私達が住まいする三馬、遠い昔より三馬村として呼ばれていましたが、昭和11年に金沢市に編入する事になり現在の三馬となりました。それより以前は、三渚(ミヌマ)、御沼、御馬とも呼ばれていたそうです。
三馬公民館は、社会教育法が公布施行されると同時期に昭和24年6月に開設され60数年がたちました。
開設当時の公民館は、三馬小学校の運動場の西側の一角にあった旧青年学校を、当時の青年団達によって改装され、金沢でも5・6番目の公民館として発足しました。以後、校下各種団体等、地域活性化の場として利用されてまいりましたが、昭和45年に2代目の公民館として保育所の横に木造2階建ての建物が新設されましたが、その後20数年経過し老朽化により平成8年に現在の“会館みんま”と改称し、デイサービス南風苑との併設館として生まれ変わりました。
「知ってもらいたい三馬の歴史」より
「三馬」の名称にいろいろな説がありますが、主なものを以下簡単に列記します。
・奈良時代の和銅年間の古記録に、「三馬」の記録がある。
・平安時代初期の「日本霊異記」に、「御馬河里」(みまかわのさと)の記録がある。
・その他の古い資料に「三渚」・「美無萬」・「美無馬」・「美馬」・「御馬」などの記録があり、”ミンマ”とか”ミマ”とかと読まれていた。
・異説として、昔この地域が沼地が多かったところから、「沼」に「御」がついて”みぬま”となり、訛って”みんま”となったのであろうと言うのもある。
・平安時代の文献に久安地内を「三馬郷」、「御馬河里」とあり、「御馬堂稲荷社」があった。(現在の”御馬神社”である)
・伏見川を、古くには「御馬河」、「見満川」、「三満堂川」、「二万堂川」、「三馬堂川」と色々な名前で呼ばれてきた。
・明治22年、「有松村」・「泉村」・「西泉村」・「米泉村」・「久安村」・「横川村」・「野々市新村」の七ケ村が合併して【三馬村】が成立した。
(ちなみに旧七ケ村は「字」となる。)
・昭和11年4月、「三馬村」は金沢市に編入し、現在の「三馬」の原形が誕生する。上記七ケ処の「字」は町名になる。但し、”字 野々市新”は、石川郡野々市町との兼ね合いで「三馬町」となり、”字 泉”は「泉本町」と「泉旭町」となる。
「知ってもらいたい三馬の歴史」より