「シュウ! 遊びましょう。今日は貴方が王様で、私が騎士ね?」
「シュウ、大人になったら私と結婚してね。そしたら、ずっと二人でいられるものね!」
「シュウ、お父様はお元気? 最近お姿が見えないので心配しているのよ」
「シュウ、家業を継ぐって本当なの? ねえ、嘘って言ってよ……」
「シュウ。久しぶり……暫く見ないうちに、身長、追い越されちゃったね」
「シュウ、仕事を頼みたいの。私も今じゃ家業を継いだ偉い人なのよ。ね? お願いできるでしょう?」
「シュウ、ありがとう。怪我はない? そう……。お願い、無茶はしないでね」
「シュウ。そろそろ仕事を辞めて……二人で、暮らさない?」
「シュウ。――愛してるわ」
朝起きると扉が少しだけ開いていた。
「んあ」
そして、その黒い瞳と目が合う。
「……お、おう。おはよう?」
声をかけると、彼女はさっと見えなくなった。
「何だよ、おい」
とりあえず身支度を整えた。
――長い夢を見ていたような気もするが、思い出せない。
リゼアスタの使徒になった時に、いくつか代償があった。
記憶の欠落。
思い出せないことが少しずつ、祝福を受けるたびに増えていった。
ただ、思い出せないことに気づけているのだけはありがたい。
いつか全てを忘れてしまったら、それはもう普通の使徒と変わらないのだろう。
「お前の名前も、分かんなくなっちまったしなぁ」
くつくつと笑う。
「ま、いいよな。お前の名前が分からなくたって、やるこた変わんないんだからよ……」
鋏を袖に入れ、部屋を出る。
「でもま、ちょっとは寂しいかな……」
階段を降りて食堂に向かう。
相変わらず、使徒達は修祓者を甲斐甲斐しく世話していた。
クララは下を向いて、食事や飲み物を与えられるがままに食している。
それに、違和感を覚えた。
「おはようさん」
改めて挨拶すると、彼女は長い沈黙の後、「おはようございます」と小さく呟いた。
「下賎の者め。言葉を交わすだけでもありがたいと思えよ」
彼女の腕の中で猫が踏ん反り返っている。
「ベル、黙って」
「しかし」
「いいから」
彼女に窘められ、猫もといベルはぐったりと体から力を抜いた。多分、ショックでへこんでいるのだろう。
こうしてみればただの猫なのに、と思わずにはいられない。
シューウィは睨みつけてくる猫を無視し、クララと向かい合う位置に座った。
「俺にもパンをくれねぇか?」
「……言うとおりにして」
「かしこまりました」
必ずクララを挟んでの会話になる。仕方の無いことであった。
運ばれてきたパンを食していると、「あの」と小さな声が彼を呼んだ。
「……名前、聞いてない」
「あ。俺の?」
「そう」
「シューウィ。お前らと違って粋な二つ名なんてねぇぞ」
「……シューウィ」
甘ったるい声で呼ばれるのも悪くないな、とシューウィは内心思う。
「んでよ、クララ。お前、これから人狼を滅ぼしに行くのか?」
「……」
彼女は深く頷いた。
「そのために、ここまで来た」
「だよなー。どうせその為に使徒も増やしたんだろうよ」
「……うん」
クララは身を小さくする。
それはごくごく普通の少女に見えて仕方が無い。
「ま、やっちまったもんは仕方ねぇ。……俺は行くさ」
シューウィが立ち上がると、「ま、待って」とクララが彼の服の裾を掴んだ。
「どこ、に?」
「人狼斃しに、だよ。報奨金欲しいし」
「私も、行く……!」
「あ?」
思わず呆ける。
「そりゃあ、来てくれた方が都合いいけどよ。別に後からゆっくり来ればいいじゃねぇか」
「一緒に、行く……」
「クララ!」
ベルが耐え切れなくなったとばかりに鋭く鳴いた。
「こんな下賎の者と一緒に行く気か!」
「……行く」
「どうしたんだクララ、らしくもない」
「……」
彼女は何か言いたそうにしているが、言葉が見つからない様子であった。
真一文字に口を結び、頬を赤らめてシューウィを逃がさないようにしている。
「……俺は別にかまわねぇよ。稼ぎたいだけだからな」
その小さな手を引き離す。
「行くなら早くしようぜ。ただし、使徒は連れてくな。俺だけで十分だ」
「……」
彼女は小さく頷いた。
「何を馬鹿な」とか「誑かすな」とか「危険に晒すな」とか喚いている猫を無視し、二人は宿を出た。
「ここからフォロまで戻らなくちゃいけねぇんだよな」
「人狼がいるのはフォロの郊外というけれど、実はアスピニからの方が近いの」
「へぇ?」
「石で出来た遺跡があって、そこにいる、って……」
「よし、行ってみっか」
行ってみないことには始まらない。
街を出て徒歩で目的地に向かう道中、クララは大人しかった。
というより、始終びくびくとしてシューウィから離れられないようだった。
「……近すぎ。もうちょっと離れろって」
「……」
「それでも修祓者かっての。俺の『主人』はもっと――」
「だって」
彼女は唇を噛んだ。
「私、使徒じゃない人といるの、あんまりない……」
「……あー」
シューウィは頬を掻く。
「いつもはどれくらいの使徒引き連れてんだよ」
「三十人くらい」
「ばっ」
ほぼ一個中隊だ。
「だから、怖い……」
「待ってて良いってのに」
「一緒に、行く……」
「はぁ。わっかんねぇなぁもう……。あーあ、震えちゃって」
頭を撫でると、びくりと彼女の身が跳ねる。
「あ。わりぃ、嫌だったか?」
「……」
「無礼者! 彼女の神聖な体にぃ!」
猫がぎゃーぎゃー言っているが、当の本人は顔を真っ赤にして、ぎゅっとシューウィの手を握った。
「お?」
「……」
しかし、何も言わない。
ただ俯いて、彼が歩くスピードに必死についてくる。
まるで母猫と仔猫のようだ。
「変なものに懐かれちまったなぁ」
――問題が増えたと見るべきか。
シューウィは彼女に見えないように、表情を引き締めた。
――修祓者として、彼女は役に立ってくれるのか。
シューウィが共に戦ったことのある修祓者といえばリゼアスタしかいない。
彼は純粋な戦闘に特化した修祓者である。
クララは違う、はずだ。
穢れた魔物退治は数を揃えれば良いという問題ではない。
それどころか、仲間が魔に変じて危機を招くことすらある。
だから人数は関係ない。
一人一人の実力が物を言うのだ。
「クララよう、お前自身は戦えるの」
彼女は間髪居れずに深く頷いた。
「へぇ」
この反応はシューウィにとって意外だった。
「下賎の者よよく聞け」
ベルが彼の肩に軽やかに飛び乗り、耳元で言う。
「クララは『炎の』よりも何倍も強いぞ」
「そうは見えねぇけど。クララって幾つなんだよ」
「今年で聖印を受けて20年」
「はぁ。……いやあ、どう考えてもリゼアスタの方が強そうだ」
修祓者は年を経るごとに強くなる。それは一般論だ。
聞けばリゼアスタは200年を超えると言うし、20年では到底太刀打ちできないだろう。
「ええい、本当に無礼者め!」
「ぎゃーっ、引っ掻くな、いてぇ!」
「ベル。おいたが過ぎる」
幸いにもクララが止めてくれたおかげで引っ掻き傷は一箇所だけで済んだ。
「んでよう、何なんだその悪猫は」
「ベルは、私が生まれた時に主が授けて下さったの」
「ふうん? 神造物(しんぞうぶつ)か」
「うん」
彼女は暴れる猫をぎゅっと抱きしめた。
こんな成りでも神が造った聖なる力を秘めた物なのだ。
他にも剣や盾を神造物として授けることは良く聞く。しかし猫は初めてだった。
「ずっと一緒に居るの」
「ずっと、か」
「私、アンドロレイア教会で生まれて、ずっと外に出れなかったから。聖印が出るまで、ベルは一緒に居てくれたし、外に出れるようになったのもベルが居てくれたから。ずっと一緒なの」
「……」
なるほど、とシューウィは内心頷いた。
世間知らずなのだ。
教会で使徒に囲まれて、聖印が出ると確定した子で、外に出ることなく過ごし、予定通り修祓者になった。
そんな子が使徒無しで生活できるわけが無いのだ。
「珍しい」
ベルは目を丸くしているようだった。
「クララがこんなに話すとは。クララ、何もこんな下賎な者と話さなくても」
「シューウィは、強いの? リゼアスタくらい?」
あっさりと無視された猫を、シューウィは少しだけ同情した。
「リゼアスタは強いし、修祓者だろ。俺は所詮人間レベルしかねぇ。まあ……そこらの穢れた魔物に負ける気はしねぇな」
「吸血鬼と戦った事、ある?」
「リゼアスタと一緒ならな」
――実際はもう一人居た。
黒いローブを羽織った女。リゼアスタの恋人――いや、それ以上の相手。
シューウィを見るなり「お子ちゃまのやりそうなことね」と言い放った、古き血の吸血鬼。
思い出すと、ぶるりと寒気がした。
強烈な相手であったことは間違いない。
そして、その真の姿は妖艶であった。
「すごい」クララはそこで目をきらきらと輝かせて笑った。「シューウィって、強いんだ」
「あー」
なんだか誤解されているような気もするが、否定する気も起きなかった。
不安にさせるわけにはいかない。
「でもま、俺も人狼ってのはあんま斃してねぇから……、どんなんだっけ?」
わざとらしく聞いてみると、彼女は「うん」と嬉しそうに――しかし瞬きの後には表情を引き締めた。
「穢れた魔物の一番怖いところ、分かる?」
「あん? そりゃ、あれだろ――人間を同属にするんだろ?」
「そう。代表的なのが、吸血鬼」
クララは肩を竦める。
「人狼もそんな力を持ってる。吸血鬼と違って、眷族にはできない。ただ、同じ物に変化させるだけ」
「……具体的に、何されたらやべぇの?」
「噛まれたら。動脈……? そう、首とか、手首とか……」
「……ほう」
――気をつけよう。
これ以上、人間以外になる気はない。
夕日が雑草の生い茂る石造りの遺跡を照らしている。
「へー。結構いいとこじゃん」
遺跡とは言うが、おそらく何百年前かに放棄された村か何かだろう。
こういう場所は根城にされやすい。
穢れた魔物や、賞金稼ぎ、時には修祓者でさえ。
「さて。クララ、手ぇ離してもらっていいか?」
「う、うん」
小さい手が名残惜しそうに離れる。
こちらとしては楽しく遠足に来たわけではないので、そうも言ってられない。
腰に吊るした鋏を手に取る。
「まさか、そんなもので?」
ベルが呆れた様な、むしろ疑いの色を乗せて言葉を発した。
それに、鋏の刃を開閉することで応える。
「ノア鋼。修祓者共がこぞって使う鋼で出来てんだぜ?」
「しかし、そんなもので」
「まあ、見てろよ悪猫」
くるくると鋏の取っ手に指を入れて回し、遺跡に足を踏み入れる。
とたん、精神に触れる警告。
殺気だ。
「うおうっ!」
草が鳴るのが先か、シューウィが声を発したのが先か。
現れたのは、灰の毛並み。
鋭い爪と強靭な脚を備えた、二足歩行の狼。
二者は互いを視認した刹那、ほぼ同時に嗤う。
獣は獲物の到来に。
狂人はぶつけられる殺気の容赦のなさに。
「……おもしれぇっ!」
地面を蹴り、シューウィは人狼に肉薄する。
「馬鹿、接近する奴があるか――!」
ベルの怒号。
「んっ!」
迫る爪をついと避け、シューウィは獲物を捻りながら相手の右膝に突き刺した。
赤い飛沫が灰の毛皮を濡らす。
「ぐおっ」
鈍い悲鳴を上げて動きが鈍ったのを見るや否や、シューウィは一度刃を引き抜く。
凄惨な笑みのもと、鋏の刃を広げ――
じょぎんっと奇妙で鈍い音が赤い空を席捲する。
「……!!」
その光景を見たクララが愕然とするのも無理はない。
それはあまりにも非現実だった。
シューウィの手からすれば小さな鋏が、人狼の五本の爪を指の付け根から『切り取った』のだから。
どす黒い血が噴出し、シューウィの身を容赦なく汚す。
しかしそれを気にする様子もなく、彼は再び鋏を振るった。
「あっ」
クララの短い悲鳴。
シューウィが振るった切っ先は、確実に人狼の喉を突き刺していた。
口の端を曲げて、彼は嗤った。
「俺はここまでだ――これ以上はお前の仕事だろ、クララ」
どうと倒れこむ人狼を確認し、くるりと身を翻したシューウィだったが、
「分かった」
と頷いた少女の後ろに立ち上がった影に戦慄する。
「クララッ!!」
「?」
小首を傾げる少女の向こう側、影の形は人狼。
しかし、大きさが異常だ。
結局は穢れた魔物は人間ほどの大きさしかない。
だというのに、ソレは長身のシューウィの高さを楽々と越えて倍ほどもある。
シューウィが手持ちの鋏を投擲するかどうかを見定める一瞬――
「触れるな小童っ!」
クララの背後、また一つ影が立ち上がった。
それは巨大な口を広げ、牙を剥き、人狼の首元へ踊りかかった。
「ベル」
微かな月光が影を照らす。
白黒の猫だったはずのベルの体毛は闇と見まがうほどに黒く、蛍光色に光る黄色の瞳を見開いて、人狼に組み付いていた。
まるで豹のように。
「神造物――本領発揮かよ……!」
額に浮いた汗を拭う。それだけの余裕が生まれていた。
「癪な事よ……」
前足で人狼の口を塞ぎながら、ベルは喉の奥で唸る。
「下賎の者よ、クララを任せる。傷一つつけてみろ、噛み殺すぞ」
ぞっとするほど冷たい声であった。
しかしそれにあえて応えず、「こっちに来い、クララ」と小柄な身体を引き寄せる。
「でも、もうベルが――」
「静かにしろ」
彼女の白い胴着に人狼の血がべったりとついたが、構っている余裕はなかった。
鋏を右手に、左手にクララの肩を抱き、急激に増えた気配に身を強張らせる。
「人狼ってのは狼と違って群れないはず、だろうがよ……」
草が鳴る。
いくつもいくつも、いくつも。
「今は離れんなよ。でも、服は掴むな。俺が動けないんじゃ二人ともやべぇ」
震える少女が腕の中で頷く。
――この分じゃ、彼女が使うつもりだった使徒は殺されて終わるだけだったな。
シューウィも認識を正す。
これは、異常事態だ。
退く決断も大事だ――そう脳裏を掠めた瞬間、背後の気配が殺気に変わった。
「っ!」
飛び出してきた物の正体を確かめる前に、シューウィは振り向き様に鋏を突き刺した。
「なっ」
赤く貫かれたそれは、
「子供……!?」
クララと同じような背丈の人狼であった。
「いや、待て――何の冗談だよっ!」
再び暗闇から迫る気配に、今しがた息を止めた亡骸を投げつける。
それに正面から当たって体制を崩したのもまた、小柄な人狼であった。
「そうか、――そうか。あの、でかいのは……!」
闇に落ち往く世界に響く咆哮。
シューウィは拙い思考で推測を回す。
理性を失った母親。
道連れにされた子供達。
「悪夢、だな……」
シューウィは歯軋りする。
この世界を支配する『神』への苛立ちから。
「くそったれが」
わざと鋏を鳴らして、思考を寸断する。
「クララ。目ぇ瞑ってろ。今からあいつ等を斃す」
「嫌」
彼女はぴしゃりと拒否した。
「私は、穢れた魔物を浄化する責務がある。その死に様を見ないわけに、いかない」
それはまるでリゼアスタのような物言いだった。
思わず、見惚れるほどには。
「……うい」
短く返事して、彼女の身体をひょいと荒っぽく小脇に抱えた。
「さあこい――人狼共!」
安っぽい挑発だ。
しかし、理性を失った魔物は耐えられない。
草むらから飛び出したのは三人。
どれも似たような大きさだ。
「はぁあああああああっ!」
正面から向かってくる一匹の喉を刃で押さえ込み、右から来た一人を身を逸らして避ける。
「――っだぁ!」
じょきん。
いっそ軽快に、白い刃は人狼にしてはか細い首を掻っ切った。
剪定のように、軽く。
噴き出す血を避けるようにしながら、足元まで迫っていた一人を蹴り飛ばす。
重い音と痛々しい叫び声。
シューウィは謝る理由をもたなかった。
「こなくそっ!」
だが、胸につかえる物はある。
「大人しく、してろっ!」
切っ先を転がった人狼の心臓に突き刺す。
激しい鳴き声。
「ああっ! くそっ!」
その声を塞き止めるために、また細い首に刃を突きたてる。
恐らくごく短い間、感傷に浸っていたのだろう。
「主よ。この者に栄光と、嘆きを沈めるための祝(のり)をお与えください!」
気がつけば抱えられているクララが詠唱していた。
焦りにも似たそれの意味を、次の瞬間知った。
「っ!」
人狼が二人の前で見えない壁にぶつかっていた。
クララの聖なる力が発動しているに違いない。
「さあ!」
「ああ、あんがと!」
そして飛び掛り、恐怖に見開かれた瞳を見ないようにして、首を掻き切った。
「っしゃ!」
これで全部だ。
ベルを見ると、そちらも制圧が完了したようで、訝しげにシューウィを見つめていた。
「クララに傷をつけていないだろうな、下賎の者?」
「そちらの御意向通りに」
「ふん。――狂人め」
ベルは喉を鳴らすとクララに目を向けた。
それはまるで母猫のように優しく。
「さ、クララ。こちらに着て浄化を」
「うん」
シューウィが彼女を地に下ろす。
「ありがとう、シューウィ」
「礼を言われることじゃねぇよ」
さっさと行けと手で示す。
彼女はぱたぱたと軽やかに暗闇を駆けていく。
その姿に。
「――ッ!」
迫る、亡骸だった「はず」の物。
最初に斃した「はず」の人狼。
――何で。
少し考えれば分かることだ。
斃しただけでは穢れた魔物は死なない。動きを止めるだけだ。
だから、その回復力でまた動けるようになったに過ぎない。
でも。
シューウィの脚は止まっていた。
時間すら、止まっているように感じる。
『シュウ』
そう。
あの時だって。
『私――』
彼女は、振り向くことが出来なくなったじゃないか?
「アンジェッ!!」
地を蹴り、手を伸ばす。
クララはそんな鬼気迫るシューウィの声に振り向き、間近に迫った人狼にようやく気づいた。
「おっせぇっ!」
死に掛けの人狼だ。
シューウィの脚で追いつけないわけがない。
だが、放った鋏の背中への一撃は浅く、クララを狙う牙を止められない。
――なら。
「こっち向けぇええええええっ!」
突き刺した刃を軸に、力技で方向を変える。
自身に牙が向くように。
「シューウィ!」
クララの悲鳴は、強烈な痛みを感じるのとほぼ同時だった。
飛び散る鮮血。
シューウィの左腕は、二の腕の中ほどから噛み千切られた。
「――っ!」
歯を食いしばり、目を見開き、悲鳴を食い殺す。
――これだけの痛みが何だというのか。
――まだ、右腕がある。
鋏を最大に広げ、シューウィの血でいっぱいになった人狼の口に縦に突っ込んだ。
「これでぇっ!」
胸元から一本の短剣を取り出す。
それは鍔元に『教会』の印を刻んだ、護身用の短剣だった。
しかし、十分。
「ぐぎゃあああああああああああ」
銀の両刃は深々と人狼の喉を貫いた。
「うるせぇ」
短剣を何度も何度も捻り、勢いをつけて抜く。
勝負は決していた。
「あっ――」
命を失って倒れて込んでくる人狼を、シューウィは支えられなかった。
硬い地面に強かに背中を打ちつけ、一瞬意識が白く飛ぶ。
「おい! 生きているか!」
「――たりめぇだろ」
ベルの声に左手を上げて応えようとして、そこに腕がないことを思い出す。
「……どうしよ?」
痛みは既に麻痺していた。
ただ、このまま何もしなければ血が流れきって死ぬことは間違いない。
「とりあえず止血――」
「待って」
今まで黙っていたクララが、青い顔して立っていた。
噛み切られたシューウィの左腕を抱えて。
「げっ。そ、そんなもんさっさと捨てろって」
「……」
彼女は顔を血に濡らして、ふるふると首を横に振った。
「ベル。人狼を片付けて。全部一箇所に集めて」
「……仰せのままに」
猫はシューウィの上に覆いかぶさっていた人狼を咥えてどこかへ行ってしまった。
「身体、楽にして」
「お、おう」
冷たい地に仰向けになると、彼女はシューウィの左側に跪いた。
「主よ。どうか、私に、傷ついた騎士を癒す術をお与えください――」
クララは目を閉じ、今しがたシューウィが悪態をついた物に祈る。
その身がうっすらと光を帯び、神の奇跡が発動しているのが見て取れた。
「夜に眠りを。朝に喜びを。人に痛みを越える精神を」
ゆっくりと開かれた瞳は、灰色に揺れていた。
「貴方に、光あれ」
シューウィの左腕に電気が走ったかのような鋭い痛みが走った。
思わず顔をしかめて身を捩ると、『左腕に重みを感じた』。
「はっ……?」
持ち上げる。
確かにそれは、シューウィの左腕に違いなかった。
噛み千切られたはずの腕が、彼の身体に戻っていた。
ずたずたになった傷口すら分からない。
まさに、奇跡(ありえないこと)であった。
「……治療の奇跡?」
クララはにっこりと笑った。
「得意、なんだな」
「うん」
シューウィの主人たるリゼアスタは、この手のことが本当に苦手だ。
簡単な傷を治すのにも数分かかる。
クララは人体を繋げることすらやってのけるのだ。傷を塞ぐくらい寝ていても出来るだろう。
「シューウィ」
彼女は甘い声で、彼の名前を呼ぶ。
「守ってくれた、の?」
「あ? ……あー。そう、そうなるか」
「私の使徒じゃないのに?」
不思議そうにしている彼女の額を撫でる。
今しがた治った左手で。
「関係ねぇよ。俺は、俺の意思でお前の前に飛び出しただけだぜ」
「……」
クララは恥ずかしそうに身を縮めて顔を染めた。
「……ありがとう」
「ん」
反動をつけてひょいと立ち上がると、ベルの黄色い目がぎろりとこちらを向いていた。
「な、何だよ」
「……ふん」
何やら気に食わないことがあったようだ。
「クララ。浄化を」
「うん」
彼女は慌ててシューウィから離れ、ぞんざいに積み上げられた屍の前に歩を進めた。
その赤い唇からもれるのは、聖句ではなく歌であった。
「月より落ちたる罪悪よ。地より来る災厄よ。我声に応えるならば、時を閉ざせ。我聖印に応えるならば、宙を閉ざせ。閉じた扉、開かれる疵。凭(もた)れる屍を伏す生の茂みに成らぬように、灰を地に撒き、声を空に撒きて、世界に清浄なる主のお導きを」
聴いたことのない歌だった。
しかし、それは甘く遠く、シューウィの心に響いた。
――神なんて、くそったれだと思っているのに違いはなかったが。
シューウィの主人たるリゼアスタは炎による浄化を行う。
では、クララは?
素朴な疑問の答えは直ぐに出た。
「光あれ」
刹那、変化があったのはクララでも屍でもなく、ベルであった。
その黒い身に白い光が雷のように走り、さらに一回り巨大に成った神造物は――
がぶりと人狼の屍を、その口に含んだ。
「は?」
唖然とするシューウィの目の前で、殺戮――否、食事は進んでいく。
骨を砕く音と、肉を裂く湿った音。
咀嚼する音があまりにも『普通すぎた』。
「……どっちが下賎だよ」
ようやくシューウィが悪態をつけるようになったのは、血の跡も残さず、ベルが全てを飲み込んだ後だった。
「ありがとう、ベル」
「いいや。我はこのためにいるのだ、聖印よ」
血みどろになった口元に、クララは寄り添った。
――何というか。
シューウィは急速に失われる気力に、抗うつもりはなかった。
結局、人狼退治はクララの助言もあり、多くの報奨金を得ることが出来た。
「いやっ、フォロは気前がいいなぁ。うんうん」
銀貨でいっぱいになった袋を持ちながら、シューウィは嬉しそうに笑っている。
そんな後ろを、クララがついてきていた。
「……で? これから暇してんの?」
振り向き、彼は少女に問う。
「え?」
「次の仕事あんの? って聞いてんだよ」
「……聖下の支持を仰がないと……」
「そ? じゃ」
シューウィは道端の喫茶を親指でくいと差した。
「腕の礼、させてくれよ」
「礼……? お礼?」
「っそ」
シューウィはさっさと外の席を取り、「さ、座った座った」とクララを呼び寄せる。
「すんませーん。メニューくださーい?」
「はいただいま」
ぱたぱたと走ってきた女給を見るなり、クララは口を開きかけた。
「あああああ!」
それを慌てて止める。
どうせ祝福しようとしたのだろうから。
「み、見て、ほら! 修祓者! すごくね!?」
「まあ!」
女給は嬉しそうに、「お会いできて光栄ですわ!」と彼女にメニューを差し出した。
「当店ではラズベリージャムをお入れした紅茶がお勧めですの。よかったら修祓者様もどうぞ!」
「……う、うん」
スキップしながら店の中に引っ込んだ女給を見送り、シューウィはわざとらしくため息を吐く。
「あの、な? あの人を祝福してもなんにもなんないだろ」
「でも、お茶、持ってきてもらわないと……」
「それは! お願いしまーっす! って言って頼むの! お願いして、持ってきてもらうの!」
「う……?」
「ったく……。おい悪猫、それくらい教えてやれよ」
悪態をついてみるが、ベルは小さくあくびをしただけで終わった。
「あー! もう! 修祓者めんどい! ほんとめんどい!」
「……何を騒いでいるんだ」
ぎょっとして道を見ると、そこにはリゼアスタ――彼の主人が訝しげに立っていた。
「うおう!? お前、なんでここに!」
「上手く『銀馬』が借りられたから、もう帰りだ。お前こそどうした、ここに戻ってくるとは」
「いや、人狼をこいつとぶったおしてた」
「……」
リゼアスタが近づいてくる。
クララはそんな彼をじっと見つめていた。
まるで、人形のように。
「アスピニで使徒を増やしたのはお前だな」
「うん」
「……力が過ぎるぞ、クララ」
青い瞳が薄っすらと白くなる。
「わああああ!」
シューウィは慌てて立ち上がり、目前に迫ったリゼアスタの身体を後ろから羽交い絞めにした。
「な、何だ!?」
「聞いてくれリゼアスタ! その、何だ、お前の二つ名は知ってるし、お前の目的にはいくらだって力を貸す! でも! ……俺に免じて、クララを今は見逃してくれないか」
「は……?」
「な、クララ!? お前、もう使徒がいなくても大丈夫だよな?」
そのその問いかけに、クララは一瞬身体をびくりと震わせた。
泣きそうな顔をしながら、ベルを抱きしめて、リゼアスタを真っ直ぐに見る。
「……頑張る」
「え?」
「シューウィが……いろいろ、言う、から。使徒じゃなくても、守ってくれて……使徒が周りにいなくても私……怖く、ないように、なりたい……」
「……」
彼は肩越しにシューウィを見、やがて身体の力を抜いた。
「お前が、修祓者を変える、か」
「……んじゃ」
「『今』は、いい」
シューウィの腕からするりと抜け出して、リゼアスタはクララの隣の椅子に腰掛けた。
彼女の腕の中の猫が、ぎろりともう一人の修祓者を睨む。
「ああ、ベル。不機嫌そうだな」
「――小童め。クララを斬れると思うなよ」
「さあ……」
微かに笑って、「俺はミントティーがあればそれを」と事も無げに言ってのける。
「お前は? クララ」
「……あう……。えっと……さっき、ね、おすすめが、あるって」
「ほう。……本当に、変わったな、お前」
その表面上は和やかになった雰囲気にほっと息を吐き、リゼアスタの隣に座る。
「俺、エール!」
「酔っ払う気か」
「いいんだよ、人狼討伐成功祝いだからな」
そう言って彼が呼んだ女給は、修祓者が二人揃っている事に感激し、そのまま床に倒れた。
...to be continued