「それで? 仲直りは出来たんかの」
フェインが台所で何か煮ているのをぼんやり見ながら、フロネは笑う。
「なあに、それ」
「そのままの意味じゃよ」
「仲直りって……まあ、リゼアスタは泣いてなかったわよ」
「……ふう。お前ときたら」
しわがれた指を突きつけられた。
「何の為にお前がわしのところにヤツを連れてきたのか、自分で分かってるのか?」
「分かってるわよ」
「なら今のうちに、仲良く、しておくことじゃ。でなければ、ヤツも辛かろう。――まあ」
フェインは目を背ける。
「仲良くなってもそれはそれで辛いじゃろうがな」
「えー。そんなことないわ」
フロネはからからと笑った。
「だってあいつは修祓者。私は吸血鬼。私が居なくなったほうがいいに決まってるじゃない」
「……はぁ。だから、お前というやつは」
鍋を火から下ろし、フェインはフロネと向き合った。
「いいか、フロネ。お前は何千年も吸血鬼やっとる。間違いないな」
「多分ね。昔のこと、覚えてないのよ」
「わしも同じように何千年も神に仕えていた」
「天使様だもんねぇ」
「元、な。わしもやりすぎた」
フェインの老いた小さな目に、フロネの吸血鬼としての姿が映っていた。
「お前はわしと違い、人間に触れたのはここ百年ほどじゃ。だから、分からんのだろうがな。人間はそんな簡単に物事を割り切るような綺麗な存在ではないぞ」
「もー、おじいちゃん。何が言いたいの?」
「お前はリゼアスタを甘く見すぎている」
「……大げさねぇ」
フロネは頬を膨らませた。
「大丈夫よ。きっとリゼアスタなら、この世界を『神』の手から救ってくれるわ」
「そこじゃない。そこじゃないんじゃ」
フェインは続けようとしたが、突然身を強張らせた。
「何だ――リゼアスタ?」
フロネは目を見開く。
「何、どうしたの」
「……リゼアスタの聖印が発動した。何かあったな」
「……!」
フロネは立ち上がり、姿を一瞬で代える。
二つの尾と銀色の毛並みを持つ狼へ。
「行くわ」
「わしも行こう」フェインは手早く火を落とす。「ただ事ではないな」
「特別に乗せてあげるわ。さあ、早く!」
ふわりと老人は狼に乗り、とたんフロネは走り出す。
「心配か」
「もちろん」
「ふうん……」
老人は風を切る狼の上から、空を見上げた。
「夜が来るぞ。……お前の時間だ」
「……」
フロネは答えない。
ただ風に乗るように走り続ける。
焦りが背中に伝っていた。
フェインは深く息を吐いて、リゼアスタの聖印の力を探る。
――彼に「糸」をくくりつけておいて正解だった。
聖印を受けて5年。まだまだ不安定な男だ。
感情の変動が激しく、力は強いが御しきれない。
きっと近いうちにトラブルに巻き込まれるだろうとは思っていたが、早かった。
――だが、何があった?
「見えた!」
フロネが叫び、麓の町の凄惨な様子が飛び込んできた。
赤々と燃える炎。
そしてそれを押し流す水。
二つが交互に爆ぜては消える。
交わることのない、その二つ。
「リゼアスタッ!」
フロネの姿が吸血鬼のそれに変化し、駆け出そうとする。
炎の上がる場所に、きっとリゼアスタはいるのだろう。
「あやつはお主に任せる」
「あんたは」
「わしは――あれを、な」
激しい水柱が左手に上がった。炎とは逆の方向だ。
「……分かった。死なないでよ」
「たたでは死なんよ」
老人は狡猾に笑う。
その細い腕に似つかわしくないほど巨大な鎌が、強い力を伴って顕現する。
だが内心、フェインは苦々しく感じていた。
――また、幾度目かの老いが来た。
「さあて見に行こうか」
フロネと別れ、一人で町を歩けばすぐに分かった。
水で洗い流そうとしているものは、血の臭いだという事に。
「……俄かには信じられん」
小さな呟きには激しい水音が答えた。
吸血鬼は駆ける。
町全体から建物が焦げた匂いがする。
リゼアスタの聖印の力の放出の所為だ。
おそらくまともに狙いもつけられなかったのだろう。
だが、彼女の強い嗅覚はさらに正確に突き止める。
血の臭いを。
「何で、どいつもこいつも――、ッ!」
彼女の目の前に現れたのは白い胴着であった。
しかし、リゼアスタではない。
その手には聖なる力を施された聖なる槍を持ち、全身は茶色く濡れていた。
「……まさか!?」
彼女は思わず立ち止まる。
白い胴着の男はそんなフロネを見、驚きに顔を歪めた。
「わお……本当に吸血鬼が出てきた」
「なん、ですって?」
「へぇ、高位の吸血鬼って言葉通じるんだ」
槍の先端がこちらを向く。
「ここで倒したら僕にも聖印がつくかな」
「――あは」
嗤う。
「そう、そうなのね……。あんた、何とかって司祭の知り合い、か」
「ブレーブ司祭、ね。僕の上司さ。今は手柄の取り合いって感じだけど」
「……」
フロネの目の赤が、感情の昂ぶりと共に鮮やかさを増していく。
「何で人間を殺したの?」
「何で、って……吸血鬼が聞くの?」
不思議そうに男は首を傾げる。
「だって吸血鬼と関わった人間だよ。もう穢れてるんだから、殺すしかないじゃないか」
「……っ! そんな、馬鹿な」
触れただけでは、吸血鬼と人間の間には何も発生しない。
それどころか、血を吸う事も直接の穢れにはならない。
穢れた力を分け与えなければ、人間は人間のままだ。
だというのに。
そんなこと、『教会』の聖職者だったら誰もが知っていると言っていたのに。
「君が悪いんでしょ吸血鬼。っていうか、人間を何だと思ってんだよ」
「……あんたに分かってもらう筋合いはないでしょ」
「だよね。吸血鬼の考えてることなんて、わかんないし」
じりじりと聖職者はフロネとの距離をつめていた。
対してフロネはありったけの力を集めて右腕を狼に変化させるのが精一杯だった。
戦闘となれば、彼女の力は足りなすぎる。
長く血を飲んでいない所為で、変身以外の力が発揮できなくなっていた。
今まともに戦えば、痛手は免れない。
それでも、退けなかった。
「はぁあああああああ!」
突き出された槍を獣の腕でいなす。
それだけで痛みが走った。
「くっ……!」
槍に施された祝福の力が強いのだ。
「あれ? 吸血鬼って、こんなに弱いの」
聖職者は心底意外そうだ。
「馬鹿にしないでよね!」
相手の懐に踏み込む。
「はぁっ!」
右の手刀は懇親の一撃のつもりだったが、その爪は微かに白い胴着を裂いただけに止まった。
「っ!!」
思った以上の力の衰えに、フロネの心はざわついた。
――これでは。
「これくらいなら僕にも倒せそうじゃないか!」
「……あんたごときに!」
「虚勢はかっこわるいよ、吸血鬼!」
リーチの長い槍の動きは大振りだが鋭い。
切っ先は確実にフロネの輪郭を削り取っていた。
「んっ……!」
祝福を受けた刃は、たとえ直撃にならずとも、彼女には十分すぎる毒だ。
弱っている今ならなおのこと。
「うあっ!」
切っ先を避けようして飛びのいたが、その先は建物の中だった。
相手の得物が槍ならば、いっそ建物の中の方が有利かもしれない。
「ここで迎え撃つ、か……ん?」
血の臭い。
それに振り向く。
見たことのある内装だった。
ここでよく食事をした。
気さくな人柄だった。
長い時を生きる彼女にとって、一つの町に滞在できる年月は短い。
だからこそ、この店の味は、雰囲気は、ずっと覚えていこうと思っていた。
だからこそ、リゼアスタを誘った。
彼にもここに来てほしいと思ったから。
「あっ」
言葉が出ない。
意味のない呟きが、空気を共に抜けていく。
「あ、……あっ……!」
そこに頭を貫かれて転がっていたのは、見慣れた酒場の店主だった。
「あ、あぁっ」
人間は脆い。
彼女やリゼアスタと比べるのがおこがましいほどに。
しかし、だからといって、不条理に壊されて良いものではない。
――ましてや、自分がいることの所為で、なんて。
「取ったぁっ!」
突き出された槍は、彼女を捕らえてはいたが貫くことはなかった。
「は……?」
槍の切っ先に纏わりつくのは黒い霧。
彼女の存在。
「許すものか、」
声は聖職者の後ろを取っていた。
「人でなし」
そして彼女の獣と化した腕は、聖職者の白い胴着を易々と貫き、心臓を握りつぶした。
「がっ……!?」
「案外弱いじゃない、お前の祝福も」
死の痙攣をする男の体を外へ投げ捨てる。
とたん、体にずっしりと重みを感じた。
「はぁっ……ああっ……」
搾り出した力の負担が圧し掛かってくる。
「あー……ははっ、もう、限界じゃない……」
ちらりと店主の死体を見た。
きっと即死だっただろう。痛みを感じなかったのは、せめてもの救いかもしれない。
「……ごめんね。私の所為、だよね」
体を引きずって、近づく。
「名前、何だっけ? 聞いて、なかったか……薄情ね、私ったら……」
手を触ると冷たかった。
「……」
店内にぶちまけられた血。
それに焦がれるだけの熱も、フロネには残されていなかった。
「……ん……?」
しかし気づく。
店主の目が不自然なほど綺麗にきっちりと閉じられていることに。
「誰か生きてるのが……いる……?」
フロネは顔を上げる。
そして、その厨房へ続く道に血の跡を見つける。
「……」
恐る恐る近づいた。
確かに、何者かの気配を感じる。
「……」
数秒躊躇った後、フロネは扉を開けた。
「!!」
瞬間、息が詰まる。
厨房の奥、壁にぐったりともたれているのは――
「リゼアスタ!」
名を叫び、フロネは彼に精一杯の速さで近寄る。
彼の身体は所々が穿たれ、血を流していた。
痛々しく、生々しい赤。
「い、いや……リゼアスタ! リゼアスタァっ!」
思わずその身体に縋りつくと、「んぐっ」と痛みをこらえる声がした。
「なん、だ……フロネか……」
リゼアスタは苦しそうに顔を歪める。
身体が上手く動かないのか、フロネを払い除けようとはしなかった。
「追いつかれたんだと、思った……」
「誰にやられたの」
「あの司祭だよ。お前と、一緒に居たことを直に悟られた」
「……!」
フロネは顔をくしゃくしゃにさせて、リゼアスタを抱きしめる。
柔らかく、傷に触れないように。
「お、おい……」
「ごめんね、全部――全部私が吸血鬼だからこんなのことになったのよね」
「……」
「この町がこんなことになったのも、親父さんが死んじゃったのも、リゼアスタが怪我をしたのも、私が吸血鬼だから」
「……フロネ?」
「ごめんね、リゼアスタ。でも、次はこんなことに、ならないから」
「どういう――」
フロネは笑う。
「私、もうすぐ死ぬから」
「……は?」
腕の中のリゼアスタの身が強張るのが分かった。
「大丈夫、あの司祭とかいうやつはちゃんと刺し違えてくるから」
「何、言って」
「私、死ぬの。もう随分と血を吸ってないし、今、戦ったら、ほとんど力が残ってないし」
「何で、そんなことを言うんだ……!」
「だって、私吸血鬼なのよ」
ほんの少し、リゼアスタを強く抱きしめる。
「穢れた魔物なの。生きているだけで、こうして人間に迷惑を与えるわ。真実を知って、生きていくのは、辛すぎる」
「フロネ」
「リゼアスタ。貴方は『真実」を知ってる。フェインと訓練すればいくらだって強くなれる。貴方だったら、きっとこの世界を『神』の手から救える。だから、私、安心して死ねるわ」
「フロネ!」
激しい呼び声に打たれ、彼女は顔を上げた。
リゼアスタは、見たことのある表情をしている。
『妹を再び見た』、あの顔。
「死ぬなんて、言うな……。お前も、俺を一人にするのか……!?」
「え――」
弱弱しい力で抱きしめられる。
「世界の『真実』を知っているのは、お前と俺だけじゃないか。お前はずっと孤独に戦ってきた、今度はそれを俺にやれっていうのか? ようやく、二人になれたっていうのに」
「リゼアスタ」
「俺にはもう、お前しか、信じられる者なんていない……家族も、故郷も、『神』も失って――もうお前しか居ないんだ」
「……でも、もう私は、本当に力がないの」
彼は一度フロネを突き放し、白の胴着を肌蹴た。
「飲め、フロネ」
「……え?」
「俺の血を飲め」
「な、な、な、何を言ってるの! それじゃ私、本当にただの吸血鬼に……!」
慌てて離れようとする彼女の手を、リゼアスタは強く掴んだ。
「俺以外から吸わなければいい。そういう約束にしよう」
「冗談は止めて、リゼアスタ……! 本当に、私は」
「俺は、本気だ。一人に、なりたくない。お前と、一緒に居たい」
「……」
フロネはまるで叱られる子供のように、恐る恐るリゼアスタの首元に顔を寄せた。
血の匂いがすぐそこに漂っている。
「……首筋なんて晒して。私、ここから貴方を従者にすることだって出来るのよ?」
「信じている」
「……お子ちゃまめ」
フロネは腕をリゼアスタの首に回し、牙を剥く。
そしてそのまま、首筋に突き立てた。
「くっ……」
微かな喘ぎ声。
吸血鬼は対象の血を吸う時、相手の痛みを軽減する為に一種の恍惚状態に陥らせる力が働く、という話をフロネは知っていた。
もっとも、自分で経験したことはないが。
リゼアスタが身じろぎするのを腕で抑える。
――甘い。
何年ぶりかの血の味が、今までに感じたことがないほどに、甘く感じた。
ブレーブはフェインを前にして「ほう」と目を細める。
「貴様、只者ではないな」
「確かに、わしゃ只の者ではない」
フェインはくるりと得物を回す。
「子供の本で見たことがある。死神、とかいう不遜な者にそっくりだ」
「そいつは当たらずとも遠からず――察しがいいの、小童」
「ふふん」
司祭は楽しげに、新しい獲物を見つけた野生の狩人のように笑う。
「殺す前に、正体が知りたいな。教えてくれないかご老人」
「ふん。貴様ら聖職者には馴染み深かろう。元、天使じゃよ」
「……ほう!」
ブレーブは目を細める。
「嘘をついている臭いはしない――まさか、この私の前に現れるとは」
「こらこら、勘違いしておらんか? 元、じゃよ」
「存じている。その昔、『神』が世に創り出した天使は四体。しかし、今では存在が確認されているのはたった二体――であれば、堕ちた天使がいるという仮説も出るというもの」
「ほおん……。なかなかどうして」
フェインは楽しげに笑った。
「お前は敬虔な信徒じゃのう。いやはや天晴れ」
老人は得物を構え、身を低くする。
「故に、真に『神』の僕か」
「そうとも。私は『神』の僕。堕天使殿、出会えて良かった。だが――『神』の意に逆らったものは、すべからく死ぬが良い!」
聖印の力がブレーブに収束する。
リゼアスタのそれとは段違いの力。
だというのに、フェインは少し嗤う。
「『神』、ねぇ……」
放たれたのはまさに波であった。
巨大な水に対し、皺枯れた指先が伸びる。
「『散れ』」
短い言葉に、意味が宿る。
全てを流し去ろうとする水の塊は、フェインの目の前で飛沫となって砕け散った。
まるで不可視の崖にぶつかったように。
『ありえないこと』に、ブレーブは感心したように目を丸くした。
「さすが堕ちたとはいえ天使殿。詠唱は短いのに、なんと美しい魔法か」
「褒めても手は抜かんぞ」
フェインは指を二度弾く。
「『喰らえ』」
静かな言葉の後、彼の背中から飛び出したのは二羽の梟であった。
魔力で形作られたそれは、まるで引き絞られた弦から放たれた矢のようにブレーブに迫る。
「しかし――甘いぞ、ご老人」
ブレーブの身が淡い光に包まれる。
「闇蔓延る世界を満たす、救いの涙。か弱き人を満たす、聖水の祈り」
既に水が溜まっているブレーブの足元から宙を行く梟へ、鋭い槍が飛び出した。
高速で動いているはずの二匹は、まるで百舌鳥の早贄のように串刺しにされる。
魔力の塊であった梟は、そのまま空気に解けて消え去った。
「ちぃっ」
ブレーブは舌打ちする。
――フェインの姿は掻き消えていた。
梟はただの目暗まし出会ったことに気づき、聖職者はぐるりと身を反転させ、槍を構えた。
「!!」
巨大な弓形の刃が眼前に迫っていた。
「くぅっ……!」
だが、甲高い音を奏でたきり、鎌は槍に阻まれて少しも動かなかった。
「天使とはいえ、老いたか――人の身では辛かろう」
「分かったような口を利く……!」
しかし、まったくもってその通りであった。
フェインは人の身でしかない。
修祓者や穢れた魔物の類とはそもそも身体能力が違う。
人間離れした動きは、膨大な魔力で補っているに過ぎなかった。
老いた今の身ではそれも限界が見えている。
フェインはブレーブに対して圧倒的な力の差を感じていた。
「『舞え』!」
老人から放たれた言葉は突風となり、ブレーブの身体を木の葉もかくやと吹き飛ばす。
そこに距離を取る以上の意味は無かった。
「美しい魔法だ。故に、惜しい」
「……」
大鎌を下げる。
そして、一つの賭けに出た。
「最後に、お前の大好きな『神』の話をしてやろうか」
――老いたこの身に出来る最期のこと。
「何?」
ブレーブは鼻を鳴らす。見下しながら。
「教典に書いてはいない、生の『神』。知りたくないか?」
「ふふん。時間稼ぎか。何を狙っている?」
「さてな」
ブレーブは興味津々と言った様子だった。
殺すならいつでも出来る――そんな余裕すら感じる。
堕天使の討伐よりも、彼の興味は『神』に向いているのだ。
「主は――この世界を御創りになった際に多くの命を大地と海とに芽吹かせた」
老人の口から詩が零れ出る。
「主は、その命に有限と自由を与えた。主は、命の枝分かれに興味を覚えた」
「主は、穢れた存在の誕生を危惧した。主は――それを討伐するために人に聖印の使徒を遣わした」
ブレーブは続きを受け取って「それが?」とフェインを睨みつける。
「今更教典の冒頭がなんだというのだ」
「真相はこうじゃよ、哀れな神の仔よ」
主は――
この世界を御創りになった際に
多くの命を大地と海とに芽吹かせた
主は――
その命に有限と自由を与えた
主は――
命の枝分かれに恐怖を覚えた
主は――
増えすぎた命を統括するために
命を狩る生き物をお創りになった
主は――
それに聖印と血の証をお渡しになった
期待の証として
歌うように、頁をなぞる様に、朗々とフェインはそれを伝えた。
真っ直ぐにブレーブを見つめて。
「いいか、人の仔よ。『神』はお前が言うように聖なる存在じゃあない。この世界を統治する為に聖と邪とを生み、常に争いを生むことを宿命付けた者ぞ」
「……何かと思えば」
ブレーブは嗤う。
「だからなんだというのだ? 我ら聖印持ちが神より定められた狩人だという事実は変わらないじゃないか」
「その討伐すべき穢れた魔物もまた、神から証を受け取った者。同質ではないか。皆『神』の手の上で苦しんでいるだけじゃないか。争う理由が何処にある」
「あるさ、明確に」
血走った目を見開き、ブレーブは声を上げて笑う。
「やはりそうじゃないか、『神』は我らに争うことを御所望だ、これ以上に明確な理由があるとでもいうのか!?」
「……やはり駄目か」
フェインは奥歯を噛む。
――『真実』はいつも無力だ。
『神』に支配された世界でどんなに『真実』を告げようと、人は考えを改めたりしない。
その中で、フロネとリゼアスタだけが、『真実』を受け入れた。
それが意味するものは、まだ分からないが。
「楽しい話だった。感謝する」
ブレーブが槍を構えたのを見、フェインは覚悟する。
目前の死を。
――だというのに。
「お待たせ、フェイン」
その声に、思わず振り返る。
「フロネ! お主、リゼアスタは――」
言葉の続きは掻き消えた。
――真の吸血鬼がそこにいた。
脚を踏み入れる度に踊る水音。
それが耳に心地いい。
清清しい気分だった。
こんなに力が満ちているなんて、何時振りだろうか。
「お待たせ、フェイン」
「フロネ! お主、リゼアスタは――」
こちらを振り向き叫んだフェインは、唖然と彼女を見つめていた。
水に映る桃色の髪。
光を美しく跳ね返す銀色のドレス。
真紅の瞳。
「フロネ」
フェインの絞り出した声が、驚愕に彩られている。
「ほう、吸血鬼。やはりこの町にいたか」
「ええ初めまして、ブレーブ、さん?」
ドレスの裾を摘み、恭しく礼をする。
「私の領域に踏み込んでくる――その意味、分かってるのよね?」
「ははっ。お前の領域? 違うな、この世は全て『神』の物、お前の物などありはしないよ」
「言うわねぇ」
目を細める。
思った以上に、『救えない』。
「なら、『神』の領域を侵す私を殺して見せなさいよ」
「フロネ、お前!」
「フェインは黙ってて。ねぇ、やってみなさいよ――この、化物!」
今まで楽しげにしていたブレーブだったが、彼女の挑発に目の色を変えた。
「化物……? それはお前だろうが、吸血鬼ッ!」
辺りにぶちまけられた水がざわめき出す。
フロネは顔を歪ませた。
「ふうん……そうやって、リゼアスタを追い詰めたんだ。私の――リゼアスタを」
フロネの真紅が鮮やかさを増す。
『神』が与えた暗い力が、彼女の身を包む。
二つの相反する力が空間を激しく振動させた。
「主よ、その手の剣の力を分け与えたまえ。我、穢れを斬る者とならん!」
ブレーブが槍を構えて地を蹴る。
同時に幾重もの水の槍が彼女に迫った。
だが彼女は一歩も動かない。
ただ、細い指をブレーブに向けるだけ。
「力の差を教えてあげるわ、クソガキ」
そうして、彼女の姿は弾けた。
「ほう」
ブレーブの息の音。
フロネの姿は両手の指では数えられないほどに分身していた。
それぞれがブレーブに殺意を向けている。
「だが、増えたところで――私の聖印は謀れんぞ!」
疾走する水の槍はまるで鞭のようにしなやかに方向を変えた。
それぞれがそれぞれのフロネに向けて。
「ふふっ」
幾人ものフロネは逃げながら、それでも嗤う。
「フェインが手こずるだけあるんだ」
一体の胸が貫かれる。
一体の腰が裂かれる。
一体の頭が吹き飛ぶ――
その様子は凄惨たるものだった。
だが、どれからも血は出ない。日に照らされた影のように消え往く身体は偽者なのだ。
では――
「大体分かるよ。吸血鬼は後ろを取りたがるッ!」
ブレーブの銀の槍が、背後に迫っていたフロネの首を貫いた。
「フロネ!」
フェインの悲鳴。
「ぐっ……!」
苦しそうな声に、ブレーブは嗤う。
「お前達はいつでも背後を取りたがる――私は馬鹿じゃないんでね」
「へぇ」
澄んだ声。
それは確かにフロネの声だった。だのに、槍に突き刺された彼女は既に事切れていた。
「馬鹿じゃ、ないんだ?」
ずるり、何かを引きずる音。
ブレーブは目を見開いて硬直していた。
「まあ、背中を取りたがるのは否定しないわ。穢れた魔物に卑怯も何も無いわけだから」
その白い胴着の足元、影。それが揺れる。
同時に、槍に刺さっていたフロネも消え失せた。
「足元にも気をつけなさいな」
「あっ、わっ……!?」
「さよなら、クソガキ。しばらくはお前が人にした行いと同じ痛みを味わいなさい。そして、死ね」
ブレーブの姿は、まるで落とし穴に嵌ったかのように突如として消え失せた。
代わりに現れたのはフロネで、彼女は満足げにフェインに笑いかける。
「ふふっ、久しぶりに楽しかったかな」
「……お主、口から血の匂いがするぞ」
「分かる?」
嬉しそうに、それでいて恥ずかしそうに、フロネは顔を綻ばせる。
「血ってあんなに美味しかったかな。……ううん、きっと、リゼアスタのだからね」
「まさか」
フェインは信じられないといった様子で、首を振った。
「……いや、そうか。あやつの性格なら、それも不思議ではない、か」
「今は隠れてるわよ。呼んできましょうか?」
「いや、いい……」
刹那――二人の間で水音が小さく跳ねた。
聖印の力で動くそれに最初に反応したのはフロネだったが、フェインは一歩遅れた。
その衰えゆえに。
「フェインッ!」
手を伸ばした時には、老人の身体は水の槍に真ん中を貫かれていた。
「がっ」
痛みの声。
噴出す赤と混じって、槍は元の水に戻った。
恐らくブレーブが見せた最期の抵抗だったのだろう。
フロネは老人の細い身体を抱きしめる。
「ちょ、ちょっと……だ、大丈夫なの!? 相手は聖印よ、あんたは――」
「……くくっ」
フェインの喉が震えた。
「もう少し、わしの死について心配してくれんかの……寂しいもんじゃ」
「そんなの。だって、もう何度もあんたの死を見てきたのよ」
「くくっ。それも、そうか……」
老人は目を閉じた。
「大丈夫。聖印だろうが穢れた力だろうが、わしにとっての死はどれも一緒じゃ。また何処かに転生するだけじゃよ、人間としてな」
「……」
フロネは無言のままに抱きしめる。
「一刻も早く連絡よこしなさいよ。リゼアスタと待ってるからね」
「ああ……」
老人の身体が力を失って重くなるまで、そのまま抱き続けた。
悲しくはなかった。
もう何度も彼の死を経験してきた。
人の身に堕ちた天使は、長い年月を人間の中で繰り返している。今もその生の一つでしかなかった。
だから、悲しむよりも前に進まなければいけない。
遺体の転がる町をもう一度歩く。
血の匂いは水で大分洗い流されていた。
それでも、彼女の脳裏に生々しく残る町の人々の記憶が、心に傷をつける。
お前のせいだと、突きつけている。
「ごめんなさい」
耐え切れず呟く。
しかし、自ら死ぬことはもう許されない。
もう『二人ぼっち』なのだから。
「リゼアスタ」
迎えに行くと、彼はまだぐったりと壁に寄りかかっていた。
目をほんの少しだけ開いて、フロネを確認する。
「……その分じゃ、司祭は」
「死んだわよ」
何の感情も乗せず、あっさりと答える。
「……そうか。フェインは?」
「死んだわよ」
「……そっちはもう少し悲しめ」
「大丈夫。今頃、どっかで産声上げてるんだから。リゼアスタもそのうち慣れるわよ」
「そんなもの、か……?」
苦い顔をした彼を元気付けようと、フロネは声を上げて笑う。
「そんなものよ。さあ、帰りましょ。今は少しでも眠りたいでしょう?」
「……」
しかしリゼアスタは立ち上がらない。否、立ち上がれないようだった。
「どうしたの?」
「お前が俺の血を思った以上に飲んだのが悪い」
「あらら。仕方ないわねー」
彼女は意地悪そうに笑い、狼に転身した。
「さ、乗んなさいよ。普通におんぶされるよりいいでしょ」
「……俺は重いぞ」
「あは。私は吸血鬼よ、リゼアスタくらい軽い軽い」
「そういうことじゃない……」
しかし彼は力なくその背に跨った。
「ありがとね、リゼアスタ」
「ん……?」
聞き返した彼だったが、応える声は無かった。
フロネは駆ける。
――今は二人でゆっくりと休もう。
――また二人の明日が来るのだから。
そう思いながら。
「相変わらず仲良くやってるようで何よりじゃ」
茶を啜りながら、フェインはくつくつと笑う。
姿は少年なのだが、振る舞いはどうしても老人のそれになる。
「喧嘩は無いかの?」
「してる暇ないって」
フロネは馬肉のステーキを頬張っていた。
元々フェインへの礼のつもりで入った店だったが、ウスターのステーキを出せると聞いて、懐かしくなって頼んでしまったのだった。
一方のフェインは苺のケーキを優雅に食べていた。
傍目には歳の離れた兄妹に見えるだろう。
この二人が長い時を生きるものであるとは、誰も分かるまい。
「わしはこの後、家に戻るよ。母殿と父殿が悲しむからの」
「そうそう、そうしなさい。私は帝都に行ってくるから、また時間がある時に会いましょ」
「おう」
フェインは不意に意地悪く笑った。
「法皇『煌きの』フォルカ殿には気をつけろよ。あやつはお前に気づいておるぞ」
「わ、分かってるわよ……そんなの」
フロネはとたんに小さくなる。
「強すぎよ、あれは」
「もうすぐ在位五百年の儀もあるほどの聖印持ちだからのう。リゼアスタを気に入っている以上は、お前にも手は出さんとは思うが」
「不安にさせるようなこと言わないでよね。私お腹空いてるんだから、絶対にリゼアスタに会うわよ!」
やれやれとフェインは肩を竦める。
「お前の愛も重いのう」
当のフロネはステーキに夢中のようだった。
フェインも苺のケーキにフォークを入れる。
――甘い。
久しぶりの甘露は、彼の胃を満たした。
...to be continued