「全く、あいつらの戯言を聞き入れるとは」
ベルは皿に盛られた魚を食べながら文句を言っていた。
姿は猫に戻っている。流石にあの魔法使いも非道ではなかったようだ。
「クララ。クララは修祓者として穢れた魔物を浄化すればいい。それ以外に何がある」
「……」
それはベルの言う通りなのだろう。
クララは眠い目を擦りながら、魚を美味しそうに食べているベルを眺める。
自室の外は太陽が明るく『帝都』を照らし、昨日の出来事が全部夢だったかのような気すらした。
でも確かに。
「私」
「うん?」
「アンドロレイアに一度帰ろうと思うの」
「おお」
ぺろりと舌を出し、ベルは「生家に戻る事は悪くないぞ」と同意を示した。
「忙しくて二十年、戻ってないからな。きっと皆喜ぶ」
「そうかな」
「ああ、もちろんだ」
「……そうかな」
素直に同意することは出来なかった。
―― 一度帰ろうと思ったのは、何もカヌレの話が出たからではない。
自分の原点を、あの銀の椅子を、見に行きたくなったからだ。
服を着替え、髪を整え、ベルを伴ってクララは自室を出る。
修祓者は『帝都』に部屋を持つ。多くは大聖堂に近い集合住宅の一室だ。
しかし今、クララの隣人はいない。
ある日穢れた魔物退治に出かけたきり帰ってこなかったのだ。
もう十年も前になるだろうか。
「クララ、何処に行くんだ?」
「聖下に予定を聞くの。もし、仕事があったら帰れない」
「そうだな。流石クララだ」
『煌きの』フォルカは自分の仕事部屋を持っているのだが、そこににいるのは朝と夕の限られた時間だけだ。
後は自由気ままに大聖堂のどこかにいる。
祭儀場や会議室、を覗いてみたが何処にもいない。
実は何処かへ視察に行ってしまったのか――そう思ったのだが、その人は仕事部屋にいた。
珍しい事もあるものだと入室すると、先客が驚いて声を上げる。
「クララ」
「あ……リゼアスタ」
彼は部屋の大きなソファに座っていた。
法王は「リゼアスタ、横を開けて座らせてあげて」と声をかけ、リゼアスタはそれに無言のまましたがった。
「さあ、クララ。座って」
「……ありがとうございます」
恐る恐るリゼアスタの隣に座る。
こうして白い胴衣に身を包んで表情を険しくしていると、少し怖い。
彼は強いのだ。それが今なら分かる。
正面から立ち向かえば、あっさりと殺されてしまう。
そんな強さ。
「……リゼアスタは、何を?」
「俺か?」
彼は目を丸くし――声をかけてきたことに驚いたように見えた――クララを見つめた。
「俺は、……祝祭の打ち合わせを」
「そうなんだよ、クララ。私の法王就任五百年のお祝いがあるだろう?」
クララは小さく頷いた。
「それの打ち合わせをね」
「そうなんですね」
「ああ。でも気にしないでくれ、リゼアスタが『うん』と言えば全て終わるものしか残っていない」
「聖下」
リゼアスタは露骨に不満を顔に出した。
「俺は承諾したわけでは」
「そのうちさせてみせるさ。それで、クララは何のようだった?」
「あ、……えっと……こ、故郷に、行きたい、と」
「故郷? アンドロレイアに?」
クララは無言のまま頷く。
自分のルーツを見直す、ということを言葉にするには彼女の語彙は幼すぎた。
「旅行、というか里帰りかな。分かったよ、ゆっくりしておいで」
「ありがとうございます」
「俺も行く」
仰天したのはクララだけではなかった。
「おいおい、リゼアスタ。君までどうした」
『法王』は俄かに信じがたいという表情を見せる。
「……カヌレが、その、美味いと聞いて」
「ああ! なるほどね。あそこのは美味いよ、うん」
だが、と『法王』は言葉を続ける。
「君が甘いものとはね」
「……」
「あ、分かった。君の恋人が」
「聖下」
「怒るなって」
随分親しそうな空気が漂っていた。
「いいじゃあないかあ、少しくらい褒めたって」
「……」
「怒るなって。取ったりしないよ」
「聖下」
リゼアスタは表情を変えたわけではない。
だというのに、全身から漂う気配ははっきりと聖下に敵意を向けていた。
末恐ろしい事だ。どうやったって敵うわけもないのに。
「怒るなって! まったく、リゼアスタは怒りっぽいなあ……」
法王は不満そうに彼にくるりと背を向けたが、「あっ、そうだ!」と勢いよく向き直る。
「祝祭にカヌレを出そう! そうだ、それがいい。甘いものは心を和ませる」
「聖下が言わなくてもアンドロレイアは準備すると思うんですが」
「ちゃんとお願いした方がいいに決まっているじゃないか。待っていてくれ、今書類をしたためるから」
彼はうきうきと自分の椅子に座り、銀のペンを握った。
「……ねえ」
「何だ」
「やっぱり、恋人のためなの?」
「……」
リゼアスタは答えてくれなかった。
待ち合わせの場所――帝都の中央公園――にいたのは、見たことのない女性だった。
明るい栗毛と濃い茶の瞳。
何処にでも居そうで、何処にも居なそうな、そんな女性。
「あ」
彼女はこちらに気づいたのか、「こっちよー」と小さく手を振った。
「クララ気をつけろ」足元のベルが警告する。「知らない人間とむやみに話してはいけない」
クララは小さく頷いて、とりあえず恐る恐る女性に近づいた。
「……もしかしてさ、洋服、それしかないの? リゼアスタも大概だけど、それでも仕事以外だと別な服着てるわよ?」
「……」
確かに仕事用の白い胴衣しか持っていないが、何故そんなことを聞かれるのだろう?
初対面ではないのだろうか。
押し黙っていると、「待たせた」とリゼアスタの声が聞こえてくる。
助けを求めるようにそちらを向くと、クララの動きよりも早く目の前の女性が飛び出していた。
「リーゼ!」
彼女は嬉しそうに彼の首に腕を回す。
リゼアスタは表情を変えず、されるがままだ。
「フロネ――苦しい」
「あ、ごめんなさい」
クララは目を丸くした。
この前会った女とは随分雰囲気が違うではないか。
顔立ちも、髪と瞳の色も、身長までも違う。
「……フロネ?」
「ああ」
思わず呼びかけると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「アレは本来の姿よ。これは、賞金稼ぎの姿、ね」
「何てことだ!」
高い声で叫んだのはベルだ。
「姿形を変えてクララを誑かすつもりか!」
「何でそうなるのよ、もう」
フロネは頬を膨らませて不満を露にし、リゼアスタの腕に抱きついた。
「そりゃあ私はいろんな姿になれるけどさ。誘惑するならリーゼだけで十分よ」
「おい」
「事実でしょう?」
――クララは何も言えなかった。
ただ、呆然と「随分親密なんだな、吸血鬼と聖職者なのに」と思った。
「クララ、こいつは本物だぞ……本当に一緒に行くのか?」
彼女は頷く。
強く、確かに。
「クララがそう言うなら……」
不満そうにしていたベルだが、クララの意思に背こうとはしなかった。
「神造物は基本的に聖も邪も関知しない――ベルはあくまでもクララの意思に従うだろう」
リゼアスタはそう言い、「あいつ遅いな」と周りを見渡した。
「あいつ?」
「シューウィだよ」
「シューウィも来るの?」
「あらあら、クララちゃん嬉しそうね?」
フロネに言われて、はっとする。
――喜んでいるのだろうか、自分は。
「そろそろ来る」
リゼアスタは少し顔を伏せてそう告げた。
まるで、微笑んだ表情を隠すように。
「使徒の居場所、分かるんだっけ」
「まあぼんやりとならな。ほら、そっちから――」
「よーっ!」
大声で嬉しそうにやって来た件の使徒は、薄手のコートを翻し、やたらと笑顔であった。
「気持ち悪い笑い方するな」
「いやあ、だって、甘いもんタダ食い出来るとか、楽しみになっちまって」
「ほんっとうに甘いもの好きなのねぇ……」
フロネが呆れたように笑っても、
「好きだねっ! そりゃっもう好きだねっ!」
と清清しい答えが返ってくるだけであった。
「しかも、クララの故郷なんだろ? 興味あるぜ」
「……そう?」
「おう。俺は帰れねぇしなあ」
それで、とシューウィは己の主人に問う。
「アンドロレイアまでどうすんだ? 歩く――距離じゃねぇよな?」
「馬車を借りるつもりだ」
「あ、っそーだ」
二人の真ん中に入り込んだフロネが賞金首の手配書を掲げた。
「ついでにここに乗ってる奴らも斃して行きましょう!」
「目ざといなあ」
「いいじゃない。修祓者が二人、賞金稼ぎ二人! 敵はないわよ」
「まあ……ごもっともだけどよ」
「クララはどう?」
急に話を振られ、クララはただ頷く。
正直、自分の事は忘れ去られているんじゃないかとすら思っていたのだ。
「いいってさ! あ、その賞金使ってクララに可愛い服用意しましょうよ。折角故郷に戻るんだから、おめかししてさー」
「修祓者の帰郷はそんな華やかにしなくていい、が」
リゼアスタは、そこではっきりと表情を和らげた。
「服を買うのは反対しないな」
アンドロレイアは大教会を中心とした信仰深い街だ。
『帝都』は『教会』の総本山だが、大陸有数の賑やかな街で、店も人も多く在る。
しかしここは、皆一様に静かで、騒がしさとは無縁だ。
「やだ」
そしてその静寂を破ったのはフロネであった。
「やだー! 折角着せたのにー!」
「クララはお前の玩具じゃない」
「でもでもでも、こんなに似合ってるのに!」
クララは顔を真っ赤にさせる。
――『天使と杯亭』の一室。
クララは前の町で購入した薄桃色のワンピースを纏っていた。
彼女にとってこんなに薄くひらひらした布は初めてだったし、何よりも修祓者の胴衣以外で活動したこと自体がない。
ここまでずっと気恥ずかしさと戦ってきた。
それは多分、道中出会ったケンタウロスよりも強敵であった。
「これから教会に行って挨拶があるんだと言っただろう……流石にその服では出向けない」
「ううっ……そんなあ……こんなに可愛いのに……」
「あ、あのね」
クララは意を決したように告げる。
「これは、大事にするから……ありがとう、フロネ。でも、今は、着替える……」
「それがいい」
ベルはちょこんと尻尾をクララの足に巻きつける。
「似合っているからな。また着るといい」
「初めてあんたと意見が合ったわね」
「ふん」
クララの忠実なる愛猫は顔を背け、「さあ出て行け。今からクララが湯浴みするんだ」と二人は追い出された。
「私は居たって別にいいじゃない!」
「煩い! クララの神聖な体を見せるわけにはいかん!」
「今更よ!」
ぎゃーぎゃーと猫と吸血鬼は言い争っていたが、リゼアスタが「それくらいにしないか」と告げるとしぶしぶ黙った。
「お前も少し街に繰り出すといい。シューウィなんていつの間にかいないじゃないか」
「リゼアスタは?」
「俺はクララを待って一緒に教会に行く」
「ええー! つまんない……」
「我慢しろ。夜には戻る」
「ぶー!」
「文句言わない」
「ぶーっ!」
しかしフロネも分かっていないわけではない。
これは旅行ではない。リゼアスタの仕事の一つなのだ。
恐ろしいことだが、『あの』法王の即位五百年記念の祭りがあるそうで、それにリゼアスタも多いに関わっている。
フロネという爆弾を抱え込んでいる彼の立場を思えば、こんな些細な事で困らせるのは忍びない。
――ただちょっと、言ってみたくなっただけだ。
そしてそれすら、リゼアスタは分かっているのだ。
「酒が飲みたい。ラムを出せる店を探しておいてくれ」
「分かったわ」
つまり夜は一緒に――もしかしたら二人きりで――居るつもりがあるということで、フロネは気持ちを改めた。
『天使と杯亭』を出ると、空は俄かに雲が出て薄暗くなっていた。
夜は雨が降るのだろうか?
フロネはとりあえず目的もないまま街を歩き出した。
記憶にない街だ。
長い時間生きていると、その街の繁栄と衰退をこの目で見ることになるのだが、リゼアスタとの出会い以前の記憶はどんどん失って――否、思い出さないようになっていた。
それはきっとリゼアスタとの思い出が何よりも大事で、それ以外の思い出をこの身残しておく事が出来なくなっているのだろう。
無駄な記憶をしまっておくほど、この身は大きくない。
だからこの街を昔訪れていたとしても、今のフロネには分からない。
何かきっかけがあれば、もしくは。
「へぇ……」
店頭を大きくガラス張りにしている店が多かった。
中は布、食器、菓子――色とりどりの物が並んでいる。
この静かな街には不似合いなほどに。
「いいなあ……」
美しく、そして繊細に彩色された大皿を見る。
こんな皿をいくつも並べて、静かな食事と生活があればいいのに。
隣のミモザが描かれたティーセットでお茶を楽しめたら――そう、眺めていた。
「夢のまた夢、か」
変な目で見られても困る。
フロネはそっとその場を離れた。
目を放した先、意気揚々と歩いているシューウィを見かけた。
「ちょっと、シューウィ! 何処行ってたの」
「ん? ああ!」
彼は手の中で、くるりと白い鋏を回した。
「研いで貰ってた。この前のケンタウロスとの戦いで脂が酷かったからな」
「なるほどね」
「ここは」
彼はくいと顎で示す。
「手先の器用な連中が多い。仕事も良かったぜ」
「ふうん」
「さすが義肢職人の街だな」
「何それ」
「ああ、しらねぇの?」
シューウィはついてくるように彼女を促し、フロネもそれに従った。
辿り着いた場所は、やたら油の臭いがする。
「なぁに、この店?」
「義肢の店だよ」
好奇心に駆られて覗くと、中には何人もの人間がせっせと荷物を運んでいた。
その手が、足が、金属や木材で出来ている。
「……うんと? 手と、足? あれが義肢?」
「お前が知らないのは驚きだな」
「教えなさいよ」
「おう」
シューウィは「茶でも飲むか」と喫茶店に入り、小さな席を二人で囲んだ。
背の高い彼が背中を丸めて椅子に座る様はどこか笑いを誘う。
「『教会』は、人間は完全な体を目指すべき、としてる」
「そうね。だから皆祝福を得たがるんだもの」
「でもな、この世界は争いごとも多い。俺もちょっと前に危なかったが、腕や足を失うヤツなんてごまんと居る訳だ」
「……ええ」
人と人との戦争。人と穢れた魔物との抗争。突然現れる『災い』。
命が助かったとしても、何かを失う人間は多い。
聖印持ちや穢れた魔物ではないものは、とても、脆い。
「で。死んだ時はなるべく手足があるように布や木屑で欠損を埋めるんだが、生きてる時は義肢を装着するやつもいる。金持ちは特にな」
「なるほど。偽者の手足を用意するのね」
「そうだ。特にアンドロレイアは『教会』の力も強くて、敬虔なヤツも多い。だからこうして、義肢を作る職人も多ければ、装着してるヤツも多いってこった」
「へぇ……」
「お前が知らないのは意外だったぜ?」
「私の周りは……そんなに柔な人、いないからね」
「……それもそうか」
レモンバームが入っているというお茶を啜る。
「まあこの街にいれば嫌でも見ることになるだろうよ」
「嫌じゃないわよ」
フロネとぴしゃりと言ってのける。
「生きてるって、素晴らしいじゃない」
その意味を汲み取ったのか、シューウィは何も言わず、ただ頷いた。
アンドロレイア教会は聖堂と生活区画とに分かれている。
白鳥に例えられるその真っ白な聖堂は巨大で、立派な『神』の像も掲げられていた。
「『炎の』リゼアスタ。法王の命により参上した」
「ようこそ、『帝都』の修祓者様」
濃紺の修道着を纏った五人の女は、一糸乱れぬ動きで丁寧に礼をする。
「そして、お帰りなさいませクララ様」
「……ただいま」
クララは身を小さくした。
「法王からの願状を持ってきた。確かめてくれ」
「はい」
リゼアスタが渡した紙には『剣と涙の印』が記されている。
それは法王のみが使う事を許された印だ。
修道女の一人はそれに丹念に目を通し、「即位五百年の祭事についてですね。承りました」と無感動に言ってのけた。
「二日いただけますか。これから教会内で話し合いの場を持ちたいので」
「了解した」
「ありがとうございます」
その女が手を少し動かすと、両脇の修道女がクララの脇に音もなく歩み出る。
「クララ様、こちらへ。皆貴女を待っていますよ」
「え……」
「何年ぶりの帰郷だと思っているのですか。さあ、皆さんに顔見世を」
「でも」
クララの黒い瞳が縋るようにリゼアスタに向けられる。
「私、カヌレを」
「カヌレ?」
修道女は意外と言わんばかりに目を丸くした。
「クララ様、カヌレがお好きになったのですか」
「あの、その……そうじゃなくて……」
「カヌレでしたらお披露目の後に良い作り手をご紹介します。さあ」
クララは両脇の修道女に誘導されてしまう。
「リゼアスタ!」
か細く、しかしはっきりと彼女はその名前を呼んだ。
「さ、先に行かないで、待ってて」
「……ああ」
何をそんなに心配しているのか――リゼアスタには分からなかったが、肯定を返した。
彼女は顔を微かに歪めながら二人の修道女に連れて行かれてしまった。
嫌がっているように見えたのは何故なのだろう。
「リゼアスタ様」修道女は静かに言葉を続ける。「これからどちらに?」
「ここのカヌレの評判を知っておこうと思っていたんだが」
「そうですか。では、焼かせましょう。カヌレは生地を休ませる時間が長いものです――ですので、明日にでも」
「分かった」
ここで無理に頼む理由も通りもない。
「……クララは、何処へ?」
リゼアスタは自分でも驚くほど、すんなり彼女の心配を口にしていた。
修道女は眉をぴくりともさせず「銀の椅子へ」と答える。
「銀の椅子?」
「クララ様の椅子です。そして、このアンドロレイアの民の聖なる眼(まなこ)が見つめる椅子です」
「……俺がそれを見ることは」
「如何様にも」
「連れて行ってくれ」
「ご興味があるのですか?」
「まあな……」
――クララを構成するものがここには在る。
二百年前に己の生まれた場所が灰になってしまった自分にとって、他人の根源には興味があった。
しかもそれが、背中を預けることになるかもしれない相手だとすれば、とくに。
「こちらへ」
残っていた二人の修道女がリゼアスタの両脇にぴたりと寄り添い、今まで対面していた修道女はくるりと背を向ける。
居心地の悪さを顔に出さないようにした。
アンドロレイア教会はどこを向いても清潔な――病的なほどに――白い壁がある。
染み一つない。
傷一つない。
それは『帝都』の大教会にもない、完璧さであった。
そこに、どれだけの『力』が傾けられているのか想像すると恐ろしい。
両隣の女達は真っ直ぐに前を向いて、瞬きすらしていないのではないかと錯覚するほどだった。
だが、使徒ではない。祝福を受けてはいない。
彼女達は彼女達の意思で、人形のように生きている。
それは――あまりにもクララに似すぎているような気がした。
微かな靴の音を伴って案内されたのは、聖堂の奥に造られたもう一つの聖堂であった。
窓はなく、灯石が影と光をぼんやりと形どる。
中には大勢の人、それも修道着の者ばかりではない。
アンドロレイアの市民達が、皆一様に祈りを捧げている。
死者のそれに似た静かさを向けられているのは、最深部に備え付けられた銀の椅子。
そしてそこに座る、白い肌の少女。
「クララ」
彼女の名前を微かに呟く以上のことは出来ない。
それほどまでにこの空間は、異様に、異常に、冷え切っていた。
クララは酷く緊張していて、両脇に控える従者をちらちらと伺っている。
こんなに大勢の人間に囲まれているというのに、彼女は独りであった。
「今、聖女は帰還した」
左右に控える修道女の声が同時に響く。
「アンドロレイアの善き者達よ。今一度彼女を見よ。そして『神』を讃えよ!」
緩い揺らめきを感じた。
祈りの言葉が風に揺れる木の葉の囁きのように、雪の日に落ちる水滴の様に、小さく小さく、しかし異様なまでに揃って響いている。
リゼアスタはそれに神聖さを感じながら、心のどこかで恐怖した。
――これが、『神』の望む正しさ。その一面。
気持ちが昂ぶるのを抑え切れなかった。
己の聖印が微かに力を放出し始める――
「リゼアスタ」
はっと意識を浮上させた。
クララがこちらを見ていた。
はっきりと、目を合わせて。
その小さな言葉が、不思議と届いていた。
「傷つけないで」
「しかし」
「お願い」
「……」
リゼアスタは目を逸らし、しかし肯定の意思として小さく頷いて見せた。
厳粛なる祈りはそこから一時間も続いた。
クララのみならず、リゼアスタもまた、その長い、永遠とも思われるような祈りをただただ聞き続けた。
――リゼアスタは炎なのだ。
クララは改めて、目の前の男を評価した。
――敵を焼き尽くす、裁きの炎なのだ。
人を愛し、そして大きな何かを憎んでいる。
多分それが、あの堕天使のいう『世界の真実』なのだと、朧気ながらも掴みかけていた。
「お前が止めなければ」リゼアスタの言葉はぞっとするほど冷たかった。「あの使徒共を殺していた」
「……うん」
深く頷く。
二人は中庭で待たされていた。
カヌレの作り手を紹介するという約束は無事に守られそうであったが、肝心のその人物が夕飯の支度で手を離せないという。
日を改めようかとも思ったが、「少々お待ちを」という修道女の言葉は有無を言わせなかった。
昔から、あの修道女はあんな感じだっただろうか?
忘れてしまったことに多少の驚きはあったが、それだけだ。
「お前の使徒達、だな」
「そう。……ん、もう、何年も前に……」
「ああ」
使徒は祝福を授けた聖印持ちから離れると、命令されなくても規則正しい生活を行う。
だが、その聖印持ちが再び現れれば、彼や彼女に付き従い、その言葉を待ち、祈る。
何年も前の祝福は、未だにアンドロレイアの民の心に楔を残している。
クララの使徒は、クララだけを見つめて、クララの言葉だけを聞き、クララのために死ぬ。
彼女の周りに集い、祈り、讃え、死ぬ。
「リゼアスタは、話を、聞いてくれる」
「……ん?」
「でも、使徒は、あの人達は、話を聞いているわけじゃ、ない」
「……そうだな」
「私、誰に、話していたのか」
「……」
リゼアスタは目を細める。
「お前はもう少しいろんな奴と話した方がいい。使徒以外で」
クララは肯定しかけたが、「お前には言われたくなかろう」というベルの言葉に遮られてしまった。
「小童が法王聖下以外と話したところは見かけんぞ」
「……」
否定できないようであった。
それがなんだか、可笑しい。
今までリゼアスタがベルに押されているのを見た事がなかったので。
「笑うなよ」
彼はそう言って、自分も少し、笑った。
「お喋りは苦手なんだ」
「嫌いなの?」
「いや。……他人と同じように、泣いたり喚いたりするのが出来なくなったから、かもな」
彼の青い瞳が、薄っすらと白っぽくなる。
「長く生き過ぎた」
「リゼアスタが泣くところ、分からないな」
「今でもたまにあるよ。そういう時に、まだ心があるんだって自覚する」
「心」
その単語が、脳の深いところに染みた。
「私には、心が、あるのかな」
「……たまに、思いっきり泣いてみろ。それで、きっと分かる」
「うん」
泣くとは、感情的になる、ということなのだろうか?
そういえば随分泣いてない気がする。
「クララを泣かせるようなことをするな! 容赦せんぞ!」
「分かってるよ」
――もう直ぐ夕暮れだ。
アンドロレイア大教会の白い肌が橙に霞む。
「お待たせしました、クララ様」
突然あの修道女が一人で現れたことに、クララは少々戸惑った。
改めて、氷のような、怖い顔だと思う。
「厨房に待機させております。どうぞ」
「……ありがとう」
足早に向かおうとすると、「ああ、リゼアスタ様はお引き取りください」と声が上がった。
「何故だ?」
「アンドロレイアのカヌレの製法を外部の方にお教えするわけにはまいりません」
「聖下の命もあるんだが」
「それでも、です。失礼は承知しております。しかし、守るべき製法があるのです」
「……仕方ないな」
クララはどきりとする。
また一人でいかなければならないのか。
「クララ」
リゼアスタは青い瞳を、柔らかく細めた。
「夕飯はこっちに戻って来い。あいつらが待ってる」
「……うん。分かった」
ベルがするりと彼女の足にじゃれつき、「行こう」と鼻でつつく。
修道女もクララがついて来る事を疑わないようで、くるりと背を向けた後はこちらを振り返ろうともしなかった。
若干の寂しさを感じながらも、クララはその背についていく。
――厨房を見たことはなかった。
アンドロレイアでのクララの生活は、自室と銀の椅子との往復が殆どだったので。
広い厨房は何処も彼処もぴかぴかに磨かれており、生活感はない。
その隅、食材を前に作業をしている人物がいた。
長身の男。
背中を丸めて作業台に取り付く様は、何だか窮屈そうだ。
「エドガル」
修道女が呼びかけると、男はゆるゆるとこちらを向いた。
濃い赤紫の瞳。
見おろされている、その切れ長の瞳に既視感を感じた。
「はい? 修道女様」
「この方がクララ様です。お前はお会いした事がありませんでしたね」
「はい」
彼は『あの人と違って』礼儀正しく跪いて、「初めまして。エドガルと申します、聖女様」と静かに挨拶をした。
その時気づく。
エドガルの右腕が完全な義手である事を。
「クララ様、わたくしは己の仕事に戻ります。彼からカヌレの説明を受けると良いでしょう」
「ありがとう」
彼女が去った後、ベルがふわりと小さな出窓に上った。
自分は興味ないとでも言いたげに欠伸をし、くるりと丸まってしまう。
「本当に猫の神造物をお連れになっているのですね」
「……はい」
「何もかも修道女様に聞いたとおりだ、嬉しいなあ」
彼は人懐っこく笑って――その笑みはどこか『あの人』に似ていた――クララに調理台の上を示した。
「カヌレの材料と調理器具を揃えておきました」
「……」
クララは目を丸くしながらそれを眺めた。
銀のボウル、ガラスの瓶、先が螺旋状になった器具、カヌレの型。
粉と牛乳、卵、蜂蜜、酒らしきもの、琥珀色の何か――
そういった見たこともないものが見やすく綺麗に並べられていた。
「こんなに材料があるの?」
「ええ」
「この、ぼこぼこしたのは、何?」
「蜜蝋ですよ。ミツバチの巣に、蜂蜜と一緒に出来るものです」
「……」
――想像が出来なかった。そもそもミツバチの巣とはどんな形をしているのだろう?
エドガルは笑って、「聖女様、カヌレの製法にご興味がおありなんですね」と問う。
「うん」
クララは頷いた。
「お好きなんですか?」
「……」
それには首を横に振るしかなかった。
「私じゃなくて、その、知り合い、が」
「なるほど」
エドガルは目を細めて、少し、寂しそうに笑った。
「私の知り合いも好きでした。アンドロレイアのカヌレが凄く好きな奴で」
「……だから、ここで、作ってるの?」
「ああ、いや、いいえ」
彼は己の右手を触って「そいつは『これ』と一緒に吹っ飛んでしまいました」と事も無げに伝えた。
「……」
唖然としていると、「いえ、そんなお顔をなさらないでください」とエドガルは慌てる。
「数年前のバンモルトのあれは、まあ、苛烈でしたから」
「……貴方は、兵隊さん?」
「ええ、まあ。傭兵と言ったほうが近いでしょうが」
「傭兵さんが、どうして、ここに」
「アンドロレイアに戻って来て、紹介されたのがここでした」
鉄で出来た右手が、調理台を撫でる。
「この手と経歴では、なかなか仕事を得られなくて。かといって、もう、傭兵業は続けられませんでしたから」
「……」
「ええ、お考えの通りです。この右手では、菓子作りもままなりません」
ただ、とエドガルは厨房を見回す。
「材料の搬入や窯の掃除はやれますし、料理は意外と力仕事ですから」
「そう、なの?」
「ええ。カヌレだって、生地を作るのは中々力のいる作業ですよ」
エドガルは「卵は黄身と白身に分けるんですが、これは、苦手ですね」と肩を竦める。
「私、出来ない。出来るの、凄いと思う」
「ありがとうございます」
「卵、どうやって割るの? 包丁?」
「いいえ、こうやります」
彼は左手でこつこつと卵を台に打ちつけ、その後両手でそれを真っ二つに割って見せた。
「わあ」
出てきたのは白身だけだ。黄身はまだ左手の殻の中にある。
「上手くいって良かった」
黄身をそっと別なボウルに入れ、彼は安心したのだろう、右側の殻はくしゃりと小さく悲鳴を上げて潰れてしまった。
「あっ」
エドガルは苦笑する。
「……義手での力加減が、上手く行かなくて。これでも、それなりにいい性能の物をいただいたのですが」
「大変、なの?」
「ええ」
彼は慎重にもう一つ卵を割り――今度は黄身と白身に分けたりしなかった――砂糖と蜂蜜を入れて、螺旋状の先端がついた器具でかたかたと混ぜ始めた。
「こういう作業は右手がいいんですけどね」
「貴方は、右利き?」
「ええ。ですから、せめて逆であればと思った事もあります」
その左手が、小麦粉をボウルに足し入れる。
「ここで粉を全部入れてしまうと、美味しくないんですよ」
混ぜては粉を入れ、混ぜては入れを繰り返し、やがて滑らかになっていく様は目を見張るものがあった。
――全部違うものだったのに、いつのまにか一つになっている。
「粉は入れると重くなります。なので、力作業になるんですよ」
「そっか」
「香り付けのラム酒は南の方から取り寄せています。ミューの岬はご存知ですよね」
「うん」
さらにボウルの中にはバターや牛乳が入り、また一つになっていく。
かたかたと器具がボウルの底を叩く音が、夕暮れの差し込む厨房に響いた。
「後はこれを網で濃します」
彼が右手で掴んだのは、黒っぽく細い枝のようなものだった。
「枯れ木を入れるの?」
「これはバニラという植物の種です。甘い香りがするでしょう?」
「うん。お菓子の匂いがする」
「これを生地に沈めて――寝かせます。この寝かせる時間が、アンドロレイアのカヌレの秘密ですね」
「守るべき製法?」
「そうです。私も最近ようやく教えてもらったばかりなんですよ」
クララは首を傾げた。
「この、蜜蝋? を、使ってない」
「ああ、これは型の表面に塗るんですよ。カヌレの表面がかりっとしている理由です」
「うーん」
想像がつかなかった。
「見ていて、楽しいですか?」
「うん」
「それは良かった」
銀のボウルに布をかけ、たらいの水で手を洗いながら、エドガルは目を伏せる。
「これしきの事が出来るようになるまで、時間がかかりました。義手は確かに便利ですが、でも、思うようにはいかないのです」
「……辛い?」
「ええ、とても」
彼はクララに椅子を用意し、彼もまた椅子に座った。
小窓から夕日が差し込み、ベルの長い影を映し出している。
「バンモルトでは何人もの仲間が死にました。兵隊も、傭兵も、町の人間も、聖職者も、職人も。そこで私は、仲間と右手を引き換えに生き残った」
「辛い?」
「……死んでいった者達を悲しむ事はいくらでも出来ました。でも、それ以上に、今、自分が生きていることの方が辛いのです」
エドガルは「すいません」と顔を伏せる。
「『俺』の話を、どうか、聖女様に聞いて欲しくて……」
「いいの……聞きたい」
――話をする事が大事だと、思った。
「俺は、ただ右手を失っただけなのに、命はここにあるのに、全部を失ってはいないのに、こうして苦しいのです。何も出来なくなってしまった――あいつの為に戦う事も、普通の人間として生きる事も、出来なくなってしまったんです」
「でも、こうして貴方は……」
「分かっています。修道女様達が俺を拾ってくれて、こうして仕事につけて、食うには困っていません。でも、」
ちらりと、エドガルは調理台を見る。
「駄目なんです。俺は――この右手では、あいつの好きだったカヌレを満足に作る事も出来やしない」
「そんな、こと」
「時間をかければ出来るかもしれない。でもその時、俺は、本当に生きているのかと、思ってしまうんです……!」
鉄の冷たい手が、クララの小さな手を掴んだ。
「聖女様、神は――俺に、何を求めているというんですか?」
「え……」
「生き残り、でも右手を失った俺に、神は何をさせたいというんでしょう? 悩み苦しめと、いうのでしょうか」
「わ、私、……私は、神、じゃ、ない」
エドガルははっとして、「す、すみません」とその手を離した。
「困らせてしまって……本当に、すみません」
「……」
呆然と、クララは彼を見ていた。
背を丸めて小さくなっている、義手の男。
彼は、目を閉じて苦悶の表情で俯いていた。
「俺は今、神が求める物から遠ざかってしまっています……だから、こうして必死に生きている。でも、それでも……それでも、いつか、ぐしゃりと潰れてしまうんじゃないかと……怖くて、惨めで……」
「……」
――彼には心があるのだ。
クララは場違いにもそんな事を考えていた。
だから悲しくて辛くて、弱音を吐いてしまうのだろう。
「クララ」
――だと、いうのに。
「祝福してやったらどうだ」
ベルは、そう言った。
「ベル、何で」
「使徒になれば義手の制御も楽になるだろう? 完璧な動きをこなせるようになる」
「そんな」
「そんなことが!」
エドガルは声を荒げた。
「そんなことが――出来るのですか?」
「えっ」
「祝福――こんな不完全な俺に、祝福を授ける事が、出来るのですか……?」
「……!」
エドガルの顔には、今まで浮かべていた影はなく、ただ希望だけが広がっていた。
「でも、私、は」
「聖女様! もし、もしこんな不完全な体でもよろしければ、どうか……どうか祝福を……!」
「エドガル――」
「完全な人間になれなくても……でも、この手が自由になるなら、こんなに嬉しいことはありません!」
「エドガル」
クララは震えて、首を横に振る。
「祝福って、使徒になるって、どういうことか……わか、わかって、るの……?」
「どうしてそんなことを……? 『健やかで正しい精神と丈夫な体となる』、でしょう?」
「違う……それ、だけじゃない……自由、じゃ、なくなくなるんだ、って……自分じゃなくなっちゃうんだ、って……!」
「それでもいいんです!」
彼はまた、彼女の手を掴んだ。
希望に縋るようにして、強く、強く。
離すまいと。
逃がすまいと。
「この仕事を……カヌレを完璧に作るだけの完全さが、俺には必要なんです! 聖女様、どうか、どうか俺に、御慈悲を! 神に、少しでも奉仕できる、精神を!」
クララの震えは止まらない。
――これが、神の意思か。
――これが、世界の呪縛か。
今彼は右腕以上の物を失おうとしているのに、それを、気づかず、望んでいる。
渇望している。
「クララ」
ベルの声が背中から聞こえた。
「望むようにしてやれ。それがきっと、お前とこの男と会った意味だ」
「嫌だ」
クララははっきりと拒絶する。
「だって、エドガルの、心――笑わなくて、泣かなくて、そんな、ことに、なる」
「それが、何だっていうのです……」
握られた手に篭る力が強くなる。
「そんなもの……神の前の完璧さには無意味です……俺は、この手が、完璧に動いてくれれば、それでいい……カヌレが作れれば、それで、いいんです」
「エドガル」
「聖女様、どうか、どうか御慈悲を……どうか、どうか……!」
その姿は、その心は、きっと美しいものなのに。
それを捨ててまで、それほどまでに、神の意思は、大事なのだろうか?
「クララ」
ベルの声。
「それ以上苦しめるのも可哀想じゃないか。お前は、彼の望みをかなえるだけの力があるんだぞ」
「……」
彼女の震える唇が、その名前を呼ぶ。
厨房に入り込んでいた夕日は、闇に取って代わられていた。
「義手がどれくらい大変かって? その義手の性能もあるけどよ……まあ、大体は血の滲む努力っつーのが必要だって聞くな。物を掴むどころか手を上げ下げするだけでも辛いってよ。だから、義手で仕事を持ってる奴っていうのは、なんていうか、とにかくすげぇ。細かい作業なんて最高級の品でもできねぇって聞くし。まあ……聖印持ちなら、長く生きてる間にできるんじゃねぇかな、って思ったりはするがよ」
『あの義手の男』にどこか似た男はそうクララに告げた。
「で、帰ってくるなりどうしたんだよ? 結局昨日は夕飯にも来なかったしさ」
クララは無言のまま首を横に振る。
「元気、ないじゃない」
フロネが心配そうに声をかけてきた。
――吸血鬼にだって、こんな表情が出来るというのに。
クララはやはり、首を横に振る。
「……教会であった事なら、直ぐにばれるぞ」
リゼアスタの指摘には何も言えなかった。
「昨日約束したからな。これからカヌレを取りに行く」
「カヌレ!」
シューウィは勢い良く立ち上がって、人懐っこく笑った。
「早く行こうぜ!」
「お前なあ……今朝食を食べたばっかりだろ」
「別腹だ!」
クララはなかなか立ち上がれなかった。
また、戻らなければならない。
『彼』に会わなければいけない。
そう思うと、立ち上がれなかった。
「――手、繋いであげようか?」
フロネがその白い手を差し出していた。
「……」
思わず、縋る。
「……あったかい」
「ふふっ……私くらい生きると、こうやって人間に近くなるのよ」
「……」
ぎゅっと握ると、強く握り返された。
その手を頼って立ち上がる。
教会へ行くと、修道女が入り口で待っていた。
「リゼアスタ様。お約束のカヌレを焼かせました」
「ああ。頂く」
「食堂をご案内しましょうか?」
「いや――天気もいいし、外で貰う」
「そうですか」
修道女が手を叩くと、現れたのはエドガルであった。
背中をぴんと伸ばし、銀のトレイを持っている。
その片方の手は、やはり義手だ。
「このカヌレは彼が焼き上げました。聖下にお届けするカヌレも、彼が担当となるでしょう」
「ふむ」
「『よい作り手』ですので……」
修道女は、にっこりとクララに笑いかけた。
――まさか。最初から、そのつもりで?
クララはその悪意に触れた。
初めての出来事だった。
「エドガル」
思わず、震える声でその名前を呼んだ。
すると彼はさっとクララを振り向いて「はい、クララ様」と即座に返事をした。
それだけで、リゼアスタには事の成り行きを悟られた、気がした。
「カヌレ、……上手く、焼けた……?」
震える声を、何とか御す。
「はい、クララ様」
「義手は、上手く動くように、なった……?」
「はい、クララ様」
「聖下、喜んで、くれるかなあ……?」
「はい、クララ様」
「……一つ、欲しい」
クララが言えば、彼はさっと紙袋からそれを差し出した。
アンドロレイアのカヌレ。
エドガルが焼いたカヌレ。
受け取る時に、冷たい鉄の指が触れた。
「私……味見、する、ね……」
また少し温かいそれを、震える手で半分にする。
かりっとした表面とは裏腹に、中身はしっとりとしていた。
ラム酒の匂いが少しだけ感じられる。
「いただきます」
噛む。
バニラの味がした。
でも、涙が溢れてきて、なかなか飲み込む事ができない。
――こんなに美味しいのに、素直に喜べない。
「うっ、ううっ……」
力を入れて、飲み込む。
ぽろぽろと涙が流れて、止まらない。
「うあ、あああっ……うわあああああああっ」
声を上げて泣いた。
――もう二度と、こんなことになりたくない。
――もう二度と、こんなことをしたくない。
――もう二度と、こんなことを言わせたくない。
そんな気持ちが、そんな心が、クララの涙を作っていた。
...to be continued