第二十一回 永年太極拳③

楊露禅には三人の男子がおりましたが長男は早逝したため、そのは拳技は次男の班侯と三男の健侯に引き継がれます。二人ともその腕前は見事なものでしたが、班侯は気性が荒く弟子を育てるという意識が希薄でした。その指導も荒々しく、弟子たちは毎回稽古で血を流すことが珍しくありませんでした。結果として多くの弟子は長続きせず離れて行きました。

弟の健侯は穏やかな性格で、誰にでも分け隔てなく接し指導したので多くの弟子が集まりました。健侯は三人の男子に恵まれましたが、次男の兆元は早逝したため長男の少侯と三男の澄甫にその拳技は受け継がれて行くことになります。

当時、班侯と健侯の兄弟が協力し合って活動し、弟子たちへの指導も続いていました。毎日、明け方から夜まで熱心に稽古は続き、あるものは単練、またあるものは対練で技を磨きます。

そんな環境の中で弟の健侯は息子たちに対する不安がありました。特に三男の澄甫に問題がありました。兄の少侯は8歳より家伝の拳法を学んでいましたが、三男の澄甫に至っては10代半ばを当に過ぎているのに真剣に学ぼうとする姿勢が見られないのです。何か子供なりの考えがあるようですが口には出しません。今、急速に世の中から楊家の拳法は求められている時期です。楊家にはより多くの国民の求めに応じて太極拳を広めて行く使命がありました。そんな中での出来事でした。ある日、健侯は兄の班侯に三男の澄甫を諭すよう頼みます。少しでも親子で直接言い合いになることを避けたかったからです。

班侯は澄甫をすぐそばに招き入れ、穏やかに話し始めます。これからは家伝の太極拳を真剣に学び、一人前になるよう日々稽古に励めとのことです。

それに対して澄甫は伯父の班侯に自分の考えをやっと話します。

「我が家の拳技は戦って一人を相手にすることしか出来ません。私は楚の英雄の項籍を尊敬し崇拝しています。項籍が言ったように一人ではなく、万人を相手にするようなことを学んで行きたいのです。」

これを傍で聞いていた父親の健侯が我慢できずに感情を爆発させました。

「お前は何てことを言うんだ。お前は間違っている。我々は一家力を合わせて、お前の祖父が創始した拳芸を代々伝えて行こうとしているのに、お前はそれを捨てると言うのか!この親不孝者め!」

澄甫はせっかく自分なりの考えを話して、少しでも伯父の班侯に理解してもらえればと思っていたのですが、この父の勢いで何も言えなくなってしまいました。

澄甫はその夜、祖父の夢を見ました。夢では祖父の露禅が健侯の話しをさえぎりました。澄甫の近くに来て、優しく頭を撫でて言いました。

「この子がこう言うのは自分なりの考えがあってのことだ。自分なりの考えがあると言うことは、それはそれで頼もしい事じゃないか。それに頭ごなしに私の太極拳をやれやれと言われても、心底納得することが出来ないのだろう。」

露禅は孫の澄甫を座らせて話し始めました。

「私が太極拳を日々稽古し、指導し広めて行く目的は戦うためではない。これを学んだ人々が自分の身を守れるようにするためだ。またそれで儲けを得ようと言うのではなく、まさに国難を救うことに一大目的がある。」

「今我が中国は貧しく、国民の体質は弱体化している。全国の至る所に病弱な人たちがあふれている。国民の体質の弱体化は貧困を生む。貧しさの大きな原因は、国民の体質が衰弱している所から生まれるのだ。だから国民の体質強化こそ緊急課題とすべきでしっかりと実行しなくてはならない。」

そして露禅は己の太極拳の効果について話し始めます。

「私は長きにわたり拳技を学び修行し、功が成ったあと北京に来て誓いを立てた。従来よりの志(こころざし)の通りに、多くの人たちに有意義なこの太極拳を伝授しよう。やがて私からこの太極拳の指導を受けた人たちは、痩せた者は太り、虚弱な者は健康になり、病気な者は回復し、みな非常に喜んだ。しかし、一人でこれを広めて行くには限界がある。そこでおまえの父の健侯と伯父の班侯、弟子たちと共にこの仕事を進めようと考えたのだ。もし、この志(こころざし)が世の為になるなら、世を救う術となるのだ。澄甫もこれを学んで見ないか。」

澄甫はこれ以来、突然何かを悟ったように感じ、以降祖父の拳技である太極拳を自ら進んで学び、教えを受けたいと願い出たのである。

つづく