幕間3:
目を開けると同時に、身体をバネの様にして飛び起きる。
「カジ、」
『彼女』の呼びかけを無視して掴んだのは、自分の剣であった。
忍び寄っていた死の影が、まだカジの足を掴んでいる。
ふらつく身体を、どうにか御した。
「カジ!」
泣きそうなディエに、剣の切っ先を向ける。
「ディエ」
「起きた、起きたね、カジ。よかった、よかった」
「ディエ、よく聞いてくれ」
「うん! 聞く、何でも聞く」
「……」
息を整える。
――今から行おうとしている事は、およそ人の道に外れたことだ。
だが、今更それが何だ。
今、自分は――自分達は、ここで、終わりにしなければならない。
「俺は、お前を元に戻す方法も、俺自身を正す方法も分からない――」
「……何、言ってるの?」
「俺がもう元に戻れないなら、ディエ、お前ももう元には戻れないんだろう」
「分からない。カジ、分からない」
「これ以上、俺達が、『あいつ』の駒になるのは、駄目だ。自分で考えられなくなるのは――駄目だ」
ディエは首を振る。
刃を向けられた恐怖ではなく、カジの言葉を理解できない恐怖が、その無表情な顔に滲んでいた。
「分からない。本当に分からない、の」
彼女は真っ直ぐ、しかし狂気を孕んで、カジを見つめる。
「カジ、ねえ、今までと同じじゃ……駄目、なの?」
「今までって、何だ。一体、何を同じだって言うんだ」
「二人で、皆で、このまま、一緒に――」
「それが駄目だって言ってんだろ!」
怒号が空気を震わせる。
「俺にも分かんねぇんだよ、自分がどうだとか、貴方がどうとか……! お前が、どうして、僕に薬を盛ったか、とか……!」
「カジ……?」
「あなたはそんな人じゃなかったはすでしょう!? 何で、どうして、此処に居て、"聖歌隊"にいるんだ……!」
「……カジ、ねえ、変、よ」
「分かってる!」
頭がぐるぐるする。
足元がふわふわする。
歯を食いしばり剣を握り締めていなければ、倒れてしまいそうだ。
でも、倒れたら。
もう二度と立ち上がれない気がする。
「……カジ。私、あなたに、嫌われた?」
「……」
答えに時間を要した。
そもそも、自分と彼女の関係は?
"聖歌隊"になる前、彼女は、もっと、違った。
明るくて、健気で、銃なんて持ったことも無くて。
そんな彼女が、眩しかった。
そんな、そんな。
「嫌いじゃないよ、ディエ。じゃなきゃ、殺したいなんて思わない」
これ以上何者かの手で狂っていく彼女を見ていられない。
「そう」
彼女は残酷にも笑う。
『あの日』のように。
「良かった」
ぽたりぽたりと刃を赤が伝う。
悲しいかと問われれば悲しかったし、寂しいかと聞かれたら寂しいと答えるだろう。
でもそれ以上に――傲慢にも――一つ、事を達成した気分だった。
「……?」
ふと部屋を見回す。
自分の部屋だ。
物の少ない部屋――だというのに、そこに異物がある。
薄紫の小さな花を複数つけた植物。
それが窓際にぱらぱらと落ちている。
全部で、四つ。
「何だ、これ……」
血溜りを越えて、それを摘む。
記憶に無い。
だが、形には見覚えがあった。
"聖歌隊"の印に添えられた花に似ている。
「……アダムか?」
答えは当然あるはずも無く、カジはそれを血溜りへと投げた。
――行かなければ。
今が何時だとか、自分がどうなっているのかとか、もうどうでも良かった。
一つの命を奪ったことで、皮肉にも体はしっかりと床を踏みしめ、頭は鮮明に次の行動を考えていた。
自室の扉をそっと閉める。
眠りを妨げないように。
――今、『天馬の提琴亭』(ここ)はどうなってる?
二階部分に人の気配は無い。
カジは足音を消して、階段を一段一段踏みしめるように下りる。
『天馬の提琴亭』の一階は、亭主の趣味で何処もかしこも真っ白だ。
だというのに、そこは鉄の臭いとペンキでもぶちまけたかのように真っ赤であった。
何が、と思う前に、机の影から小さな影が立ち上がる。
「エメリ」
「んあ」
彼は返り血に塗りたくられた顔を、さっとカジに向ける。
「ああー、何だ、カジか。どうしたの、そんなところに突っ立って」
「それは――こっちの台詞だ」
彼の足元に倒れているのはヴァイオレットだった。
赤い髪を振り乱し、首に鞭を巻きつけ、腹を縦に裂かれた憐れな姿で。
「お前、『それ』、どうした……」
「ん? あー、あー」
エメリはくるくるとナイフを回した。
赤い雫がぱらぱらと飛び散った事から、『ソレ』がまだ流されたばかりのものだと気づく。
「邪魔だったから、殺しちゃった」
「なん……」
「だって、お父さんには僕だけでいいんだよ。娘なんていらないよ!」
「……」
唖然としているカジの目の前で、エメリは癇癪を起こして血溜まりに地団太を踏んでいた。
「皆してコレのことを父さんの娘、娘ってさ。僕の方がお父さんとずっといるのに!」
「お父さんって、アダム、だよな?」
「他に誰がいるって言うのさ!」
エメリはいらいらとして、カジを睨みつける。
「なんなんだよ、カジもそういう風に僕を見て!」
「俺は」
「あー分かった! カジはお父さんのお気に入りだったから、僕が邪魔なんでしょ!」
「!」
刹那、エメリが動いていた。
もう少し反応が遅ければ、そのナイフで首を切られていたに違いない。
だが、カジの剣はすんでのところでその刃を刃で受け止めていた。
「エメリ!」
「何だよカジ、流石お父さんのお気に入りじゃん! でもね、僕がね、殺してあげるからね!」
「……お前は殺しすぎたよ」
「ははっ」
エメリは無邪気に笑う。
「カジがそれを言うかな!」
「んなこと分かってんだよ!」
ついと刃が離れる。
次いで突き出された攻撃をいなそうとしたカジであったが、それがフェイントであったことに気づく。
スピードではエメリには勝てない。
故に、反応が遅れた。
――避けきれない。
首を狙っていた切っ先に、手を伸ばす。
「ッ――!!」
鈍い衝撃と痛みを伴って、左手をナイフの刃が貫通する。
赤い血が――生きている証が――己の顔を濡らした。
「あは」エメリが歯を見せる。「そんな受け方して、痛くないのかな、カジ」
「痛いに決まってんだろ……!」
だが、カジは腕に力を込める。
痛みと痺れを乗り越えて、進もうとするナイフを押し返した。
「力で俺に勝てると思うなよ、エメリ……!」
「うっ」
そのまま力任せに突き倒し、乱暴に踏みつける。
小柄な彼だ、脱出する事は叶わないだろう。
「悪いな、もう戻れないところにいるんだ、俺は」
ナイフを左手から抜く。
ぬるりとした赤が絶え間なく足に落ちた。
「まさか、ディエを――」
くるりと剣を回して、細い喉に向かって落とす。
無駄な痛みを与えるつもりはなかった。
これでも、同じ時間を過ごした不器用な間柄だったので。
でもこれ以上、彼の言葉を聞き続けるわけにもいかなかった。
転がる二つの死体を交互に眺める。
――誰も彼もが狂っている。
もちろん、自分も。
ひたひたと血の河を渡りながら、ふとテーブルの上にメモ紙が置いてあることに気づいた。
ご丁寧にも真っ白な重しまで乗せられて。
「……はっ」
明らかにそれはアダムからカジに当てられたものであった。
――いつ、この行動を予測したのだろうか。
「待っている、ね」
流れるような美しい字で、簡素な地図とその一言が書いてあった。
示されていたのは山の上だ。
今から歩き出したら、ちょうど真夜中になってしまうだろう。
全て奴の掌の上で踊っているにせよ、行かない理由を持たなかった。
「……」
二本の剣。
着慣れたコート。
法力。
数少ない記憶。
残っているのはこれだけだ。
――自分には多すぎるくらいだ。
まだ血の流れている左手を髪にこすり付けて、カジは『天馬の提琴亭』の入り口に足を向ける。
だが、その扉はカジが手をかける前に開いた。
ほぼ反射的に剣に手を伸ばしかけたが、現れたのはアデラだった。
「ああ、カジ」
その顔はいつもの彼女であった。
「この時が来てしまったのですね」
「知ってたんだな、あなたは」
「ええ――私は、ずっとアダムと共に在りましたからね」
ヴァイオレットが来る前からと、彼女は笑った。
「あなたがいつかこうすることも、何となく分かっていましたよ。あなたはアダムと違いすぎる」
「それで? 命乞いでもする気か?」
いらいらしていた。
この老婆は分かっていて、それでも尚自ら狂っているのだ。
それがカジの中の怒りを刺激する。
無垢なままだった『彼女』を思い出して、今すぐ断ち切りたくなる。
でもそれを己が許さないのは、聞いてみたいと思ったからだろう。
この狂気の沙汰を。
「命乞いなんて、滅相も無い。私は待っていたんですよ」
「待っていた……」
「ええ。もう、面倒になっていましたからね」
「面倒、だと?」
「誰かの生死も、アダムが連れてくるあなた達のような子供達も、聖も邪も、もう面倒なんです。考えたくない」
彼女の口調からは、諦めの感情しか感じ取れなかった。
何が彼女をそうさせたのかは、まったく分かりそうにない。
「呼び出されているんでしょう? アダムに」
「ああ。どいてもらうぞ」
剣を振りかざすと、アデラは「待って」と枯れ木のような指で彼を制した。
「これくらいはさせて」
そして、未だ血を流し続けるカジの左手に自分の手を重ねる。
祖母が孫にするように、優しく。
「私はこれしかできない。アダムを止める事も、もちろん今、あなたをとめる事もね」
「……」
「さあ、出来た」
痛みも残さず綺麗に傷が塞がった。
それは彼女の言葉に偽りがないことを示し、同時に『アダムを殺しにいく自分』を肯定している事を示していた。
「もう"聖歌隊"も終わり。私の居場所も何処にもなくなりました。後は、神に祈るのみです」
「何を――祈るつもりだ? 魂の安寧か?」
「まさか!」
アデラはけらけらと笑った。
「地獄に落としてくれるようにですよ」
「……アデラ」
「もっとも。私を裁いてくれる神は、今目の前にいるのでしょうけどね」
両手を広げ、彼女はその時を待った。
もしかしたら、ずっとずっと前から待っていたのかもしれなかった。
からからと『二本目の剣』が鳴っている。
奮い立たせるつもりか、はたまた引きとめるつもりなのか。
だが、カジは歩みを止める事はしない。
今から『滅ぼし』にいくのだ。
全てを歪ませてきた、その男を。
己の神を信じたとおりに。