記憶の中に景色はあまり残っていない。
どれもこれも知識ばかり肥大して、思い出は知らぬ間に抜け落ちてしまう。
だから二日かけてミストランに辿り着いたときも、あまり感銘は受けなかった。
「辛気くさい街だな」
同行した傭兵が言う。
「気をつけてください……あの女に、見られたら……」
エルフィはフェインの手を痛いほどに握っていた。
その力の強さが、彼女の恐怖を如実に表している。
「教会に連絡は?」
「もちろんさっきの街で。しかし、これではな」
傭兵達はため息とともに、後ろを振り返る。
――ここに来るまで一悶着があった。
街は稚拙ながらも完全に封鎖されているのだ。
外周には瓦礫や木材を堆(うずたか)く積まれて、老婆の案内がなければ余計な時間がかかったはずだ。
街の建物は魔法で破壊されたのか、火山の噴火のように屋根が吹き飛ばされた物が散見された。
「聖職者共、来るだろうか?」
「先に潰しちまおうぜ。どんな穢れた魔物でも、首をどうかすれば斃せんだ。それに――」
賞金稼ぎは、くいと顎でエルフィ老を示す。
「協力者がいる」
「報酬分はやってやるよ。まあ、撤退も考えてるけどな」
「そんな」
老婆の言葉はがくがくと震えていた。
「俺だって命は惜しいんだ。わかんだろ?」
「それは……」
「おい、お前ら、ここで言い争うなよ。身を隠そうぜ、婆さんよ」
「……はい、こちらです」
老婆はフェインの手を乱暴に引っ張った。
その顔は赤い。怒りを抑えられないのが見て取れた。
街中に人影は見えない。しかし、息の音やすすり泣く声がどこからともなく聞こえてくる。
皆『女』とやらの恐怖に震えているのだ。
――老婆が案内してくれたのは、なんと自宅であった。
「音をたてないで……家の中だからって、安心はできないのよ」
「はいはい」
軽く返事をしながら、しかし四人の表情は長年戦ってきた物のソレであった。
だが、フェインは期待しているわけではない。
穢れた魔物に、人間の力は無力だ。
その『女』の力は未知数だが、出来て短い拘束だけだろう。首を刎ねることなど出来そうにない。
――何とかしてリゼアスタを呼ばなければ。
そんな思いが思考を支配していた。
「フェイン君」
はっとして老婆を見ると、彼女は震えながらも笑いかけていた。
「二階で食事にしましょう。お芋しかないけど」
「え、う、うん」
その不均等な感情が、フェインを不安にさせる。
二階には生活感があった。
誰か――複数の人間が短い間だが隠れ住んでいた印象を受けた。
「ここに座っていて」
言われるがまま、小さな椅子に座る。
「おばあちゃん」
「うん?」
「おばあちゃんの家族は?」
「……」
――分かってはいたが、聞いてはいけないことだったようだ。
「ごめんね、何でもない」
子供の残忍な無邪気さで感情を覆って、フェインは返答を遮る。
だと、いうのに。
「私の家族はね」
老婆は言葉を発する。
呪文のように、陰鬱と凄惨さを混ぜこんで。
「人質に捕られているのよ」
一瞬にして背筋が冷える。かと思えば次の瞬間には血が沸騰したかのような焦りが訪れた。
フェインが立ち上がったその刹那。
――ずるり、と。
「はっ……!」
おぞましい気配がフェインの喉を潰した。
穢れた魔物の気配――だが、
「さ、隠れて!」
老婆はその細い腕でフェインを、なんと大きな水瓶の中に投げ入れた。
「エルフィ――!」
「静かに、ここにいるのよ。いいわね」
有無を言わせず、老婆は水瓶に木の蓋を置いてしまった。
ご丁寧にも、さらに何かを置いたようで、みしりと蓋は湾曲する。
こうなると視界は真っ暗である。
「くっ、エルフィ、何を……!」
震える声で、フェインは呪文を唱える。
人差し指の先に現れたのは、小さなテントウムシであった。
「上手く飛べよ!」
隙間からそれを外へ放つ。
目を瞑ると、テントウムシの見た景色がフェインの視界に映し出された。
テントウムシに込めた魔力は少ない。
それに比例して像は酷く不鮮明だった。
――見つかるわけにはいかない。
この小さな身体では、この気配の主と対峙することなど出来ないと悟っていた。
ゆるりゆるりと飛び、音と魔力の気配を消し、とにかく慎重に進む。
だが、フェイン本人の耳にも聞こえる絶叫が家全体を震わせた。
焦りながら、慎重に、精一杯の速度でテントウムシを飛ばす。
――まず最初に、『聞こえた』。
「はー、こいつぁ、上玉」
上品とは言いがたい言い回し。そして、東方の訛りがある。
「ばばあ、ありがとな。期待以上だ、嬉しいねぇ」
テントウムシは音も無く、壁と床との隙間に着地し、ようやく『見えた』。
老婆に雇われていた傭兵達は力なく床に倒れ込んでいた。
そして恐ろしいことに、その身体から穢れた力を感じる。
「いーい身体だ。こいつら、良い仕事をしてくれるだろうよ」
声の主を見る。
間違いなく女であった。
しかし、吸血鬼ではない。
顔つきは東方のそれであり、鴉を思わせる黒い髪と黒い瞳、そして額からは二本の角が伸びていた。
――鬼だ。
フェインは戦慄する。
こんな所に、東方でコミュニティを作る鬼が居るなんて。
「そ、それで――わ、私の、家族は……!」
老婆の声。
「んあ、あー。そうだった。大丈夫だいじょうぶ、直ぐ返してやるよ」
「ほ、本当なの……?」
「んおー! これから『教会』って奴らをぶっとばして、ここにあたしの国を作るからな! それまでの辛抱だ」
「そ、そんな! そんな、そんなこと」
「ばばあは黙ってれば大丈夫! んじゃ、あんがとなー!」
鬼はにやりと笑って「さあ行くよ!」と『先ほどまで人間だった』四人を伴って消えた。
「ま、待って!」
出ていく音。
寒気がするほどの静寂を確かめてから、フェインはテントウムシを魔力に戻した。
上がった息を整える。
「鬼、か……」
予想外の敵に戦慄する。
東方の鬼。
『帝都』を中心とするこの世界の中で、東方もまた例外ではない。
しかし、『教会』の威光は弱いと言って良いだろう。
あの地方は、争いの世界にあってなお争う。人々は老いも若きも武器を取って、穢れた魔物と戦い続けている。
故に、『教会』の教えを守る暇などないのだ。
彼らはずっと、これまでも、これからも、死ぬまで戦い続けるのだ。
生きる為に。
神の意思によって。
東の国はミストランから大分遠い。だというのに、あの鬼はここまで、『教会』に知られずにやってきたというのか?
「……冗談じゃない」
これはただのはぐれ鬼ではない。
偶然が過ぎる。
そして、その偶然を、フェインは『知っている』。
「『上がれ』!」
魔力を両腕に集め、蓋を押し上げた。
光が入ってきたと思った瞬間、ぐしゃりと派手な音が響く。
蓋の上には壺が乗っていたのだ。
あの鬼が戻ってくるかもしれない――と、肝が冷えた。
だが、外からは物音一つしない。
息を整え、慎重に一階に降りる。
エルフィは戻っては来ていなかった。
「一体何処へ――」
「待っていれば良いと思いますよ」
突然、背筋に冷たいものをかけられたような錯覚がした。
しかし、振り向けない。
「直に戻るでしょう、あの老婆は。使い潰すまで、まだ時はあるのですから」
「……」
「どうしたのです、久しぶりの再会でしょう? こっちを向いてくれても良いんじゃありませんか?」
「黙れ」
「ふうん、そんなこと言うんですね」
じゃあ、と後ろの気配が動いた。
先ほどの鬼女とは違う、純粋な『力』がフェインの前に立ち、緩やかに笑った。
白い翼を背中から生やした、背の高い女。
「天使アンディアー、参上いたしましたのに」
にっこりと笑う天使を、フェインは厳しく睨み付ける。
「お主の仕業か」
「ええっと?」
「あの鬼をここまで連れてきたのは、お主の仕業かと聞いている!」
「怖い怖い」
彼女は長い袖で口元を隠す。
「あの鬼の道を作ったのは、まあ、私と言えますね。『教会』に見つからないよう、人間にも騒がれないようにしましたから」
「天使の介入でも無ければ、ここに鬼が居る事態にはなるまい」
「ええ、ええ、そうでしょうとも」
女は実に愉快そうに口の端を上げた。
「これも全て、神の御意思。私が遂行しないはずがありません」
「……」
「貴方こそ、まだ意地を張っているのですか?」
「意地だと?」
フェインは狡猾に笑う。
「この『私』が! 神の下に戻ると、本気で思っているのか?」
「戻りますとも」
アンディアーも、『よく似た表情で』笑う。
「あなたは絶対に帰ってきます。分かります。それが神の意志なのですから」
「『あいつ』は私を今も人の器に入れたままだ」
「それもまた神の意志ですから」
「何処まで『あいつ』を――いや、私を買いかぶるつもりだ」
「これは私の意思ではなく、神がお決めになったことなんですよ」
分かるでしょう、とでも言いたげな瞳が、フェインを射貫く。
「分からんよ」
視線を破り捨てるようにして背を向けると、「ああ、待って」とアンディアーの高い声が響いた。
「今、あの老婆を助けに行かれては困ります」
「――は?」
「ですから」
「何故、と聞かれなければ、分からないのか?」
「……ふふ」
彼女は少しの間の後、「今行かれては、貴方が死んでしまいますから」と極めて明るく言ってのける。
「今度死んだら消滅でもするのか。それなら少し考えてやってもよい」
「違いますけれど」
「なら問題なかろう」
「あります。それが、神の命を執行した後にもかかわらず、私が貴方の前に現れられた理由なのですから」
ふっと息の音がした。
誘惑の溜息にも似たそれの意味を、フェインは瞬時に理解する。
天使の力の行使。
魔法でも聖なる力でも無い、純粋な力の発動。
「……!」
逃れようとしたが、全てにおいてアンディアーは勝っていた。
「『縛れ』」
その言葉が終わる前に、ぎしりと空気が軋む音が耳朶を叩く。
息を飲んだ次の刹那、フェインの身体はぴくりとも動かなくなっていた。
まるで漁網に絡まった魚のように。
「アンディアー!」
「嬉しい、呼んでくださるなんて。でも、その拘束を解くわけにはいきません」
「何故!」
「死なれては困ります」
彼女は笑う。気でも狂ったかのように、高らかに、艶やかに。
「だってそれが神の御意思! あなたはここで死んではいけない! 死んでは困る! だから、私が来たのです! あなたがここに来るなんて、全くの予想外! しかし問題外でもあるんですよ、ああ、ノンウィズダム! 私が居ますからね、会いたいと焦がれていた私が! ええ、大丈夫、あなたを死なせたりしませんとも! あの老婆が貴方を呼び、貴方があの老婆を助けたいと願っても、あなたが死んでしまっては意味が無い、許せない! 私が助けなければあなたは死んでしまう! それは神がお許しくださる事では無い! 待っていてください、彼らは必ず、貴方の下に来ますから! 神の御意志に導かれて!」
笑い声は切断されたかのように唐突に終わった。
彼女の気配も、まるで幻のように消え失せてしまった。
「……何処まで。何処まで、私は、『あいつ』に踊らされている」
奥歯を噛む。
何も出来ない人の身を恨み、同時にアレと同じ天使でしかない自分の精神を恥じた。
ファウストからこれ以上ないほどの拒否をぶつけられてしまった為、リゼアスタとフロネは銀馬を駆っていた。
「これ以上、邪魔できないわよねぇ」
フロネはリゼアスタにぴったりとくっついて苦笑いを顔に浮かべる。
「身体も限界だろうしな」
「そうね」
「……聞かないのか」
「分かるもの」
彼女の声が小さくなる。
「長くないわ――いいえ、よく、ここまで生きてる」
「ファウストの血筋は皆そうだ。あいつだけじゃない」
「付き合いが長いのね」
「ああ。……でも、無理をするなと言うと、」
「怒るんでしょう」
「……」
「何も言わないで、見ててあげてよ」
「お前が人間を語る、か」
「いやあ、どちらかというと、女、でしょ」
あっけらかんと笑ったフロネに、リゼアスタは眉をひそめる。
「関係あるか? 今の話と」
「……まあ、うん。私の一人勝ちなのは、嬉しいけど」
「話が逸れてるぞ」
「逸れてないってば。女だから、リゼアスタに無理するなって言われると、怒るの!」
「……」
理解するのを諦めた。
「ミストランについてなんだが」
「あ、逸らした! リーゼの方が逸らした!」
「このまま夜通し銀馬を走らせ続ければ明日にはつく」
「……ううん、せめて一回は、血を……」
「そう言うと思った。次の街に寄る。手っ取り早く済ませろ」
「えー、まー、仕方ないか……」
彼女は不満そうだったが、文句は言わせても拒否させるつもりは無かった。
『鬼』とやらが『教会』に宣戦布告している以上、時間が無いのだ。
――その立ち寄った街は、ずいぶんと人でごった返していた。
否、溢れていた。
「ちょっとちょっと、大通りに人が住んじゃってない……?」
道という道には布で作った雨よけが建てられ、土とほこりで汚れた人々を、『教会』の聖職者達が介抱していた。
「戦争でも起きたか」
「まさか――」
リゼアスタが聖職者に声をかけると、彼らは恐縮して頭を下げた。
「我々はこの街の者です。最近、ミストランという街から、こうして人が流れてくるんですよ……」
「ミストランというと」
「ええ、ここからは離れているでしょう? でも、皆ここまで来るんです。『鬼』が『教会』の聖職者を出せって言っているそうで、帝都まで行こうとしているんですよ」
「しかしそれにしてはあまりにも、人が多すぎるのでは」
「キリシナからの難民が元々いましたから、それで一杯一杯になってしまって……」
「ふむ」
思ったより事は深刻だ。既に多くの民に『鬼』の存在が伝わってしまっている。
早く何とかしなければ、聖下の経歴にも傷がつくだろう。
「……すまない、そんな時に申し訳ないんだが」
「はい」
「宿の一室を借りたいんだが……空いているだろうか」
「分かりました、直ぐに空けさせましょう」
「いや、それならいいんだ。そんなことだろうと思った」
ちらり、フロネを見る。
彼女は仏頂面だった。
「……フロネ、ちょっとこっちに」
「ぶー!」
「我慢しろ、今は急ぎだ」
「ぶーぶー!」
彼女の腕を引っ張って、街の外に停めていた銀馬に戻る。
「後で首でも腕でも掻っ捌いてやるからそこから舐めろ」
「情緒もロマンスもない!」
「『鬼』を倒したらいくらでも吸っていいから」
「え? ほんと?」
「嘘を言うつもりはない」
「絶対! 絶対だからね!!」
何とか機嫌をとることに成功したようだ。
銀馬を再び走らせたその背で、フロネはやる気に満ちている。
「そうと決まればさっさと斃すわよ! 絶対に許さないんだから!」
「怒る先が逸れてるぞ」
「いいのよ! 私だって穢れた魔物、吸血鬼なのよ! 食事を邪魔されたら怒るの!」
「ああ、うん。分かった分かった」
これは彼女が再びへそを曲げるまで猶予は無いなと思いながら、とにかく銀馬を急がせた。
睡眠と食事は有るに越したことはないが、無くても二人は死んだりはしない。
それに物を言わせて、一晩走り続けるつもりだった。
――道を抜け、林を抜け、細い三日月の下を銀の馬は征く。
「……ふぅん」
ただただ走るに任せるだけだった意識が浮上したのは、フロネの小さな呟きによってだった。
空を確認すれば、月は幻のように消え失せ、既に朝日が顔を覗かせている。
「強い気配を感じるわ」
「俺には、まだ」
「これはね、縄張り争いの臭いよ。絶対に私の獲物を奪うことは許さないっていう、暴力的な拒否の気配。リーゼには、分からないだろうな」
「ふむ……」
「むしろ、ね?」
くすりと、蠱惑的な響き。
「呼ばれている、と感じるはず」
「屈辱的だな」
口にしながら、その気配を確かに感じた。
――呼ばれている。
聖印が疼き、知らず目つきが鋭くなる。
「浮気しちゃ駄目よ」
「っ!」
鋭い痛みが首に走った。
微かに血を吸われる感覚がして、遠くを見ていた『感覚』が直ぐ側に戻ってくる。
「分かってる。分かってるから、やめろ」
「そうするわ」
言葉とは裏腹に、名残惜しそうにフロネの唇は遠ざかった。
「血は、首に近い方がいい。痛いでしょうけど、お願いね」
「ああ」
リゼアスタは奥歯を噛む。
素っ気ない返事でなければ、流されてしまいそうだった。
――ミストランは稚拙ながらも物々しい障害物で覆われていた。
その多くは家財で、木や石も無造作に積み重ねられている。
「うーん……何処から入る?」
フロネが苦笑いするので、「そうだな」ととりあえずの返事を返した。
銀馬でぐるりと回ってはみたものの、壊さなければ中には入れないだろう。
すっかり治った首を無意識にさすりながら、「準備は」と傍らの吸血鬼に訪ねる。
「いつでもどうぞ」
「よし」
リゼアスタは剣を抜く。
「終末の炎、暁の熱、全ては神の手の内に」
彼の青い瞳が微かに白を帯びる。
「我が手に祝福を、我が眼に真実を、我が胸に閃きを」
赤い炎が剣を舐めた。
彼の新しい剣は、前のそれよりも随分と聖印の力を高めている、気がする。
――平たく言えば、加減を間違えた。
「うおおおおおおおっ!」
振りかざした剣が重い。
密度を増した炎は刃よりも鋭く、目の前の障害物を真っ二つに切り裂いた。
ごう、と唸る熱風が二人を煽る。
「……ちょっとさあ」
フロネの不満に、リゼアスタは「すまん」と小さく返しただけに留めた。
「火事でしょこれ、火事!」
「普通の炎と違って、無駄に広がったりしない」
「そういう問題じゃない!」
彼女はびしっと切り開かれた道を指さす。
「私達に隠密は無理って思ってたけど! でもこれじゃあ大騒ぎになるでしょう! 鬼はともかく、一般人が暴動を起こしたりしたら二人じゃ止めきれないわよ!」
「うっ……」
まったく否定出来ない。
その後、二人は『相手』の出方を伺ったが、不気味なまでの静寂が嗤うだけだった。
「……どう思う?」
「興味が無いんだろうな」
「自分の縄張りに待望の聖職者が入ってこようとしてるのよ、迎えにも来ないなんておかしいと思うけど……」
「あー、それは……」
聖印をさする。
「必ず目の前に現れるから、ただ待っていれば良い。それだけだ」
「ますますむかつくわね」
フロネはもはや爆発寸前だ。一刻も早く『何とかしなければならない』。
「と、とにかく、進むぞ。どうせ、こうするしかないんだからな」
「ええ、目に物見せてくれるわ!」
フロネの足取りは、既に穢れた力を持つ吸血鬼のそれであった。
臨戦態勢の彼女の後ろを、リゼアスタもまた剣を抜いたまま征く。
吸血鬼は穢れた力をたどって。
聖職者は自らを欲する呼び声を頼りに。
「人がいるわ。出てこないのは私達にとっては良かったわね」
「従者になっているわけじゃなさそうだ」
「そうね、普通の人間だわ……」
それを不気味に思っているのは手に取るように分かった。
ここが『鬼』の支配を受けているなら、全員が『従者』にされていてもおかしくない。
あの穢れた聖印ディーナのように、従者を求めるのは吸血鬼にとって一種の衝動だからだ。
「一般人の中に従者が隠れているかもしれない。警戒を怠るな」
「はいはい。リーゼはそういうの、雑だものね」
というよりも苦手だった。
「気を落とすことはないのよ。私に任せておけば何の問題も無い。そうでしょう?」
「ああ……ありがとう」
「どういたしまして」
フロネの穢れた力が強くなり、瞳は深紅へと変貌する。
それでもなお、彼女は真の姿を現さない。
人間に姿を見られることを恐れてか、まだ見ぬ『鬼』への対抗策なのか――
「……あら」
フロネは急に足を止める。
「どうした」
「……」
彼女の視線の先には、一軒の何の変哲も無い民家があった。
「変な気配がする。ねえ、分かる?」
「……言われてみれば、うん」
「『知っている気がする』」
リゼアスタが止める間もなく、フロネは民家の扉を押し開けた。
そして、理解する。
そこには聖印でも穢れた力でもないものが、存在した。
「……おう。随分と早かったな」
にやり、ソレは嗤う。
目線が鋭い。
ソレを、今までに見たこともなく。
感じたことすら無かったように思える。
目の前のソレが、堕ちたとはいえ絶対の存在であることを突きつけられて、二人は立ち尽くした。
「早速だが、この呪(まじな)いを解いて貰おう。何、これは空間を結ぶ強力な法だが、外の力には弱い。リゼアスタ、お前の剣なら容易く切れる」
「は、はあ……」
緩く返事をし、とにかく剣を構えた。
「何処を、切れば」
上手く言葉が繋がらない。
前に対峙した天使ほどではないが、目の前のソレに見つめられただけで身体が強ばる。
「見えるはずだ。お前はそこまで青臭くはなかろう?」
仕方なく、リゼアスタは周囲に意識を集中する。
ソレの周囲に張り巡らされた、ソレを雁字搦めにする力――それは確かに簡単に識別することが出来た。
まるで『そう有るべき』と仕組まれたかのようにも見えた。
「……ッ!」
しかしその思考ごと、縛る力を断つ。
とたんに訪れる、空間が砕ける錯覚。
「――ああ、二日ぶりよ。人の身で飲まず食わずはこたえる」
ソレはうんと伸びをし、老獪に笑う。
「身体は魔力で補うとして……、まあ、腹には全てが終わってから補給することとしよう」
そして、はたと気づいて二人を見た。
「何だ、そんな顔をして」
「……フェイン、どうしちゃったの」
「――ああ」
少年は、『少年のよう』に笑った。
「悪かったのう。少し、虫の居所が悪かった」
「何があった」
「天使に会った」
その事実は、容易く二人を戦慄させる。
「ここの『鬼』は天使の企みよ」
「それなら……いろいろと理解できる。不自然なことがいくつかあった」
「聡い。感心じゃ」
フェインは満足そうにし、「相手は東方の鬼。勝つ自信はあるか?」と問うた。
「吸血鬼じゃないのね」
「似て非なる」
「何だって、誰だって、構いやしないわ。どうせ、私達は戦うしか無いんだから」
妖艶に、かつ少女のように、フロネはリゼアスタの腕に自らの腕を絡ませた。
瞳の赤は、まっすぐに元天使に向けられている。
「頼もしい限りじゃ」
「フェイン。お前は天使を追ってここに?」
「……いや」
言葉が淀む。
「あの、老婆を追ってきた」
「……それで」
「いや、まだ生きている。多分。穢れてはいないが、奴の言いなりじゃ」
「仲間って事?」
「人質を――家族を捕られているようだ」
悲観的な状況だなと、リゼアスタは思った。
この状況で、一般人の命が保証されているとは到底思えないからだ。
「助けたいんだな」
「ああ」
「でも、俺には必ず助けるとは、言えない。必ず斃すとは言える」
「それで良い。それでこそ、お前達じゃろうて」
フェインは視線を逸らし、呟く。
「やってみせるよ、この身でな」
その小さな身体から迸るおびただしい力を、確かに感じていた。
ミストランの大教会は立て直されたばかりという話だったが、今は随分と汚れていた。
誰も手を入れないからか、もしくは聖下の「ちょっと前」が当てにならないのか。
「ああ」
フロネは妖美な笑みを顔に浮かべた。
「居る、わね。私と同じで、なおかつ反発し合う――そう、女の気配よ」
「人は居るか」
フェインの重い声。
「居るわ。――件のおばあちゃんかしら」
「ありがとう」
こちらの存在はとっくに把握されている。
それならば。
「行くぞ」
返事を待たず、リゼアスタは重厚な扉を一人で押し開けた。
出迎えは無かった。
ただ、高い天井には老婆の激しい懇願が響いている。
「お願いです! もう良いでしょう? 子供達を返して!」
すがりつかれているのは女だった。
細く白い、黒髪の女。纏った藍色の衣はぼろぼろだが、辛うじて東方由来の物だと分かる。
彼女は白い歯を見せて豪快に笑っていた。
「だーいじょぶだって、大丈夫! もうすぐあたしを退治しようとして、しゅーばつしゃがやってくるから! そうしたらそいつを――」
そこで、鬼は「おっ」とこちらを認識した。
赤い瞳がきらりと光る。まるで、さくらんぼのように無邪気で鮮やかな赤。
「来た!来た!うっひょー、来たぞ、あたしを屠ろうとする、強いヤツ! あたしはこいつを僕にして、もっと強い奴を呼び、勝つ!そして最高のあたしの国が出来る!」
――随分勝手なことを騒ぎ立てる。
鬼は老婆を乱暴に突き放し、「待ってたんだって!」とリゼアスタに満面の笑みを見せた。
何事か言う前に、彼の前にフロネが立ち塞がった。
「好き勝手しようとしてもそうはいかないわよ」
「あぁん?」
鬼は怪訝そうに眉間にしわを寄せる。
「おめぇ、何だ? 鬼とは違うのか?」
「私はここら一帯を支配する吸血鬼よ。私に話を通さないで建国なんてさせないんだから」
「おい、嘘を言うな」
大きく出たフロネを窘める。
だというのに、「そうかあ!」と鬼は嬉しそうに拳を構えた。
「じゃああんたも、ぶっ倒しておくといいんだな! くぅー、いいねぇ!」
――どうやらこちらの都合はどうでも良いらしい。
「さあ、あたしの兵達! まずはあんた達から行きな!」
穢れた力が強くなる。
幾多の死線をくぐり抜けてきたリゼアスタが、肩を強ばらせるほどに。
「うわあ」
フロネが『さも驚いたかのように』声を上げた。
わらわらと柱の裏から現れたのは、武装した男達であった。
その数は両手の指では全く足りない。
「自警団(ガード)、神聖騎士(ナイト)、聖職者――賞金稼ぎか? 随分集めたな」
「いい男達だろぉ? 選りすぐりのあたしの戦士だからな!」
その選りすぐりとやらは、彼女の命令を待たずに動き出した。
否――彼らは既に隊として動き出していた。
「アレは任せろ。フェイン、あの女性(ひと)を」
「いいや、雑魚は任されよう。あの人はお前が頼む」
まさかそんな事を言われるとは思いもせず、慌ててフェインを見ると、彼は既に全ての準備を完了していた。
聖印の力でも、穢れた力でも無い、純粋な力がそこに幾つもの形を取っている。
大きな翼を広げたワシが。
牙を剥くオオカミが。
厳い口を開けたワニが。
羽音を奏でる虫達が。
「行け!」
その一言で敵陣に襲いかかる。
「フロネ、一番をくれてやる! お前がやれ!」
「はいはい」
鮮やかにフェインの力が舞う中に、彼女も躍り出た。
そして吸血鬼は真の姿を見せる。
銀のドレスと桃色の髪を翻しながら、彼女は恐ろしい速さで鬼に迫った。
「おおう!」
鬼の口の端が上がる。
それは純粋な歓喜からであった。
二つの穢れた力がぶつかり合うのを確認した後、リゼアスタは床に転がった老婆の元に走った。
「大丈夫か」
老婆は青い顔こそしていたが、怪我も無く、穢れてもいない。
「あ、貴方はフェイン君の……」
その言葉は、安堵というよりは、どうしてという思いが強いように思われた。
「『炎の』リゼアスタ。あの鬼を滅ぼしに来た修祓者だ」
「……ああ、ああ!」
皺の多い手が、リゼアスタの両手を握った。
震えて、冷たく、でも希望に満ちて。
「神よ、ようやく、終わるのですね……私は多くの罪を犯しましたが……ああ。終わるのですね……」
――その言葉の意味するところは、まだ分からない。
銀の煌めきが、鬼の爪の動きに合わせて舞い踊る。
フロネも鬼も楽しそうにしているが、フェインから見れば狂気でしかなかった。
――アレは穢れた者同士の争いでは無い。もっと根本的な、女の争いだ。
盗ろうとする者と、盗られまいとする者の。
フェインは「恐ろしいな」と苦笑しながら、くいと指を振り上げる。
右から迫っていた刃が、飛来したカラスの嘴によって弾かれ落ちた。
「甘い甘い……!」
フェインの足下に集中した力が犬の形を取り、迫ってきた神聖騎士の首に食らいつく。
「『踊れ』」
短い詠唱が二羽のフクロウを生み、それぞれがフェインに迫っていた傭兵を腕を食いちぎった。
フェインは一歩も動かない。
指を指し、短く言葉を述べるだけ。
それは王の所作にも似ていた。
「うおおおおおおおおおおお!」
「っ!」
迫り来る二つの刃に手をかざす。
――相手は、ここまで一緒に来た傭兵二人だった。
だが、感慨も何も無い。
『分かっていたこと』だからだ。
この身では自分以外を守ることなどおこがましい。
だからこそ、フェインはこの結末を予測して、彼らをここに誘ったのだ。
大事の為に小事を切り捨てる――
それは『神』と何も変わりは無い。
だが、それでも。
それでも自分の欲望に従って、ここに立った。
「『絡め』!」
フェインの掌から現れた二匹の蛇が、傭兵達の身体を一瞬にして縛り上げる。
――穢れた人間は、もはや元には戻れない。そんなことは百も承知だ。
無言のまま、フェインは蛇に命じる。
絞めろ、と。
「――――!!」
音にならない悲鳴。
今は、それに祈る暇も無い。
「罪深いな」
小さく己に投げかける。
「ああ、もうおじいちゃん? 若い者を働かせて、休んでいないでよ」
大きく飛び退いてきたのはフロネだった。
フロネの穢れた力がいつになく強い。
赤い瞳は爛々と輝き、それが鬼の規格外の強さを如実に表していた。
リゼアスタの血は吸った後だろうに、その全てを力に変換して、尚相手は強い。
「たわけ。これで休んでいると思われたくないわ」
「はいはい、キリキリ働いて」
彼女の言葉の意味は分かる。
この女吸血鬼は先ほどのフェインの懺悔など無に等しい、凶悪な『生』なのだ。
今ここで、生き残るのは、『こちら側』だ。
「おらぁ! もっと遊ぼうぜ、吸血鬼!」
跳躍してきた鬼を、フロネが狼に変化させた両手で押さえつける。
「こいつ、なんて回復力なの……! さっき背骨を折ってやったでしょう!」
「はぁ? あんなのかすり傷かすり傷! 問題ないない!」
「うらやましいやつ!」
フロネは二本の尾を持つ銀の狼に転じ、鬼の喉に食らいついて押し倒した。
――こちらもキリキリと働く事としよう。
「『閉ざし、喰らい、捌け』」
己の中に息づく、天使の力を絞り出す。
「『跳ねろ』!」
教会の床が水面のように波打ち、ぎしりと空間が軋む。
「ほいっと!」
鬼を床に残し、銀の狼が宙を舞う。
刹那、床から現れたのは巨大な鮫の口であった。
「うわ、ちょ、ちょっと!」
鬼の悲鳴と物言わぬ従者達を、その口はまとめて飲み込んだ。
牙と牙とが噛み合う音がし、低い唸り声が教会の高い天井に響く。
「良い仕事よ、おじいちゃん」
「ふん、お主の誘導もな」
これで終わりだと、フェインもフロネも思ってはいない。
相手は、穢れた魔物故に。
「うおおおおおおおおお!!」
天を衝く絶叫。
刹那、迸る穢れた力。
フェインの魔法によって作られた鮫は、内部からぐちゃりと破壊された。
卵より孵化する雛のように、血の海に立つ鬼は『生をつかみ取った』歓喜に満ちている。
「はは、ははははははっ!! やべぇ、やべぇぞ! お前ら、本当に強いな! あたしの国にぴったりだ!」
血を払い、拳を握る、苛烈なる鬼。
ソレを見て、フロネは人の姿に戻りながら困ったように――だがあまりにも妖艶に嗤った。
「ふー……やんちゃが過ぎるわねぇ」
彼女の艶やかな声が「リーゼ」とその名を呼んだ。
「もうそのお婆ちゃんは大丈夫よ。誰も私達の邪魔はしない」
「ああ」
静かな返答に、フェインは顔を青くする。
二人がいつか何処かであっさりと斃される――そんな予感はしている。
ずっと、だ。
だというのに、それをあっさりと覆すほどの迫力が二人には存在した。
フェインと彼らには絶対の違いがある。
人間の営みとは一歩ずれたところに存在する二人。
二人ぼっち。
フェインのように個人に流されたりせず、二人はただただ貪欲に前に進み続ける。
二人は人間を守りたいわけでは無い。
この世界を変えたいと願うのだ。
リゼアスタが動く。
白い修祓者の胴衣が、荒れ果てたとは言え、美しい教会内部の細工によく似合っていた。
「真打ちの登場か、待ってたぞ!」
「生憎時間をかけるつもりは無い」
赤い池を走り抜け、リゼアスタはフロネに手を差し伸べる。
フロネもまた、彼に手を伸ばした。
二人の指先が触れたか触れないか――その一瞬で女吸血鬼は巨大な赤い剣へと変化する。
「うわお、何だよそれ。文字通り伝家の宝刀ってやつか?」
なら、と鬼は嗤った。
「あたしだってこうするさ!」
ずるりと空間を割って現れたのは白い刀だった。
その全てが骨で出来ていることに気づくまで時間はいらなかった。
禍々しい、穢れた力で組み立てられた刀。
――フロネの笑い声がした。
「『気にしないで』」
「分かってる」
リゼアスタの青い瞳が、白く輝く。
教会に満ちる、聖印の力。
鬼の刀に、フロネの大剣が食らいついた。
「……冗談じゃねぇぞ、おい!」
悲鳴にも似た、女の声。
「お前、あたしと同じ鬼だろうに! 何でその力に耐えられる!」
「愛よ」
酷く、残酷に、フロネは告げた。
「もうおしまいにしましょう。おままごとは楽しかった?」
「しゃらくせぇ!」
何処に残っていたのか、鬼の力が更に強くなる。
「あたしは国をつくるんだよ! あたしだけの国民、戦士、崇める者! あたしの命令で動く国をだ!」
「それがおままごとだって言ってるのよ」
フロネの穢れた力が、リゼアスタの腕ごと鬼を焼く。
「私も、リーゼも、もっと大きな物を動かしたいのよ?」
空間が熱で歪む。
リゼアスタの聖印の力が真っ赤な炎となって、刃に走った。
「君に、光あれ」
業炎は骨の刀を伝い、あっという間に鬼に燃え移る。
「うあ」
短い悲鳴。
その一瞬の怯みを逃さず、リゼアスタは大剣を縦に大きく振り落とした。
燃え上がる炎と熱風。
最期の悲鳴すら飲み込んで、至極あっさりとその鬼は敗れた。
――天使の後ろ盾が無くなったからか。
フェインは一人、拳を握る。
――アンディアーさえ、手を出さなければ、これほどの被害は出なかったのに。
どこまで『神』の思惑なのか、全く分からなくなってしまった。
「本当にありがとうございました」
エルフィは深く深く、リゼアスタに頭を下げていた。
ミストランの住民達は鬼が斃されたことを喜び、街はあっという間に活気を取り戻した。
『不自然なほどに』、あっという間に。
「私の家族も、無事でした。これも『神』が私の罪を、全てでは無いにしてもお許しくださったということなのでしょう」
「……ああ」
リゼアスタは否定しなかった。
「鬼はもう居ない。だが、穢れた魔物の脅威が完全に去ったわけじゃ無い。俺からも、この街を援助してくれるよう、聖下にかけあう」
「そんな! どうしてそこまで」
「関わってしまったことだから」
「私が馬鹿なことをしたために、修祓者様には怪我まで負わせてしまったというのに」
「いや、これは――」
彼は視線を逸らし、包帯を巻いた手を隠した。
フロネの穢れた力を受けての怪我だ。あの鬼から、リゼアスタは一撃たりとも貰ってはいない。
「俺は、人(あなた)が生きていれば、それでいい」
「ご無礼をお許しください。……馬鹿なお人です、修祓者様」
「ああ」
リゼアスタは――そんな必要ないだろうに――老婆に頭を下げ、胴衣を翻してその場を後にした。
法王に早く報告をしたくてたまらないのだろうが、しばらく彼はこの街から動けないだろう。
何故なら今までどんな援軍でも倒せなかった鬼を倒したのだから。
すでに彼の周りには、口々に礼を言う人で垣根が出来ている。
それを横目に、フェインは「エルフィ」と声をかけた。
「フェイン君!」
「家族全員、何事も無くて良かった」
「ええ。ええ。……でも、私は」
「分かっているよ。罪深い事だ」
「……」
彼女は皺の寄った手を合わせ、祈る。
「それでもなお、言う。家族が何事も無くて、良かった」
「……ありがとう、フェイン君。いえ、」
意を決したように、エルフィは告げた。
「クーア……そうなんでしょう?」
「……聡いなあ」
耐えきれず、フェインは笑った。
「でもそれを知ってどうする?」
「感謝、するわ。それしか、できないの……」
「ああ、気にしないで……どうせ、気まぐれのようなものだったのだから」
「それってどういう――」
しぃっと、彼女の唇に自分の細い指を当てる。
「『忘れてくれ』」
そして、走り出す。
振り返るなどという愚行はしない。
「あーあ……」
街の入り口で待っていたフロネと隣に並ぶと、彼女はとてもがっかりした様子でフェインを見つめていた。
「慣れない魔法までかけて。そんなにばれたくなかった?」
「まあな」
もうエルフィは思い出さない。
フェインの事、リゼアスタの事、フロネの事。
彼女に残るのは、顔も名前も知らぬ『誰か』に助けられた事だけだ。
罪までは消せない。それを消す資格を、フェインは持ち合わせていない。
「素敵なロマンスの予感だったのになあ」
「阿呆」
足を蹴飛ばす。
――自分は人間の弱点となってはいけない。
例えば、もしエルフィが敵に回ったとしても、フェインは躊躇わずに斃す事が出来るだろう。
しかし、自分の為にエルフィが敵に回ってしまう可能性を摘んでおく事に超した事は無い。
だからその縁を絶つのだ。
クーアは死んだ。彼女の若い頃に。それだけが全てなのだ。
「エルフィは、わしにはもったいない良い女じゃ」
「それもそっか」
フロネは完全に興味を失ったようで、「ファウストの所に帰りましょうか」と呟いた。
「わりと強かったしね、アレ。疲れたわ」
そう語る彼女もまた上着で隠してはいるが、全身に聖印の力を受けて負傷している。
二人がその傷を『ないものとして』扱っている以上、フェインから心配する事は出来ない。
「……ところで、フェイン」
「うむ?」
「今回、なーんかあったでしょ。絶対に吐いて貰うわよ」
「逃げんよ、二度とな」
脳裏にちらつく、天使(アンディアー)の笑み。
それを一人で抱え込むには、フェインは既に長く在りすぎた。
フェインは振り向く代わりに、目を瞑る。
――『あいつ』が何を考えているかはまだ分からない。無駄な抵抗をしているのかもしれない。
それでも。
フェインは人間が好きだ。
幾度もの転生を繰り返す前から、その小さな無数の命の事が好きだ。
『神』が身勝手なルールを敷いて虐げる事に嫌悪したあの日から、抗うと決めたのだ。
『あいつ』が飽いて、この魂が消滅する、その最期の日まで。
そのためには、変わらなければならない。
変えようとしなければならない。
この、世界を。
...to be continued