VAT Threshold

消費税と企業行動の歪み

「変な」力学

2019年10月に消費税が8%から10%に増税されました.増税前にまとめ買いや駆け込み購買をした方も,このページをご覧の方のなかにはいるかもしれません.

消費者のまとめ買いほど目立ちませんが,企業も一風変わった行動をとってしまうことが心配されます.消費税の免税制度が,企業規模を小さくするメリットを増やすからです.

大まかに「免税制度」とは,小規模企業は納税しなくてよいとする制度です.そもそも小規模事業者の納める消費税は少額です.納税額が年10万円程度と想像してみましょう.納税のためには労力や徴税の事務のコストがかかりますが,金額に見合わないということがあります.そこで,小さい事業者は支払を免除しましょう,という趣旨で制定されています.同様のしくみは,世界各国でとりいれられています.

消費税の増税がおこると,免税制度はどう作用するでしょうか.税率が高まると,納税業者であれば,納税額が増えてしまいます.しかし,免税業者にはそもそも納税義務がありません.しかも,場合によっては,増税により利潤率が上がるという,常識とは逆のことも起こってしまいます(注1).つまり,増税は免税事業者になるメリットを増やすのです.

免税事業者になるためには,売上高が1,000万円以下である必要があります.とすると,人為的に売上高を小さくして,免税制度をうけれるようにするという,変な力学が働いてしまいます.

企業努力で売上を増やそうというのが普通でしょう.たしかに免税制度には合理的な側面がありますが,副作用として,売上を人為的に減らす誘因を作り出してしまうという側面があるのです.

(注1)「益税」と呼称されるものですが,詳しくはリンク先の論文を読んで見てください.

2019年増税の影響は?

執筆時点(2020年)では,2019年増税が売上抑制に作用したかどうかはデータ不足で分かりません.ただ,どうなるか考える題材はあります.5%から8%への増税された2014年の増税です.増税幅は3%と今回よりも大きいですが,基本的には同様の力学が働くと考えることができます.

そこで,2014年増税の影響を見てみましょう.

企業行動の測定は簡単ではないですが,帝国データバンクの大規模データベースが活用できます.あたかも顕微鏡を使うことによって微生物が観察できるように,大量のデータを使うことによって企業の規模の「ゆがみ」具合を拡大し観察することができるからです.

免税制度は,小規模事業者を念頭において設計されています.「小規模」の線引きは基本的に,売上高1000万円以下です.このような,いわば恣意的な線引きがあるために,1000万円という売上高が税務上の価値をもってしまいます.そのため,事業者が1000万円の売上高に集まってしまうことが予想されます.諸外国では税務データを研究者が活用しており,イギリスやフィンランドで実際に免税点に企業が集まっていることが報告されています.

帝国データバンクのデータベースも大規模なため,免税点での歪みは,以下のヒストグラムに見て取ることができます.

このグラフは,売上高400万円から2400万円の範囲で,売上高ごとの企業数をしめしたものです.縦の点線は1000万円の場所です.基本的には,右肩あがりのサンプルだということが分かります.しかし,免税点の下のところに,なにか不自然はデッパリがあることが明らかです.つまり,なんらかの方法で,売上高が人為的に調整されているのです.

増税の影響は,どのように測定すればよいでしょうか.もし増税が免税のメリットを増やしているのであれば,2014年前後で,デッパリ具合が変化することが予想されます.そこで,デッパリ具合を見ることを通して,企業行動の変化を測定することとしました.

分析結果:2014年増税の影響

下の表は,2014年増税前後でのデッパリ具合を指標化したものです(注2).インセンティブが効いているとすれば,デッパリ指標が増加することが予想されます.測定値は増えていないことが分かります.逆に少しだけ減っているようですが,指標の統計的あいまいさを加味した「信頼区間」はオーバーラップしているので,前後でのデッパリ具合は,統計的には変わりがないと判断できます.

2014年の増税の場合,インセンティブが上昇しても企業行動はかわらなかったか,かわったとしてもと統計的に検出できない範囲であったと考えられます.

(注2)ちょっと専門的になってしまいますが,一言にデッパリ具合の比較といっても,実は,なかなか一筋縄にはくらべにくいのです.この研究では,カリフォニア大学バークレー校のサエズ教授が考案した,バンチング推計法(bunching estimator)という分析ツールを応用し,2014年前後のデッパリ具合を指標化することで,比較可能にしました.

結果の解釈

2014年には,増税により免税の金銭的メリットは増えたけれど,それによる行動変化は認められませんでした.面白いのは,デッパリは前後とも認められことです.もし金銭的なインセンティブに反応しないのであれば,そもそもどうしてデッパリが発生しているのか.一つの仮説としては,納税の手間が効いているのでは,と考えることができます.課税業者になることは納税義務を負うことです.事務的負担と経理にかかるコストが増えてしまいます.あくまで推論になりますが,事業者にとって納税事務が負担になっているのであれば,デッパリが存在しいるのにも関わらず,増税によってデッパリが増えないことの一つの説明になります.

2019年増税へのレッスン

では,2019年増税はどう動くでしょうか?免税の金銭的メリットの増加は,前回の増税時よりも低いこともあり,企業行動の歪みにつながらないのではないかと,私は考えています.ただ,軽減税が創設されたために納税事務が複雑化してしまった側面もあります.政府も事務負担を軽くする対策をとっていますが,もし「事務負担回避仮説」が正しいのであれば,デッパリが増えてしまっているというシナリオもなきにしもあらずかと,考えています.

この研究では免税制度の作用に着目しましたが,このプロジェクトではカバーしきれなかった他のインセンティブもあります.例えば,経営者にとって,納税額が多くなるということは,より多くの現金を税務署にもっていかれてしまうということです.運転資金がたりないなどの経営事情や,また,高級車を買いたいなどの消費欲求から,脱税をしてしまうインセンティブも高まります.消費税増税は,どのようにインセンティブに作用し,どうすれば行動変化を検出できるか.面白い研究テーマが残されています.

より学びたい人へ

サエズ教授のbunching estimatorの入門としては,伊藤公一朗『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社新書)がおススメです.

海外の研究で,免税点が発生させる「デッパリ」に関しては,以下などがあります.

Liu, Li, Ben Lockwood, Miguel Almunia, and Eddy HF Tam. "VAT notches, voluntary registration, and bunching: Theory and UK evidence." Review of Economics and Statistics (2019): 1-45.

*この研究は,帝国データバンクの市川翼氏とメナカ・アルドチェルワン氏との共同研究です.2019年度に一橋大学の帝国データバンク企業・経済高度実証センター(TDB-CAREE)に客員研究員として行いました.科研費(19K01695)の支援を受けており,『日本経済研究』で近刊予定です.ワーキングペーパー版はこちらのリンクをご覧ください.

2020年6月