アンドロレイア教会の聖堂に据えられた銀色の椅子。
それは、いずれ聖印が刻まれるだろう少女の為に用意されていた。
彼女が赤ん坊の頃からそれは毎日磨かれ、人々に披露され、美しいまま存在し続けた。
最初に彼女が座ったのは、15歳になる1ヶ月前であった。
聖印が刻まれた、その日。
クララは、まだ大きくて身に合わない白い胴衣に身を包み、銀の椅子に腰掛けた。
多くの従者、多くの観客、多くの見慣れぬ『教会』の人間。
上がる歓声が、怖かった。
「クララ」
傍らで、生まれた時からの相棒が囁く。
「笑って見せろ。手を振るのだ――ここに、『クララ』が、聖印が生まれた事を、示すのだ」
「……」
小さな手を上げる。
それだけでまた、割れんばかりの歓声が響いた。
やはり、怖かった。
クララは『帝都』の自分の部屋で月に向かって祈りを捧げていた。
――悩んだ時は、こうするのが一番だと、昔誰かが言っていた。
昔、それはもう二十年も前のことになるのだろうか。
時間の感覚は昔から曖昧で、思い出も、記憶も、体の中にはあまり残っていない。
そもそも覚えていること自体が苦手だ。
ちらり、相棒を見る。
ベルは体をくるりと丸めて、ベッドの上を占領していた。
寝ているのか、起きているのか。
ふいに、部屋の中に影が落ちた。
「……!」
慌てて振り返る。
「えっ……」
そこには、月を背負って少年が窓際に座っていた。
銀色の髪、ゆったりとした服が、冷たい夜風に煌いている。
「クララや。話に聞いた通り、なんと熱心な子か」
言葉すら白く輝いているようで。
「天使様?」
見たままの感想を呟けば、少年は穏やかに笑った。
「聡い子じゃ。……のう、クララや」
「はい」
「明日の晩、わしと食事をしよう。椅子を用意して待っている」
「椅子」
脳裏に、銀の椅子が思い出された。
「リゼアスタとシューウィも来る。不安か?」
――顔に出ていたのだろう。
クララは首を横に振った。
「天使様」
「うん?」
「ベルを、連れて行っても、いいですか」
「良い。……ただ、好ましい結果になるかはわからん」
「好ましい、結果?」
「ああ」
少年は、目を細めた。
月の影が濃くなったような錯覚を感じる。
「それでもよければ、連れておいで。明日この時間、この窓に迎えを寄越すよ」
「天使様」
「うん?」
「……いいえ。楽しみに、お待ちしております」
「ああ。おやすみ、クララ。良い夢を」
少年は告げるや否や、ふっと窓から飛び降りた。
しかし、クララはそれを目で追ったりしない。
――きっとお戻りになったのだろう。
相手が天使なら、窓から降りたところで何もありはしない。
服を脱ぎ、寝床に潜り込む。
ベルは鬱陶しそうに一度身動きしたが、それだけだった。
服は修祓者の白い胴衣しか持ち合わせていない。
――食事を何処でするかは分からないが、ドレスの一つもあった方が良かったのだろうか?
そんな事を考えながら待っていると、確かに昨日と同じ時間にそれはやってきた。
「何だ?」
ベルは丸い瞳を窓に向けた。
やってきたのは銀色に輝く梟であった。
「これは――魔法でも聖印の力でもない……!?」
「天使様のお迎え」
「何? 天使……?」
梟は首を忙しなく回している。どうやらこちらの出方を待っているようだ。
クララは訝しがるベルを抱き上げる。
「準備は出来ております」
梟は小さく鳴き、窓より飛び立った。
「ん」
クララは何の迷いもなく、窓枠に足をかける。
「ちょ、ちょっと待てクララ! 何で飛び降りようと――」
ばたばたとベルが暴れるが、彼女の意思は揺らがなかった。
「んっ!」
胴衣を翻し、クララは三階である自分の部屋から無事に着地した。
――修祓者たる自分が人間と違う事は知っている。
だから『この程度』の落下、なんでもない。
「お、おてんばな事を……! それもこれもあの下賎な者の所為だ!」
わあわあと騒ぐ相棒を、クララは無視した。
今は、銀の梟の方が大事だ。
――多分、この導きは、きっと、私の運命を大きく変えるのだ。
クララの心は逸っていた。
銀の梟は時にふわりと宙で舞い、彼女が追って来ているかどうかを確かめる。
まるで本で読んだ迷いの森から出ようとする少女のように、クララはただ走った。
「クララ、クララ!」
ベルが叫ぶ。
「裏道だ、こんなところに入ったら危ない」
「どうして?」
「『帝都』といえど、近隣から裏家業の者が入ってくる――だから、ここに入るのは」
「そんなの心配しなくてもいいさ、子猫ちゃん」
クララは視線を上げた。
そこには褐色の肌の女性――だというのに声は男性であった――が腕を組んで立っている。
その様子はまるで絵本の中の魔女だ。
「クララちゃん、で間違いないかな?」
「はい」
「よろしい。では、行こうか」
彼――彼女?――はクララに手を繋ぐように仕草で示し、彼女はベルを降ろした。
「魔法の匂いがするぞ。貴様、何者だ」
「自己紹介は後ででもいいじゃないか、子猫ちゃん? 次に迎えに行かなきゃいけないヤツもいるんだ、大人しくクララちゃんの足元にくっついてな」
彼女――彼?――は手にしていた長い杖で石畳を叩いた。
「陽よ、月よ、風よ、連なり給え。ファウストの名から、ファウストの名まで我らを送り給え」
ふわり、風が起きる。
きらきらと、雪のような粒子が彼らの周りで踊った。
「目を瞑りな。酔ってしまうからね」
言われたとおり、きゅっと目を瞑る。
とたん、まるで大量の水を被せられたかのような圧迫感があった。
だが、それも一瞬。
「ついたよ、さあ」
件の魔女は細い指で扉を指し示した。
何の変哲もない木の扉。
クララはそれを、無言のままに押し開けた。
目の飛び込んできたのは大きな円卓。
「やあ、クララ。来てくれて嬉しいぞ」
奥の席に昨夜の天使は座っていた。
「まあ、お座り」
「……」
用意されたその椅子は、質素な木の椅子であった。
――だが、確かに、この椅子は自分のために用意されている。
クララは一番入り口に近い席に座った。
そしてゆっくりと辺りを見回す。
窓のない部屋だ。
灯り石が控えめに部屋を照らし、品の良い調度品が目立たない程度に部屋を彩っている。
「まだ全員が揃うまで時間がある。……何か飲むかのう」
「……」
喉は渇いてはいなかった。
ただただ、緊張していた。
それを見抜かれたのか、天使は笑って「十五代目や、水を持ってきてくれんか」と発した。
「はい、フェインサマ」
はっと見ると、中性的な顔立ちの少年がクララの脇に立っていた。
持っているのは大きな瓶だ。
「お注ぎ致しマス。そのままデ」
彼は優雅にクララの前にグラスを置き、水を注いだ。
「ありがとう……」
「イエイエ」
口をつけると、ほのかに薔薇の香りがした。
「あ……ベル、えっと、この子にも何か」
「構うな。何もいらない」
ベルは不機嫌そうに円卓にかかったクロスの向こうに消えた。
「ベル?」
「……どういうつもりだ、堕天使」
――くすり、妖艶な笑みがあった。
それは目の前の少年から漏れたものだとは考えられないほどに、老獪な響きであった。
「そう怒るな。お主が主人を守りたいと思う気持ちは分かるが、何、捕って食ったりはせんよ」
「はぐらかすな……」
「食事さ、ただの。お主にも用意するように頼んだ。気を楽にせんか」
「……」
ベルの姿は見えない。
しかし、複雑な感情はクララの身にもはっきり分かった。
重く張り詰めた空気が部屋を満たして――
「シューウィサマがいらっしゃいまシタ」
「!」
クララははっと立ち上がり、入り口を見た。
そこには黒い礼服を着た――それが不思議と似合っている――シューウィが立っていた。
「おう、クララ」
「シューウィ」
彼は「何だ、そんな顔して」と不思議そうにしながら、彼女の左隣に座った。
「ベルはどうした? いねぇのか?」
「テーブルの下」
「ふうん?」
シューウィが覗こうとした瞬間、「いでぇっ!」と悲鳴が上がった。
どうやらベルが足に爪を立てたらしい。
「わかった、わーったよ、ご機嫌斜めなんだな」
そして、表情を正して前を向く。
「わりぃな、フェインさん。挨拶が遅れた。シューウィだ」
「構わんよ、シューウィ。ここには立場も何もない。最も、リゼアスタの使徒たるお主には酷な話かもしれんな」
「はっ……確かにな」
クララは二人の表情を交互に見やる。
――不思議な信頼感を感じた。
おそらく初対面なはずなのに。
「しかし、リゼアスタとフロネは遅れておるのう……一緒ではなかったか」
フェインと呼ばれる少年は「食事が冷めるな」と困ったように笑った。
「フロネは大食いだろ。先に食うと煩そうだ」
「違いない……もう少し待つとしよう」
どうやら、ここに呼ばれた理由を知らないのはクララのみらしい。
それを悟ると、急に恥ずかしさを感じた。
身を小さくしていると、隣のシューウィが「どうした」と声をかけてくる。
「何でもない」
「緊張してんのか?」
彼は笑い飛ばし、卓に肘をついた。
「気楽にしろよ。このじいさんは、なんていうか、多分、怖くねぇ」
「それは、分かる、けど」
「堂々としてていいんじゃねぇかなあ」
「お主は適応が早いな」
「まあな」
フェインの指摘を、シューウィは否定しなかった。
「ところで、何を食わしてくれるんだ?」
「今日はフィンロッテのヒレを入れてくれるように頼んでおる」
「ヒレ? 牛肉?」
「そうじゃよ、クララ。野菜だとペタのトマトと合わせるように言った。飲み物はコルタタワインの赤と白を用意させたが好みに合うかのう」
「……天使様。何だか、お食事が子供らしくないです、ね?」
「ふふふっ。見た目と真実は同じじゃあないんだよ、クララ」
そう言われて、内心クララは愕然とした。
――どうも、世界は見たままではないらしい。
ということは、自分の見ている「これ」とは、何なのだろうか?
誰もそんなこと、教えてくれなかったのに。
そんなことを考えていると、「リゼアスタサマ、フロネサマがおいでになりまシタ」と少年の声が響いた。
「やあ、ようやく来たか」
フェインが顔を綻ばせるのとほぼ同時に、ばぁんっと破裂音に似た音を響かせて扉が開く。
「ちゃお、フェイン!」
現れたのは鮮やかな長い桃色の髪を燻(くゆ)らせた、全裸の女であった。
「ちょっ、お前! 服、服はどうした!?」
「へ?」
フロネは自分の有様に『今気づいた』と言った様子で「ああ、そうか、初めましてさんもいるか」と呟いた。
「もっと質素なもんだって考えちゃってたわ」
彼女の体はその言葉と共に変化し、銀色のドレスを纏った。
薄明かりの中で、その銀色は眩しすぎるくらいだった。
「『同族殺しの』フロネ、参上いたしました」
演技がかった自己紹介をし、彼女はフェインの隣に座る。
「ちと刺激が強すぎるぞ、フロネ」
「やあねぇ、おじいちゃんったら」
からからと笑うフロネの後ろ、呆れた様子でリゼアスタがやってくる。
彼もまた黒い礼服を着ていて、いつもの雰囲気とはがらりと印象が違った。
「遅くなった、すまない」
「『聖者殺し』かの」
「……ああ」
表情を少し暗いものにして、リゼアスタは席に座る。
最後に、ファウストと呼ばれた彼――彼女?――が席に座り、円卓は埋まった。
「それでは、改めて。集まってくれてありがとう。わしはフェイン。この食事会の主催者にして、元天使じゃ」
――元。
それはクララに少なからず衝撃を与えた。
この目の前に座る少年は、歴史から姿を消したという『堕天使』なのだと理解する。
「それぞれ自己紹介でもするかの?」
「勘弁してくれ」
リゼアスタは無表情のまま断ったが、「あら、私は知らない子もいるのよ?」と隣のフロネが笑う。
「私は『同族殺しの』フロネ。吸血鬼よ、お嬢ちゃん」
「!」
クララは思わず拳を握った。
――吸血鬼?
そんな気配は感じなかった。おそらく、強力な力を持つのだろう。
クララが見つめると、フロネは柔らかく笑って「よろしくね」と手を振った。
――机の下で、ベルが震えているのが分かる。
「リーゼ、貴方の番よ」
「……リゼアスタ。『教会』の修祓者だ」
彼はそっけなく言い、「シューウィ、頼む」とさっさと順番を回した。
「素っ気のないやつだなあ……まあ、俺はシューウィ。シューウィ・アン・ミーランっていうらしいが、よく覚えてねぇ。今はリゼアスタの従者やってるよ」
そして、シューウィはクララの肩を叩く。
「……私?」
「ああ。いっちょ頼むぜ」
「……」
何を言ったらいいか、分からなかった。
いつも、どうしていたのか思い出せなかった。
「『鐘付きの』クララ」
長い沈黙の後、どうにかしてそれだけを搾り出す。
「リゼアスタちゃんの同僚なんだっけ?」
「……そう、です」
ファウストの問いも、長い沈黙の後に答える。
「無口な子だなあ。リゼアスタちゃんは意外とお喋りだけど」
「何だって? 俺が?」
「そうさ」
ファウストはからからと笑う。
「私は大魔法使いファウスト、その十四代目さ。何か困ったら私に相談してくれ」
「魔法使い?」
「そうだよ、お嬢さん」
「胡散臭い人間ばかりだ」
テーブルクロスがもぞもぞと動き、ようやくベルが姿を現した。
「下賎の者、堕天使、吸血鬼、魔法使い……ろくなものがいない」
「フェイン」
リゼアスタの呼びかけはまるでナイフの切っ先のようだった。
「ベルが何かは分かってたんだろう。何で連れてきた」
「クララが離れたくなさそうだったもんでな」
「そもそも俺はクララがここに居ること自体が――」
「まあまあ」
二人の険悪な空気を諌めたのはフロネだった。
「いいじゃない、『真実』を受け入れられるんだったら誰でも歓迎よ」
「しかし、クララは」
「その時はその時でしょ」
「言わせておけば!」
ベルは卓に飛び乗り、毛を逆立ててフロネに敵意を向ける。
「汚らわしい吸血鬼め! クララに指一本でも触れてみろ、この牙が貴様の首を」
「ああ、煩いったらない」
感情を露にし、ファウストは細い指でベルを指した。
「お喋りが過ぎるぞ。ここは食事の席だ――静かにしていろ」
刹那、ベルの姿が風船のように膨らんだかと思うと、次の瞬間には緑色の蛙に変貌していた。
「わあ」
クララはそれをまじまじと見つめる。
「蛙になっちゃった」
蛙、もといベルは自分の身に何が起きたのか分からないようで、己の姿を確認しようとぴょんぴょんと跳ねていた。
「わあお。魔法?」
「そうだよ、フロネちゃん。姿変化は、魔法使いの魔法の中でも基本中の基本さ。十五代目もこれくらいならもうできる」
「へぇえ! 凄いわねぇ。……ねえ?」
フロネはシューウィに話題を振ったのだが、その彼は背筋を伸ばして目を見開き、微動だにしない。
まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
「どうしたの」
「……魔法使い怖ぇ」
「ああ……」
――シューウィでも怖いものがあるのか。
クララは蛙になってしまったベルを摘んで、膝に乗せた。
――重さが変わっていないので、多分、本当に蛙になってしまったわけではない、と思う。
「静かになったところで食事にしよう。いいかな、フェインちゃん」
「そうしよう。腹も減っただろうしな」
フェインが「頼む」と一声かけると、あの水を注いでくれた少年が手早く細長いグラスに飲み物を注いでくれた。
陽光色の液体の中を、しゅわしゅわとか細い音で泡が踊っている。
「……高かったんじゃないのか?」
リゼアスタが声をかければ、フェインは不敵に笑った。
「祝いの席じゃ。これくらいは、な」
そして「グラスを掲げてくれい」と彼は声を改める。
「改めて。本日は集まってくれてありがとう。まずは親睦を深めるために大いに飲み、食べてくれい。乾杯」
全員がグラスに口をつける。
クララには、その味がとても美味に感じた。
しかし、飲みなれない味を飲み干す事はとでもではないが出来ない。
「ホタテのカルパッチョ、トマトソース添え、でス」
差し出された皿には薄切りにされたホタテの上に、細かく刻んだトマトが乗せられていた。
黄金色のオリーブオイルが明かりに照らされてきらめている。
「ベル、食べる?」
そうは言ってみたものの、蛙になってしまったベルはうんともすんとも反応を返さなかった。
仕方なく、クララはそれを横目に見ながら、ホタテを一切れ口に運んだ。
トマトの酸味が程よく、しっとりとしたホタテの身に絡んでいた。
「美味しい!」
女吸血鬼が顔を綻ばせている。
「素敵、こんなに大勢でこんなに美味しい食事が食べられるなんて!」
その喜びに、フェインは満足そうに笑んだ。
「フロネはわしと二人きりの時間も長かったからのう」
「その後リゼアスタが来てくれて、それでも三人。今じゃ七人よ! 素敵……」
クララは首を傾げる。
食事はいつも大勢でとる。
それは信者だったり、『教会』の人間だったり――使徒だったり。
でもそれを『素敵』だと思った事など、ない。
人間はいつもそこにいるだけだから。
――でも。
「クララ。食べた方がいい。十五代目は直ぐ下げるぞ」
「……!」
リゼアスタが話しかけてきたことに、動揺した。
彼はナプキンで口を拭き、「どうした」と目を細める。
「……魚介が苦手だったか?」
「ううん。好き嫌い、ない」
クララは慌てて残りを食す。
「急がせんなよ」
「すまない、そんなつもりは……」
「お前はもうちょっと、おじょーひんに食えって」
「……反論できない自分が悔しい」
シューウィとリゼアスタが親しげに話している。
何処に耳を向けても、楽しそうに会話がある。
それは彼女にとって、異様だった。
でも、心地よい。
食事を楽しく感じる。
「皆様、ポタージュをお持ちいたしまシタ」
次の皿は深みがあり、そこに黄色の湖が広がっている。
どうやらカボチャのようだ。
「パンは柔らかイものと、固イものがありまス。どちらがよろシイですか?」
「どっちも貰うわ」
フロネが楽しげにしている横、リゼアスタは「固い方が好きだ」と冷静に伝えている。
「俺は柔らかい方が好きだな。クララ、お前は?」
「……私も、シューウィと一緒」
「ハイ」
焼きたてのそれは手にしただけでへこんでしまいそうなほどで、千切ると豊かなバターの香りが広がった。
カボチャのポタージュは甘く、パンのバターとよく合う。
「美味い。腕を上げたな」
ファウストが褒めれば、十五代目だという少年は嬉しそうに笑った。
「これからお前にいろいろと任せても良いかな」
「ハイ! 嬉しいでス」
「うん」
ところで、とファウストはフェインに視線を投げた。
「そろそろ話してくれてもいいんじゃないか、フェイン、ちゃん?」
「わしは食べ終わってからでも構わんが」
「私はせっかちだからな。聞いてしまいたいよ」
「よかろう」
フェインは上品な仕草で口を拭き、円卓を見回す。
老獪な瞳で。
「ここに集まってもらったのは他でもない。『真実』について、受け入れてくれそうな面子を集めた」
「『真実』?」
クララが聞き返せば、フェインは何故か心配そうに微笑んだ。
「そうじゃよ、クララ。これから、わしはこの世界の『真実』を伝える」
「……真実」
何故だろう、それはとても脆く、恐ろしく感じられた。
「怖いの? クララ」
自分の名を呼ぶ女吸血鬼があまりにも優しく見え、気持ちが、信念が揺らぐ。
――吸血鬼はもっと怖いものなはずなのに。
膝の上で、ベルがけろけろと鳴いていた。
「大丈夫」
聞こう。
自分の意志で決めよう。
――今ここにベルが『居ない』以上、自分で決めねばならないのだ。
「この世界は『神』に支配されている」
フェインはそう告げた。
「そりゃそうだろ」シューウィは肩を竦めた。「『神』は万物を創りたもう万能の存在なんだから」
「そこが間違いなんじゃよ」
少年の姿をした元天使は、形の良い唇に己の人差し指を立てた。
「『神』は万能ではない。この世界を創った神は、人間が思うほどに強くも有能でもない」
「言うねぇ」
ファウストは大声で笑った。
「あんた、元とはいえ天使なんだろう? いいのか、そんな風に悪口を言ってしまって」
「何故かは分からんが、人間の身に堕とされた以上の罰はないな。もっとも、この話を聞いて怒り出したり、嘘だと決め付けられたりすることがほとんどで、お主達のように静かに話を聞くものなどほとんどおらんよ」
「へぇ……」
フェインは「ああ、食事は続けてくれ。わしの話は聞いてくれればそれで良い。相槌は結構じゃ」と次の食事を持ってくるように十五代目の少年に合図する。
「『荒れ海の宝』、鯛のポワレです。ハーブとレモンソースを添えマした」
「ああ、あの」
リゼアスタは事も無げにそれを食べ始めた。
彼はとっくに『真実』とやらを知っていて、フェインの話も流し聞いているだけなのだろうとクララはぼんやりと思った。
――私は、聞き逃すことが出来ない。
そう思うと、なかなかナイフを持てなかった。
白ワインがグラスに注がれ、向こう側に少年の端整な顔立ちが見えている。
「『神』はこの世界を完璧に統治するだけの力をもたん。故に、一つ、この世界にルールを作った」
「ルール? そんなもんがあるのか。生きてて気にしたことはねぇが」
「刷り込まれてるんじゃよ。それこそ、存在を許された時からな」
フェインは優雅に食事を進め、十分に間を取ってからぽつりと言う。
「争いを常に起こし続け、人間の数を一定以下に抑えること。それがこの世界のルールじゃ」
「……なにぃ?」
「絶対数が少なく、しかも行いが限られていれば統治も把握もしやすかろう?」
「いや、そこ、そこじゃねぇ! 争いが、『神』の手によるもの、ってこと、かよ?」
「そうじゃよ」
あっさりとした肯定。
「……」
それっきり、シューウィは黙ってしまった。
気分を害したわけではなく、深く深く考えているように見える。
「フェインちゃん。つまり、何だ。今起きてる戦争も、大昔の戦争も、『神』が起こしたということかな」
「流石に全てとは言いきれんが。人間は、相手を屈服させたがるし独り占めしたがるじゃろう?」
「ごもっとも。そこに反論は出来ない、が――」
魔法使いの細い指が、とんとんと卓を叩いた。
「今やってるアーロウとキリシナ間のは?」
「天使の介入があったと見ているがな、わしは。アーロウがキリシナに拮抗しているなど、数年前から考えればありえん。皆、不思議と受け入れているがな」
「そうかい」
納得がいった様子で、ファウストは食事に戻る。
「この世界はいつだって争いだらけだ」
リゼアスタが呟く。
「長く生きてきて、戦争がなかった期間なんてなかなかない。いつでもどこかで人々が争っている」
「その殆どが、『神』が人に課した争いなのよ。それって、酷いと思うな、って」
「……でも」
クララは意を決して言葉を放った。
「『穢れた魔物』に殺される人の方が、多いと思う……かな……」
「クララは聡いな」
フェインは満足そうに笑った。
「クララ、聖印は何処から来る?」
「……神様から刻まれる、物」
「そうだな。では、『穢れた魔物』の最上位、吸血鬼の血の証は何処からくると思う?」
「……」
――その答えを、言ってはいけない気がした。
クララは俯き、蛙になってしまった自分の相棒を撫でる。
蛙はけろけろと鳴き続けていて、多分それは「答える必要はない」と言っているのだと思った。
――しかし、答えなければ、ここにいる意味がないと悟っていた。
「神様が、吸血鬼にしてる、の?」
「……」
リゼアスタの溜息と、フロネの「わぁ」という小さな歓声が重なった。
「その通りじゃ」
「ってことは、何だ。『穢れた魔物』と『教会』の対立も、人間が『穢れた獣』に害されるのも、『神』が決めたってことになるのか」
「ああ」
「……」
シューウィは白ワインを一気に飲み干し、隣の修祓者を睨むように見つめた。
「リゼアスタ」
「何だ」
「俺の正気を奪ったやつは『神』から『血の証』を貰った、らしいんだってな」
「ああ」
「……全部、神の手の上ってことで、いいか?」
「その通りだ」
「……なるほどねぇ」
彼は不敵に笑って、「お前の使徒で良かった」と小さく呟いた。
「これが世界の真実、神の残酷な所業よ。人々は苦しみの渦中に巻き込まれたまま、どうする事もできない」
「……天使様。私に、私達に、何をさせたいのですか」
細い体は震えていた。
先に進むのが怖かった。
それでも言葉は零れ落ちる。
「この世界を『神』の手から救いたいんじゃよ」
「漠然とした目標だな」
ファウストが辛辣な言葉を紡いだ。
「具体性が何もない」
「お主にはリゼアスタとの約束があるんじゃろう? それさえ進めてくれればいいんじゃ」
「なるほど、それはそれは実に簡単だな」
くつくつと笑うファウストからは、余裕すら感じられる。
「私の自分勝手な研究でいいならいくらでも提供してやる」
「助かる」
「礼を言われる覚えは無いな。まだ、何も成し遂げていない」
話が一度落ち着いたのを見計らってか、十五代目は次のメニューを出した。
「クララサマ、お食事が進んでいないようデスが」
「あ」
とうとう魚に手をつけずに終わってしまった。
「オ嫌いでしたカ?」
「えっ、その……嫌いじゃない。ただ、食べ損ねて」
「後で猫ちゃんにでも上げるかい? 何も食べてないだろうからね」
ファウストの提案に頷いた。
「その蛙――じゃない、猫は神造物だから食べなくても済むだろうが」
「リゼアスタちゃん、クララちゃんに冷たいなあ」
「俺は、……信用していないだけだ。気を許した後に斬りたくない」
「ふふん」
――きっとリゼアスタの指摘は正しい。
クララは彼の顔を見つめた。
――私は、ここにいる人間の中で、一番、理解していない。
この用意された椅子の重大さを。
「事を考える時ニハ、甘いモノデスよ」
そう言って差し出された浅いグラスの中には、黄金色の輝きが盛り付けられていた。
「これは?」
「東方のお茶を氷にしたモノです」
「……?」
一口含んでみると、ハーブとは違うさわやかな甘さがした。
「美味しい」
「それは良かっタ」
この甘味が一度この場の雰囲気を和らげたように思えた。
クララは食事を進めながら、周りを観察する。
――吸血鬼は普通に食事をしていた。
その視線に気づいたのか、彼女はにっこりと笑う。
それがいっそ美しい。
「そろそろお肉でしょ? 楽しみー」
「少し話を聞く体制は取れんのか、フロネ」
「何度も聞いたのよ、私は」
彼女は頬を膨らませて、不満感を露にした。
「いざとなれば話を聞かない子は殺すつもりだったし」
その冷たい言葉は、ごく当たり前に発せられたためにクララの神経に届くまで時間がかかった。
――彼女は見た目以上に冷淡で、無常で、他人に無関心なのだ。
今クララは『他人ではなくなった』、それだけのことである。
「ヒレステーキの山葵添えをお待ちイタしましタ」
「ワサビ?」
差し出された皿には、大振りの牛肉。
香ばしい匂いがするソースがかかっているのだが、それが何か分からない。
「山葵というのは、東方の果てにある国特産の香辛料ですヨ。この緑色がそうデス。辛いので少しずつつケテください」
「ふうん? ねぇクララ、辛いの大丈夫?」
「わ、私――」
急に話しかけられて面食らう。
「何でも、食べれ、ます」
「意外」
彼女は満足そうにステーキを切り分け、緑色のそれを少しつけて口に含んだ。
「あっ、辛い。それにこのソース、なあに?」
「醤油という、これも果てから来たもノです」
「美味しいわ」
「ありがとうございマス」
その隣のリゼアスタは黙々と食している。
クララからすれば彼が饒舌に喋るところなど想像がつかないのだが、「ねー」と女吸血鬼に同意を求められて「ああ。辛いのもいいな」と答えているところを見るに、随分彼女との食事に慣れているようだった。
ファウストを見ると、彼――彼女?――のナイフはあまり進んでいない。
「……ああ、私は肉はそんなにね」
「ご、ごめんなさい」
「いや。クララちゃんはわりと目で語るタイプだな。嫌じゃないよ」
「目で?」
「そう」
十五代目に「ありがとう、後でゆっくりいただくよ」と皿を下げさせ、ファウストは水を飲む。
「後、私は男でも女でもないよ」
「ご、ごめんなさい」
「いや。気になっていそうだったから」
小さく頷くと「まあ、クララちゃんの思う方でいい」と微笑んだ。
「やっぱ肉だぜ肉。高級肉うめぇ」
「分かるわーその気持ち。この牛だったらまるまる一頭いけるわー」
「この食いしん坊共め」
フェインは豪快に笑う。
「食は人間を豊かにする。会話は繋がりを生む。食卓を囲む事はその両方が出来る、素晴らしい文化じゃよ」
「……そう、かな」
言葉が喉から滑り落ちた。
フェインはそれを丁寧に拾い上げ、「どうしてそう思う?」と返す。
「お食事は美味しくても、会話は……」
「賑やかさは嫌いかの」
「違うんです。初めてだから、こういう、食事。いつも、誰も話さないし、笑わない、から」
「ああ……お前はいつも使徒に囲まれていたからな」
リゼアスタの青い目が、自分を冷たく見ている。
そこには、不信感に似た素っ気無さが宿っていた。
「だったら今は羽目を外して騒げばよいよい。十五代目、赤ワインを頼む」
「ハイ」
グラスに注がれたのは、赤褐色の液体だった。
確か、コルタタワインと言っていただろうか。
「うむ、美味じゃ。コルタタは前のわしが住んでいた場所でな」
「引越したのか?」
「わしは神によって人の身に堕とされた後、人の生の中で転生を繰り返していてな。もう長い間、多くの人生を経験してきたというわけじゃな」
「ほう……」
「コルタタは今でこそいい畑のある町だが、昔は干ばつが酷くてな、周辺とのいざこざが絶えなかったんじゃよ」
「……」
シューウィはワインを一口含んだ後、眉間を摘んだ。
「……なあ、その干ばつって」
「想像通りだ」
「はぁあ……」
残りの赤を全て飲み干して「俺はどうすりゃいいんだ?」と彼は堕天使に尋ねる。
「お主の目的に向かってくれればそれでいい」
「そうかい。大助かりだな」
クララもそれを飲むと、強い渋みを感じた。
「ねぇねぇリーゼ。普通の『教会』の聖職者はお酒飲まないって本当?」
「ああ……思考を鈍らせるからな。『教会』の聖職者は冷静な判断と慈悲を求められるからな」
「聖印持ちは酔わないものね」
「酒じゃあ、な」
「んっふー。愛に酔っちゃう?」
「茶化すな」
――やたらと仲が良さそうだった。
リゼアスタは二百年以上を生きているらしいが、この吸血鬼とはいつ出会い、どのくらいの時間を過ごしてきたのか。
少なくとも一朝一夕の関係には見えない。
「そろそろかと思いましテ、フルーツをお持ちいたシマした。本日ハ、メロンとイチゴ、グレープフルーツを用意しましタ」
「いいねぇ」
緑、赤、黄色が美しく並んでいる皿が置かれると、真っ先に反応を示したのはシューウィであった。
「シューウィちゃん、もしかして甘いもの好きかい」
「ああ、好きだ。この後デザートは期待していいんだろうな?」
「お任せくださイ」
「よっし」
言いながら、シューウィは嬉しそうにイチゴを食べた。
その横顔が何だか子供のようで、ちぐはぐさを感じさせる。
「知ってるか? 先に甘さ控えめのフルーツが来るのは、次のデザートをより甘く感じさせるためなんだぜ」
「ほんとに好きなのねぇ」
「こういうくだらない知識が最後に残るとか考えたくねぇけどな」
そう言いながら、しかしやはり顔を綻ばせてメロンを切り分けている。
「クララも次のデザートのためにも食べた方がいい、美味いぞ」
「え? う、うん」
「いらねぇなら貰う」
「た、食べる」
「だよな」
「そんなに欲しいなら俺のをやろうか」
「いや、リゼアスタ、お前もちゃんと食った方がいい。デザートあんだからな」
「お前なんか、めんどくさいな……」
「まあまあ、意外な一面が見れるのもいいことじゃろう」
フェインは滲み出る笑いをこらえられないようだった。
それだけ、シューウィの『意外な一面』が与えた印象が大きかった。
「デザートはチョコレートのムースにしまシタ」
「うひょー。この添えてあるアイスクリームってバニラ?」
「ハイ」
「上に乗ってるのは煮リンゴだよな? ソースは――ベリーか?」
「流石でス」
「うし」
「本当に好きなのねぇ」
フロネの柔らかな呆れ顔を見て、脳裏に蘇るものがあった。
「……カヌレ」
「あん?」
「カヌレ。アンドロレイア教会で作ってる、甘いもの」
「ああー! あれもうめぇよなあ……俺はどちらかというとしっとりしたのが好きだ」
「何それ?」
「幾つかの教会で作っている菓子じゃな。蜜蝋やバニラを使ったケーキのようなものでな」
フロネの疑問にフェインが答える。
「アンドロレイア周辺では良く作られておる」
クララは頷いた。
――甘い匂いが漂う教会は嫌いじゃなかった。
多くの人間と使徒とが、周りの村々に配るために焼き上げる光景は、絵に描かれるほど美しいとされている。
そんな事を考えていると、何だか恋しくなってきた。
もう二十年帰っていないのに。
「ああ、美味い。チョコレートの甘さとベリーの酸味がいいなっ! リンゴもしっかり柔らかくて、香辛料もほのかに香って……いいなっ!」
「照れマス」
思考を切り、クララもデザートに手をつけた。
チョコレートは飲んだ事しかなかったが、こうしてムースになっているのも新鮮で美味しい。
どれもこれも手の込んだ料理だった。
作り手の顔が見える、というのか。
『教会』で食べる食事とは何もかも違う。
――あの食事は、味気ないのだ。
そう素直に思えた。
「幸せそうな顔しちゃってさあ」
フロネは十五代目に「あ、私、紅茶ね」と言いつけた。
どうやら、この『楽しかった』食事会も終わりに近づいているらしい。
「俺も紅茶で」
「お前ら分かってねぇな、コーヒーだろここは」
「私も紅茶を」
「わしも」
「分かってねぇな!」
隣でシューウィがあんまりにもコーヒーを押すので、クララはそちらを頼んだ。
「お待たせいたしまシタ」
漆黒が溜まった白いカップからは湯気が立ち上っている。
クララは冷まそうと息を吹きかけているというのに、隣の男は事も無げに飲んでいた
熱いという感覚がないのだろうか。
――もっとも、クララとて火傷したところで直ぐ治るのだが。
「何はともあれ顔合わせも上手くいってよかった。それぞれ協力してくれると嬉しい」
「自分の好き勝手にしていいって言われただけのような気がするが」
「それは貴方達が他の人間に『真実』を伝えてみれば分かるんじゃないかしらね……」
「ふむ」
フェインやフロネからは、ただ食事をしただけでも嬉しいという感情が見えた。
だがリゼアスタは黙ったまま、紅茶を飲んでいる。
そこに感情は見えない。