「……よく聞こえん。もう一度言ってくれないか?」
わざとらしい返答だった。
きっと、聞き間違いだと言うことにしたいのだろう。
「使徒を元の人間に戻せないか、と聞いた」
その男は、青年と評するには少し落ち着きすぎていた。
茶髪の奥の青い瞳が、真っ直ぐに『我が師』を見ている。
「馬鹿な話を。そもそも、使途は人間だろう」
「だが、貴方の先代はやってみようと言った」
――先代。
大魔法使いファウストの十二代目。
その葬式がひっそりと行われた後、この男は来たのだ。
「私も『我が師』にその話は聞いた。しかし、一向に動きはない。出来るはずもない。だから、馬鹿な話だと」
「それでも、何とか続けてくれないか」
「どうして聖印持ちのアンタがそんなことを言うのかは分からん。分かりたくもない。いいじゃないか、健やかで正しい精神と丈夫な体。幸せなことだよ」
「……」
男は目を細め、大きく溜息を吐いた。
「また来るよ。俺は、諦めの悪い男だから」
くるりと背を向け、家から去っていこうとする彼を、外で呼び止めた。
「修祓者!」
無視されるかとも思ったが、彼はあっさりと振り返った。
「君は」
「十四代目だよ」
「そうか」
彼はしゃがんで、目線を合わせてくれた。
「俺に何か?」
「どうして、使徒を元に戻したいの」
「……」
修祓者は目を瞬かせ、「聞いてたのか」と呟いた。
「だって、私もファウストになるんだから、聞く権利があると思う」
「そう、そうか」
彼は大きく呼吸した。
「無理だとは思っている。でも、……でも、自由を、取り戻したくて。人が人である、その理由(わけ)を取り戻したい」
「自由」
自分の鼓動が早くなるのを感じた。
「私がそれ、やってあげるよ」
「うん?」
「私が、使徒を人間に戻す方法、探してあげる」
また修祓者は青い瞳を白黒とさせて「君が?」と信じられないように言う。
「だって、私は大魔法使いファウストなんだから」
「……そうか。ありがとう」
彼は立ち上がり、「また君に会いに来る」と頷いた。
その姿が森の向こうに消えるまで、『私』はそれをずっと見つめていた。
目を覚ますと、香辛料の匂いに包まれていた。
それが体をゆっくりと覚ましてくれる。
身を起こして毛布を取ると、途端に空腹を感じた。
「……」
窓から注ぐ光はなく、まだ世界は夜明けを待っている状態だ。
「聖印持ちは夢を見る、ね」
これがリゼアスタの日常であれば、なんとすっきりしない眠りか。
しかし今の夢の主は。
「おはよう、シューウィちゃん」
巨大な鍋を持って現われたのは、ファウストであった。
どうやら朝食を作っていたのは少年ではなくこの十四代目の方であるようだ。
「ふふ、その様子じゃ私の魔法は上手く作用したようだね」
「……やっぱり、あれはお前の記憶か」
「そりゃあ他人の記憶なんて簡単に手に入らないからね」
ファウストは机に鍋を置き、「熱よ熱よ」と呟きながら混ぜた。
「私にとってもリゼアスタちゃんとの出会いは印象的だった。だって、使徒を元に戻そうとするなんて思ってもみなかったから」
「そりゃ、そうか」
「だから研究したよ。使徒が何たるかを。彼らの精神、体、行動理念、聖印の効果――まあ、一つとして取っ掛かりさえ見つかっていない状態だけれど」
彼は笑って「でも、使徒か使徒じゃないかを見分ける魔法は出来たんだ。昨日のようにね」と目を細めた。
「ああ……リゼアスタちゃんに報いたいと思っているんじゃないよ。これは私の自己満足であり、十三代目と十二代目超える意味しか持たない」
「なるほどな」
シューウィは何となくこの魔法使いを掴みかけている気がした。
それは先程まで見ていた夢のおかげかもしれなかったが。
「さあ、朝食を食べて涙砂を取りに行ってくれ。私は二人の帰りを待っているからね」
「おう。……フロネは?」
「そういえば」
シューウィが「見てくる」と言えば、「外にいるんじゃないかとは思うけどね」と返答があった。
扉を開けると、ソレが耳を打った。
「……歌」
屋根の上を見る。
そこには闇の中、鮮やかに浮かび上がる銀のドレスがあった。
吸血鬼、その本性は本当に美しかった。
「フロネ」
彼女は微かな声で歌っていた歌を止めて、シューウィを赤い瞳で見る。
「ああ、もう起きたのね」
「飯が出来たとよ」
「やった、お腹空いてたの!」
ふわりと重力を感じさせない動きで、フロネはシューウィの隣に降り立った。
「お前、血は?」
「あは」
彼女は妖艶に笑う。
「我慢できるわよ」
「そう、なのか?」
「私はリゼアスタ以外から血を貰う気なんてないもの。気遣ってくれてありがとう」
まるで母親が子供にするように、頬にキスをされた。
とたん、脳裏に飛来する「彼女」の記憶。
――シュウ、ありがとうのキスよ。
「どうしたの」
「……ちょっと、思い出した」
「今ので? やだ、シューウィったら、もてるのね?」
「そ、そんなんじゃねぇよ……」
追求されそうだったので、視線から逃げた。
――緩やかな追想も、その動きで零れ落ちてしまったが仕方ない。
中に戻ると「さあさあ、さっさと食べたまえよ」とファウストが椅子を勧めた。
鍋には意外にも色とりどりの見たことのある野菜が煮込まれていて、まともに見えた。
「パンもあるが」
「あ、私欲しい」
「俺も」
「大食共め」
暫し、賑やかな食事が続いた。
ファウストは作った本人の癖に、スープの汁しか飲んではいなかったが。
少年の方はスープの具を選り分けてファウストに叱られていた。
――これだけ見れば親子に見えるのだが。
「腹に溜めるのは程々にな。転送魔法は体に圧迫がかかるから」
「おう」
言われるまでもなかった。
正直、魔法使いのことは理解できても魔法のことはまったく信用できない。
それでも食卓の全てを平らげ、フロネとシューウィは身支度を整えた。
「ではでは、動かないでくれよ。腕だけ転送失敗とか嫌なんでね」
「こっちこそ願い下げだ。この前腕が取れたばっかりなんだからよ」
「貴重な体験談どうも。では――」
ファウストは両手を天へと掲げた。
「陽よ、月よ、風よ、我が名に重なりて応えよ。霊峰プロメテス、その頂の嘆きの石へ、その身を送り給え」
とたん、視界がきらきらとした粒子が飛び交った。
「それでは、良い旅路を」
その声がしたと思った刹那、体に強い圧迫を感じ、思わず口を覆った。
吐くかも、と頭に過ぎった後「わおっ」という明るい声に顔を上げる。
「なん……」
言葉を失った。
そこは既に森ではない。
強風の吹きすさぶ山の上だ。
風が大気を切り刻む音が、耳に痛い。
「見て、雲が下のほうにあるわよ」
「……俺、思うんだが」
「うん?」
眉間を指で押さえる。
「山の上って、こう、気分が悪くならないか? 急に高いところに行くとっつーか……」
「ああ、あるらしいわね、人間には」
「確か……そう、あれはウガの奴がどっかの山に入り込んだのを追ってた時、二時間も歩くと呼吸がしにくくなってだな。気持ち悪くなって……」
「あるらしいわね」
「で、今それを凌駕するあほみたいな高度にいるわけなんですが」
「ええ」
「俺の体が正常なのは、何で?」
「そりゃあんたの体が使徒だからでしょ」
「ですよねぇ……」
誰が殆ど人間だ、と毒づいた。
この身は確実に使徒へと近づいている。
「だからこうして活動できるんじゃない、今は感謝しなさいな」
「へーい」
シューウィは辺りに視線を走らせる。
出発する前はまだ夜明け前だったのに、ここはもう青空が広がっていた。
ずうっと向こうまで続く青に目を奪われる。
雲は視線の下にあり、時折鳥の声が聞こえてきた。
「うん?」
ふと振り向くと、山の頂にはシューウィの長身を超える高さの石碑が建っていた。
「ええっと……」
刻まれている文字は掠れて読みにくかったが、何とか解読する。
「……神が人間の業を嘆いて落とした涙が七晩の雨になり、大地を濡らし、多くの命を流した。それを教訓とせよ、それを警告とせよ、それを神の嘆きとせよ……」
「霊峰プロメテスの言い伝えね。昔、この山を中心として大雨が降って、それで洪水が起きて、それが神罰ってことで『教会』はこの山を霊峰と定めてるのよ。神の涙が落ちた場所として。……確かね」
「……」
その話を聞いたことがあるような気がした。
しかし、思い出せない。
「それで……目的の物っつーのは?」
「ああ、そうそう。涙砂。この山頂にある鉱物って話だけど。真っ白らしいわよ、ノア鋼の色」
「うっす」
二人は手分けすることにしたのだが、フロネは時折「わー綺麗な石ー!」等と興味を他に奪われているようで、本気で探しているように見えなかった。
「まったく……」
目を凝らしながら、白い鉱物とやらを探す。
大体その金属がごろっと落ちているわけもなく、岩から覗く僅かな輝きを見逃さないようにしなければいけない。
リゼアスタの剣を作るとなれば、量もそれなりに必要だろう。
――持って帰る際の重量がとんでもない事になりそうであった。
フロネに持たせればいいと思っていた直後、視界の端にきらりと光る物を見つける。
「これか……?」
拳大の大きさの石に、まるで菫の花のように白い金属が突き出していた。
「綺麗だな」
金属の花弁は、触れれば指が切れそうなほど、鋭く白く光っている。
「フロネ、おーい。多分これだと思うんだ――が――」
彼女を探そうとして視界を巡らせたが、ふいに現われた影はやたらに小さかった。
――フロネではない。
そう思った瞬間に、鋏を抜いていた。
「動くなっ!」
鋭く呼びかける。
何故か、酷く、焦っていた。
その人影はびくりと振るえ、持っていた物を「あっ」と取り落とした。
地面にぱさりと落ちたのは、からからに干乾びた鳥であった。
鋏を突きつけながら、ゆっくりと『それ』を検分する。
それははっきりとした少年であった。
擦り切れた黒い服と整えられていない黒髪が気になったが、とりあえず少年であった。
「……何もんだ」
ここは高い山の頂上だ。
普通の人間が活動できるとは思えなかった。
少年はおどおどとシューウィにその丸い目を向ける。
「あ、う、……う……どう、」
「ん……?」
「どうして、ここに……?」
「そりゃこっちの台詞だろ……」
二人がじりじりと距離を測っている時、「な、何してるの!?」とフロネが間に飛び込んできた。
「って、あら……」
彼女は双方を交互に眺め、目を細めた。
「シューウィ、落ち着いて聞いて」
「何だよ改まって」
「その子、」
細い指が少年を指差す。
「吸血鬼よ」
――シュウ? どうし
吸血鬼。
その単語が、何故か、頭の中の深いところで反響する。
その一方で、心の浅いところでは次の一手を考えていた。
「……それは、間違いないのか」
鋏をくいと突き出す。
「間違えるわけないでしょ」
「……ま、そりゃそうだな」
目の前の少年――もとい吸血鬼――は、何が起こっているのか理解できないといった顔で震えていた。
それは、ごく普通の少年であるかのように。
「この子、まだ吸血鬼になってから少ししか経ってないわね」
「どれくらいだ?」
「そうねぇ、五年、いや、四年ってとこかしら」
少年の身がびくりと大きく跳ねた。
どうやら当たりらしい。
「弱っちいわよ。例え吸血鬼といえども、頭をばらばらにすれば死ぬわ」
「……」
心臓が早鐘のように強く強く打ち鳴らされる。
「……ぼ、ぼくは!」
少年は圧迫感に耐え切れなくなったのか、大声で話し始めた。
「きゅ、吸血鬼だ、ぞ!」
「……わーってるって」
「強いんだぞ!」
「今弱いって言われてんぞ」
「強いんだって!」
ぷるぷると奮える少年に、フロネはずかずかと近寄り――
「んっ」
手を掴んで捻った。
「わあああ、わあああ」
少年吸血鬼は地面に転がって喚いている。
「……ああ、なるほどね」
女吸血鬼がくいと顎で指し示したのは、先程少年の手から零れ落ちた小鳥の死骸だった。
「鳥の血を吸っていたのね」
「何でだ? 吸血鬼は人間の血を――」
「吸えないほど弱いからでしょ」
「弱いっていうなぁあああ!」
シューウィはその様子に毒気を抜かれ、「ふーん」と鋏を仕舞った。
「どうするの?」
「……転がしときゃいいだろ」
「あら、やっさしー。見逃すの?」
「『同族殺し』さんとしての意見が聞きたいな」
「殺すわ」
その言葉は、ごく普通の世間話の一つとして発せられた。
「人を害するものは、全て殺す」
「……なるほどねぇ」
で、と言葉を続ける。
「こいつ、どうだと思う?」
「そうね。保留にするわ、今忙しいし」
「え」
彼女はどこから取り出したのか、麻で紡がれた紐で少年の両手を後ろで結んだ。
「転がしとこーっと」
「ひ、ひでぇ」
「足も縛っとかなきゃ」
「わあああんっ!」
幼い悲鳴が響く中、彼女はぽつり、「人間を害さなければ見逃してあげてもいいけど」と呟きながら荒れた大地に少年吸血鬼を放置した。
「じゃ、私は続きをするから。あんたもそいつをほっといて探してね」
フロネの興味は反れたようで、少年は哀れにも放置された。
「……」
良く見れば彼はしくしくと泣いている。
手足を縛られて芋虫のようになっていれば、それも当たり前か。
「あー」
これはこれで居心地が悪い。
「……ったく。わっかんねぇな、ほんとによう……」
背を向ける。
「待ってよー!」
少年は器用に立ち上がって、ぴょんぴょんとシューウィに近づいた。
「何で人間がこんなところにいるの」
「涙砂を採りに来たんだよ」
「涙砂って、あの白いやつ?」
あれ嫌いだなーなどと言うのを無視した。
しかし、警戒は怠らない。
相手は吸血鬼なのだから。
「あんまり騒ぐと、あの女に殺されるぞ」
「……」
意外にもあっさりと少年は黙った。
シューウィは地面に転がっている石を検分し、集めていく。
――リゼアスタの剣は、長い。
彼が得物に求めているのは切れ味ではなく、聖印による炎をいかにぶつけるかだ。
故に恐らく、ノア鋼の精度は高ければ高い方がいいのだろう。
ならば、集めなければ。
フロネの言うとおり、この少年には構っていられない。
「あの女の人さ」
だというのに、少年吸血鬼はまるで兎のようにシューウィの周りをぴょんぴょんと跳ね回っていた。
「……何だよ」
一応手で邪魔だと意思表示してみるが、無駄だった。
「お兄さんの、彼女、なの?」
「まさか」
そこで、少しだけ笑いが漏れた。
――俺が、あの女吸血鬼と恋仲、などと。
不意に、頭痛がした。
――これはもう、時間がない。
ノア鋼が出来るまで、この精神はもってくれるのだろうか?
「じゃあさ」
唐突に。
「お兄さんは、従者なの?」
「……ッ!?」
鋏に手を伸ばす。
しかし、相手の方が、早い。
持ち手に手が触れた時には、少年の顔が直ぐそこにあった。
「っつああ!」
衝動に任せて、身を捻る。
がちんと、不穏な音が耳元で聞こえた。
「……こいつ!」
今度こそ、鋏を抜いた。
少年は牙を剥き、にっと笑っている。
手足が拘束されているというのに。
「あの女の人が吸血鬼だっていうのは分かってたから……離れるのを、待ってたんだよね」
「うそ、だろ」
フロネの吸血鬼の気配の消し方は尋常ではない。
だというのに、この少年には分かったと言うのか?
「気になってたんだけど。お兄さんさあ、なんで、普通に動けてるの? ここ山の上だよ、すっごく高いところにいるんだよ?」
「……」
「従者じゃないの? 本当に?」
「答えるわけねぇだろうがっ!」
――フロネだってこの騒ぎに気づいているはずだ。
一人で戦うには、吸血鬼は強大すぎる。
ましてや古き血の吸血鬼であるフロネを欺くなどと。
だが、背を向けるわけにはいかない。
逃げるなどという愚行を犯すわけにはいかない。
「……お前まさか、ここに登ってくるやつらから血を?」
「だいせいかーい!」
少年は四肢のロープを引きちぎって、自由を得た手を高らかに打ち鳴らした。
「みぃんなばててるからさ、吸いやすいね」
「……」
頭痛が、する。
「兄様も姉様も、街中でやんやしてるけど……僕の方が頭いいと思うな」
世界が、分からなくなりそうだ。
「で、さ。僕もそろそろ自分の従者、欲しいと思ってたんだよね。とびっきり強いの。だから」
「っ!」
相手が動く。
突き出したはさみの切っ先はしかし、宙を切っていた。
「はっ」
肩に小さな手が置かれる。
悪戯をしに来た少年の顔が、睫毛まではっきりと分かるほど、傍にあった。
「お兄さん、僕の従者になってよ」
刹那、首筋に鋭い痛みが走った。
――しくじった。
フロネは自分の精神が凍りつくのを感じた。
――この私が、吸血鬼を見誤るとは。
「くふっ……ふふふ……」
笑いが漏れた。
戻ろうとした彼女の行く手を遮っているのは人型の土くれだった。
鮮血の匂いがする。
「あの子が造ったのか」
吸血鬼にも『位』がある。
攻撃が得意なものも居れば、補助が得意なものもいる。
精神に作用する力を扱うものも居れば、変身が得意なものもいる。
従者を作るのが上手いものも下手なものもいる。
こんなに独特な力を持つ吸血鬼なのだ。あの少年は多分――
「っ!」
人形が動く。
思考を瞬時に戦闘へと切り替える。
「似非従者なんかにっ!」
両腕を銀色の狼へと変化させ、飛びかかった。
「こんなもので止められると思わないでっ!」
捻りながら腕を突き出し、腰から体を真っ二つにする。
相手の動きは鈍い。結局は従者のなりそこないだ。
だが、それと違う利点もある。
「……ふん」
そいつは半分になった部分から、周りの土を集めて再生した。
上と下、それぞれに。
「血が飲めなかったのが痛いわね」
フロネも長く生きていろいろな事が出来るようになったが、それも『血を飲まなければ』発動できない。
リゼアスタが謹慎中で、その血を飲めなかったことが悔やまれた。
――相手は私を欺くだけの力を持った吸血鬼なのだから。
「仕方ないわね」
彼女の姿が吸血鬼のそれに溶け変わる。
長い桃色の髪が、風に逆らって不気味に蠢いた。
「サービスしといてあげる……!」
どす黒い穢れた力が、彼女の身から溢れる。
それは地を這い、二つの土人形をずるりと引きこんだ。
まるでアリジゴクの巣のように。
「暫らくそこで仲良くしてて」
そう呟くフロネの手は少し震えていた。
穢れた力の行使が負担であった。
――急激に、リゼアスタが恋しくなる。
再び会うためにも、今は全力を尽くすしかない。
身を二つの尾を持つ銀狼に変え、フロネは嘆きの石に向かって走った。
「シューウィ!」
そして、膝から崩れ落ちる彼を見た。
「あ」
少年がこちらに気づいて、無邪気に手を振る。
「えへへ、この人貰っちゃった」
「あ、あんた……まさか、」
「やっぱり駄目だった? これは違うって言ってたけど、やっぱり恋人だった?」
「……シューウィ! 返事をしなさい!」
少年を無視し、声をかける。
シューウィは両手と膝を地に着けて、苦しそうに浅く呼吸を繰り返していた。
表情は此処からでは見えない。
「……っ」
フロネは動けずにいた。
使徒は聖印の力を受けた存在である。ある程度、穢れた力に耐性を持っていたはずだ。
だが、シューウィは『ただの使徒』ではない。
――本当に従者になってしまったのか?
その可能性から、迂闊に近づけない。
人ではなくなった者を、人に戻す事は出来ないから。
「……くっ」
痛みの声。
「シューウィっ……!」
痛いのか、苦しいのか、シューウィの体は小刻みに震え始める。
「貴方、まさか――」
「くっ……ふふっ、ふはははははははっ!」
刹那、
「えっ」
じょきん、と刃物が口を閉じる音がした。
「ちょ、ちょっと、何んだよ!?」
少年吸血鬼が、シューウィから飛び退く。
その右足から血が飛び散っていた。
「はははっ……やっぱ、反応はえぇ……」
血塗れた鋏を手に、シューウィは立ち上がる。
「嘘……嘘でしょ……」
従者ではない。
それどころか、使徒ですらない。
彼は、『人間』だ。
「ふ、は、ははっ……やべぇ、笑いが止まらねぇ……ふふっ、くくっ……嬉しすぎて、くくっ、涙が出るって本当にあるんだな? ふ、ふふふ……あはははっ!」
鋏を手に、腹を抱えて笑う姿は狂気に満ちていた。
楽しげな表情で、シューウィは少年吸血鬼を見る。
「てめぇ……ようやく、会えたな……?」
「は? な、何言ってるんだよ」
「俺には覚えがある……いや、忘れられるわけがねぇ……くふっ、嬉しいぜ……マルディさんよ?」
「っ!」
少年は今までにない険しい顔で、シューウィを睨みつける。
「ははっ、正解、だな? いいや、間違えるはずがねぇ……間違えるわけもねぇ……」
「僕がマルディだからって、何だって」
「ずーっと会いたかったんだぜ、俺はぁっ!」
その動きは、速かった。いや、速すぎる。
「止めなさい!」
フロネは叫んだが、既に彼は少年へと到達している。
「はああああっ!」
鋏の刃はちょこまかと動く吸血鬼を確実に捕らえていた。
まるで花弁のように、赤い飛沫がちらちらと舞う。
「何だよお前、一体……!」
「シューウィ・アン・ミーラン。忘れたとは、言わせねぇぞ!」
「ミーラン!? 嘘だ、だって、ミーランは大兄様が担当で」
「ああ、そうだろうよ……俺の目の前で、アンジェ・エル・オルキデを殺し、俺が殺したはずのマルディの長男坊っ! 生きてるんだろ? はは、はははははっ! そん時には知らなかったんだよなあ、吸血鬼だってよう! でも、生きてるらしいって、聞いて……くくっ、くはははっ! そいつを、俺は、もう一度、いや何度でも殺す、殺してやる! キュリアンテールの吸血鬼共を、俺は殺す! その為に生きてきた、こうして、……くっ、は、はははははっ!!」
狂気の声でしかないそれが、シューウィのはっきりした意識から流れ出る。
「そんな……ミーラン、だなんて……」
「そうだよなぁ、びっくりするよなぁ、っは、はははっ! 霊峰プロメテス、キュリアンテールの山だもんなぁ、いるよなぁ? なぁ? 思い出せて嬉しいぜ……根絶やしにできるもんなぁっ!!」
楽しげな声ではあったが、その体が右に傾いた。
「あん?」
「っ! 煩いんだよっ、お前!」
少年吸血鬼が突き出した手を、フロネの狼の手が遮った。
「もう、馬鹿! だから止めたのよ私は!」
穢れた力を放出しながら、何事か汚い言葉を投げつけてくる少年吸血鬼を押し留める。
「貴方ねぇ、人間なのに人間以上の力で動いてどうするのよ!」
「あ?」
「人間が引きだせる限界以上の力で動いたら、体がもたないのよ! 貴方が先に動けなくなるわ!」
「……だから何だってんだよ!」
獣の様な眼光がフロネに刺さった。
「俺は、アンジェを殺した奴を殺すために生きてるんだ! 俺の体が何だってんだ、ふざけるな! アンジェを殺した奴がそこにいんだぞ、殺すなって言うのか!?」
「馬鹿、そういう意味じゃないわよ」
フロネは穏やかに応える。
「私は『同族殺し』、止めやしないわ。でも、殺すために生きるというなら、生きなさい」
「生きろって、馬鹿じゃねぇの……ははっ、こんなクソ野郎に!」
「同感だね!」
フロネの腕を振り払い、少年はシューウィに組み付く。
「従者になればそんなの関係ないじゃん!」
「てめぇらに使われるくらいなら潔く死ぬっつーんだよ!」
幼い牙が首筋を狙っているのを見て、フロネは「そのまま掴んでて!」と声を荒げる。
だが、
「手ぇ出すな!」
という咆哮が全身に打ち付けられて、行動を止めた。
「俺が殺すんだよ、お前は引っ込んでろ!」
「その状態で何、強がって」
「黙ってろッ!!」
シューウィの長身が少年の体を押し倒す。
「俺が殺すって言ってんだよぉおおおおおおおおおおおおっ!」
彼が振り上げたのは、鋏ではない。
鍔元に『教会』の印を刻んだ、護身用の短剣。
「ああああああああああっ!!」
耳を覆いたくなるような、殺意と悲しみを孕んだ絶叫。
それが、一回。
二回。
三回。
四回――
その度に短剣が、悲鳴を切り裂いていく。
死なないはずの命が、瞬く間に切り刻まれていく。
「は、ははっ、はははは……!」
「シューウィ」
「俺は……おれ、は……」
「シューウィッ!」
「……」
彼は、もはや形を留めない『それ』を見下ろした。
「もういい。そいつは、死んだわ」
復活するには、何らかの『奇跡』や『力』が必要だろう。
「……シューウィ?」
「欠け往く月」
「え?」
フロネが慌ててその表情を見ると、彼はまるで捨て置かれた人形のように少年吸血鬼だった者を見つめていた。
「歪み無き円環。憧れ、焦がれ、尽くし、啼き」
「……あ、これ……、シューウィ!」
そこから何度呼びかけても彼はただ笑ったり、詠ったりするだけで、フロネと言葉を交わそうとはしなかった。
ふと目が覚めると、足元でベルが丸くなって眠っていた。
はてクララはと探すと、リゼアスタの寝台の上で寝返りをうっている。
「……ん、と」
記憶が曖昧だ。
確かもう三日ほど、クララからあれこれと質問をされて過ごした、はずだ。
いや、一ヶ月も経っただろうか?
何も変わり映えしない生活は、時間を狂わせる。
――クララは本当にいろいろと聞きたがった。
彼女の質問に答えるのは苦ではなかった。
少しずつ変わっているのが見て取れるのは、悪くない。
――話してみるべきか。この世界のことを。
「リゼアスタ」
その声にはっと立ち上がった。
「聖下」
護衛もつけず、その最強の修祓者は『鎖しの間』にやってきていた。
「一体何の御用で」
「いやあ、そろそろ謹慎を解いてもいいでしょーって言ったら、皆納得してくれてね」
「大方、説き伏せたんでしょう」
「ははは。否定はしない。それに、君に荷物も届いていて」
「荷物?」
「ああ。エルマの森から、だって。中はノア鋼だった」
「……!」
「その反応ってことは知り合いからか。良かった、保管しておいて」
『法王』はうきうきとした様子で「次はどんな祝福にしようかな」と子供のようにそわそわしている。
「早速鎖を外すよ」
「はい」
長い法衣を引きずり、法王はリゼアスタの前に立った。
いつもの柔らかい笑顔が、当たり前のように向けられている。
「気を楽に」
「はい」
リゼアスタの首にかかる『蒼い鎖』に手を当て、法王は幾つかの言葉を紡いだ。
その意味は分からない。
きっと古い言葉なのだろうと、リゼアスタは考えていた。
鎖はするりと、まるで蛇か何かのように彼の首から滑り落ちて床に転がった。
「苦しかっただろう?」
「いえ、大丈夫です」
「そうかい」
彼は君らしい返事だなと笑う。
「なんだい、クララはお寝んね中か」
「起こしましょうか」
「いや、起こすのも忍びない。僕が運んでやろう」
そう『法王』が少女を抱き上げた時、「リゼアスタぁああ」という涙声が遠くの方から聞こえてきた。
「フロネ? い、いや、まさか」
ちらりと傍らの男を見やる。
「こんな所まで来るはずが」
「リゼアスタぁああ、お願い、来て、お願いぃいいいい」
「……」
『法王』に手早く礼を言い、リゼアスタは走った。
――こんな所にまで吸血鬼たるフロネがやってくるなんて、よっぽどの事だ。
全速力で声の元に向かうと、彼女は賞金稼ぎの姿で、もう一人の賞金稼ぎを引きずっていた。
「は?」
「リゼアスタああっ! シューウィがああ、だめになっちゃったあああ!」
「馬鹿、そんな言い方はないだろ!」
フロネはぼろぼろに泣いていた。
彼女は簡単に取り乱すほど『柔』ではない。
最強の修祓者である『法王』の力が吸血鬼であるフロネを怯えさせているのだ。
とりあえず様子を見る。
――シューウィは落ち着いていた。小さく何か詠いながら、大人しくフロネに引きずられてきたのだろう。
「何があった?」
「う、うう……ファウストにノア鋼を頼みに行って、そこで涙砂を採りに行って、そこで吸血鬼にあって、そこでシューウィがああああ」
「分かった分かった、泣くな。大丈夫だ。聖下もこっちには来ない」
「うあああ、帰るううう」
「少しだけ我慢しろ」
リゼアスタは双月のロザリオを取り出し、いつものように祝福をかける。
やたら静かなのが不気味であった。
「……シューウィ、俺が分かるか?」
「……」
ぼんやりとしていた彼の瞳に、理性の光が宿る。
「……リゼ、アスタ?」
「ああ。分かるか?」
「あ、ああ……俺、俺は……そう、そうだ、思い出した!」
シューウィはリゼアスタを真っ直ぐ見る。
それは、恐れのようにも、喜びのようにも見えた。
「思い、出したんだ……仇を、あいつを殺した仇を!」
「何?」
「吸血鬼なんだ……キュリアンテールのマルディ家、あれは吸血鬼なんだ!」
「……!」
思わず傍らのフロネを見る。
彼女は「きっと、そうなのおお」と震えながら何度も頷いていた。
「俺は――俺は殺したんだ、一度は! 一度はっ!! でも、生きてる、吸血鬼として……あ……?」
突然、シューウィは言葉を静め、愕然とした様子で「俺、今……何、を、話してたっけ……」と頭を抱えた。
「分からなく、なっちまった……なんだ、俺……」
「……大丈夫だよ」
リゼアスタはその肩を叩く。
「俺が覚えている。フロネが覚えている。……お前の復讐は、俺達が覚えている」
「……わりぃ。本当に」
「いい」
こんな消え入りそうになるシューウィの顔を、見たことは無かった。
一体何があったというのか。
「フロネ、此処から出て話を聞く。いいな?」
「うわああああ」
「分かったから。外に出よう。な?」
「リゼアスタあああ」
「分かったって」
目元を拭ってやると、幾分かフロネは落ち着きを見せた。
「う、うう……ねえ、リゼアスタ……」
「うん?」
「一つ、確かな事があるの……キュリアンテールの吸血鬼は、『血の証』を神から受け取った者よ」
「……!」
――キュリアンテールの吸血鬼。
――シューウィの仇。
――『神』と『血の証』
キュリアンテールで起きた事件は、リゼアスタの心中に濃い影を落とした。
...to be continued