的能力に優れている人間、戦いよりも後進の指導に適している人間。組織になればそれぞれの役割があります。楊澄甫の弟子の誰がどうであったかと言う結果は、永年太極拳の歴史の中で証明されて行くでしょう。

楊澄甫がこの世を去ったのが1936年。現在が2018年ですから、82年の歳月がすでに過ぎています。没後100年経てばよりはっきりすると思いますが、さすがに私の寿命もあと18年は持ちそうにありませんし、持ちたくもない。今の時点で永年太極拳の継承者としてこの太極拳本来の技術を見事に受け継いでいるのは楊家親族伝人である傅清泉老師しか見当たりません。楊家の血を継いでいます。この事は私の日本の武術家としての『誇り』にかけて申し上げましょう。当時、楊澄甫の弟子であった人たちの子孫は何人もいるでしょうが、たった一人だけしか輝いていないとは、なんとも残念な話しです。

では何故傅家のみに、楊家の太極拳が伝承されて居るのでしょう?

それは傅家三代の伝える者とそれを受け継ぐ者の心が、一つに繋がっていたからだと思います。どちらか一方でも、伝承に対する心が薄らげば、決してこのように実を結ぶ事は無かったと思います。その実力は他の伝統楊式太極拳継承者のものとは、比較になりません。傅清泉老師の動きが太極拳であるなら、他のものは太極拳では無いと断言出来ましょう。武術を受け継ぐ者は、ある時期相当なる苦しみの時期を耐え忍び、それを突き抜けなければ、一流と言われる位置に立つ事は出来ません。

永年太極拳伝承者として大成された傅清泉老師も立派ですが、祖父である傅鐘文老師の指導もまた凄いと言えるでしょう。中々、身内の人間に指導は出来無いものです。厳し過ぎても、優し過ぎても、うまく行きません。他人であれば、気に食わなければ、「もう来るなっ!」と言えますが、一緒に暮らしている家族には言えない言葉です。

楊澄甫の直弟子『傅鐘文』の腕の確かさ、人格見識の高さ、指導力の凄さ等々、が凝縮されて一つの結果が導き出されたものと思います。

永年太極拳第四代伝人の傅鍾文は9歳より楊澄甫を師として太極拳を習い始めました。師である楊澄甫の教授法はまことに厳格で、各架式の一手一手を徹底的に反復練習させ、大切な部分は澄甫みずから模範動作を示しました。心技体の一致を重視し、細心の動きを求め、模範動作に対していささかの狂いも許しませんでした。僅かな動きの違いでも忍耐強く矯正させ、それでも出来なければ更に厳しく指導は続きました。間違った動作をすれば、棒で手足を叩きながらでも、完全に修得するまで指導は続きます。この厳しい修行の中でも、傅鍾文は、師である楊澄甫に対し常に『尊敬・信頼・感謝』の念を忘れませんでした。長きに亘り弟子として、高弟として楊家太極拳の普及に努力を惜しみませんでした。この長く苦しい修行の結果、『傅鍾文』は楊式の拳技を見事に体得し、楊家太極拳の奥義を完全に受け継いだと言われています。

中国では家族主義が尊ばれます。その特徴の一つとして、その家にとって非常に優秀な人間がまわりに居れば、一族の者と娶わせて親族とし、大きな輪の中に迎え入れます。傅鍾文も楊家の娘と婚姻を結び、楊家の血脈を次代に繋げています。

加藤修三先生が中国へ行く度に、傅鍾文老師の事を様々な人に尋ねたそうです。中国のどこへ行っても一度も悪い評判は聞かず、全ての人々が「傅老師は素晴らしい人格者」と賞賛していたそうです。楊澄甫が『傅鍾文』を身内にした事が良く理解出来る話しです。

おわり