この文章は、農大学報(2022年1月刊行)に寄稿したものを一部改変したものです。
原稿を書いていた当時はコロナ禍の最中でした。
農大に勤めて早くも7年が経過しました。思えば29年前のちょうど今頃、たまたま手に取った受験情報誌に「東京農業大学」という文字を偶然見かけ、大阪の地を離れ何気なく受験したのがそもそもの始まりでした。
あの雑誌がなければ自分は上京することもなく、その後の約30年の間に出会ってきた人々に出会うはずもなく、おそらく現在の専門分野を研究することもなく、全く異なる人生を送っていたことでしょう。
何が人生に影響するのかは全くわからないですね。当時を振り返ると、今の自分を形作るきっかけとなった様々な出来事を思い出します。
1995年の当時は20歳でした。1月15日に地元大阪の成人式に出た私は翌16日に東京に戻りました。17日に法学の試験があったためです。その17日の早朝に阪神淡路大震災が起きました。
まだ情報源がテレビとラジオと新聞しかなかった頃です。何が起きているのか東京ではさっぱりわからず、不安な気持ちのまま試験を受けましたが、時間がたつにつれ、恐ろしい被害が起きていることがわかってきました。
3週間後、部分復旧した電車と代行バスを乗り継ぎ、大きなリュックに物資を詰め、被災した須磨の伯母の見舞いに行きました。途中西宮の生家にも立ち寄りましたが、そこにはかつて生家であった瓦礫があるばかりでした。
原型を留めた屋根瓦が一枚だけ落ちていたことを今でもはっきりと覚えています。
家族には東京に戻っていて良かったと言われましたが、偶然ながらも1人逃げ出したような気になってしまい、しばらくは打ちのめされたような日々を過ごしていました。
2か月後、3月20日の卒業式に起きたのが地下鉄サリン事件です。先輩のお祝いに朝から研究室に集まっていた同期の中には当時標的とされた千代田線に乗り、何本か違いで間一髪被害を免れた人もいました。
今とは比べ物にならないほど情報が届かない時代です。当然携帯などはなく、敏感な人がポケベルを持っている程度ですから、一体何が起きているのか、どうしたらいいのか、
もしかして今来ていない人はその何かわからないけど何か事件が起きたらしい電車に乗っていたのではないか、
さっぱりわからない不安な表情の先輩、同期、後輩の顔が研究室に並んでいました。その後は当時を知る方はご存じのとおり、連日ニュースは教団の捜索で埋め尽くされ、サティアンという不気味な言葉が流行りました。
8月、両親が祖父の介護のために故郷山口に引っ越すことになりました。祖父は偶然にも阪神淡路大震災の日に体調を崩したため、春先から大阪の実家を引き払う準備をしていたのです。
3年生になっていた私はいよいよ帰る拠点がなくなったという実感と共に、これからどうするのか考え始めました。就職氷河期という言葉はまだ世間一般に広まっていなかったものの、
3年制の短大(当時は医療技術短大がたくさんありました)に行った友人が就職先が全くない(医療系なのに!)という嘆きを聞くにつれ、
就職というのはどうやら誰にでもできるものではない、当たり前のように卒業し、就職し、家族を持ち、家だの子供だの車だのというルートは全員に用意されているわけではないという考えが浮かんできました。
そうか、そういうことなんだな。今やりたいことがもうわかっているのに、それを不安だの自信がないだのお金がないだの理由をつけて世間一般が納得するような無難なルートを選択したとして、
いやそもそも選択できそうにもない状況になりつつあるが、自分に来年、いや明日ですらある保証はどこにもないんだ。災害も事件事故も突然容赦なく起こるだろう、そのときになって後悔しても遅いんだな。
わかった、じゃあ今!生きている今、好きなことをやろう。
そう気持ちが振り切れた頃でした。以降は大学院に進学し、今に至ります。
思い返すと我ながら暗い話ばかりで新春にふさわしい話題とは到底言えません。しかしながら、このどこか捨鉢のような感覚は今も私の根幹を規定する重要な要素です。
今日と同じ明日が来る確証はどこにもない、次の瞬間に何が起こるかわからないという感覚は、一方で、与えられた今日という一日をとにかく精一杯生きよう、
今日会えた人と真摯に向き合おうという気持ちを私の中に保ち続けてくれる、大切な感覚でもあるのです。
だから当時の自分にも、今20歳を生きる人たちにも、そんなに不安にならなくても大丈夫、何とかなる。そう、コロナ禍だって大丈夫、本当に何とかなるから心配するなと、そう伝えたいのです。