新月であった。
夜は暗く、こんな日には穢れた者達の力も一段と強くなる。
自警団(ガード)も神聖騎士(ナイト)も守護すべき民の為に出払ってしまっているのだろう。
夜の道に人影はない。
――だというのに。
灯石(あかりいし)の柱がちらちらと頼りなく揺れて街を照らしている、その真下で踊る影。
一方は人。二本の足で立ち、頭の頂に毛を生やし、二つの目玉を持ち、間違いようのなく。
しかし、片方は人と言っていいのか――きっと目撃者がいれば言いよどむに違いない。
二本の足で立ってはいる。
毛むくじゃらというわけでもない。
目玉も三つあるわけではない。
姿形は人であるにも関わらず、その者が纏った雰囲気は異質であった。
その長身に洩れなく血を浴びているからなのか。
それでいて楽しそうに笑っているからなのか。
目の焦点が定まっていないからなのか。
「化け物め――!」
対する『人間』はゆらりゆらりと動く『ソレ』に怒号をぶつけた。
そうでもしないと背を向けてしまいそうとでも言わんばかりに。
「一体誰に雇われてきた、答えろ!」
「……う? うぅ?」
ソレは全身を横に揺らして呻くだけだ。
「誰に雇われたと聞いているっ!」
奔る閃光。
人間がソレの喉元に突き出したのはレイピアであった。
その切っ先を避けようともせず、ソレはからからと笑っていた。
「一匹目は砂糖菓子を探して竈で焼かれた」
意外にも明瞭な声がソレの唇から発される。
「は?」
「二匹目は蜥蜴の尾を踏んで噛み千切られ、三匹目は振り回した傘で己を突き、」
「何……?」
楽しくてしかたない、まるで子供が大好きな菓子を与えられた時に見せる無垢な笑顔を浮かべて、ソレは続ける。
「四匹目は時計の針を戻そうとして罰せられ、五匹目は天に昇ろうと梯子を上って落ち、六匹目は世を嘆いて晴天の雷に打たれ、七匹目は――」
「……もういい! ここで死ね!」
レイピアとソレの喉との距離は僅か指一本分に満たない、はずであった。
しかし、人間が足を一歩踏み出した刹那、ソレは闇にゆらりと消えた。
まるで消えかけの灯石が見せた幻であったかのように。
「あ……? 何処に行った?」
呆けた声。
それがその人間の最後の言葉になった。
ぴっと勢い良く、少量の血が暗闇に舞った。
とたんに崩れ落ちる人間の体。
「ひゅっ」
ソレは笑っていた。
血塗れの手をぷらぷらと振って、地に伏せる男を凝視する。
うつ伏せに倒れた男の頚椎にはごくごく小さな穴が開いており、そこからまるで泉の様に血が止め処なく溢れていた。
このまま倒れていれば時間を置かずに死ぬだろう。
しかし――
「ははっは、はははっ」
ソレは手の内にあるものをくるりと回した。
ある時は人間の髪を切り、またある時は植物の剪定に使い、またある時は華奢な指を切る物。
即ち『鋏』。
それをしっかりと持ち、躊躇なく、むしろ最大の勢いをつけて、
「あはっ、あはははっ、ひっ」
人間の背中に突き立てた。
湿った肉を貫く音が、闇の中に響く。
何度も。何度も。何度も。
「鈍色の糸、蔦這う皿、飴玉の歌」
引き抜かれるたびに赤黒い血が飛び散り、ソレの体を濡らしていく。
「花宿す枝、赤い唇、白い肌、ああ――」
そこで初めてソレは表情を変えた。
痛みに耐えるように。悲しみに歪むように。
「アンジェ」
ぽつりと呟き、ソレの手の動きはようやく止まった。
後に残されたのは人間『だった』もの。
それを不思議そうに見つめた後、やはりソレはくつくつと楽しそうに笑った。
この世界で人が人を殺すことは珍しいことではない。
隣国同士の紛争や大規模な戦争が起こることも珍しくなかったし、強盗や盗賊に襲われたり、賞金稼ぎ達のいざこざで命を落とす事だって稀ではない。
しかし、喧嘩の末や仇討ちでもない無差別の大量殺人となれば話は別だ。
リゼアスタはそんな「不可解な殺人」の噂を酒場で耳に挟んだ。
「修祓者様もお気をつけくだせぇ」
そうラムを差し出してきた酒場の店主に「ありがとう、気をつけるさ」と笑みを返した。
だが――その表向きの感情も、グラスに口を付けた途端に消え失せる。
大量殺人鬼。
被害者はいわゆるおじさんおばさん以上のみ。
男も女も被害にあっているが、どの人物もそれなりの金や地位がある。
そして揃って極悪人。向けられた恨み辛みは数知れず。
『教会』関係者、聖職者は殺されていない。
目撃情報によると、殺人鬼は長身の何者か。
被害者の死に様から見るに、恐らく人間の仕業。
暗殺者でも雇われたか? 我らがヒーローの誕生か? 等と見出しが踊っている。
「これは……」
リゼアスタは額に手を当てた。
「しまったな、半年も寝ていたんだった……」
酔いが回るのが早い気がする。
くらくらとする精神を何とか奮い立たせて、「親父さん」と呼びかける。
「その殺人鬼は、どの辺りに出るんだ?」
「どこって、このフォロの町全体に出てますぞ。三日にいっぺんほど」
店主は「修祓者様が何とかしてくれるのですかい」とそわそわしていた。
リゼアスタが「困っている者を見過ごすわけにはいきませんので」と肩を竦める。
「このところフォロでは夜に出歩ける者など居ません。まあ、殺された連中は手下を引き連れられるような地位やコネを持った者ばかりですな」
「はあ。つまり、自分は殺されない自信があった……?」
「へえ、そんな者ばかりでしょうな」
「なるほど。――ちなみに最後の被害者がやられた現場は?」
「東通りでさ」
「ありがとう」
グラスの残りを煽って、リゼアスタは席を立った。
傍らの剣を取り上げる。
「気が重い」
ぽつりと呟き、カウンターに銀貨を押し付けるようにして酒場を出た。
細い三日月が彼の髪を照らしている。
フォロの町は休憩のために偶然立ち寄っただけであった。
しかし、こうなっては幸運であったという他ない。
町は既に人影はなく、皆家の中で怯えているのだろう。
自警団は恐らく町の外から何かが入ってこないように見回っているのだろうし、神聖騎士も姿は見えない。
夜に出歩かなければ大丈夫――そんな考えなのだろう。
「危機感、なさすぎだろう……」
この世界は死に慣れすぎている。
リゼアスタの師匠の言葉ではあるが、彼自身もそれをひしひしと肌で感じていた。
東に向けて歩き出した彼の背中で、大剣がかたかたと音を立てて揺れている。
灯石の柱が、彼の道を導くように街路に等間隔で立っている。
フォロは小さなわりに明るい町であった。
きっと近くに灯石の採掘場があるのだろう。でなければそれなりに高価なそれをこんなに整えることは出来ない。
「そこで堂々と殺人、ね……」
リゼアスタは大きく息をつく。
「目立つなとあれほど……、いや」
半年も寝ているほどのヘマをやらかした自分が悪いのだ。
そう言い聞かせ、東通りでぐるりと辺りを見回した。
何の物音もしない、静かな夜。
だが、気配だけは確かにそこにあった。
「くふっ」
声を殺していただろうに、堪えきれなくなったような唐突さで笑い声が聞こえてきた。
リゼアスタはその方向を緩慢に振り向く。
「あはっ、ははは」
闇の中からゆらりと出てきたのは長身の男だった。
全身を赤茶色――乾いた血の色だ――に染めて、ゆっくりゆっくりとリゼアスタに近づいてくる。
「やっぱりお前か」
「欠け往く月。歪み無き円環。憧れ、焦がれ、尽くし、啼き――」
「いい、いいから。分かってる」
リゼアスタは胸元から二つの三日月が組み合わさったロザリオを取り出した。
『教会』の聖職者ならば誰もが持っている証。
灯石に照らされて、それはきらきらと虹色に光った。
「う……?」
長身の男は、動きを止めた。
微かに揺れる二つの月を、目で追う様子は小動物にも見えた。
「良く見ていろ」
リゼアスタは語気を強める。
「主よ。この者の過去を許したまえ。この者の現を許したまえ」
修祓者の体が微かに白く発光し始める。
「主よ。この者の力を許したまえ。未来へ進むことを許したまえ」
「はっ」
笑い声。
餌を待ちきれなくなった犬のように、長身の男はリゼアスタに迫った。
――待てないか。
だが、彼は目を細めただけに留まった。
「主に代わり、我が名を持ってこの者に祝福を与えん」
男の指先がリゼアスタの喉を捉える寸前、
「戻れよ、シューウィ。まだ終われないんだろ」
その狂人の名を呼んだ。
「……」
ぴたりと。
まるで時間を止めたように、彼の姿はリゼアスタの眼前で不自然に止まった。
「……お?」
そして長身の男は、にやりと笑う。
「リゼアスタか。久しぶり」
嬉しそうに笑った彼の瞳は、しっかりとリゼアスタの青い瞳を見つめていた。
「……んあ。何だこれ」
彼は自分の身を確かめて、「うっわっ、ぐっちゃぐちゃじゃねぇか! 何人殺したんだ、俺」と狼狽する。
「しかも何だ、俺、お前を殺そうとしたのか?」
「ああ」
「やっべぇなそれ。お前だけは殺せないっつーのにさ」
からからと笑った男に苛立ちを感じて、リゼアスタは拳で彼の頭を殴った。
「いいからこの町を出るぞ。目立ちすぎだ」
「え? 俺、何人くらい殺した?」
「馬鹿野郎! 楽しそうにするな馬鹿、行くぞ馬鹿、早くしろ馬鹿」
「ひっでぇ! 聖職者の言葉じゃねぇだろそれ!」
「いいから早くしろ!」
リゼアスタの怒号に押されるようにして、シューウィは「へーい」と漸く走り出した。
二人がフォロの隣町、アスピニにたどり着いたのは夜が明けて直ぐであった。
ぐったりと公園の茂みに横になるリゼアスタの隣で、「いやー、参った参った」とシューウィは相変わらず笑っている。
「腹減った。店が開いたら飯食いてぇ」
「その前に服を用意してやるから我慢しろ……」
「やっ、悪いなリゼアスタ」
「本当に悪いと思っているなら笑うな」
「へーい」
シューウィは途端に真面目な顔をして、空を仰いだ。
「……何ヶ月くらいこうしてたんだろな。何人殺したんだ」
「すまん。俺が半年も『休眠』してたのが悪かったんだ」
「いやあ、そいつは恨めねぇよ。リゼアスタだって仕事、あるんだしよう」
シューウィはぷらぷらと手を振る。
「俺は感謝してるんだぜ? 定期的に正気に戻してくれる、お前のことをさ」
「……」
リゼアスタは首を横に振った。
「俺に感謝するくらいなら、さっさと復讐を終わらせろ」
「へーい」
でも、とシューウィは首を傾げた。
「別に俺を探してたわけじゃねぇんだろ? 何であの町に居たんだよ」
「俺の目的地は北の都だ。そこに聖下の文を渡しに行くところだった」
「……あん? じゃあちんたらしてられねぇじゃねぇか。わりぃな」
「いいんだよ。お前をほっとくといつか聖印持ちか神聖騎士に討伐されかねないし」
「ああん? 俺がそいつらに負けるとでも」
「大事になると面倒なだけだ」
大きな溜息。
シューウィと出会った日の事をぼんやりと思い出し、目を細める。
あの日も月の照る夜だった。
しかし、『今日のように』穏やかではなかった。
シューウィは人間として狂ってしまっていたから。
言葉は通じず、感情は単一で、視線は安定しない。
ただずっと、ある物を求めて人を殺していた。
殺す相手が相手だったので、人から賞賛されることすらあったが、元来褒められることではない。
制止に入った神聖騎士や自警団を殺すことはなかったが、壊滅状態に追い込んだところで、リゼアスタと出会った。
本当に殺そうとしたし、殺されそうだった。
それを救ってしまったのを――時に、後悔することすらある。
「そろそろいいか。服を買ってくる」
「お前の服のセンス信用していいの?」
「祈って待ってろ」
「うへぇ」
明らかな不安を滲ませたシューウィを無視し、リゼアスタは朝焼けの中を進んだ。
「あはっ」
満月だった。
月の光が美しかった。
「あー……う?」
『彼女』のように、美しい月だった。
でも、思い出せない。
「うー……?」
思考が濁っている。
赤く。黒く。
全ての像が正確に結ばれない。
よたよたと足が、自分の意思とは無関係に前に進んでいく。
時間が分からない。
生きているのかも分からない。
満月が歪む。丸くない。むしろ四角に近い。
「あはっ、ふははっ、はは」
それが滑稽で、楽しくて仕方がない。
呼吸困難に陥りそうだ。
そう、そうなのだ。
そんな場合ではないのだ。
早く見つけなければいけないのだ。
誰を?
分からない。
分からないけれど、この自分の思考とは離別して動く足が分かっているのだろう。
それでいい。
思考などいらない。
そんなものあったところで悲しいだけだ。
悲しいのは何故か。
分からない。
分からないけれど、この自分の思考とは離別して動く腕は分かっているのだろう。
それでいい。
思考などあったところで。
「止まれ」
「う?」
反射的に、声をかけられた方向を向いた。
だが、足は止まらなかったようで、もう一度「止まれ」と言われてしまった。
「……従う気はなさそうだな?」
確認したとばかりに、その声の主は自らの得物を引き抜いた。
「あひ」
楽しい事が起こる。
そう思うと心が躍った。
そうだ。
何度もやってきたことだ。
でも、その時は楽しくなかったような気もする。
じゃあ、何だったのだろう。
「ひゃっ」
思考とは無関係に、自分の体は跳ねた。
腰に下げたナイフを引き抜き、目の前の男に迫る。
「っ!」
短い息の音。
次の瞬間には、剣とナイフの刃ががっちりと噛みあっていた。
「なんって、ちか、ら……だっ!」
相手の苦しそうな声が、楽しくなかった。
「はっ――」
笑い飛ばそうとして、それに気づいた。
男の首元に揺れる、二つの三日月。
それが、目に痛い。
それと同じものを首に下げていた誰かを、思い出せない――
悲しい。
辛い。
痛い。
「欠け往く月」
それを何とかしたくて叫んだ。
「歪み無き円環」
しかし、分からない。
「憧れ、焦がれ、尽くし、啼き」
自分の言葉の意味が。
「我ら人の仔、神の涙の痕を往く」
何を伝えたいのか。
「我ら人の仔、神の剣に裁かれる」
でも、伝えたいのだ。
「月は見えぬとも。人の仔は神の手の下に」
「――……」
目の前の男は驚いたように目を丸くして、歯を食いしばった。
「なんっ、だ、話が違うじゃないか……! ああっ、ったく!」
そしてその男の青い瞳は、うっすらと白くなっていき――
宿の食堂で新聞を広げながら、シューウィはコーヒーを啜った。
「ん、出てる出てる。フォロの殺人鬼なりを潜める、ね。うんうん」
一人でぶつぶつと呟きながら読み進めていく。
「へー、人狼の目撃情報……アーロウとキリシナで戦争……やー、世の中怖い怖い」
シューウィは笑いながら新聞を畳んだ。
情報収集は最低限で事足りる。
「お待ちどうさま!」
女給が差し出した林檎のサラダと黒パンに「わーい」と子供っぽく喜び、早速食べ始める。
「あら? お客さん、お連れ様はどうしたんですか?」
「む? ああ。あいつは先に行ったよ。目的地が違うんだ」
リゼアスタはこの町で一泊し、さっさと北の都に出発してしまった。
もともと一緒に旅をするような仲でもない。
彼が買ってくれた服は驚くほど身長にぴったりで、しかし何処か聖職者じみているのが可笑しかった。
「そうだったんですねぇ」
残念そうに女給は唇を尖らせた。
「何、惚れたの?」
「まさか!」
シューウィの軽口に、彼女は勢い良く手と顔を横に振る。
「ただ、もう少し居てくだされば二人の修祓者様を同時に見られたかもしれないと思うと……はぁ、残念」
「はい?」
修祓者は聖職者の中でも珍しい存在だ。
『教会』の聖職者の中で聖印を持つ者は一割ほどだが、更に修祓者ともなれば圧倒的に数が少ない。
人生の中で一人見ればいいと言われる『それ』を二人同時に見れる機会となれば、民の憧れになってもおかしくなかった。
「修祓者がこの町に?」
「ええ。何でも、隣町のフォロの周辺の廃墟で人狼が目撃されてる、とかで」
「ああー、これな」
新聞を上下に振った。
「それで、修祓者が、ね……。この町に滞在するのか」
「だったらいいなぁって!」
「はぁ」
シューウィは顔を顰めた。
「どういう奴何だろうなぁ」
興味がないわけではない。
だが、『主人』のことを思うと、おおっぴらには会えない。
「あ。ところで姐ちゃん。賞金首のチラシ、ある?」
「え? ええ? お客さん、賞金稼ぎなんですか」
「おうよ」
「修祓者様と賞金稼ぎがご一緒とは……。私も賞金稼ぎになろうかな」
「いやいやいや。どんだけ憧れてんだよ。止めとけって、な?」
とにかく、賞金首が描かれた用紙を受け取った。
「んー……」
案外数が少ない。
「人家を襲う巨大虎、養殖の貝を食っちまう池の主、後は件の人狼か……」
シューウィがこれから生きていくためには金が必要だ。
となれば稼ぐ手段は一つしかない。
賞金首を狩り、報奨金を貰う。
それが『正気の間』の仕事だ。
「虎って何だよ、虎って本当に存在してんのか? ……池はパスだ。泳ぎたくねぇし」
となれば。
「人狼かぁ……」
深く溜息を吐く。
「まあ、斃すだけなら、な」
人狼は穢れた魔物だ。
聖なる力がなければ、殺しきることは出来ない。
とりあえず頭を落として、来るであろう修祓者に引渡し、倒した証拠に耳でも貰ってくれば、依頼書に書かれている報酬は貰えるだろう。
修祓者の到着を待てずに、賞金稼ぎに穢れた魔物退治を頼む者は少なくない。
とりあえず行動不能にしておけば、目先の危険は回避できるからだ。
「……ま。修祓者サマのご加護もあることだし、行ってみますか」
まずは自分が荒らし尽くした町の近いところまで行かなければならない。
「姐ちゃん、後一週間くらい部屋借りてぇんだけど」
「おっ。さては修祓者様を見たいんですね?」
「あ、いや、まあ……」
これから直接会いに行こうと思っているとは言えなかった。
「分かりました! 宿代はご一括で?」
「おうとも」
金貨を二枚渡すと、「まいどありがとうございます」と女給は笑った。
兎にも角にも、準備をすることが重要だ。
シューウィはぷらぷらと町へ繰り出す。
アスピニの町はなかなか活気ある場所であった。
市場は盛大に繁盛しており、見慣れない鉱物や植物が取引されている。
「お、うまそ……」
串や椀といった食事に目移りしながら、目的の物を探す。
「あ、居た居た」
彼が足を止めたのは、野鍛冶が出している露店であった。
しかめっ面の店主が並べているのは、主婦達が愛用する包丁や鍋等、およそ賞金稼ぎとは関係のないようなものばかり。
しかし、シューウィは嬉しそうにしている。
「親父、研ぎはやってるかい」
「ああ」
店主は彼をまじまじと見つめ、「料理人じゃあないな」と目を細めた。
「剣かい」
「いいや。これだ」
彼が無造作に取り出したのは鋏であった。
黒い皮の持ち手から生えているのは、銀色というよりは白色に近い刃である。
珍しい品に、店主は「ほう」と目を丸めた。
「できっかな?」
「触ってもいいか」
「どうぞ」
鋏を受け取るなり、店主は「むう」と低く唸った。
「見た目よりもずっと重いな」
「ノア鋼ってやつだ」
「あんなもんを鋏にしとる馬鹿がいるのか」
店主は大笑いし、「やってみるよ。お代は五枚だな」と手を差し伸べる。
「え、そんなもんでいいの? 他所ではもう少ししたぜ?」
「何だ、高くなったほうがいいのか?」
「手ぇ抜かれちゃ困るんでね」
「いいさ、こんな面白いものに巡りあわせてくれたんだから。まけとくよ」
「やりぃ! んじゃ、もう少ししたら戻ってくるわ」
うきうきした気分でその場を離れる。
長年『仕事』をしていれば、砥ぎの得手不得手は見るだけで分かる。
今回はいい職人に出会えた。
「でもこれで金はいよいよアレだわ。やべー、マジやべー」
ぴょんぴょんと跳ねながら大通りを行くと、武装している集団を見かけた。
どうやら同業者のようだ。
「何狩りに行くんだろうな」
見た目から察するに、手柄を取られるような気配はない。
このご時世、生活に困ったらとりあえず賞金稼ぎの道に堕ちる。
しかし生き残れるのは一握りの人材しか居ない、厳しい世界なのだ。
ただ良い装備を整えればいいという簡単な話ではない。
経験と危機管理、そして運の世界なのだ。
「ま、せいぜい頑張れよっと」
声を小さくして応援しておく。
時間を潰すために安い本を一冊仕入れ、当てもなく歩いたところで、先日の公園に辿り着いた。
「ここで読みますかね」
時間は昼下がり。子供達が親の仕事終わりまで駆け回っている時間帯だった。
複数あるベンチの中から、大きな林檎の木の陰にある物を選んで座る。
足を組み、背もたれに身を預け、乾いた頁を捲った。
子供達の甲高い笑い声を聞きながら、安っぽい恋愛小話を先に進める。
傍から見れば本に没頭する青年に見えただろう。
しかしシューウィの意識の半分は物語の外に向けられていた。
何時『同業者』に襲われるか分からない。
正気を保てない間も顔を隠していない分、殺人鬼として覚えられている可能性は十分にある。
だからといって、闇雲に『口封じ』はしたくない。
ならば、少しでも気配を感じた時点で行動を起こしたいのだ。
あくまでも平常心を装って。
しかし、特に敵愾心を察知することもなく時間は過ぎていった。
陽が傾きかけた頃、そろそろ鋏を取りに戻るかと思ったところ――
「……あん?」
それが横に居ることに気づいた。
ふわふわの黒と白の毛。長い尻尾。ぺたりと垂れた一対の耳。ぷっくらとした丸い掌。
つまり、猫。
見事に丸まってシューウィの手の届く場所に陣取っている。
「……」
そっと手を伸ばしてみる。
「おう……」
ふわっふわだった。
耳がぴくぴくと動いているし、ちらりとこちらを確認したので、「許している」のだろう。
「何だー? 俺は今金欠だから何も持ってないぞー?」
「その下賎な手から食事を貰う訳なかろう」
「ですよねー。……分かってんだよ、猫又野郎」
猫が人の言葉を話したことに、シューウィは驚きを見せなかった。
人間だろうが穢れた魔物だろうが、生き物であれば気配を見逃すはずがない。
であれば、この猫は『違う』。
「何モンだ、てめぇ」
「無礼な口を」
「無礼なのはそっちも一緒だ。一体こんな人の多いところで俺に何の用がある?」
「ふん」
猫は漸く、そこで顔を上げた。
「修祓者の匂いがしたから来てみただけよ」
「っ……!」
「しかし居たのは下賎な血の臭いのする者だけ――無駄足だな」
ぴょんとベンチを降りて、猫はふんと鼻を鳴らした。
「精々足掻けよ下賎な者」
一度だけ、にやりと狡猾に笑い、猫は茂みへと見えなくなった。
「……何なんだあれはよ」
溜息を吐いて、シューウィもその場を後にした。
鋏を受け取って宿に帰ると、シューウィの意識に障る何かが漂っているのに気づいた。
「何、だ……?」
思わず言葉が詰まる。
まだドアを開けていないのに、中で異常なことが起こっているのが分かるほどに。
「まさか……」
鋏を腕に隠し、音がしないよう注意して扉を開けた。
中はがやがやと騒がしい。それは、朝と変わりない。
しかし――
店員も客も、同じ一点を見つめていた。
部屋の真ん中。
宿内は混雑しているのにもかかわらず、そこにはたった一人しか座っていない。
白い胴着を身に纏った、小柄な少女。
「あっ……」
思わず声が漏れた。
その少女は、美しかった。
黒い長い髪が窓から漏れる西日によってきらきらと輝き、うっすらと紅に染まった頬が少女ながらの幼い色気を放っている。
伏せられた瞳も黒く、まるで丸い宝石のよう。
だが――シューウィの全身の肌は粟立っていた。
異様な光景にしか見えなかった。
「修祓者様、お茶はいかがですか」
「修祓者様、どうか私をお使いください」
「修祓者様をお守りいたします」
「修祓者様ご気分はいかがですか」
全てが修祓者に向けられた言葉。
しかし、その人間達の瞳は虚ろだ。
修祓者しか見ていない。
群がるように修祓者に声をかけている。が、その姿に触ろうとはしない。
出来ないのだ。許されていないから。
彼等は、使徒になった。
聖印の力は穢れた魔物を滅ぼす他に、人間の体に作用するものも多い。
その中で、祝福だけは特殊だ。
祝福された人間は、『健やかな正しい精神と丈夫な体となる』。
そういえば聞こえはいいだろう。しかし実態は、修祓者の手足として意思を奪われることと同義だ。
――吸血鬼の従者と何が変わらないんだ?
そう、シューウィの『主人』は言っていた。
使徒はもう修祓者の命令を聞くことしか出来ない。
だから、シューウィが入ってきたことに気がつかないし、修祓者が彼らを見ていなくても気にしない。
彼女はただ床を見つめているだけだ。
「お前、が……やったのか?」
黙っていようと思ったのに、我慢できなかった。
少女はゆるゆると顔を上げ、黒い瞳でシューウィをじっと見つめた。
「お前が、こいつらを使徒にしたのか?」
「……」
彼女は形の良い唇から何かをぼそりと呟いたが、周りの使徒達の声でちっとも聞こえない。
「黙れ!」
言ってみるが、彼の命令など聞こえていないのだろう。
少女はその様子を見て首を傾げ、何事か小さく呟いて手を上げた。
するとぴたりと言葉の洪水が止む。
あまりにも不自然なそれに寒気がした。
「これでいいですか」
とろりとした声。
「……」
シューウィは思わず睨みつける。
「お前、修祓者、なんだな」
「『鐘付きの』クララ」
彼女はそう名乗り、スカートの裾を摘んで恭しくお辞儀をした。
「この人達は私の使徒」
「っ……!」
事も無げに言うその姿に怒りすら沸いた。
使徒になった人間は、もう『普通』には戻れない。
「てめぇ……」
「無礼な口を聞くなと言ったぞ、下賎の者」
彼女の肩に飛び乗ったのは、先程見た猫であった。
「クララよ。こいつは血の臭いがする。使徒にすれば『使える』だろう」
「……」
修祓者クララはこくりと無言のまま頷き、真っ黒な瞳をシューウィの瞳に合わせた。
それだけで分かる。
この修祓者は、強力な聖印持ちであると。
「主よ。この者に光をお与えください」
少女の姿が神々しく光を帯びる。
神秘的な光景だ。民ならば大喜びするだろう光景も、使徒は黙れと言う命令を忠実に守っている。
「主よ。この世界は穢れに満ちています。どうか、彼の者に安らぎと恵みをお与えください」
とろりとした声がシューウィの脳内を掻き乱す。
従えと髄に響く。
「主に代わり、我が名を持ってこの者に祝福を与えん」
その言葉は強くシューウィの体に響いた。
だが――
「無駄だよ」
それっきりだった。
「……え? え……?」
「馬鹿な」
より強い焦りを見せたのは猫の方であった。
「クララの祝福が通用しない、だと……!?」
シューウィは目を細めて嗤う。
「俺にも『主人』がいるんでね」
「まさか、お前、使徒か……!?」
「ははっ。猫の狼狽とは、珍しいモンを見たぜ」
シューウィはクララを睨みつける。
彼女はびくりと身を竦めた。
「何で、どうして……怖い……!」
変化は一瞬だった。
彼女の周りに突っ立っているだけの使徒達が、一斉にシューウィに殺気を向けた。
厨房の男は包丁を。食事をしていた女はナイフとフォークを。
「ばっ」
しかし止める暇もなかった。
彼等は待てを解除された犬のようにシューウィに飛び掛ってきた。
その数、ざっと二十人。
「くそがあああああああっ!」
悪態を叫び、素早く体勢を整える。
このままでは『殺してしまう』。
「大人しくしてろって!」
鋏で包丁を受け止めて、そのままもぎ取った。
得物を失って尚迫ってくる男の腹に一発見舞う。
膝から崩れたその男を薙ぎ倒し、右から飛び出してきた女の足を払った。
「やり難い!」
包丁を左手に、鋏を右手に持ち威嚇する。
だが、そんなもの使徒に通用しないことも分かっていた。
彼らの命は紙屑以下なのだ。
主人たる修祓者が死ねといえばあっさり死ぬ、そんな存在。
その少女は、ぶるぶると震えてシューウィを見つめている。
「くそがっ」
包丁を逆刃に持ち、使徒達が持つ稚拙な武器を弾き飛ばしながら人垣を突き進んだ。
「ひっ」
少女の悲鳴。
「止まれ、下賎の者!」
「止めるのは俺じゃねぇだろ、猫又!」
鋏を少女に突きつける。
「奴らを大人しくさせろ」
「や、やだ……」
「俺にあいつらを殺させたいのか?」
「う、うっ……」
「早くしろ!」
修祓者の少女はびくりと身を跳ねさせ、「と、止まって……お願い……」と震える声で命じた。
とたん、使徒達の動きは止まる。
まるで何事もなかったかのように。
「はぁ……。良かった、本当に」
シューウィは行儀悪く机に腰掛け、その木目に包丁を突き立てる。
不機嫌だった。何もかも。
「教えてやるよ。俺にはもう祝福がある。お前の祝福じゃ上書きできないくらいのな」
「嘘」
クララは涙を溜めた目をシューウィに向ける。
「だって、貴方は、主人が居なくても話してる。普通に歩いている。だから、貴方は、使徒なんかじゃない!」
「いや、ま、はい……普通の使徒ではない、うん」
彼は困ったように頬を掻いた。
「でも俺は普通の人間でもない。正気に見えるようにしてもらってる、だけさ」
「正気、に……?」
「おうよ」
シューウィはくつくつと笑ってみせる。
邪悪に。凶悪に。
「精神が狂った俺に祝福をくれた。見た目上、俺はそれで普通に見えているだけなんだよ」
「そんな、祝福(ちから)……出来る奴がこの世にいるとは――」
そこで猫はぶるりと身を振るわせる。
「『炎の』か!」
「おや、ばれちまったか」
「小僧め、少し見ないうちに力をつけおって……!」
猫が牙を剥くと、「リゼアスタ……」とクララは呆けたように呟いた。
「あの人が、主人?」
「そうだよ。俺は、あいつに報いるために生きている」
「……使徒、なのに。そんなこと、考えるの?」
「正気だからな」
「……」
クララは「もういいよ」と小さく呟いた。
すると使徒達はすっと背筋を伸ばして元の位置に戻った。
客は客に。従業員は従業員に。
「部屋に行く……」
クララは猫を引っつかんだかと思うと、白い胴着を翻してシューウィの前から去っていった。
「おい」
思わず引きとめようと声を出したが、「お客様。お席にお座りください」という声に振り向く。
そこには今朝の女給が立っていた。
「お、おう」
大人しくシューウィは椅子に座りなおした。
何か。何か言わなければ。
「……酒をくれないか。この店で一番きついやつ」
「かしこまりました」
彼女は笑わない。
快活なその笑顔を見ることはもう二度と出来ない。
ただ神に祈り、皆同じ表情と中身で、言われたことをやるだけの存在と化している。
それを、机に頬杖をつき、怒りとも悲しみともつかない表情でシューウィは見つめた。
「俺、結構姐ちゃんのこと好きだったんだけどなぁ」
返事はない。
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