▼<年表>
昭和9年(1934年) 中川宋淵老師(当時学生)の発心のもと一高陵禅会発足。部室は明寮十番。
昭和10年(1935年) 駒場移転。部室は中寮三十一番。
昭和15年(1940年) 三昧堂開単。
昭和24年(1949年) 新制東京大学に移行。東京大学陵禅会に改称。
昭和56年(1981年) 三昧堂修復工事。
平成6年(1994年) 陵禅会60年史発刊。
▼<歴代師家>
昭和9年~(1934年) 勝部敬学老師
昭和15年~(1940年) 山本玄峰老師
昭和36年~(1961年) 中川宋淵老師
昭和59年~(1984年) 鈴木宗忠老師
平成2年~(1990年) 後藤栄山老師
▼<OB紹介>
・松浦鎭次郎、橋田邦彦、安倍能成の三代にわたる文部大臣
・安岡正篤(陽明学者)
・石井正躬(産業能率大学名誉教授)
・野矢茂樹(元 東京大学大学院総合文化研究科 教授)
・福岡安都子(東京大学大学院総合文化研究科 教授)
・柳幹康(東京大学東洋文化研究所 教授)
など、政界・学界で活躍する多数の人物が輩出されています。
▼<十三日会の由来>
「東京大学陵禅会」は、もと一高陵禅会として中川宋淵先輩のご努力のもとに昭和9年(1934年)に発足、一世紀にも近い歳月を経て、坐禅の修行をその活動とする特異な性格を持つサークルとして継続し続けています。
昭和15年(1940年)9月に、広田弘毅氏、宋淵禅師、竹田復先生、村田俊彦先輩など多くの方々のご努力により、この駒場に修養道場(禅堂)が建立され、三昧堂と命名されました。この三昧堂の落成式には、松浦鎭次郎、橋田邦彦、安倍能成の三代にわたる文部大臣が参列されています。
宋淵先輩のご指導はそのまま継続され、山本玄峰老師の法嗣として三島龍澤寺の老師となられたが、相変わらずご指導を続けられました。中川宋淵老師は、大正12年(1923年)に当時の第一高等学校に入学し、東大国文科を卒業され出家された大先輩にあたります。昭和59年(1984年)、宋淵老師は示寂され、現在、後藤榮山老師が師家として臨まれています。
中川宋淵老師は、十三日会の内容と由緒について次のように述べられています。
『今、ハワイから、遙かに十三日の夕べを想いつつ筆をとりました。月にほんの只一度の集いです。しかし印度の古えより、毎月一回、満月の夜、同志相集まり「布薩会ふさつえ」と申すものを修しおるのであります。「十三日会」は、この、「布薩会」に相当するものである故に、相共に行ずる百三十分間の精神を徹底せしめおく事が、参会諸士にとって、最も肝要の事と存じます。
何故、十三日を選んだのかと申しますと、これは小生の身勝手で、僧堂では朔日と十五日とを特に「祝聖日」と定め、生活を新一新ならしめ、一切衆生の無量寿、無量光を寿ぐ事に相成りおり、その前日、即ち月末日と十四日とは「大四九」と申し、内外の大掃除を致します。この「大四九」の朝だけは寝忘れといって夜が明けるまで、ゆっくり睡眠を摂り、朝の行事も略します。そこでその「大四九」の前日、十三日が小生の上京日陵禅会となった次第であります。
十三という数はキリスト教国では好ましからぬ由、特に金曜日の十三日は最悪とされています。(ゴルゴダの丘にて、キリスト礫刑に処せらる。)本来無古無今。数や日の縁起をかつぐのは、笑止の到りでありますが、仏教での「十三」は、十二因縁、即ち生死を超えた世界の象徴となっています。塔の形式にも十三重のものがある所以であります。妄我を「磔」にして始めて復活祭の祝いが徹底します。金曜の十三日にこそ大死一番の消息があり、大活現前の歓喜を共にするのが吾等の会であります。
まず、仏・法・僧の三宝に帰依致します。次に、繊悔文を三回低誦して一切の祓い清めである。身も心もすがすがしく。次に、無上甚深微妙法百千万劫難遭遇 (無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い遇うこと難し)。我今見聞得受持願解如来真実義(我、今、見聞受持することを得たり。願くば如来真実の義を解せん)千載一遇のこの好因縁に遭い遇いし自覚と精進への決意をかためる。そして同心同体となって般若心経を唱える時、わが身わが口わが意(こころ)がそのまま仏の身口意(しんくい)となって合掌、瞑目、回向(えこう)する。次に白隠禅師の「坐禅和讃」を斉唱する。目前脚下の真の事実に目覚めつつ誦しゆく時、白隠の讃歌、仏祖の文句に非ず。われらが自心、生命自体の律動(リズム)となって「当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり」と歌いおさめられる。そしてそのまま坐禅三昧に入る。人生の慶快これに過ぐるもはない。鏧(キン)一声、析二声の合図にて、安祥として立ち、堂内を経行(キンヒン)する。立つ。坐る。歩く。行く。見る。聞く。平常何でもなく見すごしている生活の一こま、一こま。そこに求むる「無量甚深微妙(ダルマ)の法」が丸出し、丸出しにされていることにホッと気の付く者もあるかも知れぬ。 提唱はこの「一真実」をつきつける。無門関、碧巌録、臨済録、毒語心経、坐禅和讃等々、時に応じては巷間の悲喜劇。
村童野翁の片言隻句も大法の端的となって挙揚(きょよう)される。再び坐禅。四弘誓願を唱え、五体投地の三拝で終る。
衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成
現代人、特に学生諸君にとって、合掌とか礼拝とかおよそ縁遠い儀式にすぎぬかも知れんが、身をもってこれを行ずる時、真の「教養」此処にあることを自得されるであろう。そして、更に外へ外へと走って遂に月の裏面まで覗くことが出来ても何かに戸惑ってしまっている人類の心を回光返照して、論より証拠、ダルマ(正法)の活現を寿ぎあうのである。』
そして最後に「喫茶(きっさ)去(こ)」とあります。(昭和三十五年(1960年)『だるま』第三号より)
かつて陵禅会の顧問教官でいらっしゃった哲学者の野矢茂樹先生は、以下のように述べられています。
『誤解されぬよう述べておかねばならないが、陵禅会は宗教団体ではない。それゆえ、布教活動ないし勧誘活動はいっさい行ってはいない。ただ、老師の指導のもとに坐禅するだけである。実際、宗教色はきわめて少なく、茶道や剣道の精神的な側面のみを純化したもの、と紹介すればその一面は伝えられるかもしれない。他方、そのように精神的な側面のみを強調することもまた、詩的にすぎるだろう。というのも、まず坐禅を始めたわれわれが直面することは、純粋に身体的なこの脚の痛みだからである。だが、多少先輩めかして言わせてもらえば、こうしてまず自らの身体と向き合うということは、頭でっかちになりがちなわれわれの坐禅にとってきわめてよいことであると思われる。この、身体との格闘の内に、心と身体という単純な二分法に頓着しない一種の静謐が訪れる。これはただ味わうしかない。世界はつねに絶えず湧き出でる泉であり、そこに直接口をあて、渇いた喉を潤すこと、手始めに昼休みにでも三昧堂に来て坐ってみることだ。』
平成16年(2004年)3月、三昧堂と付属する隠寮(金剛窟)は、諸先輩はじめ数多くの方々のご厚志を賜り、清水建設㈱により修復工事をお引き受け頂き、竣工したものです。駒場キャンパスに木造家屋は珍しいことは言うまでもありません。陵禅会は、「禅」のサークルという性格から、学生に対して積極的にサークルヘの入会を勧誘することは避けてきましたが、この陵禅会の存在すら知らない学生が多いことも事実で、今回の施設の修復を機に、陵禅会がすばらしいサークルであることを広く学生に周知する責任を痛感しています。陵禅会は、「禅」のサークルであるので、「来たる者は拒まず、去るものは追わず」という禅家のしきたり、雰囲気が受け継がれています。宋淵老師は、その中で、「一個半個」くらいは正念相続のできる者がおられるかもしれないと「正法久住、勝縁成就」を願っておられました。「禅」を通じて、部員一人ひとりがわが国の伝統と文化の真髄に触れることを目指しています。