ういのこと

 線路端の農水路があふれかえっとる。大水。土手の黄ないナバナの群生が横なぐりの雨に倒されとるんを、あたしは素足で踏んづけた。日頃なフナの泳ぐごとある静かな流れも、いまばかりは濁ったおとろしげな生き物のごと思われる。ここさ落ちたなら、明日は来ん。茶色か水面は低か方へと流れてく。土手と一緒になって削り取られたナバナも下さ行く。あたしの意識も低か方へ、濁った水が連れていく。 十指の爪には泥の詰まって、それをじりじりと水面に近づけた。あたしは死にゆくナバナ。中枢神経の無かけん痛うなかとよ。 踏切の音、やかまし、鳴る。貨物列車のコンテナが視界を左から右さ流れてく。列車の過ぎ、上がった遮断器の向こうで雨合羽ば着た母さんが、あたしのことば見とった。見とるだけだった。ごめんなさい、母さん、制服を駄目にして。 足首までが浸されて、ずるりと滑った。農水路な浅かった。底に足のついたものの、上体は遥か下流へ押されてしもうた。苦か水のごぼごぼと口ん中さ入って、息のできん。土砂の水な、喉ん奥にある粘膜にひっついた。水に潰されとるんか、飲んだ水のせいで膨らんどるんかわからんくなった。 水ははじめに父さんの言葉を奪った。田畑を耕す調子、泥くさい音の連なりが、私の中から消えてしまった。鉄工所の稼働音が聞こえる。私はもうそれを擬音語にできません。母さん、どうしたら、よいものでしょうか。私の体からは大事なものが、ナガされて――
* *
 もう何年も前になる。私は羽依子に招かれた。 水田を潤すポンプの傍に足を浸していたときだった。農業用水は外気よりずっと涼しくて、留まることのない不定形の透明が蒸れた足先を濯いだ。直射日光にくらくらしながら、あたらしい水の変形を眺めた。畦道の野草を撫でると少し湿気ていた。制服の薄地の吊りスカートも濡れてしまったような気がした。 近くの踏切が鳴りはじめた。線路の震える音がして、学校のある方角から列車がやってきた。薄ベージュの車体、青いライン。それらが通り過ぎた向こうに、羽依子は立っていた。 遮断機が上がっても、その子は動かなかった。自分のことを棚に上げて、こんな平日の昼間に私服で佇んでいる同年代の子を訝しく思った。しばらくの間、私たちは睨み合った。まなざされることは嫌いだったけれど、だからこそ、目を逸らした方が負けだった。 先に動いたのはその子だった。線路二本分の距離を詰めてきた。呆気にとられ、足を浸したまま動けなかった。「なに」 威嚇するような気持ちで言った言葉なのに、ポンプから溢れる水の音より小さかった。その子は何も言わない。何も言わないで手をもじもじと動かしていた。「なによ」 今度は聞こえたはずだった。それでも、その子は何も言わなかった。指先だけがちらちらと動いた。何度も同じ動きを繰り返すから、そういう癖があるのだと思った。細っこい植物の蔓で遊ぶような、千切れないよう注意深いような、やわらかな手の動きだった。 痺れを切らしたように、その子は私の袖を掴んだ。袖口に目を落としたかと思えば、今度はぐいっと引っぱられた。水田から出て、傾斜になっている野草に覆われた地面に立つと、足裏がもぞもぞした。さらに腕を引かれものだから、つるりと滑りそうになった。「待ってよ、急かさないでよ」 私は掴まれた腕でなんとか靴を拾って、もう片方で通学鞄を抱えた。アスファルトの地面まで引き上げられて、線路の向こう側に連れていかれた。熱された鉄のレールを踏まないように歩いた。 足裏がちりちりと痛んだ。他より分厚い皮膚でも、熱せられたアスファルトの起伏よりずっと弱い。どこまで行くのかと思ったが、その子はすぐに土を踏ませてくれた。生垣の隙間から、私有地らしき場所に足を踏み入れた。ここには背の高い草や地を這う草たちが生い茂っていた。雨傘のように大きな葉や、すらりと伸びた茎と尖った葉、ドクダミの白い花、むせ返るようなにおい。よく見れば、それら青々と繁茂する野草の間に、一本の道が通っていた。 この道を踏みしめると、じゅくりと泥水を感じる。びしびしと顔や体をしばいていく植物の間を抜けて陽光のなかに躍り出た。真っ白なシーツや洋服がひるがえり、その向こうには孟宗竹の群れがそびえ立っていた。 洗濯物の脇をさらに進み、地面の感触が変わった。じゅくりとした土でなく、熱のこもったコンクリートを踏んだ。数歩進めば横開きの玄関扉があって、傍に置かれた木製の椅子に半ば無理矢理に座らせられた。私は解放された手に持った靴を、椅子の下に置いた。 その子は緑色のホースをどこからか引っ張ってきた。ホースがぐにょんと脈打ち、中を通る影が近づいてきて私の足に水をかかった。泥を洗い流したところで新しげなタオルを渡されて、それで手足を拭いた。丸まった白の指定ソックスを伸ばして履き、水分で張りつくそれを脹脛まで引き上げる。靴に爪先を引っかけて、促されるままに家の中に入った。 玄関はがらんと広い土間になっていて、膝より少し高い段差を昇る必要があった。その子がサンダルを脱いだ横に、自分の靴を並べた。家の中は仄暗く、外からの風があるのか緩やかな空気の流れがあった。居間らしき場所に通された。隣の和室には見慣れないグレーの制服がかかっていた。どこの学校のものかは分からなかった。 その子は冷たい麦茶を出してくれた。ありがとう、と言っても何も返ってこなかった。一言ぐらい喋ってもいいじゃないと思って、言葉という見返りを求めているようで嫌になった。私は一気に水分を飲み干した。その子は私の真似をするみたいに、ガラスのコップを煽った。骨張った喉がごくりと動くのが、はっとするくらいに綺麗だった。座卓を挟んで向かい合っても、その子は手を繰るように動かすだけ。 沈黙に耐えかねてポケットの文庫本を開き、しおりを挟んでいた箇所から読みはじめた。じっと本を覗こうとしているのがわかった。本を真っ直ぐに立ててあげた。表紙を見ると、その子は興味を失ったのか再び手遊びをはじめた。 文庫本を三分の一ほど読み終えた頃、襖の開く音がした。私はずっとそこに襖があることにも隣に部屋があることにも、この家の中に私とその子以外の誰かがいることにも気づいていなかった。「あら、どこの子?」 爬虫類みたいな顔をした女だった。勝手に上がり込んだわけではないのだと説明してほしくて、目の前に手遊びを続けるその子に目配せした。「駄目よ。この子、口利けないから」 ずっと無視されていたのではなかったらしい。変に安心してしまった。女は私の後ろを通って台所に向かった。そして、冷蔵庫やなんかを開けたりガスコンロを点けたり、ばたばたと動きはじめた。麦茶ちょっとになってるじゃないの、なんて賑やかにひとりで喋りながら。私は台所と居間の間にある段差の縁まで行って弁明した。「ちがうんです、なんでか分からないけど連れてこられただけで。最初は線路の向こう側にいて、そしたら腕を引っ張られて」「道端にでも座り込んでいたの?」 沈黙は肯定と受け取られた。「それじゃあ、家なき子に見えたのよ。ここら辺はやめときなさい。ぼぼさせんねって徘徊するおじいがいるから」 ぼぼ、を電子辞書で調べてぎょっとした。 女はゼリー飲料に口をつけ、台所の背の高い椅子に腰かける。光沢のあるノースリーブのワンピースから出た二の腕に年齢を感じる。疲れた表情の割に顔つきや皮膚は若く、顔と腕では経てきた時間がちぐはぐに見えた。女は私を招いた子の名前を教えた。ういこ、羽依子、最初の子だから。 私が足を浸していた水田は、元々は羽依子の父親が耕していたらしい。その父親が蒸発してからは若手の農家に貸しているという。女は羽依子の年の離れた姉のように見え、そうではないから血の繋がっていない母のように思われた。「あたし、泥仕事なんて性に合わないの」 三人分の昼食を女は用意して、麺を茹でる間に私の学校へ欠席連絡を入れてくれた。桃色と緑色がところどころ混じったそうめん。ミョウガが添えられていた。庭に生えているのを羽依子が採ってくるらしい。初めての味だった。 羽依子は左手で箸を使って、するすると麺を啜った。左利きなんだね、と言ってみたけれど一瞥されるだけだった。口が利けなくても音は聞こえているらしい。 どうして羽依子は話せないのか訊いた。女は何でもないような表情をして、ごくありふれた出来事のように語った。 父親が蒸発してしばらく経った頃、羽依子は線路脇の水路に落ちたという。踏切のすぐ近くから次の踏切に至るまでの半分くらいを流されて、幸いなことに退勤中の鉄工作業員に見つかって引き上げられた。搬送先で目覚めたときには、もう喋ることができなくなっていたらしい。聴覚に異常はないどころか音にはむしろ敏感なくらいなのに、会話も読み書きもできない。まるで、言葉というものが存在すること自体を忘れてしまったようだったという。「喋れなくて不自由だとか、わからなくてもどかしいとか、そういう態度なら同情できたのにね」 飲もうとした麦茶が足りない、くらいの小さな愚痴を言うような調子だった。 帰れと言われないのを良いことに、私は長居を決めこんだ。羽依子は相も変わらず手遊びをしていて、女は録画してあったらしい深夜映画をみながら泣いたり笑ったり、ときどき私に感想を求めたりした。 陽がやや傾いた頃、背中の大きくあいたワンピースに着替えた女は、柄の尖った赤い櫛で器用に髪を結い上げた。黒々とした髪をとめたオーロラ色のバレッタが、得体の知れない甲虫みたいで気味が悪かった。 女と同時にその家を出た。残された羽依子は玄関で見送ってくれた。
 翌日、また羽依子の家に向かっていた。昼の明るい時間に見ると、その家は整備されていない竹林に覆われていて、小屋の赤いトタンが眩かった。 今度は踏切のあちら側でなく、こちら側にいた。緑が繁茂する庭の一本道の入り口をうろうろしていると、羽依子は道の向こうから駆けて迎えにきてくれた。私はずっと、手を引かれ招かれることを求めていたのだと思う。おいでとは誰も言ってくれないから。羽依子に招かれるまでは招かれざる者だったから。 足を汚すことなく玄関にたどり着き、また居間へと誘われた。昨日と同じ手順で麦茶を飲んで、羽依子が手遊びをはじめて、私は本を読む。ときどき不安になって勉強をしてみて、飽きればノートに落書きをした。私が通学鞄からあれこれ出す度に羽依子は興味を示し、しばらくの間じっと凝視した。 小学生の頃に作ったカタツムリのキャラクターを思い出して描いてみた。ナメクジとカタツムリの四コマ漫画をひっそり連載していたのだけれど、幼稚な気がして中学に上がったころにやめてしまっていたのだ。「これはね、ツムツムっていうの」 羽依子はその絵を見て表情を変えた。知ってる、とでも言いたげな顔をして、ノートの上で指をちろちろと動かした。それは明らかに描かれたツムツムへの反応だった。シャープペンシルを置いて指の動きを真似した。 羽依子は少し考えるように手を止めた後、また同じように指を動かした。人差し指は跳ねるようにではなく何かを潜るように動いていた。右人差し指がうねっと動き、左人差し指もうねっと動く。そして、左右両方の小指と薬指が軽くぶつかって離れる。 また真似をすると、羽依子は元のスピードで返してきた。どうやら同じ動きができたらしい。私たちは交互に指を動かした。はじめて意思の疎通ができた気がした。 今度はナメクジの方を描いた。「こっちはナメナメ」 羽依子はまたノートの上で右人差し指をうねっ、左人差し指をうねっと動かした。さっきよりも動作がひとつ少なかった。また真似をすると羽依子は嬉しそうに笑った。 ツムツムとナメナメの違いは背中の殻だけで、羽依子の指の動きでは小指と薬指がぶつかる動作の有無が異なっていた。これが殻を表しているのだと閃いた。ナメクジと殻、それでカタツムリ。 紙面いっぱいにナメナメとツムツムを描けば、それに合わせて羽依子の指も動いた。 ノートをくるりと反転させて羽依子にシャープペンシルを渡してみた。そして、今度は私がナメクジ、殻と指で表すと、彼女は緻密なタッチで描き始めた。ものの五分くらいで図鑑に載っているようなカタツムリの絵が出来あがった。私より何倍も上手かった。「すごいんだね、羽依ちゃん」 こうやってひとつずつ確かめていけば、いつか羽依子と会話できる日が来るかもしれない。私だけが羽依子と話せる特別な子になれるかもしれない。そう思った。 昨日と同じくらいの時間に女が起きても、私はナメクジとカタツムリの話をしなかった。
 次の日は、もっと早い時間に行った。女が起きてくるまでの時間、私と羽依子だけの時間を増やしたかったから。朝ごはんとして用意されていた四個入りのミルクドーナツをこっそり鞄に詰めていき、じゃーんと羽依子に見せびらかす。「一緒に食べようと思って」 包装のビニールを開けて、ドーナツをひとつ羽依子にあげる。私が自分の分を一口齧ると、羽依子も食べはじめた。水分の少ないドーナツは唾液を持っていくけれど、そのもさもさとした食感が好きだった。羽依子の口にも合ったようで、残りのドーナツも分け合って食べた。完食した羽依子が指を動かした。両手の中指を糸でも巻くようにくるくると回した後、親指と人指し指で円を作った。紛れもなくこれがドーナツだと確信した。円とそれを形容する言葉の組み合わせ。甘い、もさもさした、あるいは美味しいだろうか。 羽依子が指で話すこの言葉を、私はウイノコトと呼ぶことにした。今になって思えば誰に教えるわけでもないから、わざわざ名前をつける必要はなかったのだけれど。ウイノコト、と口に出したことは無いのだ。 ほとんど毎日のように羽依子の家に通い、ウイノコトの語彙は徐々に増えていった。昼過ぎに起きてくる女もはじめのうちは、今日もいるのね、なんて言ってきた。でも段々と私が居ついているのが当たり前になってきたのか、簡単な家の手伝いを頼まれるようにもなった。学校に行かないことについても、黙認していたというより無関心だったのだろう。「あの子と一緒にいても楽しくないでしょう。昔は騒がしいくらいだったんだけど」 目元を飾りながら女は言った。大粒の偏光シャドウが彼女のお気に入りのようだった。西日がうるうると反射した下目蓋は、涙に濡れているようにも見えた。「羽衣ちゃんは前から無口な子かと。なんか、そういうイメージでした」「あはははっ、全然よ、全然」 真っ赤に縁どられた口を大きく開けて、女は笑った。「あたし口数が多いでしょ。父親の方はそうでも無かったんだけど訛りがひどくてね。両方の悪いところを覚えちゃって、訛ってる上に喧しいってんだから最悪よ」 羽依子がどんな声をしているのか想像せずにはいられなかった。骨ばった喉は、掠れた普通よりも少し低い声を発するのだろうか。どんな抑揚で喋っていたのだろうか。ひどい訛りとは。半分も聞き取れないような方言だろうか。それとも、もっとやわらかいのだろうか。どんな物言いをしたのだろうか。「喋れなくなって清々したのよ。耳障りだったから」 この時やっと、女が羽依子のほんとうの母親なのだと察した。彼女は自分が産んだ子が父親の訛りで話すことが嫌だったのだ。髪を結い上げて、女は出かけていった。彼女の身支度の中で赤い櫛を使ったその動作が、いちばん滑らかで、いやらしかった。甲虫みたいなバレッタ、迎えの黒いワゴン車。薄情な女だと思った。羽依子がかわいそうだった。  その夜、羽依子の家から帰ると自宅アパートの玄関先に担任が立っていた。中間考査の一週間前だった。範囲表とプリントの束を持っていた。ひと月分のそれは目を通されることを自ら拒んでいるような分厚さだった。制服を着て、家の中でなく外から現れた私に、担任は何か言いたげな顔をしていたけれど、それについては何も触れてこなかった。「テスト、受けられるよな」 受け取った茶封筒に入ったプリント束を抱いて、私は黙っていた。玄関先の蛍光灯がちかちかと点滅して、封筒に書かれた私の名前を歪ませた。「受けるよな」 頷くしかなかった。死体になった蛾が足元に転がった。
* * *
 踏切前の十字路も水浸しになっとった。 普段もほとんど消えとる白線な、どっぷり水没して見えんかった。 父さんの軽トラックの幻影が雨水ん上でゆらゆら揺れながら、こっさん向かってきた。あたしはそれが紛いもんってわかっとる。わかっとるから、流れてしまいたいって思うとよ。母さんな、あたしが流れたいと思っとることば知っとった。言わんでもわかるくらいピリピリした感覚はあっても、あたしと母さんはあまりに互いのことば憎みすぎとった。父さんのおらんごとなってから、それは決定的なもんになった。あたしは父さんがおらんくなったんを母さんのせいって思った。たぶん母さんはあたしのせいって思わしたんだろう。 いっそう他人だったらよかったとに。母さんのこと、母さんってわからんごとなったらよかとに。あたしだって母さんの腹ば切ってまで、産まれてきたくなんかなかったとに。 軽トラックの走る音なんか聞こえんくらいに、雨のざあざあ降っとる。 農水路は溢れとる。
 * * *
 朝一番のテストに間に合うか間に合わないかくらいの時間に登校した。下足箱の近くで鳩みたいな目をした生活指導の先生に遅刻者として名前を控えられ、どうせ一夜漬けしたのだろうと叱られた。はやく時間が過ぎてほしかった。羽依子に招かれたかった。 スチールの下足箱、自分の番号を探して扉を開けた。そして、脱いだ運動靴と上履きとを入れ替えたとき、違和感を覚えた。上履きの左右両方に粘性の液体が付着していた。一度だけ嗅いだことのあるにおいがして、それが何だかわかった。手に持った上履きを足元に放り落とした。中敷きの上で液体が傾きに合わせて動くのがわかった。生徒指導の先生はもういなかった。捨てるべきかとも思ったけれど、上履きのゴム部分に指をかけることすら気分が悪かった。裏山の方に駆けた。誰にも見られない雑木林、フェンスの傾いた隙間から抜け出した。 考査の初日だから私が来ると思い、今朝を狙って誰かが悪意を吐きつけた。気づかずに履いたら、と背中の産毛がよだった。精液溜りの向こう側で何人もが笑っている気がした。息が上手くできなくて苦しいのが、走っているせいか動揺しているせいかもわからなかった。 人通りの少ない道を選んで羽依子の家まで走った。市営住宅の裏、広い農道から一本逸れた道。赤いトタン屋根が見えた。羽依子は小屋の鉄階段で野花を編んでいた。緑色の輪っかに白と黄色の小さな花が垣間見えた。私は羽依子のいるところまで上がって、やっとの思いで隣に腰かけた。「嫌なの、もうぜんぶ嫌なの」 羽依子の左肩に頭をつけた。流れた横髪が電線のように視界の邪魔をする。彼女は編んでいた野花を膝に置いた。〈植物、円〉 指の動きがふたつの単語を示した。植物の円、花冠あるいはリース。 嫌なことがあった、つらい、悲しい、悔しい。そうウイノコトで示したかったけれど、近しい単語すらわからなかった。羽依子は植物、円、植物、円を繰り返した。私にも植物、円を返してほしそうに、何度も。私の指は止まったままだった。「ぜんぶ、ぜんぶ、嫌なのよ」 羽依子は私の両手を掬うように持った。慰めのつもりだろうかと思って、すぐに違うことに気づいた。自分にもわかる言葉で示せと言っていた。「羽依ちゃんにはわからないよ。だって、羽依ちゃんは許されてるから」 握られた両手が上下にゆらゆらと揺らされた。その動きは、はやく言葉を返してと言っているようだった。はやく、はやく、私があげた言葉を返して、と。〈植物、円〉 私がぎこちなく指を動かすと、羽依子は嬉しそうにまた植物、円を示した。植物、円、植物、円、植物。その虚しいやりとりを続けるしかなかった。 開け放たれた裏口から固定電話のダイヤル音が聞こえてきた。羽依子は編みかけのリースを放置して鉄階段を降り、裏口から家の中に入ってしまった。私もそれを追いかけた。玄関以外から出入りするのは初めてで、叱られやしないかと少しだけ躊躇った。 電話は女が受けていて、ええ、はい、まあ、と気の抜けた返事をしていた。女は私を視界のうちに入れると、少々お待ちくださいと言った。「担任の先生だって。替われってさ」 受話器の話口を押さえて、女はそう言った。心臓がばくばくと動くのがわかった。わけがわからなくなって、頷いて、女から受話器を受け取った。「あんまり良い雰囲気じゃないよ」 話口から手を離す間際、女はそう耳打ちしてきた。 もしもしと言えば、電話の向こうから溜息が聞こえた。ほとんど詰問されている気分だった。自宅にかけても出ないからいつも欠席連絡をしてくる番号にかけた、クラスの生徒が遅刻者名簿に載るのは久々だった、テストは受けると約束したのに私がそれを反故にした、と彼は言った。学校に行かずによその家に入り浸るなんて不良のすることだ、点数はとれないだろうが座って受けるくらいできるはずだ、とも。 朝の出来事を伝えようかと迷ったけれど、嘘だと言われるのが怖くてやめた。先生はあのことを知らないから厳しいのだと思いたかったのかもしれない。「来年は受験だぞ」 そうして、電話はぷつりと切れた。 私が受話器を置くと、羽依子は用事が終わったと判断したのか家を出ていった。あの子に構わなくていいのよ、と女に言われてムっとした。羽依子だけが私を招いてくれたのだ。構っているとか構われているとか、そういう関係ではなかった。私には羽依子しかいなかった。羽依子にとっても同じだと思っていた。こんな薄情な女よりも私の方がずっと親しい存在になれているはずだった。 鉄階段に戻ると、羽依子はリースを編む作業を続けていた。彼女の手の中で、茎の硬さも葉の形もちがう幾種類かの野花が絡み合っている。新たにツユクサの青い花が編み込まれた。隣に腰かけると、羽依子は指を動かした。私の知らないウイノコトだった。そして、野花のリースは私の頭に戴かれた。このときの感情を、羽依子に伝えるための言葉を私は持っていなかった。いや、にほんごですら表せなかったかもしれない。言葉にした瞬間に、ありふれた別の感情へと変わってしまいそうだった。 羽依子にもたれかかると彼女も同じだけの体重を預けてくれた。私たちは言葉を交わさないように気をつけながら、手と手を触れ合わせ、互いの指を、その滑らかな動きを愛しみ合った。肩を寄せ合っていると半身が溶け合っていくような気がした。片腕は互いにめり込んで、心臓や子宮までも臓器は共有のものになる。二面二臂、羽依子が左手を動かして私は右手を動かす。羽依の脳から始まった神経は私の右手にも繋がっているから、彼女が手をどう動かしたいのか分かる。同時に私のにほんごが羽依子の中に流れ込んでしまうようで怖くなった。にほんごの中には羽依が知らなくていい言葉が、私が知りたくなかった言葉がたくさんあるから。羽依子と融合する想像をしたとき、私は羽依と別の存在で良かったと安堵した。 私だってにほんごを忘れてしまいたかった。私は羽依子の言葉だけをわかりたかった。羽依子には私の言葉だけをわかってほしかった。 この土地を離れてずいぶん経っても、彼女とひとつの存在になる想像は消えなかった。ひとつの体にふたつの顔を持った生き物が、頭の奥の方で確かな形を持たず灰色をした靄を纏って鎮座していた。仏典にある共命の鳥、あるいはヤヌス猫。一方が憎くて毒を飲ませばもう一方も死んでしまうし、そもそも生命を維持することすら難しい。私はひとりで、ひとりじゃない夢をみていた。私だけじゃなくて、皮膚で隔たったあらゆる存在がひとりで在ることしかできなかったのに、あまりに幼い精神はそのことを知り得なかった。 私はウイノコトを女に隠すことをやめた。あなたと違って私は、羽依子と話せるのだと見せつけたかった。あなたと違って私は、羽依子と細やかな交感ができるのだと眼前につきつけてやった。母親のくせに、羽依子のことを何もわかっていない。細っこい一本の蔓をふたりでやさしく撫でるなんて、あなたにはできないでしょう。そう罵るつもりで。 女は平気な顔をしていた。ただ、光に撫でられた油の色を湛えた甲虫が、女の髪を六本の脚と触覚とで掻き乱した。バレッタの中央にすうっと黒い筋が入った。夏至の夜が訪れた。甲虫は薄闇の羽を広げて飛び立った。 持ち主のいなくなった鏡台の前で、私たちは互いの目蓋にひかりの粒を塗った。雲の向こうにある月、点滅する蛍光灯、遠い街のネオン。それらは私をじっと見続けていて、やっと私もまなざしを返すことができた。 おそろいになるように羽依子の髪に鋏を入れた。赤い櫛でとかせば、細い針が私の手をちくちくと刺した。私も羽依子と同じになるように前髪をつくった。痛い行為だった。羽依子にとっても痛いはずだった。「ごめんね、羽依ちゃん。ごめんね」 前の道を車が通り過ぎたのか、ハイライトが四匹の甲虫を浮かび上がらせ、真っ白な反射に目が眩んでしまった。再び鏡に映ったふたりは同じになれていなかった。同じになろうと装っただけだった。赤い櫛を握りしめると、脆い音をたてて歯の数本が折れてしまった。 羽依子の手を掴んで、緑の繁茂する庭へと向かった。靴を履き忘れたことは、はじめて彼女と出会った日のじゅくりとした感覚で気づいた。里芋の葉が群生したあたりに膝をついて土を抉った。私が爪を立てた痕を羽依子も抉ってくれた。この土地を傷つけてやりたかった。誰も耕していない土は決して柔らかくはなかった。濡れた砂粒たち、小石、落ち葉の断片、私たちの爪は小さなものたちまで壊していった。藻が腐ったみたいなにおいに吐き気を催しながら、壊れた赤い櫛を埋めた。暗闇に色をとられた櫛に、ざらざらと抉った土を被せていった。羽依子の目蓋から、泥だらけの手でひかりを奪った。頬に撫でつけて、骨ばった首筋を握った。ぎちぎちに固まった私の指は、羽依子に触れられてゆるゆると解けた。 私が羽依子を産みなおしてあげたかった。私だって羽依子から産まれたかった。一度ひとつになって、また別々になって、今度はひとりでも大丈夫なようになりたかった。だけれど、私たちはひとつになれない。ひとつになれないから、大丈夫にもなれなかった。 夏至の夜が過ぎ、私はもう羽依子の家には行かなくなった。毎朝のように通学路を歩いても、遠くに赤いトタン屋根を見るだけだった。もう、羽依子が招いてくれる土地に入ることはなかった。羽依子が待っているかもしれない、とは考えないようにした。 次の春、大きな地震に見舞われた。木造だった羽依子の家がどうなったのか確かめる暇もなく、私は震源から逃げるように両親と共に転居した。 そのまま、列車一本で通えるくらいの大学に進んだ。県境になっている山を越えると、河川敷が菜の花で埋まった川が見えた。大雨の日には、黄色が花の群生は横殴りの雨に倒されていて心が痛んだ。水縁の花は流されてしまうだろう。羽依子のにほんごみたいに。 川に架かった細い橋の手すりの上に、羽依子は立っていた。土砂降りの雨が降っている。彼女がゆっくり瞬きしたとき、目蓋がひかりの粒で覆われているのがわかった。羽依子は私を見ている。遠く離れた車窓のこちら側の、私だけを。ゆるゆると動く列車に乗った私を、彼女の目は追いかけて、指は私の知らない動きをする。そして、羽依子の体は川の水面へと吸い込まれていった。入水の瞬間は死角になっていた。前髪から滴った雫が沁みたことにして、私は目を閉じた。 さようなら、私の羽依子。さようなら、やわらかい記憶。
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