その聖印が翳るまで。
君に光あれ。
セプテティアはその地方では良質な木材が採れる土地にあることで有名な町であった。
世界中からその木材を求めて商人たちが集まるのだ。
けして大きくない町だったが、それなりに繁栄を見せていた。
しかし――
ある日から森には穢れた魔物が住み、住民の生活を脅かし、人々は去り、町は寂れた。
それを解決しようと町民が『教会』に願い出たのは半月程前になる。
修祓者(しゅうばつしゃ)の派遣。
穢れた魔物を罰し、滅する存在。
彼らは『教会』所属の魔物退治屋と言っても過言ではなかった。
「――静かだな」
『セプテティアにようこそ』と掲げられた門の前に立ち、リゼアスタはぐるりと周囲を見回す。
アール大陸の南の文化を色濃く映した美しい木材の町並みは、その豪華さとは裏腹に人の気配に乏しい。
「いつもの景色だ」
魔物の被害にあう町や村はいつだってこうだ。
不安と悲しみに明け暮れて、静寂と沈黙が美徳だと考えている。
リゼアスタは先を急ぐ。
『教会』の白い胴衣が風に靡き、リゼアスタの背中の大剣が甲高い音を奏でた。
まずは依頼主に顔を見せなければならない。
何件か家を訪ね――その度に生気を失った町民を励まし――数十分後、町長宅へと辿り着いた。
セプテティアの町長は彼を見るなり、その痩せ細った顔に明るい表情を浮かべる。
「これは――修祓者様!」
「『炎の』リゼアスタ。法王の命により穢れた獣を滅しに参った」
リゼアスタは『教会』の印を手で結んだ。
町長も慌てて身を正し、同じように印を結ぶ。
「セプテティアの町長、カルロと申します。さあ、立ち話ではいけません。お入りください」
「いいえ、挨拶だけで。これから直ぐにでも動きたいので」
「そうですか……有難いことです」
町長は深々と頭を下げる。
悲痛な感情が形を成して彼を抱いているように錯覚した。
「この町の教会の場所をお聞きしたいのだが」
「それでしたら、もう少し先へ行っていただければ直ぐに右手に見えます」
「ありがとう。どうか、心安らかにお過ごしください」
リゼアスタは町長の家を出て、その乾いた空気を肺いっぱいに吸い込む。
――久しぶりに仕事を受けた。
回想しながら、リゼアスタは歩く。
――セプテティアに巣くう穢れた魔物を排除せよ。
修祓者の仕事はそう多いものではない。
『教会』は生者を祝福し、死者を弔い、穢れを祓う。
その多くの仕事が死者の弔いであり、その仕事は人手が回らないほどだ。
しかし、リゼアスタはあまりそういった仕事はしない。
やってやれなことはない。しかし、合わない。
だから、回されない。
いつだって、彼の手は穢れを祓うためにある。
誰かの涙を拭うなら他の手があるのだろう。
教会は直ぐに見つかった。
その扉を開けると、小さな聖堂に見知った影があった。
「ディーナ」
声をかけると、彼女は俯いていた顔をぱっとあげ、「リゼアスタ!」と嬉しそうに走ってくる。
その身を抱き、リゼアスタは目を見開いた。
「貴方が来てくれたのね」
「あ、ああ」
彼女ははっとして「ご、ごめんなさい、思わず……」と慌てて彼から離れた。
ディーナはもともと華奢な体格をしていたが、また少し痩せたように見えてならない。
明るい金の髪色が、彼女の病的に白い肌を隠している。
「ずっと心細くて……」
「そりゃあ」
リゼアスタは肩をすくめる。
「どれくらい看取った?」
「もう、数えるのはやめることにしたの。一人じゃ押しつぶされそう」
「まあ……」
その先を言うのを止めた。
セプテティアはそれなりに大きな町であったが、『教会』からの司祭の派遣は一人に留まっていた。
特に問題のない町だったというのが大きい。
平穏な町であれば一人でも仕事が回る。
それが、聖印を持つディーナであれば尚更だ。
聖印とはある日突然身体に刻まれる紋である。
それは神に祝福された証であり、これから先の人生を「神の奇跡」によって人々を救う資格を得たものだ。
聖印がなくとも司祭になることは可能だが、傷や病の癒しに代表される奇跡はどうしても聖印持ちに頼らざるを得ない。
ディーナは、癒しに長けた聖印持ちであった。
それがリゼアスタには少しだけ羨ましい。
誰かの涙を拭う手が、純粋に、羨ましい。
「でも、リゼアスタが来てくれれば直ぐに解決するわ。ね?」
「……」
何も言わず、彼は肩を竦めた。
「自信、ないの?」
「……相手が相手、だからな」
「お願いリゼアスタ。そんなこと言わないで。私を、この町を安心させてあげて」
「ああ」
苦笑いして、彼女に応える。
「少し歩いてくる。戻ったら休ませてくれ」
「分かった……気をつけて」
「ん」
「貴方の聖印に、光がありますように」
ディーナは胸元のロザリオを取り出し、祈った。
二つの三日月を組み合わせたそれは、『教会』の聖職者の証だ。
リゼアスタは彼女に手を上げて応え、教会を出る。
――ディーナはもう限界だ。
早く解決してやらなければという気持ちが胸を打った。
どれだけ血を流すことになろうとも。
しばらく探索して、宿屋と併設された酒場を見つけることができた。
どんなに寂れた町でも、宿屋と酒場はやっていることもまたいつものことである。
扉をくぐると、中は案外混んでいた。
「いらっしゃ――ああ」
店主はリゼアスタの身なりを見るなり姿勢を正した。
この大陸の人間は、『教会』に失礼のないようにと子供のころから教えられるのだから仕方がない。
「修祓者様?」
「ああ」
リゼアスタの肯定に、それに舌打ちが返ってくる。
ちらりと見やると、柄の悪そうな男達が煙草を吹かしながらリゼアスタを睨みつけている。
――賞金稼ぎ共か。
視線を無視してカウンターに座る。
時に魔物の討伐には懸賞金がかけられる。
その金目当てに荒くれ共が集うのは珍しい話ではなかった。
おそらく、修祓者の到着が待てず、懸賞金を出すことにしたのだろう。
それも責められる事ではなかった。
『教会』は後手に回ることも少なくない。
「何かお飲みになりますか?」
「ラムがあれば」
「はぁ」
不思議そうな顔をして、店主はグラスとボトルを用意し始めた。
無理もない。
聖職者は理性を奪う酒を飲まない。しかし、修祓者はその限りではなかった。
彼らはそういった縛りを好まないし、『教会』も縛らないのだ。
「相も変わらず、ね。リーゼ」
リゼアスタはその呼び掛けに勢いよく振り向いた。
「ちゃお」
彼の後ろで手を振っているのは黒い毛皮のローブで身を包んだ女であった。
「フロネ――!」
「なぁにその顔」
くすくすと笑い声が整った赤い唇から漏れる。
栗色の髪を優雅にシニヨンに纏め、派手な黒い髪飾りをした女は、酒場の男達の視線を集めるには十分な美貌を持っていた。
しかし、リゼアスタは表情を強張らせたままだ。
「何故此処に」
「私は賞金稼ぎよ? 依頼があれば即参上、迅速丁寧に仕事をこなす女なのは承知でしょう?」
「……」
リゼアスタはその軽口に目を細めた。
「お前が目をつける相手というわけか」
それには答えず、フロネは「私もラム。ソーダも一瓶」とリゼアスタの隣に座った。
程なく差し出されたグラスに手をつける前に、フロネは彼に肩を寄せる。
「ねぇ、情報共有しましょうよ」
白くて細い指をカウンターで遊ばせて、彼女は言う。
「修祓者の情報と賞金稼ぎの情報。合わせたら最強でしょ?」
「……この中でか?」
グラスに注がれたラムに口をつけながら、リゼアスタは声を潜める。
「別に困るもんじゃないでしょう」
フロネは実に楽しそうに笑みを浮かべた。
「修祓者からしたら、穢れた魔物は誰が斃したって一緒でしょう?」
「斃すのはな」
「ねね。教えてよ、リーゼ。ソーダ、分けてあげるからさ」
彼女の妖艶な表情と声音は、娼婦でも十分に通用しそうであった。
「……」
無言のまま、飲みかけのグラスを差し出す。
減った分を戻すように、ソーダはグラスを満たした。
「情報料にしては安いな」
「馬鹿言わないでよ。ソーダって高いのよ」
「馬鹿はお前だ。『教会』の情報がこんな量で足りるほど」
光に向かってグラスを傾ける。注がれたソーダは指二本分の幅くらいしかない。
「安いわけないだろう?」
「そこは友情価格でしょう」
「誰が友達だ、誰が」
それでも、少しは情報を集めておきたい。
リゼアスタは「穢れた魔物の中で最優先にしたいのは?」と口にした。
「もちろん、吸血鬼」
フロネはにやりと笑う。
「強くていいわ。腕が鳴る」
「お前もそこまでは掴んでいるんだろう?」
「もちろん。じゃなきゃここまで来ないわ」
ひらひらと手を振るフロネの顔は、本当に楽しそうだ。
「相手は血を好むタイプね。ここでは従者を増やすことはしてないのが何よりの証拠」
「『首裂きの』ロルフ」
「あは。私もそう思う」
彼女は黒い瞳を愉快そうに細めた。
「従者をつけない奴ならここ最近の活動記録でいったらあいつだけがフリーだ」
「『腕飛びの』ヴァジームも『針の』アドリアナも他の所にいるっぽいしね」
「『掻き毟りの』ロタと『鐘付きの』クララが追ってる」
「あは。そりゃそうよね、修祓者は吸血鬼を最優先にするものね」
彼女が手にしたグラスはあっという間に空になる。
「ロルフは読めないからねぇ、手が。いっつも賞金稼ぎ達はしてやられる」
「俺も追うのは初めてだ」
「私だって依頼がなければ近づかないわよ。ただし、相手だって吸血鬼。頭を飛ばせば何とかなるのは変わりないわ」
くすくすと笑いが彼女の口から漏れた後、後ろの賞金稼ぎ達が業と椅子を鳴らして出て行った。
「あは」
フロネはそれに振り返って見送る。
「今の情報で行っちゃうんだ」
「どう思う?」
「もしかしたら斃せるかもしれないわよ」
「もう誰もいないぞ」
酒場はすっかり閑散としていた。
フロネは肩をすくめる。
「束になったって無駄でしょうねぇ」
その本音に、リゼアスタも深く頷いた。
「止めないの? せーしょくしゃ、さん?」
「あいつらだって生きるのに必死だろう。止めても聞かないさ」
「神の言霊とやらでちょちょいとやればいいでしょうに」
「殺すぞ」
ぎろりと睨みつけられ、「やあん」とフロネは身を震わせた。
「悪くないけど、遠慮しとく」
ご馳走様と言い残し、彼女もまた席を立つ。
「じゃ、私達はゆっくり眠って満月が中天に来たら街の入り口で落ち合いましょ」
「いつ一緒に行くと言った」
「行くでしょう?」
「行くさ」
「じゃ、決まりね。待ってるわよ、リーゼ」
彼女が料金を払い、ぷらぷらと出て行った後、酒場の店主が不思議そうにリゼアスタに尋ねる。
「賞金稼ぎのお嬢さんとお知り合いなんですね」
「この仕事をやってればどうしてもな」
軽く誤魔化して、リゼアスタも銀貨を出した。
「ご馳走様」
「ありがとうございます。――お気をつけください、修祓者様」
「ああ」
言われたとおりに寝ることにしよう。
来た道を戻って教会に入り、ディーナが用意してくれた部屋で休むことにした。
剣を背中から下ろす。
『教会』の祝福を受けた、刃の波打つ大剣。
穢れた魔物を斬る為に作られた、聖なる武器だ。
穢れた魔物と呼称されるのは何も吸血鬼だけではない。
亡者、不死者、動く骸骨――
それでも吸血鬼が恐れられるのは、高い戦闘能力と従者の作成能力にある。
人を魔眼で誑かし、血と穢れた力を注ぎ、魔に陥れるのだ。
そうなればもはや助かる手段はない。
吸血鬼の主人に付き従うだけの存在と化し、主人の為なら命も惜しまない。
そして、同じように人間を害するようになる。
――最優先で処理しなければならない理由がそこにある。
人が人でなくなる。
そんなことを許してはいけない。
「ふわぁ」
少し休んでおこうとベッドに横になった。
生と死を別つ黒い河。
その向こう側の「彼女」と、こちら側の自分。
呆然と立ち尽くす自分の目の前で、彼女の首は胴体から落ちた。
跳ねる水音。
飛び出さんばかりに高鳴る鼓動。
目の前で行われる惨劇。
河の向こうで築かれる、無数の屍の山。
その作り手は――赤い目の吸血鬼。
「リーゼ、おはよー」
ぷらぷらと手を振るフロネは、昼間の姿と何一つ変わっていなかった。
防具を身につけているわけでもなく、武器も携帯している様子がない。
しかし、リゼアスタは何も追求しない。
対するリゼアスタ自身も、『教会』の胴衣に大剣という何も変わらぬ出で立ちであった。
重い防具は彼らにとって身を阻害する物以外の何物でもないからだ。
「おはよう」
「よく寝れた?」
「修祓者になってから、『休眠』以外でゆっくり寝れたことなんてないさ」
「……そう。そうね」
フロネは彼から視線を逸らし、月を仰いだ。
満月だ。煌々とした白い光が二人を照らしている。
影がフロネの足元で踊った。
「さ、行きましょ。もうとっくに他の賞金稼ぎさん達は動いてるわ」
「ああ……」
二人は並んで歩き出す。
「ご飯食べた?」
「いや」
「私もまだ」
フロネはくすくすと笑い、「仕事終わったら遅めの夕食と行きましょうか」とリゼアスタに片目を瞑って見せる。
「気が向いたらな」
「向くようにして見せるわ」
彼女は胸を逸らして自信の大きさを表した。
しかし、リゼアスタはそれを見ようともせず、黙々と歩いている。
「つれないわねぇ」
フロネはぴょんぴょんと跳ねるように彼の隣を歩いた。
かたかたと大剣の鳴る音と、草むらを進む足音だけが森に響く。
風もなく、静かな夜であった。
「……ふふっ」
しばらく歩き、急にフロネは笑い出す。
「あは。分かってたけど……」
形の良い自身の鼻を指し、「血よ」と彼女は目を細めた。
「全滅か」
「――待って、近づいてくる」
フロネが優雅に手を挙げ、リゼアスタに静止を支持する。
「ああ、いつも賞金稼ぎ達はしてやられる。私も、貴方も」
木々の向こう側からたっぷりの血の臭いを引き連れてやってきたのは、人の形の何かだった。
顔に見覚えがある。
昼間酒場で屯していた賞金稼ぎ達だ。
その数、五人。
「キリが悪い」
「そう言わずに、ね?」
リゼアスタは溜息をついて、剣を取る。
大きな剣だ。しかし、その重量を感じさせない動きで、リゼアスタはそれを構えた。
「穢れたか」
「穢れたわね」
賞金稼ぎ達は土気色の肌と、のろまな動き、すえた臭い。
光を失った死人の目。
それは吸血鬼の従者に他ならなかった。
大方、血を抜かれ、「穢れ」を注がれ、木偶となったのだろう。
「従者はつけないんじゃなかったのか?」
「言ったでしょう? してやられたのよ」
「戯れの過ぎる奴だ」
そして、二人の姿は掻き消える。
リゼアスタはその大剣を地面と水平に持ち、一番近い場所にいた賞金稼ぎの首を斬り飛ばした。
しかし、動きは止まらない。
そんなことで、従者は死なない。
穢れを注がれた体は、血成らざる物で動いているのだ。
「想え死を、燃やせ真を」
リゼアスタは聖句を唱える。
彼の背中に白い光が雷光のように走った。
聖印が力の行使に呼応して光り輝いている。
「我、そこに光を見たり」
刹那、賞金首の胴体は、滑らかに切れた首から炎を吹き上げた。
それは人ならざる者の全身に及び、あっという間に漆黒の炭と化す。
これが、修祓者の業。
穢れた者を滅する、聖印の奇跡。
『炎の』名を冠する力。
「穢れに浄化を。生に死を。涙に飢えを、喜びに蓋を」
神聖な言葉はこの剣戟の喧騒の中でもはっきりと大気を震わせた。
そして確かな一撃が、飛んで落ちた賞金首の頭に突き刺される。
それは浄化などと言われているが、リゼアスタからしてみれば真実の死以外の何物でもない。
炎が彼の腕に蔦の様に絡みつき、そのまま元賞金稼ぎの顔に叩きつけられた。
「うげ」
潰れた声。燃える肉。焦げる心音。
「世界が宵を待とうとも、世界に主の加護あれ」
燃え上がる炎はしかし、森の木々に移ることはなかった。
ただただ、穢れた者を焼き尽くす紅蓮の炎。
「ははっ」
それに頬を照らされながら、フロネはまた別な元賞金稼ぎの懐に飛び込む。
「せぇっのっ!!」
刹那、湿った肉を割く音が聞こえ、元冒険者の背中には血に塗れた指先が飛び出ていた。
フロネの細い指。
それが内臓を突き抜けて抜け出たのだ。
「穢れてから間もないのね、柔らかいわ」
彼女が勢いよく手を引き抜くと、穢れたかの肉体は頭に火を灯した。
まるで蝋燭のように、溶けていくそれ。
「派手にするな、汚れる」
「焼いてしまえば問題ないでしょう。油を垂らしたゴミは良く燃えるわ」
「俺の聖印を焼却炉か何かと勘違いしてないか?」
「何か間違ってる?」
「いや」
ごうと燃え上がる炎。
森を照らす鈍い光。
リゼアスタの瞳の中で揺れる炎の影。
「私は嫌いじゃないわ。その聖印は美しい」
彼女はにっと笑って、眼鏡をかけた元賞金稼ぎの胴をつかんだ。
「悪く思わないでよね」
彼女は自身よりも大柄なその男を、闘技場の演目を模して真後ろへと反り投げる。
骨と肉とが粉砕するけたたましい音が、森の木々を震わせた。
「うわあ」
リゼアスタは思わず喉の奥から感嘆の声を漏らす。
容赦も慈悲もない。
いつものことだが。
「そいつの始末よろしくぅ」
軟体動物のようになったそれを投げ捨てて、彼女は最後の獲物へと奔った。
「より凄惨に。より盛大に。より、過激にっ!」
きっと聖句の真似だろう。彼女は高らかに歌い上げて、それに組みかかった。
「きっ!」
穢れた者は悲鳴のようなものを上げた。
が、まるで聞こえないとでも言わんばかりに、彼女は歯を見せて目を細めて笑う。
「だーめっ、逃がさない」
そして、その哀れな元賞金稼ぎの上半身と下半身は、まるで菓子箱の蓋と下部のように分かれた。
赤い中身が毀れ出る前に、それよりも赤い炎が穢れを燃やし尽くす。
「――君に光あれ」
リゼアスタの人差し指が空気を弾くと、炎は幻のように消え失せ、炭だけが残った。
「お見事お見事」
ぱちぱちと拍手をするフロネに「茶化すな」と彼は一瞥を向ける。
「分かってるんだろ?」
「ええ、そうですとも」
彼女は森の暗闇に向けて手を招く。
「おいでなさいよ。大丈夫、取って食いやしないわ」
「ひぃっ」
自分の存在を悟られていないと信じていたのだろう、その人物は情けなくも甲高い声を出した。
「夜目が利くの、私」
「……!!」
恐る恐る木々の間から出てきたのは、背中に剣を背負った賞金稼ぎであった。
「六人だったのか。キリがいいな」
「そう言わずに」
フロネは「ひぃいっ」と言って座り込んでしまったその男の手を取って立たせる。
「あんた、こいつらと一緒じゃなかったの?」
「に、逃げたんだよ」
「逃げた?」
「臆病者と笑ってくれていいんだぜ!!」
甲高く叫んだその賞金稼ぎを笑うつもりはなかった。
ただ――
「ふうん? ま、じゃあさっさと行きましょうか」
「フロネ」
「ん?」
彼女が微笑みながらリゼアスタに目線だけ向けた、その刹那。
「っ!!」
彼女の前面は鋭い鉤爪によって引き裂かれていた。
「フロネッ!!」
真っ赤な血が飛び散り、離れていたはずのリゼアスタの爪先を濡らす。
「けひっ」
逃げてきたという賞金稼ぎは、嗤った。
その手を真っ赤に染め上げて。
フロネの体は仰向けに倒れ、再び派手に赤色をぶちまける。
まるで下手な絵画のように。
「てめぇっ!!」
彼女に飛びついたリゼアスタを警戒してか、大きく森の影に飛び込んだ。
「けひっ、けひっ、けひっ。愉快愉快、これが力か!」
「……眷属化したか」
リゼアスタの瞳に移るそれは、確かに人間の形をしていた。
先ほどまで動いていた従者でもない。
目の前の暗闇に潜むそれは、傀儡ではなく部下。
そしていつか親たる穢れた魔物になるもの。
「してやられすぎだろ」
リゼアスタは苦笑する。
「けひっ、けひっ。従者と違って、眷族はその血の気配を断てる。けひっ、けひっ、望んだ、望んだだけでこんなにも、強い、力を手に入れたんだぞ……!」
「それはよかった」
「げひっ!! 修祓者ぁっ、でも、倒すことのできる力だ」
「間違ってはいない」
リゼアスタは月を仰ぐフロネを見た。
明らかな致命傷であった。
胸はばっさりと縦に裂かれ、腹の傷に至っては内臓が零れ落ちそうになっている。
彼女の目は閉じられ、口は力なく開いていた。
「……まったく、強引に気を向かせやがって」
そう言いながら、彼は自分の右袖を捲くり、そこに左手の爪を突き立てる。
微かな肉の避ける音とともに、赤い血が噴出した。
それは腕を伝い、フロネの顔に――唇に落ちる。
「げひ! 何を、一体……」
「フロネ。いつまで狸寝入りしているつもりだ」
深紅が落ちた唇が、ぴくりと震えた。
そして、喉が脈動する。
「あは。だって、お腹すいちゃったんだもん」
彼女はかっと目を見開き、吊られた人形のように重力を無視して立ち上がった。
その瞳は真紅。
「げ、き、貴様――ッ!!」
「やだ、一緒にしないでくれる?」
彼女はリゼアスタの腕を掴んで、その零れる血を舐め取った。
「私は、古き血よ。あんたみたいにひよっこじゃないわ」
「ひっ」
先程までの勇猛さを投げ捨て、吸血鬼の眷属は脱兎のごとく逃走を計った。
しかし、全てはフロネの手の平の上である。
彼女の姿は一瞬の後に黒い霧となり、格下の眷属の前に立ちふさがった。
その動きは、もはや風に近い。
「逃がさないって」
「ひぃ!」
その細い手から逃れようと後退りした吸血鬼の眷属は、その身を襲った衝撃に気づいたのだろうか。
リゼアスタが大剣をその穢れた胸に突き刺していた。
何の感情も乗せず、当たり前だという表情で、深く、深く。
「へ、へぎ?」
「面白い見世物ではあったかな」
大剣を捻り、一気に引く。
血が外に向かって縦横無尽に飛び出す。
そして赤が空気に触れた瞬間、それがまるで油だったかのように火を灯した。
「ぎゃあああああああああああっ!!」
夜空を焦がす断末魔。
元賞金稼ぎであり、か弱い吸血鬼の眷属は傷口を真っ赤な炎で染め上げてのた打ち回る。
「意識があると辛いよな。ましてや痛覚も切れないなりたてじゃ、な」
リゼアスタは目を閉じ、『教会』の印を胸の前で切る。
「穢れた物に主の導きを。安らかに――滅せよ」
その短い聖句の間に、火は全てを舐め取って、炭を吐き捨ててあっという間に消えた。
「……ふう」
リゼアスタは大して上がってもいない息を整える。
大剣を一度振るい、炭を落とした。
「やあー、流石ねリーゼ。惚れ直すわ」
「さぼり魔め。とうとう摘み食いも始めたか」
「いいじゃないの」
フロネは霧と化し、瞬きの後にはリゼアスタの腕に自分を腕を絡めていた。
「すぐ直るんだし」
彼女が撫でたそこは、血で濡れてはいるが傷らしき傷はなくなっていた。
――修祓者は傷を負わない。
そう言われるほどの、治癒力。
しかし、リゼアスタは彼女から目を逸らした。
「そういう問題じゃない。お前は少し我慢を覚えろ」
「いつだってしてるわよ、我慢くらい」
「どうだか」
リゼアスタはフロネを引き離し、「行くぞ。この分だと苦労しそうだ」と歩き始めた。
その様子は、まるで妻の長い長い買い物にうんざりした夫のようである。
「はぁい」
甘い声で答え、彼女は駆けていく。
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