――少し、寝ていたかもしれない。
夢とも現ともつかないまどろみから覚めると、ナギが外をうかがっていた。
「……僕、寝てました?」
「しっ」
形の良い唇に、白い指が押し当てられていた。
「ロケが出てきた。遠くだけど、ファビアーノも動いてる」
「……ダニオは」
「いいえ」
「……動きましょう」
ロケもファビアーノも手強い相手になるに違いない。
ナギの魔法を信じていないわけでは無かったが、さっさと森に姿を隠すのが賢明に思われた。
カジは武器をとり、トランクを持った。
森までは楽に辿り着けるだろう。
問題はそこからだ。
暗がりの中、二人は音を立てない様に慎重に移動する。
ナギは流石冒険者と言うべきか、肝も据わっているし衣擦れの音一つ立てていない様にすら思えた。
こちらは剣の金属音が鳴らない様にかなり気をつけているというのに。
――森へ入るまでに幾人かの姿を確認したが、所詮ただの住民だ、気づかれることは無かった。
「……」
あの剣が刺さった入り口で、ナギは難しい顔をしている。
「どうかしましたか?」
「……私の印に気づかれたかもしれないわね。ヨルク、ダニオ、オットマンを辿れなくなった」
「分かりました」
であれば、案外近くに現れるかもしれないなとぼんやり考えた。
その時はその時――剣を交えることになるだろう。
『あの剣を聖女に渡してはいけないからだ』。
――何故そんなこと考えたかは、分からなかった。
「行きましょう」
積極的に剣に向かっている自分を客観的に見ることが出来ていた。
今は、まだ。
森に入ると、酷い臭いが鼻を突いた。
「くっ、この臭いは……」
よく知っている。
あまりにも、よく。
「臭い? そんなの、分からないけど……」
「これは、不浄の臭いです」
「……まさか」
「僕も考えたくありません。ここはロメ様の聖域と言っても良いはずなのに。この臭いは、尋常ではありません」
カジは眉間をおさえた。
あまりに強い臭いに、頭がぐらぐらと揺れそうだったから。
「まさか地から湧き出たわけじゃないでしょう。何か理由があるはずよ」
「……はい」
剣を握りしめながら、先へ進む。
二人ははぐれない様に、一歩分も離れず慎重に進んだ。
だが、その試みも無駄に終わる。
あの霧が一向に現れなかったからだ。
「おかしい」
その言葉が重なった、刹那。
ぐにゃり、否、ぐしゃり。
まるで空間が誰かの手によって握りつぶされたかのように歪み――
その後に現れたのは、街並みであった。
「あ……?」
ナギが呆ける。
それもそうだ。現れた街は、イーデイの町よりも侵入した森よりもずっと広く、ずっと高い建物で構成されているからだ。
幻覚か、精神汚染か。
だが、どうしてか、カジにはこの街並みに見覚えがあった。
「……!」
不意に顔を上げて、悟った。
ああ、あの建物は。
「イルムガルデ」
「……まさか、そんな」
ナギが頭を抱えている。
「そんな、これは……あなたの記憶なの?」
「いいえ」
カジは冷や汗をかきながら、しかし冷静に周りを見る。
大通り。
だが、知っているようで、知らない大通り。
「ここは、間違いなくイルムガルデです。でも、……そう、知っている店が少ない。ここは僕が知っているイルムガルデではありません」
カジは遠くを指さす。
そこには街の中心、聖エリーアス大聖堂があった。
間違いなく、生まれ故郷。
そして、あの歪んだ記憶の街。
『自分の街』。
「なるほどね」
ナギは冷静さを取り戻しているように思えた。立ち直りが早いのは流石か。
「この景色は、もうずっと前のもの。多分、ロメの生まれた街なのよ、これは」
「イルムガルデが……? まさか、聞いたことないですよ」
「きっと、ロメは晩年ばかり注目されたのね。本人も隠していたのかもしれない。でも間違いなく、これもまたロメの街に違いないのよ。でなければ、こんな……精巧なもの、再現出来ないわ」
「ロメは魔術師でもあった、ということですか」
「いえ。それとこれとは話が違う。きっと協力者がいたんでしょう。錬金術師、とか」
「……」
カジの視線は自然と自分のトランクを見ていた。
「それで、この街は一体何の役割が……?」
「そうね。多分だけど、防御機能」
「防御……?」
もっと聞きたかったが、それどころでは無くなってしまった。
不浄の臭いが強くなる。
カジは剣を構え、街の角から飛び出していたそれを見た。
――人だ。不浄の臭いを纏いながらも、それは確かに人だった。
だから判断つきかねた。
斬って良いのか、止まるべきなのか。
迷い込んだ一般人なのか、追っ手なのか。
だが、相手は何事か喚きながら、こちらに剣を振りかざしている。
応戦するしかない。
ここまで、刹那の思考であった。
踏み込んだ、が、直ぐに身体が硬直する。
『何かが飛来してきたからだ!』
カジはそれを確かに見た。
『剣』。
虚空から現れた白い剣が、なんということだろう、カジに剣を向けていたはずの人間の心の臓を真っ直ぐに貫いたのだ。
ぎょっとしたのはカジだけではない。
ナギも、そして貫かれた者も、そうだったに違いないほど。
剣は鮮やかに体躯の中心を貫いていた。
「……」
生きるもの全ての呼吸が止まったかと思うほどの静寂のあと、鈍い音で人間は地に伏した。
「……見えた?」
「はい」
「何も無いところから……飛んできた様に見えたわ」
「僕もです」
その方向を睨む。
だが、こちらに剣が飛んでくる気配はしなかった。
殺気どころか生き物の気配もしない。
「誰かがいる、んでしょうか?」
「いいえ。防御機能と言ったでしょう? これも、この街の機能なのよ」
「だとして、何故僕達には飛んでこないんでしょう」
「……」
じろりと睨まれた。
思わずたじろぐと、「分かっていることを聞かないの」と怒られてしまった。
「……信じられなくて」
「それでも、事実がそれしかないのであれば、それが真実なのよ」
「……生きた人間から! 不浄の臭いがするなんてこと! ありますか!」
「さあ?」
激情に任せて叫んでしまったが、ナギは軽く鼻で笑った。
「でも、あなたがそう感じたなら、そうなんでしょう。私は自分の経験より、あなたを信じている」
「……あなたって人は」
つくづく、とんでもない人であった。
「あなたが斬りたくないというなら、それでもいい。まあ、そんな想いは正直無駄ね。きっとあなたは斬らなければならなくなる」
「知った様な口を――いえ、知っているんでしたね」
「私はあなたを心配しているのよ。無駄な想いは重圧になる。決めることね、覚悟を」
「分かりましたよ、参謀殿」
――覚悟など。
とうの昔に決めたのだ。
だから、今ここで改めて決めろと言われ、苛立ったのは確かであった。
ソレが不浄であるのに、斬る事を迷ったのは、間違いなく自分の失態だったからだ。
――いや。
不浄のまま、存在するものがいてもいい。
後悔、懺悔、改心。
それは、先に進むことを良しとした者の出来ることだ。
それを認めないということは、『自分を今すぐに罰しなければいけない』ということ。
だから、カジは不浄そのものを憎むが、それを内包したもの全てを憎んでいるわけではない。
揺るぎない自分の正義が有り、赦すことを覚え、許容するだけの器を手に入れられたと思っている。
でも、今の、アレは。
違う。
違うのだ。
アレは、違う。
あれはもう『自分の意志など持ち合わせていない』。
生きて、いない。
だからこそ、迷いなく斬るべきだったのだ。
「さて、進みましょう。どっちに行くの?」
ナギはカジに相談――否、確認した。
「……普通に考えれば、あの教会だと思うんですけど、あの……」
「もう少し自分に自信を持って」
「……その、奥、です。教会の……奥? 僕は、奥なんて、知らない……でも……」
「了解よ。行ってみましょう」
ナギは「大丈夫、信じてる」と笑った。
「この街はフェイクよ。きっと、あなただけが、本命を知っている」
「……」
カジは頷いて、一歩、強く強く踏み出した。
街を歩いて分かったことは、既に何人もの男達がこの街に入り込んでいること。
そして、どの男もカジをナギを確認するなり、何事か喚いて飛びかかってくることであった。
降り懸かる剣の雨。
不浄の臭いに顔をしかめながら、最初に手を出したのはナギの方だった。
「邪魔よ」
短い拒否の言葉と共に指先から放たれたのは、『魔法の矢』であった。
一般的な魔法でありながら、それはあまりに強かった。
一発目は相手になんの抵抗もさせずに腹を穿ち、二発目は抵抗こそされたものの強い衝撃となって相手を吹き飛ばした。
カジ以上に、彼女は遠慮も躊躇も無かった。
惚れ惚れするほどに、彼女は冒険者であった。
「そっちに行った!」
そんな彼女の声に応えて、振り向きざまに剣を薙いだ。
きぃんと空気の震える音がし、襲ってきた男の剣は高く弾き飛ばされていた。
「一応、聞いておきますが……誰の差し金ですか?」
呼吸が聞こえるほど近くだ。
それでも男は何事か喚いていた。
聞き取れない。
分からない。
まるで、動死体だ――そう、動死体なのだ。
『心が死んで、そこに邪が入り込めば、それもまた死体なのだ』。
「っ!」
奥歯を噛んで、剣を叩きつける。
肉を断つ感触。
斬られた男は怒っているようにも泣いているようにも思えたが、構わず切り捨てた。
どさりと床に落ちた男に飛来した白い剣が突き刺さり、その向こうから更に別な男が飛びかかってくる。
「一体何人居るんだ!」
「イーデイの男、そしてサキツの男全員、でしょう」
「そこまでして、僕を……? いや、剣を?」
「両方よ。剣が欲しくて、あなたを殺そうとしている」
ナギは腰から短剣を抜いて、手近な男の首を貫いた。
――魔法だけが戦う手段では無いらしい。
「さあ、進んで!」
「は、はい!」
カジは走る。
右から左から、男達が飛び出してはナギの魔法で射貫かれた。
――このペースでは、彼女の精神力は持たないだろう。
そう思ってちらりと後ろを確認すれば、彼女は器用に走りながら小瓶の中身を飲み干しているところだった。
「それ魔法薬ですか!?」
「そうよ。秘蔵の一本」
魔法薬は高価だ。時に一抱えの金よりも価値がある。
それを躊躇無く飲んで見せたのだ。
今の状況が『最悪』に近いことを暗に示していると思えた。
カジはそれを確認しながら、トランクで飛び出した男を薙ぎ払う。
「あなたは大丈夫なの?」
ナギはこちらを心配そうに見ていた。
「そうですね……回復の奇跡には、もう期待しないでください」
「大丈夫じゃないじゃない」
「いえ、あなたさえ怪我をしなければいいんです」
「正気?」
「はい。本当に、あなたさえ無事であれば。僕の身体は『大丈夫です』」
「……」
ナギはそれ以上何も言わなかった。
――結局、二人は教会まで真っ直ぐに突き進むことは出来なかった。
襲いかかってくるものが多かったのもあるが、不自然に柱が道を塞いでいたり、瓦礫が壁の様に積み上がっていたからだ。
どうやら、この街は迷宮化しているらしい。
方向感覚で頼れるのは遠くに見える教会だけで、通れる場所を探してもう何時間も歩き回っている様な気がしてくる。
「……!」
そして、辿り着いてしまった。
『天馬の提琴亭』。
これはロメが生きた時代の街だというのに、はっきりとそこに存在していた。
「どうしたの」
「……」
「隠してもお互いの為にならないわよ」
「……いろいろあったと言いましたよね」
「ええ。冒険者だった、とか」
「それが、ここです」
看板が控えめに掲げられた、小さな冒険宿。
だが、請け負っていたのは普通の依頼ではない。
――聖北教会の暗部。
全ての始まり。
「……そう。きっと、あなたの記憶も再構築に使われているのね。不思議じゃ無いわ。剣はあなたを呼んでいるんだから」
もしかしたら、とナギは目を細める。
「ヨルクが選ばれていれば、ここには彼の記憶の何かが設置されていたかも。となれば、ここは避けて通れないでしょうね」
「入ります」
「いい返事」
扉を押し開ける。
こうして、この扉を何度もくぐった、確かな記憶。
これが自分の記憶というのであれば、中に待っているのは――
「う、うわああああああああっ!」
甲高い男の悲鳴。
それは、想像と遙かに違えた。
「え、キ、キケイ……さん?」
面食らう。
見慣れた店内に転がっていたのは、『白鳥の杖』のキケイだったからだ。
「あ、あんた、ジルー神父……? どうして、ここに?」
「どうしても何も」ナギが前に出る。「あなたこそ、どうしてここに」
「うわ!? お前誰だ!?」
「……」
そうだった、とナギは顔をしかめ、「声まで変えた覚えはないわよ」と肩をすくめた。
「……アンズ!? アンズなのか!? どうしたそれ!?」
「気にしないで。説明しなきゃいけないのは、あなたの方よ」
むぐっと押し黙ったキケイは、「剣を取りに来たんだよ……」と小さく呻いた。
「皆どんちゃん騒ぎしてただろ? その隙に、お先に取ってやろうとおもってな……このままじゃ聖女サマとヨルクが抜いちまいそうだったし」
「あの時からもういなかったのか……」
全く気がつかなかった。
「遮蔽魔術をちょっと使えるもんでな。そんで、入ったらどうよ。ここはもうイーデイの男達が入り込んでて、うわあ聖女サマったら手が早いって思ってたら……これだ! この森はどうなっちまったんだ!?」
キケイはぶんぶんと頭を振る。
「歩けど歩けど何処にもつかねぇ! 外にも出れねぇ! あの男達は俺を見ると襲いかかってくる! 男達は剣に刺されて勝手に死ぬ! でももっともっと追いかけてくる! もう駄目だって思ってたら、ここに辿り着いたんだ……ここには、あいつら入って こ ね ぇし、見えてないみたいだった」
「……」
カジは、一度深く呼吸をして、乱れる精神を整えようと努力した。
「ここは。冒険者宿なんです。切羽詰まった依頼人が飛び込んでくる、最後の砦。不浄の者に困っているなら、なおさら」
「……そういうことかよ」
怪我しているのかと聞けば、こんなの神父サマに治してもらうものでもないという返答があった。
「やっぱり、あんたが剣の持ち主なのか?」
「……さあ、今はまだ」
「聖女と神父の戦いってわけだ。ふん、面白い戦いだよなぁ……見ている分にはな」
キケイはナギを見た。
「どうやればここから出れると思う? 参謀様よ」
「……ま、あなたは剣しか見てなかったからね。私の忠告を無視したこと、不問にしてあげる」
ナギはその青い目でキケイを射貫いた。
まるで魔法の矢のように。
「ここから動くな。絶対に。この神父が剣を抜けば、ここはただの森に戻る。私達が上手くやることを祈っていなさい。あなたが信じてもいない神に、ね」
「……相変わらずだな」
「褒め言葉ね」
分かったよ、とキケイは素直に頷いた。
「さて、神父様?」
ナギは笑いを含めてそうカジに呼びかけた。
「ここで少しだけ休憩にするわ」
「……分かりました」
その意味を正しく理解する。
カジはトランクを彼女に預けて、階段を上った。
何度も何度も上がった階段。
確かに自分の記憶の通り。
で、あれば。
カジは扉の前に立つ。
『自分の部屋』。
僅かに震える手で、恐る恐る扉を開ける。
そこには、期待していたものはなかった。
『彼女は、いなかった』。
「……だよなぁ」
間延びした返事を出す。
部屋にそっと踏み入れる。
彼女も、血も、散らばっていたローズマリーもない。
「懐かしい」
そう声に出してしまっていた。
良い思い出ではなかった。
忘れた方がずっと楽な記憶。
それでも、忘れるわけにはいかなかった。
忘れてはいけないのだ。
――あの日から、イルムガルデのこの部屋に来たことはあった。
でも、ここは『天馬の提琴亭』ではなかった。
冒険者宿ですらない、ただの小さな宿だったのだ。
アレは自分の記憶にしか無い場所なのだと思っていた。
だから、ここに立ち入ったのは何年ぶりか。
――だから、懐かしいと、思ってしまった。
備え付けられたベッドに横になってみる。
あの時から身長はあまり変わっていない。
人間の成長という意味では、やっぱりそれも何も変わっていないのかもしれなかった。
「……」
――気がつけば。
天井には、空があった。
地にはローズマリーが地平線の向こうまで咲き誇り、自分はそこに立っていた。
「これは」
驚きはしたものの、まあそういうこともあるだろうと、冷静に考えていた。
長い緑の茎と薄紫の粒の様な花が、まるで牢獄にも似た情景を描いている。
延々と。
永遠と。
ずっとずっと、その向こうまで咲き誇っている。
神秘的な光景だ。
『ずっとこのただ中に在った様な気がする』。
でも、違う。
これは幻だ。
自分の心に巣くう、幻なのだ。
カジは足を踏み出す。
花はくしゃりと踏み潰され、白い影となって青い空に溶けた。
それが、二度、三度。
向かうべき場所は分かっていた。
四度、五度、六度。
歩き続ける。
七度、八度、九度。
丁度、十度花を踏み潰したその場所が。
その場所だけが。
自分の場所だ。
ローズマリーの群生に手を突っ込む。
手に触れる堅い感触があった。
それを、引き抜く。
重い。
花に溺れる様にして、カジは膝をついて両手でそれを掴む。
重い。
全身の力で、精神を集中させて、それを、抜く。
重い。
歯を食いしばり、足を踏ん張る。
重い。
しかし、それは動いた。
少しずつ、着実に。
長い永い時間、それと睨み合いを続け――
不意に、抜けた。
「……!」
息を飲む。
それは、花だった。
ローズマリーが一枝。
ただ、その花の色は、空の青より青い。
まるで、深い、海の様な。
その昔聖母が纏っていたという青に似ている様な、そんな錯覚。
それが、青い光となって溶けた。
消えたのではない。
確かにここに『在る』。
ただ、見えなくなっただけだ――そう、悟っていた。
そうすれば、今度は周りが正常に見えてくる。
『天馬の提琴亭』、その一室。
空は無く、花も無く、ただ自分だけが在る。
でも、これで良かったのだろう。
階段を降りると、「もういいの?」とナギが声をかけてきた。
「どれくらい経ちましたか」
「五分、ないわね。上がったと思ったら下がってきた、という感じよ」
「分かりました。行きましょう」
そう言ってトランクを預かると、「休むんじゃなかったのかよ」とキケイが心配そうに声をかけてきた。
「休みました。ええ、本当に」
ちらり、隣のナギを見る。
彼女が何処まで分かっているかは定かでは無いが――今の出来事を全部知られていてもおかしくないな、と思える笑みを浮かべていた。
長い探索の後、「ここをまっすぐ行けば大聖堂です」とカジは確信を持って言うことが出来た。
見上げれば、もう聖エリーアス大聖堂は目の前だ。
「まあ、でも易々とは辿り着けなさそうね」
その気配は今まで襲いかかってきた男達とは何もかもが違った。
「間に合っちゃったんだね、神父様」
教会前の広場。
そこに、ヨルクと、跪くオットマンがいた。
二人とも武装をしている。オットマンに至っては、先ほど見た剣ではなく、更に大きな剣を持っていた。
「オットマンから聞いてる。あんた、ただの神父じゃなかったんだね」
「そうですね」
カジは頷いた。
「僕は聖北教会から派遣された、聖女ヴィヴィアンを抹殺しに来た者です」
「やっぱりそうか!」
ヨルクは剣をカジに突きつける。
「ただの神父が、剣を使うはずがないものな……!」
「ええ、まあね」
カジも己の剣を構える。
――強い不浄の臭いに、顔をしかめる。
「ヨルク、あなた何をされたんです?」
「何って? 俺は聖剣の勇者だ、聖女の加護を受けている。それのことか?」
「……」
カジは言いかけて、黙った。
ヨルクは法力を使う者だ。
だというのに、『己の臭いに気づかないのか』?
「あっちは任せて。やられたらやり返すのが主義なの」
ナギが駆け出した先にいるのはオットマンだ。
彼は血走った目で彼女を睨み、応戦態勢を整えていた。
では――自分は自分の仕事をしよう。
ヨルクは勇者を自認するだけあって、強い。間違いない。
相手は冒険者だ、その動きは洗練こそされていないものの、相手を殺すには十分な練度を持っている。
だから、自分の全力で迎え撃つ。
「はぁっ!」
かけ声を上げて、ヨルクがこちらに斬りかかった。
それを剣の腹で受ける。
――重い!
ヨルクは手数で圧倒するタイプだと思っていたが、どうやら一撃一撃が重いタイプだったようだ。
――であれば、こちらも力で押し返すのみ!
「むっ……?」
ヨルクも同じように思ったのだろう。
ぎりぎりと剣が噛み合い、悲鳴を上げる。
「こいつ……!」
「力比べなら負けませんよ……!」
ぐっと身体を緊張させる。
「……面白い人だ、なっ!」
法力の気配がし、同時にぞっとする寒気がカジを襲った。
「んっ!?」
カジもまた法力を行使しながら、剣を強く打ち込んでヨルクを弾き飛ばした。
刹那、宙から氷の槍が三本飛来する。
「っ!」
速い。
一本は切り伏せたが、一本は右の太ももを、もう一本は肩をかすめた。
動体視力に自信があっても、身体がおいつけない速度だ。
だがそれでも、ヨルクは驚愕の眼でこちらを見ている。
「い、今のを避ける? あんた……どこの所属なんだ……」
「強いて言えば、暗部の者ですよ」
「……ふん、聖北も本気ってことか。そんなに聖女を偽物扱いしたいのか?」
「そうですね」
カジはあえて笑ってみせる。
「あれは偽物ですよ」
「んふ、くくく……神の僕のくせに、彼女が本物だと分からないのか!」
おかしさを抑えきれないといった様子のヨルク。
彼が顎で示したのは、ナギの魔法を切り伏せているオットマンであった。
「あいつをやったんだろ? でも、なんで今は元気に動いていると思う?」
「……聖女の奇跡? しかし、あれくらいなら聖北の使徒ならやってみせるはずだ」
「分からないのか、あいつもまた加護を受けているってこと!」
「……!」
ヨルクに向けていた精神を裂いて、よく『視る』。
なるほど、彼から感じる不浄の臭いはあまりにきつい。
――脳裏にひらめくものがある。
だが、何かが。何かが邪魔している。
『何故この状況を正しく把握できていないのか』、それ自体が答えの様な気もした。
「……!」
ナギの魔法の炸裂音が、カジの意識を現実に引き戻す。
「ジール、あんたも聖女の力を見れば分かるよ。聖北に新しい風をもたらすお人だ、使命なんて忘れたらどうだ?」
「……ふふっ」
「何がおかしい?」
「いえ、いえ! それを、僕に問いますか? 僕のことを何も知らないあなたが? 面白くて、おかしくて!」
――そうだ、目の前の男は何も知らない。
自分が、主でもなく聖北でもなく、自分なりの正義で生きていることを。
一度神を呪ったこともあったし、神以外に助けられたことだって何度もある。
聖北教会が忌み嫌うものを助けたことも、感謝したこともある。
自分は。
自分の思う正義で生きているのであって、そこに神の意志は関係ない。
自分の正義に反するのならば、自分は神にすら反旗を翻すだろう。
だから目の前の人物が言うことが、おかしくて、おかしくて。
「申し訳ないが、今僕が信じているのは神ではなく、僕自身と、そこで戦ってくれている相棒だけですよ」
法力を放出する。
雷に似たソレが辺りを席巻した。
「さあ、戦いましょう。後戻りできないのは、僕もあなたも一緒でしょう?」
「……あんた、本当に神父なのか」
「愚問です。僕は、神の僕ですよ。あなたと同じくね!」
地を蹴る。
今、身体は軽やかだった。
「はぁあああああっ!」
打ち込む。
ヨルクはそれをしっかりと受け止めきった。
「まだまだ!」
一度引き、薙ぎ払う。
が、それはあっさりと避けられた。
流石冒険者、どの角度から打ち込まれても対処が出来る。
「なら、これは……どうだ!」
弾ける法力。
カジの法力は雷に似る。
だから、ヨルクは「うわっ」と声を上げて身体を硬直させた。
「神父……こいつ!」
完全に行動力を奪ったはずだが、彼は驚異的な精神力で身体を動かした。
冒険者とは、いつ見ても恐れ入る。
だが――自分もそうだと信じるのだ!
カジとヨルクは何度も打ち合う。
金属の音が祈りの時間を告げる鐘の様に、広場に鳴り響く。
何度目かの接近の後、カジは目を細めた。
――能力は、こちらの方が一枚上手だ。
ヨルクが何度死線をくぐったかは分からないが、カジはそれよりも多くの死線をくぐっているのは間違いなさそうだ。
だから。
「っあああああああ!」
渾身の力でもって、叩き伏せた。
「…………!」
声にならない、痛みの声。
右肩からばっさりと切られたヨルクであったが、血をまき散らしながらもカジから距離を取った。
「まさか、そんな……俺よりも、強いだなんて……!」
絶望を含んだ声。
それもそうだろう。きっと、聖女を守る勇者であることを望み、まさにその通りであったのだから。
『不浄の臭いをまき散らしながら』、ヨルクは膝をついた。
「ふ、ふふ、でも……でも分かっていた……『聖女の予言通り』だ」
「……なんだって?」
「彼女は言っていたんだよ! あんたが、強いこと……そうだろう、ジール、いや……カジ!」
「!」
――名前はナギ以外には教えていない。
でも、聖女は自分の名前を知っているとでも言うのか。
「だからさぁ、こうして……俺は加護を賜ったんだ」
ヨルクは自分の左手首を『噛み切った』。
流れる赤――否、黒い液体。
生物としてありえない、それ。
刹那。
脳裏に閃く、自分の記憶。
夜、満月、丘の上。
赤い髪。
自分の、上司。
聖歌隊。
その、リーダー。
全ての元凶。
ああ、その名前は。
「やめろ――!」
それを口にしようとするヨルクに向けて、思わず叫んでいた。
だが静止も空しく、彼はどす黒いソレを口に含み、何の躊躇もせずに嚥下した。
「うっ」
とたん、ヨルクの不浄の臭いが強くなり、眉間を刺す刺激が頭にまで伝わった。
頭を殴られたかの様にふらふらする。
「……お前、まさか!」
「ふ、ふふふ、ふふふふふ……!!」
ヨルクは瞬く間に『変化』していた。
身に纏っていたはずの聖なる力は邪悪なる不浄そのものに変貌し、眼球は黒くなり、瞳孔は赤々と燃え盛っている。
これは、一度経験した。
彼は吸血鬼になってしまったのだ!
「すごい! これはすごい! 聖女は俺に素晴らしい力をくれたんだ! これで、これで勝てる! あんたにだって、神にだって!」
「あのなぁ」
カジは臭いにふらつきながらも、呆れた声を出した。
「お前、状況が分かっているのか?」
「……え?」
「僕は、聖北教会の聖職者なんだぞ」
「何を……」
「だから」
カジは目を見開く。
落日の赤が、力を帯びて赤みを増した。
「僕は、法力を使うんだ」
相手が理解するかしないかの僅かな思考の隙間、カジは法力を放つ。
「『落ちろ』!」
カジの法力の全てが一点に収束する。
すなわち、ヨルクの足下に。
空に『落ちるように』、雷がヨルクの足から脳天に向けて立ち上がった。
あまりに大きな雷だ、彼の身体はすっぽりと雷の柱に飲み込まれた。
「……!」
悲鳴か、それとも嗚咽か。
何事か聞こえたが、それっきり。
あとに残ったのは、曲がったヨルクの剣と、ぼろぼろになった彼の衣服のみであった。
「……聖職者相手に吸血鬼になってどうするんです。アダムほど強いわけでもないし」
「アダム……アダムと言ったか!?」
びくりと身を震わせて振り向くと、そこには青い顔でこちらを見つめているオットマンがいた。
しかし、その両腕はすでに無く、どうやらナギの魔法で吹き飛ばされたらしかった。
「……言いましたよ」
法力を纏い、剣を向けながらそう答えると、「そんな、そんな、やっぱり……」と彼は泣き始める。
「ヨルクはアダムなんかじゃなかった……あの女が言っていたことは、嘘だったんだ……」
「……聖女のことですか?」
「ああ! そうだ! あの女……女が、女が悪いんだ……聖女、聖女が……ああ、『アダム』とはあんたのことだったんだろう、ジール!」
「……へ?」
思わず呆けると、「ダニオでもない! ヨルクでもない! お前だ! お前なんだ!」とオットマンは高い声で叫んだ。
「どけ! どけ!」
そして、血の落ちるのもいとわず――凄い『臭い』だ。彼もまた吸血鬼に限りなく近い――オットマンはヨルクの亡骸に縋り付いた。
追いかけようとするナギの腕を掴んで引き留める。
「あれはもう助からない」
「甘いわね」
「ええ。そうです。そうなんですよ」
それ以上、ナギは何も言わなかった。
オットマンは「ああ、女が悪いんだ……あの、女さえ、いなければ、ヨルクは……俺達は助かったのに……」と呻きながら、崩壊しはじめた。
ナギが隣で息を飲むが、カジには分かっていた。
まだ、自分の法力が帯電しているのだ。
二人の目の前でオットマンはさらさらとした灰になり、「全て聖女の企みだ」と自分を呪うかの様な一言のあと、風もないのに空に溶けて無くなった。
「剣が飛んでこないのは何故だと思う?」
ナギは自分の腕に包帯を巻きながら問うた。
――オットマンにいくらか切られたようだったが、意識を集中させてみても彼女に不浄の臭いは感じられなかったし、彼女自身もけろっとしている。
「そういえば……あまり考えませんでしたが、変ですね」
「私はね、この聖堂内部にこの街の防衛機能よりも遙かに強い存在が居るってことだと思うのよ」
「……なるほど」
カジの中で、点と点が結ばれようとしていた。
――これは運命と言っても差し支えが無いだろう。
『この一連の事件は、自分の為に起きていたのだ』という確信がある。
ならば巻き込んでしまった彼女だけは守らなければと心に決めた。
「そんな顔しないで」
だというのに、ナギは笑うのだ。
「私のことは捨て駒とでも考えて」
「止めてください、そういうの」
「あなたに助けて貰った命だからね。私はあなたが生きて、剣を抜いてくれればそれで私の生きた証になる。いくらでも、盾になるわよ」
「止めろと言いましたよ」
「……ごめんなさい」
不意に彼女は表情を改めて、真摯に謝った。
――そんなに自分は怖い顔をしただろうか。
「お互いに、生き残りましょう」
「ええ。それが一番です」
――死ぬ気は無いが、自分が死んでもナギには生き残って貰おう。
ここで、二度と大事な人を失うわけにはいかない。
二人は待ち受けているだろう者の顔を思い浮かべながら、聖堂の大扉を開く。
「あら」
そして、その者は居た。
「ヨルクとオットマンはもう駄目ですか。早かったですね、はぁー……がっかりです」
慎ましく上品に、彼女は赤い口元を拭った。
カジは、いや隣のナギも、その光景に絶句し、目を疑った。
彼女の足下に転がっているのは、二つの人間――だったものだ。
髪や顔つきから見るに、ファビアーノ、ロケ、だと思われた。
でもそれはからからに干からびており、マミーの類いと言われても信じただろう。
吸われたのだ。
血液を。
身体の中に流れるそれを、一滴残らず。
そして今、聖女が抱いているダニオは、恍惚の表情で首からだらだらと血を流している。
体格で勝るダニオは、しかしまるで子犬の様な従順ぶりをみせていた。
「あ、これ?」
聖女はぱっと笑った。
「いいんですよ、悲しまなくて! だって、これはアダムじゃないんで! でも自分から血を捧げてくれたので、親切ではありますね。だって、そこのも、そこのも、拒否しましたもん。自分がヨルクみたいな駒になれると思ってたんですかね? そんなに強 く な いですよ、この二人は。ダニオは、まあ……してあげても良かったんですけど、丁度血が欲しかったので。ま、残しておい ても 仕方 ないですしね」
そう言いながら、彼女は「あーん」と大きく口を開けて、ダニオの首に噛み付いた。
鈍い呻き声と、みしみしと身体が変貌する音。
ダニオの身体は徐々に萎んでいき、瞬く間にマミーの仲間入りを果たした。
それを見ながら、どうしても動けなかった。
恐怖なのか畏怖なのかは分からない。
ただただ、人間が干からびていくのを見ていることしか出来なかった。
「はい! ご馳走様!」
聖女は真っ赤に汚れた口を、今度は乱暴に拭った。
「お待たせしました。いえ! いえ! 待ったのは私の方……随分待ちましたよ、私のアダム!」
彼女は立ち上がり、頬を朱に染めてカジを見ていた。
「あの日から……もう、何年? ごめんなさい、私、人間の感覚ってよく分からないんだけれど、もう何十年も何百年も待った気がするわ! ああ、『カジ』! また強くなっているのね?」
「……、ぜ」
「うん?」
「何故、名前を」
圧倒されながら、どうにかその質問を喉から絞り出した。
彼女はきょとんとした後、「あ、そっか」と笑う。
「忘れちゃったんだね? だって、あの日、『逃げてた』もんね?」
「……?」
「あ、違うか。分からないだけ? もう! 運命なのに、分かってくれないなんて、鈍感なんだから」
ヴィヴィアンはぽんと手を叩いた。
すると、彼女の美しい金髪は燃え上がる様に赤くなり、服装は月の無い夜の色をした長いドレスへと変わった。
「魔法」とナギの小さな呟きが聞こえたが、何も出来なかった。
「さあ、これで分かるよね? 私は、だぁれだ?」
そんな、無垢な子供のような問いかけ。
カジには、その『赤』に見覚えがあった。
雪が地を覆う日。
冷たい月が見下ろしていた夜。
多くの聖北騎士と、幼馴染みと上司を失った日。
その人は。
幼馴染みを庇って崖下に転落した自分を。
赤く紅く、命をぶちまけた自分を見下ろして。
優しく笑っていた。
誰だっけ。
そうだ。
赤い、髪の。
「ヴァイオレット――ッ!」
思考が一瞬で燃え上がり、ナギが止める間もなく、カジはその女に真っ直ぐに斬りかかった。
「っもう! 熱烈なんだから!」
その声は、刹那であったはずなのにはっきりと聞こえた。
しかも身体は水の中を進んでいるかの様に重く、全力疾走のはずなのに随分緩慢に彼女に近づいている様に感じていた。
「急ぎすぎるのも駄目よ、カジ」
彼女は喜びに興奮して、こちらにスキップしながら近づいてくる。
――睫の数が数えられそうな距離。
「ちょんっ」
という小さな声と共に自分の鼻先に触れる、彼女の人差し指。
瞬間、がくんと後ろ向きの力に晒される。
「はっ……!?」
何が起こったか理解できないまま、カジは背中から聖堂の壁に叩きつけられた。
「……!」
あまりのことに悲鳴すら出ない。
「カジ!」
痛みと衝撃、思考の混濁に動けなくなっている中、ナギが素早く駆け寄ってくる。
「カジ、しっかりして……!」
「……だ、大丈夫です、生きてます」
何とかその声に応える。
「あれは何なの? 吸血鬼、なの……?」
「違う、あれは……あれはそんな下等なものなんかじゃない!」
否定はしたものの、カジもその正体が分かっているわけではない。
『聖歌隊』参謀、ヴァイオレット。
『聖歌隊』のリーダーの娘。
でも、それは嘘、偽りだ。
アダム・ジーキルに娘などいなかった。
あの『女』は何処にも居なかったはずなのだ。
だから、今なら分かる。
この『女』こそ、自分の運命を狂わせた、人間よりも上位の何者かなのだ!
「そんなに見つめないで、恥ずかしい!」
『あの頃』と違って、彼女はまるで恋に恋する乙女の様に顔を手で覆った。
「ああ、カジ! 私のアダム! そうね、私はあなたのこといっぱい知ってるけど、あなたは私のこと、知らないものね? 大丈夫よ、隠したりしないわ」
彼女はカジに手を伸ばす。
「私はリリス! 創造主が生み出した最初の『女』。でも、私とアダムは番になれなかった。でもでも! 私にはアダムよりもふさわしい『男』がいると知っているの。だから、ずっとずーっと探していたのよ! ああ、アダム! 私のアダム!」
彼女の言葉は洪水の様に押し寄せる。
「下界に追放された後も、ずっとずーっと探していたの。私にふさわしいアダム! でもね、どのアダムも駄目なの。いつかそれより強い男が出てきてしまう。私に相応しくないの。きっと、あなたよりももっと強い男がいるわ。でも! でも! 違うのが一 つ だ けあるのよ? それはね、あなたが創造主直々の加護を受けているからなのよ!」
ほらね、と彼女はカジをうっとりした表情で指さした。
――傷ついていたカジの身体は、急速に回復していた。
かすり傷も、折れた骨も、痛めた内臓も今はもう動かせる。
「そう! そこ! それよ! 創造主に選ばれた証は、私のアダムに相応しい証なの! あのアダムは私のことを認めなかったクソ野郎だけど、創造主には実に! 愛されていた! だからこそ! 創造主の愛する人間は私のアダムに相応しいの! それを奪 っ て こそなのよ!」
彼女は惚れ惚れとした様子であったが、ふとカジの隣に目を向ける。
「……誰、その女?」
氷の様な、吹雪の様な声。
「どうしてここに私以外の女が居るの? どうして? 何で? 生きてるの? 何で? 女は皆私の為に死ぬべきでしょう? 存在してちゃいけないのよ? 駄目よ、なんで? サキツの女は身代わりにして皆死んだし、イーデイの女も皆殺させたのに。ほら 、 あ の目障りな女、あれもヨルクに殺させたの。なのに、何で? ああ、そう、私の駒になりたいんだ? 強そうな女だもんね 。私 、強 い女は好きよ。アデラ、大好きだったわ。ベニも大好きだったし、コーデリアも大好きだった。マルテも大好きだった し、リ サも大 好きだった! もちろん、ディエのことだって大好きだったのよ?」
「……!」
ディエ・スワン。自分の幼馴染み。
その名前を気安く呼ぶなと叫びたかった。
だがそれよりも今重要なのは、この邪悪なるリリスなる存在が目をつけているのは、隣のナギだということだ。
女はぺろりと自分の唇を舐めた。
「じゃ、どうぞいらっしゃい、お嬢さん?」
ついとナギに向けられた指先。
それが何を意味するか、カジには分かっていた。
あの日向けられた同じ視線と、同じ指先。
『引き込まれてしまう』。
「ナギ!」
どんと彼女を突き飛ばす。
「ありゃ」
という呆けた『女』の声と、自分の視界が閉じたのはほぼ同時であった。
痛みを感じてはっと目を開けると、雪原があった。
大きな月が落ちてきそうなほど。
夜空には雲も星もなかった。
ふわりと風が吹き、足下の粉雪を散らせていく。
――ここは。
「私達の出会った運命の場所よ、私のアダム」
『女』が月を背負って現れる。
赤い髪は雪原に良く生えていた。
そう、あの日も。
この雪原に崖上から転落した自分は、この『女』を見たのだ。
「あの時、私はあのアダムを愛していたわ。だって、強かった! 世界一強かったんじゃないかしら? でも、彼は老いていった。どんなに強くても、もっと強くはならない」
残念残念と、彼女は笑う。
「あのアダムはね、自分の部下を欲しがってたの。知ってるでしょ? だから、『聖北騎士の馬車を襲ったのよ』」
「……馬鹿な」
「信じられないの? でもね、思い出して! あの時の影は――こんなんだったでしょう?」
『女』は雪原の中、溶ける様に姿を変える。
巨大化していく黒い影。
長く大きな二対の翼。鋭い一対の鉤爪。対してあまりにも小さな女の姿と、その尻から伸びる、長い黒い蛇。
――ああ、それはまさに。
あの日、運命の日。
聖北騎士が連なって山越えをしていた時、現れた黒い影に間違いなかった。
あれによって多くの騎士が死に、アダムも、ディエも死に、自分も崖から落ち――
不意に胸を突く吐き気。
動悸が激しくなり、視界がちかちかとする。
息が出来ない。
何が起こっているのか理解できない。
いや理解したくない。
そうだ、あの日失ったのだ。
『彼女』を!
自分で殺した『彼女』を失ったのはあの日なのだ!
後悔している。何とかならなかったのかと、時折吐く。
その後も何人殺した?
何人失ってきた?
神のために? 自分の為に?
『上司』に言われるがままに多くを殺し、多くを失ってきた自分に残されているのはもはや少しの自我だけではないか。
あの日々は地獄だったが、確かに救いもあった。
『神の為に、神の成すべきことを代わりに自分がやれば良かったのだから』。
思考しなくて良かった。
何かに悲しまなくても良かった。
暗澹たる未来を悲観しなくても良かったのだ。
幸せな日々だったのだ。
何も考えず、ただただ命令をくれるモノに従って、自分の使命を遂行していれば良かったのだから。
そこには『上司』が居て、仲間が居て、『彼女』がちゃんと存在していたのだから。
「思い出してくれた?」
『男』の近くに『女』の顔がある。
彼女の細い指が、自分の顔を優しく包んでいる。。
「大丈夫よ。私が側にいるのよ、ねえ、私のアダム。あなたの幸せは、私が作ってあげる」
ぎゅっと抱きしめられる。
『何かの臭い』がしたが、分からない。分からない。分からない。
「あなたはただ、私の為に生きてくれれば良いのよ。今までと同じで大丈夫。好きな事をして? ね? それでいいの。それは私の為なのよ。そして、あなたのため。苦しいこと、悲しいこと、そんなのもう無くなってしまうから、ね? 安心して、大丈夫よ 」
安心、とは。
熱が出ているのか、ぼうっとする頭で、『女』の横顔を見る。
――安心とは、何だろう?
悲しまないこと?
苦しまないこと?
でもそれは――『心が死んでしまうということではないだろうか?』
「ねぇ、私のアダム。キス、して? それで全部おしまいよ。もう二度と、あなたを苦しませたり悲しませたりしない。あなたが、この世界で一番幸せなのよ」
それは――どうだろうか?
『男』は目を瞑る。
この世界で一番幸せなど、あっていいことなのだろうか?
少なくとも。
自分はそこまで、傲慢にはなれない、気がする。
だって、自分は誰かを救う為に奔走し、誰かが救われることがささやかな幸せであり――
今まさに、誰かを助けようとしたところではなかったか?
――誰かが呼んでいる。
自分を。
自分の名前を。
必死に。
失われないように?
亡くなさないように?
「……ナギ」
その、刹那。
『女』は絶望の表情で、『男』を見た。
「何、その、名前」
「……」
「誰、の、名前? 女の、名前?」
「……そうだ」
『カジ』は、笑う。
「僕が、守りたい人の名前だ」
「……!」
空間を震わす、『女』の悲鳴。
「あの女ぁ……! 私から、アダムを盗んでいたのか……! 許せない許せない許せない許せない! この『時間』に干渉できるなんて、そうとしか考えられないだろ、くそが! くそが! くそがくそがくそが!」
怪鳥の甲高い悲鳴。
『女』はぎゃあぎゃあと鳴きながら、「あの女、殺す! アダムは私のものだ! 返せ! 返せ!」と繰り返している。
カジは、それをとんと突き飛ばした。
それは拒絶であり、拒否であり、棄却であった。
「うえっ……?」
『女』の間抜けな声を聞きながら、胸に手を当てる。
身体が熱い。
『剣を抜け』と、本能が告げている。
胸に手を侵入させる。
自分の中心から、それを抜き放った。
「ひ、ひぃっ……!」
『女』の悲鳴。しかし先ほどまでの嫉妬に狂ったそれではなく、完全な恐怖。
それは、目映い青い光であった。
あのローズマリーの様な、鮮やかな青。
「ど、どうして、その、剣を……!? どうして、だって、主の選定の剣は今だロメの身体に、ある、はず……!」
「さあ、……どうしてですかね?」
構える。
――そうだ。
この『女』を滅しなければ、自分は先に進めない。
あの薄紫のローズマリーに囚われたままだ。
だから、斬るのだ。
自分の手で!
「滅しろ――リリス!」
青い光を薙ぎ払う。
雪原も、月も、夜空も、全てが青い光に押し流されていく。
「ひ、ひぃ! 何で、なんでぇ……! 創造主! どうしてまた私からアダムを奪うのよぉ! 私にアダムを頂戴よぉ! なんでよぉ! なんで奪うのよぉおおおおおおおおおお!!」
翼が。
鉤爪が。
声が。
そして『原初の女』そのものが。
青い光に飲み込まれて白く消え去った後。
自分もまた、青い光に包まれた。
「カジ! しっかりして! ねぇ! カジったら!」
仰向けになって、ゆさゆさと揺すられている――
そう思いながら、「はい……今、起きました……」と声を出した。
「何を間抜けなことを言っているの!」
「え、ええ……そんな……理不尽な……」
だが、何か言ってやろうと思った気持ちも急速に萎える。
ナギが自分の胸に縋り付いて泣いているからだ。
「……心配しました、よね? ちょっと嬉しいです」
「馬鹿!」
「す、すいません……」
「悠長なこと言ってないで! 今何が起きてるか分かってるんでしょうね!?」
「……!」
上半身を起こす。
視線の先には、胸に青く光る大剣を突き刺した『女』がよろよろと立っていた。
「あなたが倒れたら、ああなったのよ……何が起きているの……」
「刺しました。僕が、ロメの聖剣を、アレに」
「……」
ナギは、『女』を見る。
カジも、『女』を見る。
「ぐ、あ、そんな……私、存在……存在できなくなる……!」
長い沈黙の後、『女』は呻いた。
「なんで、そんな……やっぱり、剣は……選定の剣はまだ、ロメの身体にあるじゃないのよぉ……何で、アダムが持ってたの……やだ、存在、出来なくなる……どうして、創造主は、私に、私につらくあたるのよぉ……やだ、やだやだやだやだ、私だって、ア ダ ム が欲しいのにぃ……! やだ、やだ……絶対……絶対私のアダムを、手に入れて……や、る、ん、だ、」
ぷつりと糸が切れた様に、彼女は仰向けに倒れていき、その身体が床につく前に赤い灰となって宙に消えた。
後には痛い程の静寂が訪れる。
「……倒した、の?」
「いえ、残念ながら」
カジはばくばくと脈打つ心臓に手を当てながら、その予感を感じ取る。
「この地に封じたに過ぎません。僕は、聖剣の、その力の根源で、あの『女』をここに閉じ込めただけなんです」
「……そう、なの」
「でも、我ながら上手く行きました。あなたのおかげです、ナギ」
「どうしてそんなことを?」
「あなたが、僕の名前を呼び続けてくれたじゃないですか。いやはや、危うく『また』自分を失うところでしたよ」
よいしょとカジは立ち上がる。
「今は、はっきりと分かります。剣が、僕を呼んでいる」
「……そう。そうでしょうとも。行きましょう」
ナギは幾ばくかの逡巡の後、カジの手を握った。
それを、強く握り返す。
――教会の裏口をくぐると、森に出た。
ここはもはや幻の中のイルムガルデではない。
嵐の森の中。
乱立する古い石柱は、もう随分と風化していた。。
その真ん中。豪奢な石の祭壇に、何かが横たわっている。
「これが……ロメ様」
横たわった老人は、ぼろぼろの衣服を着ているものの、腐敗している様子は無かった。
そしてその胸には、金の装飾が施された大きな剣が深く突き刺さっている。
「選定の剣」
その名を呼ぶ。
大剣は淡く青く光り輝いた。
「抜くのね」
「はい。見ていてください」
「ええ」
カジは、ロメの隣に並ぶ。
――聖者は安らかな顔をしていた。
そして、今だ『生きている』ことを、カジは察する。
待っていたのだ。
剣を受け継ぐ者を。
そして、あの『女』を封じる者を。
きっと遠い昔、そこには因縁があったに違いない。
それを知る術は、もうないが。
青色の柄に手をかける。
まるで剣そのものが生きているかの様に、仄かに熱を帯びていた。
力を入れて、それを抜く。
――至極あっさりと、刃はロメの躯から抜けた。
そして、光の粒がロメを包んだ。
これが、真の意味での聖人の死となるのだろう。
カジはイルムガルデの聖北騎士がそうするように、剣を身の前で掲げた。
祈り。
少しの懺悔。
ついでに、少し恨み言。
それらが終わる時、ロメの躯は姿を消していた。
「お疲れ様」
振り向けば、ナギは変わらずそこに居た。
満足そうに笑っているのを見ると、自然と嬉しくなった。
きっと、変わらず側に居る。
そんな予感があった。
結局、イーデイの町は地図から、人々の記憶から消えた。
住民はあの『女』のせいで灰になり、ロメの伝説もあまり知る者もおらず――
『女』が封印された聖ロメ教会を知るものは、やがて居なくなった。
「あっはっはっは! だからよしなさいと言ったのよ!」
全力疾走で街を走り抜けながら、ナギはカジに言う。
面白くて仕方ないのだろう、「あっはっは!」と柄にもなく大声で笑っている。
「あなたが剣を抜いたって聞いたら、よこせって言うに決まってるじゃない! あっはっは!」
「わ、分かってましたけど……その……こんなことになるとは……」
ちらり、カジは後ろを見る。
サンタナ司祭お抱えの聖北騎士達が「待てーっ!」と必死の形相で、鎧をがちゃがちゃ鳴らしながら追いかけてきていた。
「あの司祭に何言ったって無駄よ、無駄! どうせ剣はあなたのもとを離れないだろうし、これが最善よ!」
「もう僕お尋ね者じゃないですか!」
「いいじゃない、あなたは何処かの教会に属しているより、冒険者宿に属してた方がずっとお似合いよ!」
何事かと騒ぎ出す街の中を、二人は駆け抜ける。
「せめて、せめてエリックだけにはお別れを言いたかった……!」
「良いじゃない、いつでも言いに行きましょ」
「あ、あなたねぇ……」
「だって冒険者はいつだって自由よ。そうでしょう?」
ナギが眩しく笑い、それもそうだと苦笑いを返す。
「カジ、行きましょう。こんな所とはさようならよ!」
「了解です、ナギ」
だが、最後に一度振り返る。
そこにはまだ聖北騎士達が走っていたが――
その姿に、かつての仲間を思い浮かべた。
――さようなら。僕は、もう行きます。
過去は、振り切らなければならない日が来る。
未来は、走らなければ追いつけないこともある。
忘れはしない。
でも、もう追いつかれもしない。
カジは、走り抜けた。