「百年は霧の色」
(作者:吹雪様)
あの日から、物事を客観的に見れなくなっていた。
これを、人は心が傷ついていると言うのだろう。
――滑稽な話だ。
カジは歩く。
アダムには少し休みたいと告げていた。
笑われた。
何をそんなに感傷的になっているのか、と。
――滑稽な話だ。
カジは歩く。
歩いて、歩いて、とにかく歩いた。
イルムガルデは今日も人が多い。
黒い聖北の外套を纏った自分は、そんな中できっと「らしい」のだろう。
「……」
不意に、その建物が目に入った。
イルムガルデに幾多も存在する教会の一つ。
だというのに、そこはやたら古めかしかった。
思わず、足を向ける。
中には誰もいない。澄んだ空気だけが囁きあっていた。
こんな場所があったのかと、カジは不思議な感覚に包まれる。
――やけに落ち着いた。
「……?」
ふと向けた視線の先、壁に何かが掛かっている。
近づいてみればそれは地味な油絵だった。
だが、不思議と印象に残る。
傷つき汚れた若者たち数人が、岩に刺さった広刃のつるぎを引き抜こうとしている――
そんな絵だった。
絵画の心得などないカジには、それがそのままの意味にしか伝わらなかった。
それでも。
美しいとは違う、しかしそれに限りなく近い何かを感じたのは確かだ。
「カジどの」
「――ん」
その気配には気づいていた。
微かな足音がこちらに近づいてくるが、カジは視線を絵に向けたままだ。
「その絵に興味がおありですかな」
「……この絵は?」
聞き返しながら、ようやくカジはその人物を見る。
見知った顔であった。
カジを熱心な聖北教徒の冒険者だと信じて疑わない、ごく普通の聖北の司祭。
アダムにでも聞いてみれば、直ぐに名前が出てくるくらいには知った顔である。
「聖院騎士の殉教――ともうしましてな……」
彼は神妙な顔をしていた。
「遥か東へ、聖遺物を求め旅立った若者たちの苦難を描いた絵です。残念ながら、有名ではありませんが……」
有名な作者の絵であっても分からなかっただろうなと告げると、やはり司祭は笑った。
「冒険者らしいですな。旅を描いた題材は琴線に触れるのですかな」
「……どうだろう」
カジは言いよどむ。
何も、考えてはいなかった。
司祭は絵を見上げている。
故郷を見るような、幼馴染を見るような、それでいて少しさびしい瞳で。
カジにはその感情が良く分からなかった。
「その、」続きを促す。「この、絵は」
「何せ昔の話ですし、わたしも見たわけではありませぬが。わたしは――この絵を見て、聖職者になろうと思いまして……な」
「この絵を……」
見上げる。
この絵の何が、人の生を変えたというのか。
「いかんですな。いつもの長話を、始めてしまいそうになる……」
カジはしかし、それを止めなかった。
聞いてみたかった。
傷ついた心に、少しでも何か、注いでおきたかった。
「事の起こりは百年前。十字軍の時代――」
「カジ――カジ、」
「おーい、カジ」
不意に。
「――ああ、聞いてる」
そう、口に出していた。
"聖歌隊"は中央行路の東端にいた。
結局上手い具合に『仕事』は巡って来ず、彼らは遠出を強いられる依頼を引き受けるしかなくなった。
これもまた、『冒険者ごっこ』だと思えば割り切る事も出来る。
「――銀貨500枚。宝石に変えておいたよ」
エメリがころころと音のする袋を掲げた。
「ああ。後はまた宿まで長旅か……」
見上げた空は白く濁っていて、日光もあまり強くない。
六人はただただひたすらに道を戻る事になった。
そうして幾分歩いた頃、「すいません、旅の方」と後ろから声をかけられた。
振り向けば、そこには簡素な修道服を纏った少年が息を弾ませて立っている。
年の頃は15、16といったところか。
「そうですが……どうかしましたか」
ヴァイオレットが尋ねれば、彼は「よかった」と息を吐く。
「先程皆さんが立ち寄られた酒場で、冒険者がこちらに行かれたと聞いたので」
「……?」
聖歌隊は顔を見合わせる。
「きみ、は」
ディエが尋ねると、少年は顔を綻ばせた。
「はいっ。僕は、トラン村の見習い修道士、カールと申します」
「ほう、修道士、ね」
アダムはにやりと笑った。
「冒険者に、依頼?」
ディエはカール少年の背丈に合わせて身を屈ませる。
「そうなのです」
言いながら少年は目を伏せた。
「冒険者は、困りごとの相談にのってくださると聞いたのですが……」
「内容によるな」
アダムが間髪いれずにいうもので、少年は小さく肩を振るわせた。
「ごめんなさいね。この人、顔が怖くて」
「おい、ヴァイオレット」
「本当の事でしょう?」
ヴァイオレットはくすりと笑い、「でもね、本当に話を聞かなければ分からないのよ」と続けた。
「あ、そうですよね。事情を説明しなくちゃいけませんね。すぐ近くですし、トラン村へいらして頂けないでしょうか」
自然と全員の視線はアダムに集まった。
結局、彼の一言で聖歌隊は決まるのだ。
「いいんじゃないか。我らとて、『聖北の頼み』は断れんだろう?」
「了解」
かくして、聖歌隊はトラン村へと足を運んだ。
カール少年に案内された村は、丘を一つ越えたところに広がっていた。
「向こうに見えるあれは……湖?」
ディエの問いには「沼地です」との答えがあった。
「トランは、沼地の恵みと、森の恵みで暮らしている村なのです」
なるほど、丘の上から見える景色には、緑と青のコントラストが美しかった。
これで空が晴れであればもっと違ったのかもしれないが。
「……」
カジは視線を巡らす。
「大きな建物が見える。あれは――」
「あれが僕たちの、トラン修道院です。この辺は宿がないので、お客様をもてなす、一番広い場所です」
「なるほどなあ」
エメリはしげしげと修道院を見つめた。
「イルムガルデのとはオモムキが違うね」
「確かに」
頬に手を当て、アデラは考え込む。
「しかし同じ聖北、可笑しなところもないでしょう。私、そろそろ腰が」
「まったくアデラは……」
「とりあえず、雲行きが怪しいので修道院へ行ってお話しましょう」
草むらに立つかかしを横目に見ながら、聖歌隊は修道院へと向かった。
「これは相当古い建物ね。一体いつ建てられたのかしら」
ヴァイオレットが「ね、いつだと思う?」とカジに話を振るが「分かるもんか」と切り捨てた。
「これだからカジは。少しは歴史に思いを馳せるとか――」
「過去がどうしたっていうんだ。大事なのは、……」
――大事なのは、なんだろう。
「……嫌ね、カジ。そんな変なところで止めないで」
「わりぃ。忘れてくれ」
「っもー」
そんな話をしていたところだった。
「おっ。ブラザー・カール。その人たちは……?」
「中央行路から来られた冒険者の皆さんです」
「おおっ。例の沼地の化物の相談だな。待ってろ、院長代行を呼んでくる」
言うが早いか、その人物は転がりそうになりながら走っていってしまった。
「……沼地の化物?」
ヴァイオレットがぽつり呟いた。
修道院の入り口までやってくると、そこには黒髪の聖職者が待ちかねた様子で立っていた。
「旅の方。トラン修道院へようこそ」
ふわりと礼をされる。
「わたしは、修道院の院長代行をしているものです。依頼の話を聞いて頂けるとか……」
「まだ受けると決まったわけじゃねえが」
カジが釘を刺すと「はい、もちろんです」と極めて冷静な返事があった。
「立ち話もなんですので、中へどうぞ。ブラザー・カール、案内を」
「はいっ、院長代行」
彼は「どうぞ、皆さん。中へ」と聖歌隊を先導する。
くたびれたドアは、開けた時に不満を述べているようだった。
修道院の中は清潔な空気に満ちてはいただが、どこか懐かしさの漂う古さが住み着いていた。
「お疲れでしょう。まずは旅装を解いて、楽になさってください」
通された部屋で、聖歌隊は装備を軽くする。
老人であるアデラは「いや、こたえますね」と腰をさすりながら椅子に腰掛けた。
アダムやヴァイオレット、ディエも勧められた椅子に座るが、カジとエメリは立ったままだ。
――何が起きてもこの二人が最初に動く。
エメリは耳がいいし、カジは不浄の者への鼻が利く。
「あらためて……トランの村へようこそ。わたしはこの修道院の院長代行、ヨゼフと申します」
「あらあらまあまあ。あなた、男性でしたのね」
アデラは「気がつかなかったわ」と笑った。
確かに院長代行はほっそりとした姿で、声も優しげなものであれば間違えもするだろう。
それに、不自然なほどに彼は若かった。
「……依頼の内容を聞きましょう」
「そうですね、何からお話すればよいか……まずは、村の出来事でしょうか」
「出来事?」
「発端は10日ほど前です」
深い溜息の音がした。
「村人が植物を採取する北の沼地……深い霧が立ち込め始めたのです。元々、霧が多い場所ではあったのですが」
霧は視界を奪う。思わぬ事故を招く事もあるので、子供の頃から気をつけるようにと教わるものだ。
「今回の霧は、村の誰も観たことがない、濃く、なかなか晴れない霧です。もう数日の間、沼は霧に閉ざされています」
「そんなことが……」
ディエの眉間にしわが寄った。
あまり表情を変えない彼女ではあるが、思うところがあったのだろう。
「のみならず、霧を不審に思った村人が何人か沼地の様子を探りに行ったところ、怪しいモノを見た、と」
「怪しい物?」
「文字通り、怪物としか言いようがない何かです」
また、溜息の音。
「深い霧の中、奇怪な声を上げ……鎧を着て歩き回る人影を目撃したというのですよ」
「こっわ」
エメリの呟きは風の音に紛れて消えた。
「もっとも、沼地を探りに行った村人は、怯えてしまい、怪物の正体を確かめずに帰って来てしまったのですが」
「ふうむ」
「皆さんには、北の沼地を調べていただき……晴れない霧の原因と、怪物の脅威を解決していただきたいのです」
「なるほどなあ」
アダムは腕を組み、天井を見上げた。
「幾つか聞かせてもらいたいことがある」
「どうぞ」
「まず、北の沼地についてだ。迷ったり、足を取られたりする危険性は?」
「あります。かなり広い沼地ですが、一部はかなり深く、毒をもつ小さな虫もいます。これまでは昼間に土地勘のあるものが数人で向かっていましたから危険は無かったのですが……」
「濃い霧に閉ざされているとなると、危険な場所というわけか」
「仰るとおりです」
「沼地なあ……」
アダムのぼやきを、ヴァイオレットが引き継ぐ。
「もう少し怪物についての情報が欲しいわ。他には何かない?」
「霧の中だったので、村人の証言も確実ではないのですが、怪物は鎧の音をさせ、重そうな武器を担いでいたそうです」
「重そうな武器って……」
カジは苦笑いする。そんな「人間らしい」怪物が沼にいるのだろうか。
「人間ではありえない咆哮を上げ、奇怪なことには、足場の悪い沼地を恐ろしい速度で横切ってきたとか」
「……沼地を?」
ヴァイオレットは身を乗り出した。
「心当たりでもあんのかよ?」
「沼地を自在に動き回る、と言えばリザードマンやオーガを思い浮かべるんだけどね」
正体を確かめるのも仕事のうちだわ、とそれ以上の追及をやめた。
「それじゃ、大事な話をしよう」
アダムは身を引き締め、ヨゼフを睨みつけた。
「私達は『冒険者』だ。報酬を貰わねば何もできん」
「ええ、分かっております。修道院の蓄えから、銀貨700枚、お支払いいたします。それと、事件が解決するまでこの修道院にお泊りいただけるようにお部屋をご用意しています」
「……まあ、我々の立場上、修道院からはこれ以上もらえんな。よろしい」
アダムは全員を見渡した。
「受けるぞ。どうせこのまま帰っても仕事なんざないんだ。一稼ぎするつもりでな」
「了解」
院長代理は「よかった。ありがとうございます」とほっと胸を撫で下ろした。
「お礼は事件が解決してからで」
「そうでしたね。調査なのですが、これから夕刻になっていくと視界も悪くなりますし……今夜一晩はこちらで過ごされて、明日の朝から取りかかっていただければよいのではと考えています」
「いいね、そうしようよ」
エメリが言い、全員から肯定の返事があった。
「調査に役立つものもあるので、今夜のうちにカールに用意させましょう」
その後、旅の疲れを落とすために、それぞれ部屋を用意された。
湯の入ったたらいと、清潔なタオル、香油。
そういったものを目の前にして、カジは一人溜息をついた。
――疲れる仕事じゃない。
それは今日まで続いたものも、これから行うものも、だ。
だというのに、何日も寝ていないかのように気分が重かった。
思い出すからだろうか。
水面に移る自分の顔が、冒険者のそれをしているから。
――本当に、滑稽な話だ。
規律に従う修道院では、夕食の時間までまだ間がありそうだった。
汚れた身で出席するわけにも行かず、カジは身を改めた。
黒い外套の埃を落とし、下に着ていた革鎧も外す。
これ以上重い防具は好かない。動きが鈍るからだ。
最悪、癒しの奇跡を行使するアデラさえ生き残っていれば、聖歌隊はほぼ死なない。
長い前髪を上げる。
湯には赤い瞳が写っていた。
血の様に、赤く、紅い、二つのそれ。
「……」
向かい合うのは、好きじゃない。
敵でも、味方でも。
タオルを湯に浸し、身体を拭く。
傷の多い身体だ。治療痕は探せばきりがない。
だが、生きているから、それも残る。
死体に残るものは、何もない。
だから今ここに立っていることは、悲観する事ではない、はずだ。
カジは早々に切り上げ、簡易な服を纏って寝台に寝転がった。
呼び出されるまで、天井を見て過ごすことにする。
「神よ。その恵みに感謝し、日々の糧を頂きます――」
カールの祈りの後、聖歌隊は振舞われた食事に手をつけた。
この地方の家庭料理なのだろう、ポトフのような温かな食事は全員の心身を癒した。
食後差し出された葡萄酒に、アダムが「いい味だ、貰っていきたいくらいだ」と顔を綻ばせている。
「お酒なんて苦いだけじゃん」
「分かってないなお子様(エメリ)は。酒はいいぞ、心を豊かにする」
「そうかなあ……」
ちびちびと葡萄酒を舐めていたエメリであったが、もう一度「そうかなあ」と呟き杯を置いた。
カジにもその葡萄酒の味は分からなかったが、アダムが言うのだからそうなのだろうと納得する。
そんなささやかな夕食が終わると、修道士たちは祈りを捧げたり、冒険者達の話を聞きに集まってきたりした。
「あなたたちが、沼地の怪を解き明かしてくれればまた採取に出られる。まったくありがたい」
「沼地で採れるものは貴重なの?」
ヴァイオレットが問えば、「ええ」とその男は頷く。
「誕生祭で焼くケーキには、あの辺で取れる木の実や香草が必要だったりするんですよ」
「ふぅん」
それを聞きつけて、カールが続けた。
「ブラザー・ケインのお菓子は村の女性には特に人気がありますしね」
「忙しいのね」
ディエがぽつりと呟くと、「よし。これも縁」とケインは勢いよく立ち上がった。
「就寝時間が少々すぎておりますが、このケイン、自慢の焼き菓子を振舞いますぞ」
「こ、こら、よさないか。お疲れの客人に」
院長代理は慌てて彼を制した。
「冒険者さん達。部屋を整えさせたのでお休みください。この者たちは就寝時間破りの常習犯ですので、付き合うと話が終わらな――」
「な、なぜです院長代行! 院長代行も、異国の話を聞きたいでしょう」
「明日にしなさい。明日に。貴方たちはそれでも修道士ですか」
若い修道士たちが部屋に追い返された後、聖歌隊の面々もそれぞれに与えられた部屋に引き上げた。
その、夜。
近くの沼地から這い上がってくるのか、じっとりとした霧が、部屋の外を流れ――
カジは、まどろみながら、夢を見ていた。
――知らない場所だ。
薄明かり、おぼつかない手元。
周囲に、うずくまっている影がある。
――見慣れたものだ。
死体。
剣を持ち、鎧を纏った戦士達。
皆一様に無口で、カジのことなど知った事ではないとばかりに転がっている。
そして、
「……」
少女が、霧の中、幻のようにたたずんでいた。
「騎士よ――」
彼女はそうカジに告げる。
「騎士よ。ひいてください。このつるぎ、渡すつもりはありません」
薄明かりの中、それははっきりとカジの視界で光った。
『つるぎ』。
「……お前は、何者だ?」
疑問をそのまま口にしてしまう。
「愚問でしょう。共に戦った我ら……」
風の音が、少女の言葉を閉じる。
唐突に、月明かりのように儚い光がお互いの姿を照らした。
少女は修道服を纏っていた。
紺色のそれが光の中で幾重もの影のように見えた。
「……!」息を呑む音。「騎士では、ない……」
「騎士……?」
その単語に覚えはない。
「……では、」彼女は目を丸くして問うた。「あなたは一体」
少女が戸惑いの表情を浮かべると同時に、夢、そのものが大きく揺らいだ。
「あるいは……百年を経て、真実を探すものがやってきたと……?」
何を言っているのか、全く分からなかった。
夢だというのに、目の前の少女はまるで生き物のように自然に、問う。
「教えてください。貴方の名」
「俺は――」
答えようとしたが、言葉は立ち消えた。
霧のように湿った闇が、視界を完全に閉ざしたから。
「――霧。沼地を渡ってきた、の」
ディエがぽつりと呟いた。
彼らは朝日ではなく、水面を渡ってくる風の冷たさで目を覚ましたのだった。
「カジ。顔色が」
「……夢を見た」
カジは視線をそらしながら、彼女に答える。
「夢」
「そう、夢だ」
どんな、とは聞かれなかった。聞かれても答える気分ではなかった。
暗闇の中の刃の輝きが、薄明かりの中の少女の顔が、ちらちらと脳裏を過ぎる。
「らしくないわね」
左側からヴァイオレットにこめかみを突かれた。
「しっかりしてよね。貴方がそれじゃ、困るんだから」
「ああ――」
沼地にはいる前に、持ち物を検分する。
準備不足は死を招く。
「じゃあ、僕が先頭ね」エメリは大きく伸びをする。「しっかりしてよね、カジ」
「分かってるよ」
さて出発しようかという時に、カールから声をかけられた。
「院長代行から、探索に使えるかもしれない品物を預かっています。携帯食と水袋も一緒にお持ちしますので、少し待っていてください」
「ありがたいわ。院長代行にもよろしく言ってね」
彼が去った後、ぼんやりと待っているのも申し訳なく、それぞれ荷物袋や装備を整えていた時であった。
「……?」
ディエの視線の先、修道院の崩れかけた石垣を、一人の女の子がよじ登り、乗り越えてきた。
まるで猫だ。
「よっ」
鮮やかな赤い服をひるがえし、無事に着地したその子はこちらに気づくと目をぱちくりとさせる。
「あれ」
そしてまったく怖がる様子なく、小走りに近づいてきた。
「ねえ、ねえ。お兄さんたち、もしかして冒険者?」
「よく知ってるわね」
返したのはヴァイオレットだった。
「……やっぱりね! メレル、わかるよ! メレルのお父さん、昔、冒険者だったんだもん」
「へええ、冒険者、ね」
アダムが意地悪く笑うのを、カジは「止めろよ、気色悪いな」と肘で小突いて止めた。
「ねね、冒険者だったら、冒険のお話聞かせてよ」
「いいわ。このお兄ちゃんが、話してくれる」
「ディエ、てめぇ……!」
カジは丸投げされた事に憤ったが、「わぁい!」というメレルの喜びの声に毒気を抜かれた。
「お父さんに話すんだ。メレルも本物に会ったって。ありがとう、冒険者さん」
「あー……あー……しかたねぇな」
カジはぽつりと前に受けた、とある司祭の飼い猫を探す話を彼女にした。
少女はそんな些細な「冒険」でも喜んで聞き、「お礼にメレルもいいもの見せてあげる」と声を高くする。
「字が書ける凄く賢いねずみ」
「……字が書ける……ねずみ?」
なにやら胡散臭いものが飛び出したことに、ディエをはじめ、皆が面食らった。
「一番の友達なの。ウルリカに会わせてあげる。こっち!」
女の子はグリフォンもかくやという速度で駆けだした。
「あ、おい」
勝手を知っているかのように、少女は修道院の庭を駆けていく。
「はーやーくー」
ちらりアダムを見れば、「待っていろとは言われたがなあ」と頬を掻いているところであった。
「ま、カールの向かった方向だし、いいでしょう」
聖歌隊は彼女を追う。
やがて辿り着いたのは修道院の鐘楼の下であった。
「ウルリカはここに住んでるの」
女の子は、あまり上手ではない口笛を吹いた。
「ウルリカ!」
そう彼女が呼びかけると、草を掻き分けて本当にねずみが現われた。
「ウルリカ! 冒険者さんを連れてきたよ!」
カジは、気づく。
そのねずみの瞳が赤いことに。
「気づきましたか」
ヴァイオレットがねずみを見つめながら、カジに声をかける。
「ああ」
それに気づいたのか、ねずみはくるくると石畳の地面を走り回った。
「文字?」
ディエが宙に指を走らせる。
「A、D、V、E、N……冒険者、ね。本当に文字を解してる?」
「まさかあ」
エメリは笑い飛ばした。
「おとぎ話じゃないんだからさ。使い魔か何かでしょ」
「こんなところに、魔術師が?」
アダムの疑問に答えられる者はいなかった。
「このねずみは?」
カジは少女に尋ねる。
「メレルが修道院に遊びに来た時に会ったの」
彼女は「メレルはね、お婆ちゃんのお薬を取りにきたり、安息日のお祈りと探索ごっこする時も修道院に来るよ」と付け足した。
「向こうの崖に落ちてしまって足から血が出た時に、ウルリカが見つけてくれて助かったんだよ」
「危険な目に遭ってるなあ……」
エメリが呆れたその横で、カジは目を細める。
――やはり、このねずみは。
「それから色々、教えてあげてるの。遊びとか、町の話とか」
「ふうん」
「ね、冒険者さん。ウルリカにも冒険の話を聞かせてあげて!」
再び視線がカジに集まる。
「なんで俺なんだよ」
「まあまあ。カジ、貴方が一番「冒険」してるでしょう?」
「……」
アデラを否定する事は出来なかった。
仕方なく、カジは先ほどの話をウルリカにもしてやった。
ウルリカは「ちゅう」と鳴いて、また走り回る。
「んーと……F、L、O、O……床?」
「床……?」
今度の文字は良く分からなかった。
「ねえ、メレル。探検ごっこ、って?」
ディエが尋ねると、彼女は顔を赤らめて説明してくれた。
「えへへ。修道院は色んな場所に、不思議な絵とか、綺麗な石があるから」
「そうなんだ」
「お庭の奥にも壁画が隠されてるんだよ」
「そんなところに?」
「前の院長さまは、壁画は天使さまが下りてくる目印だってゆってた」
なるほど、そんな話が伝わっていてもおかしくない。
「次の聖誕祭には天使さま待ち伏せしようかなあ」
などと笑っていたところに、「おーい! メレル!! 一体何をしてるんだ!」と声が飛んできた。
カールが慌てたように走ってくる。
「だめじゃないか、院長のお許しを得ずに勝手に庭で遊んじゃ!」
「カールにぃ!」
「すいません、皆さん。メレルが失礼を」
そうカールが謝るので「問題ねぇよ」とカジは軽く返した。
だというのに、他の面子はくすくすと笑い始める。
また憤りが口から飛び出しそうだったが、「カールにぃ。失礼してないよ。だいじょうぶ」というメレルの言葉に思いとどまった。
「この方たちはこれからお仕事なんだ。早く院長代行の所へ行きなさい。悪戯ばかりすると、ブラザー・ケインのお菓子もお預けになっちゃうぞ」
メレルはぴくりと反応し、これまでカジが見たどんな子供より速く修道院へと駆け出した。
それを見送り、カジは視線を素早く走らせてねずみを探す。
どうやら鐘楼の上へ姿を消してしまったようだった。
「冒険者さん、これをお持ちください」
カールが手渡したのは水袋と、携帯食、それから小さな鳥の置物を手渡してきた。
「"生命感知"の魔法が込められた品物だそうです」
「へぇ! こんな可愛らしいものが」
ヴァイオレットはそれを手に取り、しげしげと見つめた。
「なにぶん古いもので、虫や魚のような、小さな生き物は見つけられませんが……沼の怪物のような強く大きいものなら反応します。霧の中で怪物を探すのに使えないでしょうか」
「なるほどね。じゃあ、借りていくわ」
「よろしくお願いします」
聖歌隊は改めて沼地へ向かった。
沼地は足を取られそうな深い場所があり、エメリの先導で奥へ奥へと入っていく事になった。
武装が重いアダムや腰に余裕のないアデラは慎重に進むだけでも一苦労である。
「さすが異国。見た事がない鳥が飛んでるよ。あー、ほら」
霧の向こうに消えていく鳥を目で追う。
彼らに異常は見られなかった。
「うーん」
ヴァイオレットが例の小鳥を掲げながら「奥へ奥へと導かれているわね」と呟いた。
「何が出るかな」
「さて。リザードマンあたりだと楽でいいけど」
装備を濡らし、足を取られながらも、徐々に奥へと侵入する。
「――」
カジは息を潜めた。
「生命の気配が近い。何か――来る」
不意に、風を引き連れてやって来たのは頬のこけた男であった。
「人間……!?」
男は後ろを気にしながら「な、なんなんだ。一体何なんだよ、ありゃよォ!」と声を荒げている。
――堅気の職業じゃないな。
腰には山刀と短刀。音の発たない装備。大方、裏社会の人間だろう。
「――っっ!」
男はこちらに気づき、反射的に身構えた。
――しかし、こいつが何者かは、どうでもいい。
カジは剣の柄に手を伸ばしながら「何を見た?」と問う。
「ば……化物だ……っ、そ、そこをどけ!」
男はこちらを突き飛ばさんばかりの勢いで逃げ出した。
「……あの男、盗賊だな」
ぽつり、呟く。
「中央行路を徘徊する野党の類かしら。短剣の血と、女物の装飾品――気づいた?」
「ああ」
「きっとさあ、霧を隠れ蓑に官憲とかから逃げてたんじゃないの?」
エメリの意見は最もだった。
「でも、化物って言ってたか? 他に、生き物の気配は――」
その言葉尻は、「伏せて!」というエメリの叫びに掻き消えた。
「ッ!」
聖歌隊の動きは速かった。
頭上から飛来した「影」の動きをすんでとはいえ、避ける事が出来た。
「木の上……!」
カジの背後を、巨大な刃が行過ぎる。
木の上から現われた黒いローブの人影たちは、奇襲が失敗したと見るや、再び地面を蹴って木の上へ舞い上がった。
「こいつらが、沼の怪物か……!」
アダムは槍をくるりと構え、身を強張らせる。
「冗談きついな。こいつら、金属鎧だぞ?」
だというのに、彼らは軽々と跳躍して木々の上から襲撃して見せた。
その事実が聖歌隊を揺さぶる。
「……こいつら、生命の気配が……!」
無い。
おそらくヴァイオレットの小鳥にも反応がないのだろう。
「……くっ、こいつら……!」
カジは剣を引き抜きながら、その答えに歯を食いしばる。
「アンデットッ!」
「ちょっとカジ、しっかりしてといったはずです」
「うるせぇ、悪かったよ! だが――こいつら、ただのスケルトンやゾンビじゃねぇぞ!」
沼に足を取られながら、カジは木々に隠れた黒い影の動きを追う。
「カジ、いるでしょう? 知能を持ちながら、食人鬼並の膂力を持ち――霧を自在に操る、」
「……吸血鬼か!」
「そう、それじゃあ貴方の感覚が鈍るのも仕方ない。彼らは、気配を隠すわ。悟った今なら分かるんじゃない?」
「……」
鈍く、頭痛がした。
頭が理解を拒否している気がする。
「全部で、三つ……全部上だ」
「でも、吸血鬼は昼の太陽の下での活動は――」
アデラの疑問に、ヴァイオレットが答える。
「真なる祖に近い吸血鬼たちは、弱い光の下なら活動できるわ」
「冗談。これが、真なる祖だとでもいうのか?」
アダムは嗤う。
「なら、確かめてみようじゃないか!」
手近な木を、槍で打つ。
その強烈な一撃はあっさりと『沼の怪物』が潜んだ木を薙ぎ倒した。
「カジ」
「わーってるよ!」
跳ねる。
落ちて来た黒ローブの影に一撃を見舞うと、確かな手応えがあった。
スケルトンであればこうはいかない。
「!」
相手は抵抗を見せ、カジの脇腹の直ぐ傍を剣が通過する。
「あめぇんだよ」
刃に法力を乗せて、突き刺した。
「――!」
微かな、呻き声。
カジは剣を勢いよく引き抜き、反転する。
「あはっ、カジ! こっちに来て、今から凄いの見せてあげるから!」
高揚したディエの声に「何だよ――」と応えた刹那、彼女の二丁拳銃から放たれた二つの銀弾が、木々の上へと吸い込まれた。
とたん、どっと落ちてくる黒い影。
「俺に処理させんなっつーの!」
「貴方器用じゃないんだから、諦めて勤しみなさい」
ヴァイオレットが違う木へと使い魔を飛ばす。
「人使いが荒らすぎんだよてめぇらは……!」
愚痴ばかりも言ってられない。
とりあえず落ちて来た影を腹いせに叩きのめし、残った一匹は他の者に任せた。
彼らは多かれ少なかれ、遠距離の攻撃を使う事が出来る。
――やがて、沼地は静かになった。
「ん、この鎧、古い甲冑ね……? 一体……」
そうヴァイオレットが検分していた時、不意に影は苦しそうに動き出した。
「! まだ動くの……!?」
慌てて彼女が身を退いた後、「け……剣」と呻き声がその口から漏れる。
「剣を奪いし背信者ども……」
「……剣?」
「剣は何処だァァァァ! 『聖なる剣』、我らの剣を返せ――!」
その手はおそらく、剣を掴もうとしたのだろう。
しかし風がその人ならざる身体を煽り、ローブを奪い去る。
「……!」
今は昼だ。
霧が出ているとはいえ、ここは、吸血鬼の領域ではない。
耳をつんざく悲鳴と共に、吸血鬼の身体は灰となった。
それは音もなく湿った沼地に降り注ぐ。
今度こそ、辺りは静かになった。
「……」
カジは残った鎧の紋章を見やる。
「この鎧の紋章。どこかで……」
不意に、ヨゼフの顔が浮かんだ。
トラン修道院へようこそ、と。
「――!」
はっとしたカジを、ヴァイオレットが見咎める。
「どうしたの?」
「……いや……」
確信が持てず、カジはその「答え」を口にするのを躊躇った。
ヴァイオレットもそれ以上の追及をすることなく、「これで、依頼完了――かしらね」と辺りを見回した。
「だといいな……」
嫌な予感は拭えなかった。
「ま、他のやつらもローブを剥いでおきましょうか」
「それがいいだろう。まったく、吸血鬼とはな。ここに来て私達の仕事、か」
それぞれが黒いローブを剥ぎ取っていた中、不意にディエが視線を上げ、きょろきょろとし始める。
「どうした」
「視線を感じて」
しかし、その何者かが現れる事はなかった。
「……なんと……! 吸血鬼、だったというのですか」
「ええ……」
「北の沼地に、そのように恐ろしい怪物が巣食っていたとは」
「念のため沼地をもう一度探索しましたが、他に姿は見えませんでした」
アデラが言えば、ヨゼフは「ああ……」と感嘆の声を漏らした。
「ともあれ、皆さんが吸血鬼を滅ぼして下さったと……見込んだとおりの勇士で、心強い限りです」
彼は「霧が晴れれば村の生活も落ち着くでしょう」と再び深く息を吐いた。
「早速、報酬をお支払いしなくてはなりませんね。お確かめください」
慌てて差し出された袋を受け取ろうとしたディエだったが、隣のカジの異様な雰囲気に気づき、その手を止めた。
「どうしたの。考え込んで……」
「……これで本当に終わったと思えるのか」
ぽつり呟けば「そらきた」と言わんばかりにヴァイオレットが視線を避ける。
「あの三体の吸血鬼は倒した。だが、霧は晴れてねぇんだぞ――?」
「……あ」
ヨゼフはカジの言葉に小さく戦いた。
おそらく討伐の朗報にそこまでの考えが至らなかったのだろう。
「そもそも、何で唐突に吸血鬼は出て来たんだ? 古くから棲みついてる吸血鬼ならこれまでだって被害が出てるだろう。でも、今、だった」
「……」
「そして――な。吸血鬼が言ってただろ? "剣"とは何だ? "背信者"とは――?」
「……」
ヴァイオレットの溜息に「知ってて言わなかっただろ? あ?」と睨みつける。
「そりゃ、考えなかったわけじゃないけど。自然と晴れるんじゃない、かなって」
「……」
「怖い顔しないでよ、もう」
「……本当に、依頼解決と言えんのかよ」
一様に皆黙ってしまう。
「ヴァイオレット」
暫しの後、アダムは己の娘に問いかける。
「カジの言い分はどうだ?」
「正しいわ。それはもう、ね」
「では?」
「聖歌隊の名に誓って」
「よし。そうしよう」
アダムがそういえば、ヴァイオレットは覚悟を決めたようだった。
「院長代行。もう少しだけ、話を聞かせてもらえませんか」
「……ハイ。皆さんのお役に立てるなら、できる限り、調査をお手伝いしましょう」
喜びからの転落は、彼にも負担に違いない。
でも、聞かなくては。
彼らが"聖歌隊"である以上は。
「今まで吸血鬼の襲撃があった、とか」
「知りえる限り、この辺りでそのようなことが起きたことはありません。狼などの被害は、数年に一度出ましたが……」
「まあ、それは、普通だな」
「もう少し東のノロディア地方などでは黒貴族と称して――吸血種が、領主として君臨していた時代もあったと聞きます。もう、一世紀も前のことですが」
「……ふうん」
ヴァイオレットは興味深そうに唇をさすった。
「より詳しい事でしたら、修道院の書庫なら、冠婚葬祭の記録から調べられるでしょう」
「ありがとう、当たってみるわ」
「なら、剣は? 何か……」
カジが問えば、院長代行は難しい顔を浮かべた。
「その剣と、関係あるのかは分かりませんが――」
「何でもいい」
「我がトラン修道院は、少々変わった気風を持っていて……修道士達は神への祈りや奉仕活動の他に、毎日剣の訓練をします」
「――剣の? 珍しいですね」
アデラはそう答えながら、カジやアダムを思わずといった様子でちらりと見た。
「ええ。昔からそうなのです。獣から人々を守るためとか、異教徒の振興に備えるためとか色々言いますが……本当のところは謎で、わたしも、先代院長に真実を聞けずじまいでした」
そして、ヨゼフははっと息を呑んだ。
「皆さんの話を聞いていて思いだしたことがあるのですが――修道院の書庫へ来ていただけませんか。お見せしたいものがあります」「書庫……分かった」
汚れた物をその場に残し、聖歌隊はヨゼフに導かれて書庫への扉を開いた。
「思い出した事、ってのは?」
カジの疑問に、固い声が返ってくる。
「はい。このトラン修道院には、代々、歴代の院長だけが知る何らかの『使命』があったようなのです」
「使命?」
「詳しくは分かりません。代々の院長が交代する時、先代から伝えられる使命がある――そう聞いただけなのです」
「でも、ヨゼフさん」ヴァイオレットが問う。「貴方は院長代行……この修道院を纏めているのでしょう?」
「ですが、わたしはあくまで、院長の代行です」
彼は悲しんでいるように見えた。
しかし、その表情は薄明かりの下でよく見えない。
「今年の春、先代の院長が病で天に召された時――わたしは、若い修道士の中で一番年上という理由で『院長代行』を引き受けました」
「なるほど」
若いはずであった。
「前の院長の死があまりに急だったもので、引き受けた私も、他の修道士たちも、使命については、何も聞けなかった。ですから、気になったのです」
言葉に、はっきりとした意思が宿る。
「皆さんの話に出てきた吸血鬼が求める"剣"――その話が、代々の院長の使命と、何か関係するのではないかと」
「納得できる話ね」
ヴァイオレットは頷いた。
「さあ、こちらです――」
「これは……」
書庫に足を踏み入れるなり、聖歌隊はそれぞれに声を上げた。
書庫にある書物の量は想像以上だった。
四方の壁を本と巻物が埋め尽くし、それでも足りず、詰まれた本の柱が何本も大樹のように上へ伸びている。
本だけではない。
異国の物らしい美術品、武具――それらが隠し棚に並んでいる。
「驚かれたでしょう」
ヨゼフの言葉に、現実に戻る。
「なぜ、これほどたくさんの書物が?」
「――これは、十字軍時代の遺産です」
「十字軍」
その単語は、聖歌隊の深いところに響いた。
「トラン修道院は、百年前の十字軍時代には戦地……東方から帰還した十字軍騎士たちを受け入れたと言われています」
「……」
「当時、異国の戦場ではさまざまな疫病が蔓延し……軍には異教徒の斥候や魔女の類が紛れ込み、東から帰還した十字軍は混乱を極めていたそうです。そんな騎士たちを迎え入れ、献身的に看護したのがトラン修道院だったと」
「なるほどな」
カジには分かるような気がした。
疲れ果てた旅の向こう、縋りたくなる、その気持ちが。
きっと、走り疲れたのだ。
「十字軍騎士たちから大変な感謝を受けたトラン修道院は、十字軍の莫大な資産の中から、一部を譲り受けたと言われています」
「それが」ヴァイオレットはぐるり視界を巡らせた。「これ」
「ええ。ここに納められた異国の書物や、代々の院長が管理する、古い武具なのです」
「十字軍を受け入れ……なるほど」
ディエが呟き、聖歌隊はそれぞれ頷きあった。
それはそれは多くの物を与えられたに違いない。
「それ以来修道院は、疲れた旅人には、最大限のもてなしをすることを信条としてきました。たとえ異教の信者であったとしても、修道院に宿を求めてくる限り無下にしない。それが我々の誇りなのです」
「美しい事だ」
アダムが呟く。
「代々の院長が引き継いだという使命。わたしには分かりませんが、この書庫に資料が残っているのではないでしょうか」
そして、あるいは吸血鬼事件の手かがりも――そう、院長代行は厳しい表情を見せた。
「ここの資料は、自由に見ていただいて構いません」
「それじゃ遠慮なくっ」
エメリは本棚に飛びついた。
好奇心を抑えられなかったらしい。
しかし、それよりも幾分早く、本棚の陰から物音がした。
「……!」
反射的に振り向く。
が、視線に入ったのは鮮やかな赤い服であった。
「メレル……?」
絵本らしき書物に埋もれるようにして、彼女はすやすやと寝息を立てていた。
「まだ、修道院にいた、の?」
ディエは彼女に手を伸ばしかける。
だが、起こすのを躊躇ったように見えた。
あまりにも少女が幸せそうに寝ているので。
「ふもとの村のメレルですね。薬を渡して村へ返したはずなのに……」
院長代行は優しく慣れた手つきで「メレル、メレルや」と彼女をさすった。
「ん……む……んーん」
「目が覚めましたか」
彼女の黒い瞳がぱちぱちと開いた。
「あっ、ヨゼフさま。あっ、冒険者さん――」
「一体、どうしたの。こんなところで」
ディエが尋ねると、彼女は少し言いよどみながら「冒険者さんにあげようとコカの葉探ししてたんだけど、雨が降ってきて、ここで雨が止むのを待っていて……」と答えた。
「寝入ってしまったわけですか。もう日が暮れるというのに……」
ヨゼフは困ったように表情を歪める。
「――ごめんなさい。お婆ちゃんたちに言う?」
「……心配しているでしょうね。村まで送ってあげましょう。皆さん、わたしは少し失礼して、メレルを村まで送ってきます」
「分かった。気をつけろ」
「はい」
院長代行に手を引かれたメレルだったが、「冒険者さん」とディエに駆け寄った。
「ん?」
「これあげる。ぜったい、宝物見つけてね」
それは、しわくちゃのコカの葉だった。
きっと一生懸命探したのだろう。
「ありがとう」
「うん!」
――二人が去り、聖歌隊は表情を改める。
「暗くないうちにやっちまおう」
カジは手短な本に手を伸ばし、ぱらぱらと捲る。
随分絵の多い本であった。
「こっちは薬草の効能、こっちは……うん、治水のための地図かな。えーっとこっちは、トラン修道院の作法のまとめ……」
「エメリ、読んだ物は元の場所に戻してください。足元がもう一杯じゃないですか」
「そういうならアデラが戻してよ、この量調べるのにいちいち戻してらんないよ」
それも一理あるかもしれない。
全て読もうとしたら、どれだけの時間がかかるか分かったものではない。
「……『修道院補修図面』。いいものを見つけたわ」
程なくして、ヴァイオレットの嬉しそうな声が聞こえてきた。
「十字軍時代の修道院の図面には、今は使われていない地下区域が書かれてるの」
「地下、だと?」
「そう。思い当たらない? この修道院は、古い、何かの土台の上に立てられているように見えなかった?」
「ああー……」
アダムは納得したような、しないような曖昧な呻きを返す。
「お父さんったら、っもう」
「それで、代々の院長が受け継いできたものって何のことだろうなあ」
「誤魔化さないで。でも、そうね……」
ヴァイオレットは「あの吸血鬼たちが狙っていたものと関係してるんでしょう」と目を細めた。
「院長代行は、修道院は十字軍を世話した謝礼として様々な物を受け取ったといってたけど、本当にそうかしらね」
「どういうことですか?」
「こう考えてみたの。修道院側が都合よく歴史を書き換えたんじゃないか、って」
「まさか」
「十字軍騎士の弱みに付け込んで、修道院が何か貴重な物を脅し取った……そう考えれば、言葉に説得力が増すと思うんだけど」
「返せ、ね」
「っそ。可能性に過ぎないけど」
さらに彼女は本を手に取り、中を見る。
「ここ。彼らが纏っていた鎧は十字軍時代の物ね。同じ絵があるわ」
「……」
カジは言いかけ、口を噤んだ。
「言ってみてよ、カジ。笑ったりしないわ」
「……あの吸血鬼共は、十字軍だった、ってことか?」
「冴えてるわね。ここを読むとね、あの形式の鎧は十字軍時代に作られたので最後だそうよ」
「……気づいた事があんだよ」
「うん?」
カジはついと、書庫の壁に描かれた紋章を指差した。
「この紋章が、襲ってきた吸血鬼共の鎧にもあった」
「修道院の紋章と吸血鬼の鎧の紋章が一緒? そんな――」
「これをどっかで見たって思ってたんだが、今確信した」
どこで、見たのか。
ここではない、そのどこかに思い当たった。
「これは、修道院の紋章じゃねぇ。十字軍時代の秘密騎士団【聖院騎士団】の紋章だ」
「はあ? 何だよそれ……聞いたことないけど」
エメリは嘘吐きとでも言いたげだったが、アダムが「聞かせてもらおうじゃないか」と言ったので、カジは言葉を続ける。
「十字軍の末期――協会の権威低下を憂えた信仰心の厚い騎士たちは、」
己の言葉が、脳裏のあの司祭の姿に重なる。
「東方に遠征して聖書にある13個の聖遺物を集める事で教会の権威を回復しようとした。その使命に共感するものたちが組織したのが、秘密結社……聖院騎士団だと」
「私は聞き覚えがある。そうか……まさか、足跡が残っていたとは」
「実際に奴らは活躍して、東方でひとつの聖遺物を発見した。確か――聖マテルの剣」
「剣……!」
「それを持って西方に帰還したはずが、奴らは突如行方知れずになった。疫病にやられただの、異教徒の襲撃に遭っただの説があるが……真相は闇の中、さ」
カジの言葉に、ヴァイオレットが噛み付く。
「待ってよ。それじゃあ、まさか、修道院の紋章は」
「っそ。聖遺物を手にした騎士団が、遠征から帰還する途中、ここに潜伏する事に決めたのだとしたら、どうだ」
「いい推理ね。でも、手に入れたのだったらさっさと持ち帰ればいい話じゃ?」
「そこが俺にもわっかんねぇんだよ……でも、ここが聖院騎士団最後の地であれば、何か出るんじゃないかとな」
「おいカジ。私もそこまで聖院騎士団については知らんぞ。一体そんな話、どこで覚えた」
アダムの追及に、仕方なくカジは答える。
「あんたの知り合いの司祭に聞いてな。絵が……いや、なんでもねぇ。とにかくその司祭は、聖院騎士団がその聖遺物を持ち帰っていたとしたら今の教会は変わっていたかも、と言ってたぜ」
「くくくっ……言うなあ、カジ」
「俺の言い分じゃねぇよ」
嫌いな話ではなかったので覚えていた。
好きな話だったのできっかけ一つで全て思い出せた。
「じゃあそれを踏まえてもう少し探しましょうか」
「了解」
しかし、六人で随分と探したが、それ以上の成果を得る事は出来なかった。
「……ん?」
闇が深くなり始めた時刻。
カジは書庫の奥の床石の一つに、跳ね上げ式の扉を見つけた。
「埃は被ってるが……使用されてるな。大当たり、であればいいがな……」
聖歌隊を集める。
「もうここしか残されていないわ。行くでしょう?」
「ああ」
いつもの隊列となり、暗い階段を下りていく。
不浄の気配も、何らかの命の気配も感じられなかった。
「……ここは」
カジが掲げたランタンの明かりに浮かびあがったのは、壁画だった。
「聖北のものじゃないな……もっと古い、名前すら分からんようなものだ」
アダムはそれに手を触れようとして、やめた。
そこに漂うなけなしの神聖が、彼に無礼を許さなかったように見えた。
「絵もいいけど。……扉だよ」
エメリが指差す先、確かにそこには石の扉が鎮座していた。
「この扉、鍵穴がないわ。魔法の鍵かしら――何か開ける手段は……カジ?」
カジにはこの場所に見覚えがあった。
足元に、今は何もない。
あの少女も、立ってはいない。
それでも、ここは。
「……ちょっと、カジ?」
仲間の言葉に答えず、カジは静かな確信を持って『その場所』に立った。
カチッ。
敷石を踏み込む音がして、至極あっさりとその扉は開いた。
「カジ。もしかして、この事件の黒幕?」
「ディエ、本気で言ってんのか?」
「割と。カジは、分からない事多いから」
「信用ねぇな、ったく……お互いさまだろうよ」
カジはさっさと扉をくぐった。
暗がりに浮かび上がったのは、聖北のものではない、古い地下建築だった。
「こんな神像、見たことないわ」
その答えは、闇の奥より現れた。
「それは、死と霧をつかさどる神」
反射的に構えた彼らだったが、「待って。争うつもりはない」という静かな言葉に緊張を少しだけ緩めた。
「あんたは……」
異教の神殿の階段に腰を下ろす娘。
夢で、見た事があった。
その手にかき抱いている古びた広刃の剣も含めて。
「西から来た冒険者……ですね。遠き地より、ようこそ」
静かな、静か過ぎるほどの声であった。
「わたしはアリシア。みなさんとは、一度お会いしましたね」
――夢の話か。
そう思ったが、カジは認識を改める。
「赤い目のねずみ、だな」
「ちゅう」
足元をちょろりとねずみ――ウルリカが走った。
ウルリカはアリシアにそっとよりそい、彼女は小さく笑った。
「そいつは、あんたの」
「使い魔です。わたしと視覚・聴覚を共有して外の様子を知らせてくれる。わたしは、太陽の下に出られないものですから」
「……」
カジは、対峙して気づいていた。
彼女が――
「教えてくれよ。あんたは、何者なんだ」
「……何者か、か」
少女は自嘲気味に頬を上げた。
「わたしは、百年前、この地に来た、十字軍騎士。正確には、その娘」
「娘、だって?」
アダムは声を潜める。
「十字軍から帰還して消えた、と言われていた聖院騎士団はこの地に隠れてたのね」
確かな確信を滲ませて、ヴァイオレットは少女に言葉を向けた。
「――! 聖院騎士団をご存知なのですね」
カジは己の推理を披露し、「聖院騎士団の末裔、なのか?」と結ぶと、彼女は「ほとんど正解だけど、一つだけ……」と告げる。
「私達は『末裔』じゃない。百十年前の十字軍に参加した、正真正銘の騎士」
「……長く生きてる、ってことか?」
「驚かないんですね」
「……俺達だからな。ここで、いったい何が起きたんだ?」
彼女は少し間を置き、息を整えた。
禁忌を犯すような、鋭い瞳をしていた。
「騎士たちは……忌むべき吸血鬼となった」
「……っ」
「お聞かせしましょう。騎士団をおそった、運命を」
少女の身が、きゅっと小さくなる。
「東方から、聖遺物を持って帰還した"聖院騎士団"は、その旅の途中このノロディア地方を通った。百年前のここは、まだ聖北の力が及び始めたばかり。騎士団はここで、古い異教の建物を見つけたわ」
「異教……」
「それが、わたしたちが今いる、この地下神殿なの」
彼女は視線を下げる。
「地下神殿は廃墟だった。幸い、死と霧を司る神を祭っていたとは分かったけど、信者は死に絶え、無人だった。東方での傷を癒すため、ここに陣を構えたわたしたちは、やがて……奇妙な病に感染したわ」
「そんなことが」
「察しが良いのね。そう、伝説の、吸血鬼のような症状。騎士たちの一部が夜に徘徊し、生き血を啜り……凶暴化するようになった」
――震えているように、見えた。
「彼らの瞳は赤く染まり、恐ろしい力を得た。吸血鬼病は瞬く間に騎士団全員に広がったわ」
――その、華奢な肩が。
「外の世界に出られなくなったわたしたちは対策を話しあった。色々な方法が試されたけど……」
――その、深い絶望が。
「有効だったのは一つだけ。騎士団が東から持ち帰った聖遺物、『マテルの剣』」
――震えているように、カジには見えた。
「これで傷を受けたものだけが、吸血鬼病の進行を止めることができた」
「あんたの持っている剣――それが」
「ええ。これこそ、かつて教会が探し求めた聖遺物」
「マテルの剣」
アリシアの声と、カジの声が微かに重なる。
「騎士たちは、マテルの剣でお互いを傷つけあった。吸血鬼病の軽い者は、修道士に姿を変えて、病の重い者を地下に収容し、看病する事にした」
「それじゃあ、何。騎士団は修道院に助けられたんじゃなくて、騎士団こそ修道院の祖ってことになるのね?」
ヴァイオレットの疑問に、アリシアは「ええ」と答えた。
「わたしは、吸血鬼症状の軽かったものの一人。そして、マテルの剣はここに安置され、騎士たちに守られて来たわ。修道院に人が集まるようになってからは、修道院の長だけに、わたしが真実を伝える事になった。そして、秘密は守られてきたの」
「剣の事も、騎士団の事もわかった。……ここからが大事な話だ」
カジは一歩踏み出す。
「あんたは今、この村を徘徊している吸血鬼共を知っているのか?」
「彼らは聖院騎士団の騎士たち」
それは、いっそ心地よく、カジの胸に落ちた。
「百十年前、騎士団がここに留まり修道院を開くと決めた時、それに反対した騎士たちがいたの」
「一枚岩じゃ、なかったんだな」
「騎士のほとんどは、吸血鬼症状は呪われたものと考え、自分たちは教皇庁に帰れないと悟った。けれど、それに納得しない騎士たちもいた。彼らは、言ったわ」
『我々は、聖遺物の探索に身を捧げしクルセイダー。この身体と力は、主からの授かり者に違いない』
『13個の聖遺物、全てを発見するまで、死が訪れぬように……我らはこの力を得たのだ!』
『ここに隠れ住むなど言語道断。マテルの剣を携え、教皇庁に帰還すべし……!』
「二つの意見に割れた騎士団は争いの末、帰還を主張する一派は、この地を追われたの」
「分裂ですね。嘆かわしい事です」
「彼らは東方に逃れたけれど、剣の事を諦めてはいなかったのね。失った力を取り戻し、剣を奪いにきたのでしょう……」
その言葉は冷たく、悲しげであった。
「あれから一世紀。当時の事を知る騎士も亡くなり、わたしだけが生き残った」
だというのに、彼女はくすりと笑って、カジを見た。
「こんなに誰かと話したのは何年ぶりかな。聞いてくれてありがとう……」
「……解決策を聞いてみてぇな」
「わたしが力を貸せるとしたら、このマテルの剣だけね。剣はこうして触れているだけで吸血鬼症状の進行を抑える。騎士たちはこれを狙うはず。これを持っていけば、敵は貴方たちの前に姿を現すかもしれない」
アリシアは、彼らは騎士の誇りを捨てていないために、吸血行動を行っていないだろうと告げた。
「なるほど。本物の吸血鬼以下、ってことだな」
「昔のままの彼らなら。……いずれにせよ、修道院を守ってくださるのなら、この剣をお貸ししましょう」
彼女は立ち上がり、剣をカジに手渡した。
――冷たい手であった。
「……!」
剣に視線を落とした時、足元を白い霧が這っているのに気づいた。
「吸い込まないで!」ヴァイオレットが叫ぶ。「とてつもない魔力を感じるの!」
「こ、これは。あの男の、力……」
「知ってんのか」
「聖院騎士団の筆頭騎士です。吸血鬼の中で一番危険な相手!」
ヴァイオレットが身を翻す。
「低いところから充満して行くわ。高所へ、さあ!」
不意に。
入ってきた石の扉を再び潜る時、手にしたマテルの剣が、囁いたような気がした。
白い闇の中、カジは己の剣を握って疾駆する。
――黒ローブの男が、メレルの頭を撫でているのを、確かに見た。
「メレル、離れろ!」
少女がはっとこちらを向き、「冒険者さん!」と声を弾ませる。
「よかった。無事、ね」
聖歌隊と騎士たちは門の前で対峙した。
圧倒的な雰囲気を感じて、カジは目を細める。
――しかしおそらく、相手も同じ事。
「メレル。修道院へ走れ。振り向くんじゃないぞ」
「――!」
少女は頷いて、言いつけ通りに振り向かずに走り去った。
ゆらり、影が動く。
「来たか。マテルの剣を抜き、修道院を守る者」
あえて聞きたいと、その男は続けた。
「我らが悲願の成就のため、その剣、譲ってはくれまいか」
カジは、嗤う。
最大限の敵意を持ち合わせて。
「断る」
「何故、と聞けばどうか」
「それは俺達が、聖北の意思の下、不浄の物を滅ぼす使命を帯びた"聖歌隊"だからだ」
風が渡った。
騎士たちの中に、ほんの少しの狼狽を見た。
しかし――おそらくそれも、幻だろう。
「ならばここで死ね、聖歌隊!」
騎士の長が剣を抜くと、周りに控えていた黒ローブたちが一斉に動き出した。
「ふふふ……いいねぇ、その動き、こちらとしても胸が高鳴るよ」
アダムは槍で相手の一撃を受け止めた。
「カジ、お前に一番良い物をやる。遊んでいろ!」
「簡単に言いやがって――アダム、てめぇこそ滅びろ!」
しかしカジは霧を切り裂いてその男に肉薄する。
「名を聞こう!」
「カジ、だ。てめぇを滅する奴の名前だ、忘れるな!」
己の剣に法力を乗せる。
とたん、相手の顔に驚愕が走るのを見た。
「本物か」
「嘘を言ったつもりはねぇぞ!」
一度、二度、打ち合う。
相手の剣は鋭く、力強く、カジの腕力を持ってしても腕ごと折られそうであった。
「くっ」
だが、勝っていることがある。
相手はカジの法力に圧されている――!
「うおおおっ!」
吸血鬼の負の気配は、カジの肌をぴりぴりと刺した。
気を抜くと食われそうだ。
「ちっ――だが、甘い!」
「ッ!」
相手の技量はカジのそれをはるかに上回る。
生きてきた年数、執念の違い。
重い一撃が、カジの剣を吹き飛ばした。
「くっ……!」
よろめいた刹那、敵の剣の切っ先がカジの喉を切り裂いた。
「!」
――しくじった。
「神の御業、確かに見たが――それも"声"ありきだろう」
カジは左手で流れ出る赤を抑えた。
上手く声が出なかった。
急速に己から法力が失われていくのが分かる。
「……」
剣が手元にない上に、下手に動けない。
相手は、カジ一人の手では余るほど、強い。
「さて、次はどうする……それとも、渡してくれるか」
――誰が。
ざわり、自分の中の殺意が膨れ上がる。
――使命だろうが、なんだろうが、そんなものは関係ない。
今、ここで、死ぬ前に。
騎士の剣が振り上げられ、カジがそれを避けようと身を緊張させた、その刹那。
鉄を割るような轟音が、直ぐ傍で鳴り響いた。
「はっ……!?」
騎士の腕を打ち抜いていたのは、銀の銃弾。
「やらせないわよこの腐れ野郎」
カジの隣で銃の引き金を引いていたのはディエであった。
「殺させるわけないじゃないカジは私達の私の大事な剣なんだからお前ごときが触れていいものじゃないしお前ごときが傷つけていいものじゃないし不浄な手でカジに触ろうとするなんて許せない」
再びの轟音。
次の一発は騎士の右足を打ち抜いていた。
「……」
助かったとか、しくじって悪かったとか、そういう感情を伝えようと思っていたのだが、やめた。
彼女は絶好調のようだったので。
「……」
腰の剣に触れる。
借り物の剣。
マテルの剣。
それが、何故か愛おしく。
「……はっ」
血はまだ止まらないが、声が出た。
とたん、己の力も戻ってくる。
「なん、だ……つるぎ? これの、力なのか?」
「カジ? 大丈夫なの? 怪我は? 喉は? 穢れてない? 大丈夫? 死なない? 死なない? 大丈夫?」
「声が出れば、いい」
「本当? 死なない?」
「死なない。死ねねぇよ」
痛みに呻く騎士の長を、カジは睨みつける。
「仕留められなかったのは、残念だったな――」
己の声を改めて意識する。
ちらちらと白い闇の中に青白い光が点滅し始める。
「離れてろ、ディエ」
彼女を突き飛ばし、地面に転がった剣を拾った。
ずるりと強大な力が顕現する。
「……なんて、人間なのだ、お前は」
「滅びろ、吸血鬼!」
法力の乗った剣が、騎士を黒いローブごと切り裂いた。
――決着はついた。
全ての吸血鬼は地に伏し、今まさに事切れようとしていた。
カジは浅く呼吸を繰り返しながら、膝をつく長を睨みつける。
「……っ」
足音に振り返ると、そこにはアリシアが立っていた。
「アリシア」
「今更何をしに来た、背教者の娘よ」
男がそう告げても、アリシアはだまったままだ。
「……」
男は彼女から視線を外し、真っ直ぐに聖歌隊を見た。
「貴公らの勝ちだ」
ぐしゃりと、冷たい音がした。
「まことの騎士を、多く死なせた……外道の最後など、こんなものか」
法力に当てられて、流石の吸血鬼の再生能力も及ばなかったのだろう。
吸血鬼は――その強さからすればあっけなく――息絶えた。
その身体はやがて灰になり、風に吹かれて空へ舞い散って行った。
「……」
アリシアは目を閉じ、祈る。
「神よ――お導きください……」
何にとも、何処にとも。
彼女は、言わなかった。
やがて、空が白く光を放ち始める。
「冒険者さん……最後にお願いがあります」
「……言ってみろ」
彼女は、カジを見た。
正しくは、その腰に下げられた借り物の剣を。
「その剣で、わたしを――呪われた吸血鬼の命から、開放していただけませんか?」
「まあ、お前が"吸血鬼"である以上、我々は滅ぼす。ただ、それだけ――」
カジはアダムを押しのけた。
「カジ?」
「……二人っきりにしてくれ」
「おいおい。情でも移ったか? こいつは、吸血鬼だぞ」
「俺は聖歌隊だ。それ以上でも、それ以下でもない。それだけは、絶対だ」
ついと剣の切っ先をアダムに向ける。
「……頼む」
「アダム」
ディエが、静かに告げた。
「カジが裏切った事なんて、一度もない。ねえ?」
「……そうだな。お前はそういう男だったな。仕方ない」
そうして――
偽りの冒険者と百年前の吸血鬼は、二人きりになった。
「どうして人払いを?」
「……」
マテルの剣を構える。
「あんたの死を、取られたくない、から」
「……」
「誰にも、譲れない。そう、思っていた」
「いつから」
「夢で出会った時だよ、吸血鬼」
近づく。
別れる為に。
――痛みとは。
カジは不意に思う。
――吸血鬼も、痛みに泣くのか。
身体も、心も、人間と何が違うのだろうか。
違うのだろう。
そうだと、思う。
だから、勢いをつけて、その心臓に剣をつきたてた。
その命は、思った以上に軽かった。
「あなたの……外套から、故郷の風の香りがする」
聖剣に貫かれたまま倒れこんできた彼女の身体を支えた。
「故郷に、帰れそうか?」
冷たい身体を、緩く、抱きしめる。
「ええ……きっと。この霧が、晴れたなら――」
「ひっさしぶりの青空だねー」
エメリはぴょんぴょんと跳ねている。
「まだ外套が濡れて重い気がする」
「違いない」
聖歌隊が修道院に戻ると、院長代理が真っ青な顔で待っていた。
「……何とお礼を申し上げてよいか……そして、よくぞご無事で」
周りの若い聖職者たちも「霧が晴れた」「魔物を退けてくれたのか」と浮き足立っている。
「あれ、カジさんは」
「……さあ? まだ、立ってるんじゃないか」
何にとも、何処にとも。
誰も、それを告げなかった。
「……おはか……?」
メレルがカジを見上げている。
「ああ」
「……」
カジが赤い花を手向けると、彼女は首を傾げた。
「大事な人、だった?」
「……いや。でも」
カジは首を横に振る。
「ここに、花をやってくれないか」
「……だれの、お墓?」
「俺達と同じ、西から来た奴の墓さ」
「うん。わかった。白いお花、探してくる!」
彼女がぱたぱたと走っていくのを見、カジは身を翻す。
もう、戻らなければ。
――彼女の故郷に。
腰に下げたマテルの剣が、微かに鐘のような音を鳴らしていた。
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あとがき。
今回は、吹雪さんの「百年は霧の色」を書かせていただきました。
聖職者パーティでは避けて通れない、不浄のものとの戦い――
そういったものに挑戦しようとした時、真っ先に浮かんだのがこのシナリオでした。
エンディングのルートが分かれていて、もう一方のルートは通った事があったのですが、
こちらのルートは初めてで、泣きそうになりながら書きました。
どうか、彼女が故郷に帰れますように。
吸血鬼というこのリプレイにも大きく関わる要素が出てきて、
さて次はどうなることやら。
快くリプレイ小説を許可してくださった吹雪さんに感謝を。
本当にありがとうございました。