古い歴史を有する【三馬】には、地方色豊かな故事来歴が沢山残っております。
明治の「三馬村」誕生から昭和初期の金沢市への編入に至る過程の中で脈々と伝えられて来ました。
今は、知る人も殆どいなくなったと思いますが、色々な資料を調査する中で、少しでも後世に伝えこれからも残していきたいとの思いで、
一部ですがこれら古い旧跡と伝承の幾つかを紹介します。
①サンマイ(三昧)の地蔵
昔地蔵は、泉の処刑場にあったものを刑場がなくなった時に、有松村の火葬場(サンマイ)に移し、亡くなった人のおとむらいをした。その地蔵は、有松の人達が造ったものではなく
心ある人が亡くなった人の供養をする為に造ったものだと伝えられ「サンマイの地蔵さん」と呼ばれていた。その後金沢市のサブグラウンドになる時に火葬場もなくなり、現在の
有松墓地に安置された。墓地の管理者はいるが、地蔵尊の特定の世話人はいなく定まった信仰行事もない。藩政時代の地蔵尊としてみんながお詣りしている。
②貴船神社
主祭神 罔象女命(みずはのめのかみ)
保牟多和気神(ほむたわけのかみ)
往昔、富樫宮内少輔有松教景の代に、自分の邸宅の側に貴船明神を祀って崇敬した神社と伝えられている。ご祭神の罔象女命は水の神様で火災よけ、防火の神である。
保牟多和気神は第15代応神天皇のことで八幡さんとも称し、平和、文化、産業の神とされている。大正11年11月神饌幣帛料供進神社に指定された。
③国造神社
主祭神 大兄彦命・大国主命・菅原道真
桃山時代の建築方式で権現造りといわれる拝殿が有名である。応神天皇のころに出来たといわれている。初期には加賀藩初代藩主前田利家公所蔵の虚空蔵仏一体が
当社に奉納された桟縁により社名の国造と同音の虚空蔵之宮とも称された。神社は昔から毎30年ごとに式年祭が行われる。明治以前には大聖寺藩主前田利明、利通、
利孝公等の崇敬厚く社参代参された事がある。明治39年に菅原神社を合祀。元井出神社と称していたが菅原神社を合祀した際今の社号に改める。
④金城自動車学校
昭和26年5月~昭和39年3月。河合陽徳氏が県内2番目の自動車学校として設立し、1万数千人のドライバーを養成した。跡地は現・かわい幼稚園。
⑤金沢高校
昭和3年に金沢中学校を河合常治氏が私財を投じ開校した。昭和23年4月、学校改革により新制高等学校として発足し、現在に至る。
⑥街道橋
西泉から二万堂の北国街道に出る出口のドント川にかかる橋を街道橋と呼んだ。このドント川(現在の雀谷川)の附近は深川とも云った。現在の東歯科の後方で雀谷川
にかかっている。現在は海道橋と呼ばれている。
⑦道番船付場
現在の昭和大道りで横川交差点の手前左側(元の伏見川)で明治の末期までこの辺りが船付場として物資の集散地であった。陸上の輸送機関が発達していない時、
大型の船で金石に運ばれ貨物を小舟に積みかえて犀川から伏見川を遡ってこの船付場に卸した。積荷は、メ粕などの魚肥と石灰が主だった。帰り舟はほとんど空だったが、
まれには縄、延米など積んでいた。金石の巷に運び、大きな舟に積み変え北海道に運んだ。大正2年に国鉄の野々市駅(現西金沢)が開設されると、以後急激に衰微し
肥料問屋も野々市駅に移転した。
⑧道番ケヤキ地蔵
金沢の南端国道157号線に沿う今村家にケヤキの大木が2本残っていた。昭和10年代、今村庄三氏の敷地にあったケヤキの巨樹の幹は洞穴となって内に交通安全を
守るために地蔵尊を安置してあった。昭和37年10月27日国道改良工事のためケヤキが伐採されたので、現在地に祠堂を建てて交通安全を願っている。
8月下旬曹洞宗慈眼庵の住職を招いて地蔵祭りをしている。
⑨井手神社
古来師走13日に「イリコ祭」と呼称する、特殊神事があることで知られている。その故事来歴は不詳であるが、当日氏子各戸より麦粉を奉奠して神慮を慰撫するのを
ならわしとした。創立年月不詳であるが、本社小字御馬地百番地に鎮座し、表中の氏神として崇敬厚く、古来国造社と称する。又、同村小字的場69番地に相子(相河)
の氏神として
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