幕間2:
「ディエはもう駄目だな」
アダムはついとワイングラスの縁を撫でる。
「思ったよりも消耗が激しかったな。もう数年、やれるかと思ったが」
「あら」
ヴァイオレットは自分のグラスにワインを注ぎながら、心外そうに唇の端を歪める。
「私はもともとそうだと言ったはずだけど」
「そうだったかな」
赤い液体が、アダムの喉を滑り落ちていく。
「それを聞かなかったのは、貴方でしょうアダム」
「……ふふん」
上機嫌のまま、"聖歌隊"の長は愉快そうに笑った。
「まあ、持ったほうだろう。彼女は普通すぎたからな」
「いい子だけどね」
ヴァイオレットは自分のグラスを弄ぶ。
傾けられた赤い水面は、ワインの熟成が十分に成されていることを現していた。
見るからに高価い。
「いい子なんだけどね……」
ヴァイオレットは繰り返し、グラスに口をつけた。
「そういえば、アデラはどうした」
「さあ? 大方、聖エリーアス大聖堂にでも祈りに行ってるんじゃない?」
「熱心なことだ」
二人の間で、ワインが交互に注がれていく。
仄明るい照明の下、指の影が躍る。
「アデラは貴方を見捨てることは無いだろうけど」
くすり、女は笑う。
「ディエを見捨てることも出来ないでしょうね」
「そうかな? 私は、そうでもないと思うがね」
「どういうこと?」
「アデラは、諦めた女さ。でなければ私と一緒には居まい」
「ふうん」
さほど興味も無さそうに、ヴァイオレットは首を傾げる。
「それで。次を探すの、アダム」
「暫くはいいさ」
「カジが居るから?」
「まあな」
くつくつと嗤うアダムの瞳はしかし、酷く狡猾だった。
「カジはね、貴方にそっくりよ」
「ふむん?」
「己が在る。誰にも頼らず、何者にも惑わず、死よりの生を持っている」
「言うなあ」
「貴方との違いがあるとすれば、生きる意味がどこにあるか、じゃない?」
「……」
アダムは「そんなもの」と笑い飛ばす。
「意味など無い」
「貴方はそうでしょうけどね」
「奴だって同じさ。生きていることに意味なんて無いんだよ。死んでいないことに意味があるだけさ」
「そうかしら」
「そうだ」
強い断定が部屋を満たした。
「その素質があるから、あの日、お前が」
続きは扉の軋む音で断ち切られた。
「アダム」
滑り込むようにして入ってきたのはエメリだった。
「おお、どうした。こんな時間に」
「眠れなくてさ」
「お前でもそんなことがあるのか」
「そりゃね」
エメリは誰の許可も取らず、椅子を引き寄せてアダムの隣に座った。
「最近思っちゃうんだよね」
「何を?」
「昔はさ、もっとこう、上手くやってたと思うんだけど」
「それは、仕事を、か?」
「うん」
ぱたぱたと足を揺らし、エメリは俯く。
「何だろう? アダムに拾われた時からずっと一緒に仕事やってるのに、今と昔じゃ何かが違う気がしてるんだよ」
「……」
アダムはちらり、ヴァイオレットを見る。
彼女は薄く笑うだけだ。
「何も違わないだろう?」
その細い肩を、アダムは叩く。
「私は良く覚えているよ。お前は昔も今も、よくやってくれてるさ」
「ほんと?」
「嘘をついてどうする」
「……へへっ。くすぐったいね」
エメリはいつもの聖歌隊の『耳』としての顔から、ただの少年の顔へと変化していた。
何処にでもいる、素朴で柔らかい少年の表情。
「ねえ。じゃあさ、昔みたいに呼んでもいーい?」
「……ああ。呼んでみせろ」
「へへっ、お父さん!」
屈託なく笑う少年を見て、アダムも緩く笑う。
――エメリもとうとう駄目か。
新年も明けて、イルムガルデは観光客で賑わっていた。
しかしそれももう一週間もすれば落ち着く。
後は穏やかな春が来るまで、この観光地は短い休息に眠ることになるだろう。
聖エリーアス大聖堂の鐘の音が重く灰色の空に響いている。
「カジ」
空に投げていた視線を、ゆるゆると地上に戻す。
「ぼーっとしてるのは、よくない」
「ああ」
隣のディエが、無表情ながらも不満をカジに投げつけていた。
「最近、ちょっと変」
「俺が?」
こくり、彼女は頷く。
「ぼーっとしてるのに、何か、考えてる」
「……まあな」
「悪い事?」
カジは口の端を持ち上げて「さあな」と誤魔化した。
「少なくとも、お前には関係ねぇよ」
「そう……教えてくれないのね……」
ディエは明らかな落胆を見せた。
「カジは、何処に行ってしまうの?」
「は?」
質問の意味がわからず、カジは乱暴に聞き返す。
「何言ってんだよ」
「そんな、気がして」
「――どちらかというと、変なのはお前だろ、ディエ」
「……? そう?」
「ああ」
彼女はどちらかと言うと――普段は――感情を見せない人物だったはずだ。
だというのに、今はどこかそわそわして、微細な感情が浮き沈みしている。
それを掬い上げるほどカジは繊細な人物ではなかったが。
「……さっさと帰ろうぜ」
「私は」
一度言葉を切り、ディエは俯く。
カジは彼女が言葉を再開するのを静かに待った。
――何故か、そうしなければいけない気がして。
「……帰りたくない」
「それだけか?」
「……うん」
「仕方ないな。我侭に付き合ってやるよ」
ディエが「いいの?」と言いたげに顔を上げ、カジは視線をそらす。
「飯でも食って帰ろうぜ。俺も今は、アダムの顔を見たくねぇ」
「……うん」
先に歩き出すと、彼女は黙ってついてきた。
「ん……」
ディエが下を向いて忙しなく前髪を弄っているのを見て、カジはふと疑問を口にする。
「ディエ、髪を切ったのか」
「……?」
彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「でも、確かに」
あの雪の日には、ディエの髪はもっと長かったはず――
「私は」ディエは不思議そうに首を傾げる。「髪型、変えてない」
「そ、そうか……? そう、か」
むずむずとした違和感。
己の在り方への疑念。
何かが噛み合わなくなっている――否、噛み合ってきているような気がしていた。