小山松勝一郎, 新徴組 の年表を改変
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文政8年(1825)
6月21日 松森胤保、庄内藩士長坂市右衛門治礼(物頭200石)の長子として鶴岡に生まれる。
文政10年(1827)
12月7日 西郷隆盛誕生。
文政11年(1828)
小林登之助誕生。
天保元年(1830)
1月8日 菅実秀誕生。
10月 清河八郎誕生。
天保3年(1832)
5月25日 伊牟田尚平出生。
天保4年(1833)
11月 清川斎藤家に賊押し入る。
天保6年(1835)
11月15日 坂本龍馬、高知城下上町に生まれる。
天保8年(1837)
2月 大塩平八郎の乱
天保10年(1839)
5月 蛮社の獄
天保11年(1840)
11月1日 幕府、川越、庄内、長岡の三藩に三方領地替えを命ずる。
天保12年(1841)
益満休之助出生(月日不明)
6月3日 十二代将軍家慶、水野忠邦に三方領地替えの中止を指示する。
天保13年(1842)
11月12日 酒井吉之丞了恒誕生。
弘化4年(1847) 清河八郎 18歳
5月 八郎亡命して江戸に出る。
8月 古学の東条一堂に学ぶ。
嘉永2年(1849)
5月10日 葛飾北斎没。享年90。辞世の句「人魂で 行く気散じや 夏野原」
嘉永4年(1851) 清河八郎 22歳
2月 八郎剣を千葉周作に習う。
嘉永5年(1852) 清河八郎 23歳
2月 八郎朱子学の安積良斎塾に転じる。
嘉永6年(1853) 清河八郎 24歳
3月 坂本龍馬、剣術修行のため高知を出立。江戸「千葉定吉道場」に入門。
6月3日 アメリカ使節ペリー、浦賀に来航。
安政元年(1854) 清河八郎 25歳
春 八郎昌平校に学ぶ。
11月 八郎神田三河町に開塾。
12月 三河町塾類焼。
安政2年(1855) 清河八郎 26歳
3月 八郎奉母旅行に出立。
8月 八郎、塾再開の準備のため、江戸両国薬研堀に家屋を購入した。
9月10日 帰郷。
10月 江戸大地震。八郎急いで上府、薬研堀の家屋を処分する。
安政4年(1857) 清河八郎 28歳
8月 八郎駿河台淡路坂に第2回開塾。
安政6年(1859) 清河八郎 30歳
3月 淡路坂塾類焼
8月 八郎神田お玉ケ池に第3回開塾。
万延元年(1860) 清河八郎 31歳
1月13日 遣米使節、咸臨丸、木村喜毅、勝義邦(海舟)らを乗せて出発。
3月3日 桜田門外の変あり。八郎これより後、国士たらんことを期す。同志おのずから集まり、虎尾の会結成なる。
12月 伊牟田、樋渡等ヒュースケンを斬る。
文久元年(1861) 清河八郎 32歳
3月 虎尾の会合連日行われる。
5月20日 八郎捕手の手先の無礼者を斬る。
5月21日 八郎が安積五郎等3名と潜匿の旅にでる。虎尾の会の同志その他8名小伝馬町に繋がれる。
9月3日 北有馬太郎獄死(35歳)。
10月16日 笠井伊蔵獄死。
11月 八郎京都挙兵を計る。
12月 八郎九州遊説。
12月14日 西川練造獄死。
文久2年(1862) 清河八郎 33歳
正月 八郎京都に帰る。
3月 伊牟田尚平、福岡藩主黒田斉溥が久光の公武合体の上京周旋の挙を止めようとしている事を知り、播磨国大蔵谷において斉溥に説こうとして藩地に送られ、喜界島に流される。
4月23日 寺田屋騒動
6月6日 八郎京都出立、東下。
8月21日 生麦事件
8月24日 八郎江戸到着。
閏8月 八郎政事総裁職松平春嶽に上書し、大赦をうながす。
閏8月1日 松平容保、京都守護職に就任。
閏8月7日 お蓮、庄内藩邸で死亡
閏8月14日 西郷吉之助 沖ノ永良部島での遠島生活に入る。
10月 龍馬、千葉重太郎とともに勝を訪問、門下生となる。
11月 八郎再び春嶽に上書。
12月8日 幕府浪士組編成を許可す。
12月16日 清河弟・ 斉藤熊三郎、同志・石坂周造・池田徳太郎赦免。
12月30日 浪士組の大網決定。
文久3年(1863) 清河八郎 34歳
正月7日 幕府浪士組募集方針を示す。
2月4日 浪士組伝通院内大信寮に集合。
2月8日 浪士組234名、江戸出立、上洛。
2月23日 浪士組京都到着。この夜八郎は浪士全員の集合を命じ、学習院に上書することを計る。
2月24日 八郎は河野音次郎等6名をして学習院に上書せしむ。
2月29日 八郎第2回上書。
2月30日 八郎第3回上書。
3月3日 鷹司関白より浪士組に対し、攘夷実行のため東下すべしとの命を賜る。
3月10日 近藤勇一統13名、浪士組より分離、後に新撰組となる。
3月13日 浪士組209名、帰府に出立。
3月16日 菅実秀、郡奉行を命ぜられる。
3月28日 浪士組江戸到着。三笠町浪人屋敷に入る。江戸留守の浪士と合して335名となる。
4月4日 幕府は、佐竹、酒井(庄内)、大久保、相馬、松平の5藩に、市中警備方発令した。
4月9日 浪士組、偽浪士2名を斬り、これを米沢町に梟(きょう)首する。
4月10日 山岡鉄太郎、清河八郎、斎藤熊三郎、西恭助、横浜に至り、窪田千太郎を訪ねる。
4月13日 八郎遭難。
4月15日 浪士組幹部6名諸侯預かりとなり、浪士組壊滅。幕府、浪士組を新徴組と唱え替え、庄内藩に委任す。新徴組169名となる。
4月23日 新徴組組替え、半数がもちの木坂御用屋敷に移る。
5月4日 英夷もし兵端を開かば、新徴組ただちに芝新銭座に出動するよう、下命あり。
5月10日 長州、下関で外国船砲撃
5月14日 攘夷の戦争準備金、下賜せらる。
5月19日 世話役10名発表、ついで取締付18名の任命あり。
6月 松森胤保、庄内藩の支藩松山藩の家老となる。
6月末 剣術教授方9名、任命あり。
7月2日 薩英戦争
7月25日 水府組林要の葬儀行われる。
8月4日 山田、岩城、木村脱走事件。
8月9日 給金問題落着。
8月14日 天誅組決起
8月18日 八月十八日の政変(京都)。
9月12日 新徴組一同、神田橋屋敷に召し出され、編成替えの申し渡しあり。かつ小普請方伊賀者次席に召し抱えらる。
9月25日 藤本鉄石戦死。
10月11日 生野の乱
10月16日 小頭山本仙之助、組士大村達尾に斬らる。父の仇を討つと称するも誤解。
10月中旬 新徴組中の水戸藩脱藩者、山田一郎にそそのかされて多数脱走。
10月26日 庄内藩はじめ13藩に対し、幕府より市中見回りを努むべき旨達せらる。
10月29日 村上常右衛門等5名脱走。
11月1日 庄内藩は江戸中心部の取り締まり担当ゆえ、菅実秀の建言により、家中、給人の2,3男を上府せしめ、事に当たらせる方針決定。当時新徴組207名。
11月20日 新徴組を酒井家に一切委任、今後指揮命令より褒賞処罰にいたるまで庄内藩にて行うこと、支配以下の幕府派遣の諸役人を庄内藩士に換えること等達しがあった。
同日 小林登之助新徴組練兵教授方となる。
12月 菅実秀、家老松平権十郎と共に、江戸警備を命じられ出府。
12月16日 酒井吉之丞了恒、江戸詰めとなり、番頭に任じ20人扶持を給せらる。
12月26日 藩主忠篤、左衛門尉に任ぜられる。ついで中村定右衛門棒杭引き抜き事件あり。
元治元年(1864)
2月16日 安積五郎、伴林光平ら18名京都六角獄舎にて斬首。
2月28日 西郷吉之助 沖永良部島より鹿児島に戻る。
3月 新徴組227名となる。
3月27日 藤田小四郎が常陸筑波山にて挙兵。新徴組を脱退してそれに参加せる者が筑波勢新徴組と名乗る。
4月 幕府派遣の新徴組諸役人の転役終了。
4月15日 幕府、江戸取り締まりの賞与として、庄内藩に対し金2000両賜る。
5月3日 新徴組の役職が庄内藩家臣中から命じられる。
同日 新徴組総括松平権十郎、新徴組代表42名に対し、新しい覚悟について演説す。
6月5日 池田屋事変
6月11日 庄内藩士の浮浪の徒討伐の願、許可せらる。
7月10日 庄内藩士水野行蔵、牛込堀端にて捕縛。
7月19日 蛤御門の変(禁門の変)
7月26日 庄内藩、幕命を奉じ、長州藩麻布中屋敷を没収、新徴組50名参加。酒井吉之丞了恒その二ノ手隊長として事に従う。小林組30名参加。
8月2日 第1回長州征伐
8月5日 英・米・仏・蘭4国連合艦隊、下関海峡で長州藩と交戦(馬関戦争)。
8月19日 昨年来江戸市内取り締まり、および新徴組委任に尽力せるをもって、田川郡の公領27000石を手当として庄内藩に下賜。新徴組を庄内藩家臣同様に付与せらる。
8月21日 庄内藩に長州征伐将軍親征の御先鋒の幕命、新徴組に藩士の御先手の藩命あり。
9月 小林組が大砲組と改名され、庄内藩酒井家預かりとなる。
9月5日 もちの木坂御用屋敷に長屋30戸完成、標札通り引き移るよう達しあり。
9月6日 筑波勢元浪士宇都宮左衛門自決。
9月24日 常野の浮浪、府内に迫る勢いあり。ゆえに府内取り締まりに勤めるようとの趣旨にて、御先手御免となる。
10月17日 酒井吉之丞了恒、幕命により庄内藩の壮士を指揮して水戸浪士真田帆之助、岩名昌之進の2名を討ち取る。了恒は岩名を「腰車切落シ」に仆(たお)したが、自らも左膝に負傷、二針縫う。功を賞されて白鞘刀一腰と白銀三枚を賜る。
同月 了恒、江戸詰めを免じ、勤学の命を優賜されて帰郷。
11月5日 筑波勢力西恭助、相馬中村にて処刑。
11月11日 長州の3家老自刃。
11月15日 幕府より、庄内藩酒井家に二万七千石の下賜あり。
12月6日 筑波勢山田一郎、小塚原にて処刑。
12月16日 高杉晋作、下関で挙兵。
慶応元年(1865)
1月18日 「大砲組名前帳」できる。大砲組84名。
2月 新徴組、定員160名と決定。
3月 筑波勢、敦賀において352名斬首。三橋半六、国分新太郎等その中にあり。
4月15日 藩主酒井忠篤、江戸市中取り締まり一手に引き受け、昼夜巡邏(ら)のこと、命ぜらる。
5月 龍馬、長崎にて亀山社中を設立。
6月 もちの木坂御用屋敷、160戸完成。三笠町御用屋敷を引き払い、全員がもちの木坂御用屋敷に住居。
新徴組肝煎締役山口、山田に知行下され、肝煎、平組、次席の扶持金、扶持米の給付改訂せらる。
7月24日 新徴組 森村東之助乱心。
8月 新徴組小頭三村伊賀右衛門と組士馬場熊蔵と争闘す。
9月9日 三村、馬場両人切腹。
12月12日 新徴組六番組府内見回りの節、神田明神前において直参永島直之丞乱暴す。羽賀忠次、中村常右衛門、千葉雄太郎これを斬る。
12月26日 羽賀忠次、中村常右衛門、千葉雄太郎、切腹。
慶応2年(1866)
1月22日 薩長同盟が結ばれた。
1月24日 寺田屋事件
3月 龍馬、妻お龍と薩摩に新婚旅行。
6月 新徴組、鉄砲稽古を始める。
6月7日 第二次長州征伐。
6月2日 大砲組宇佐見三郎、玉井喜之助、吉川五郎作、横田辰之助が三河町壱丁目において同心五島録蔵を斬る。
7月20日 将軍家茂、死去。
8月21日 石原槌太郎自害。
10月3日 石原新作暗殺される。
10月29日 神田お玉ケ池十八横町の小林登之助一家、刺客に襲われ、登之助及び長男、三男斬られる。
11月26日 岩間清四郎発狂。
11月13日 大山庄大夫自殺。
12月5日 徳川慶喜15代将軍となる。
12月25日 孝明天皇死去。
慶応3年(1867)
4月23日 中村健次郎等盗賊を捕らえる。
いろは丸沈没事件起きる。
9月 片山喜間多、旗本某を謝らせる。
9月11日 丁卯事件により祖父酒井右京死を賜り、父丁明隠居、了恒家督を継ぎ家録1500石のうち700石を給せられる。
9月 菅実秀、江戸千住において不測の難にあい監禁される。同月中、禁を解かれ藩邸内に謹慎す。
10月 新徴組と歩兵隊との事件あり。
10月 岩倉、大久保、西郷の内議により、江戸攪(かく)乱を企て、伊牟田尚平、益満休之助、相楽総三を江戸に下す。
10月14日 大政奉還。
倒幕の密勅。
11月 山田貢、強盗の頭の伜小天狗を斬る。
11月10日 龍馬、永井玄蕃と接触を始める。
11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺(近江屋事件)
12月 菅実秀、幕命により、京阪地方の形勢視察に出向。随行藩士6名。
12月中旬 新徴組脱退高橋亘、野州出流山に騒動を起こして捕らえられ、斬られる。
12月9日 王政復古の大号令発せられる。
12月22日 薩邸浪士、新徴組屯所春日庵に発砲する。
12月23日 江戸城二の丸炎上。
同日 薩邸浪士、大砲組屯所吹貫亭に発砲する。
12月25日 庄内、松山外3藩、三田薩摩屋敷を焼き討ちす。新徴組は三田小山町薩州藩支藩佐士原藩邸を取り囲む。
同日 伊牟田尚平、相楽総三ら浪士組、薩摩藩船「翔鳳丸」で江戸脱出。
慶応4年(1868)
1月3日 鳥羽、伏見の戦い。
1月4日 水野行蔵(庄内藩の勤王家)獄中で毒殺。
1月8日 赤報隊成立(一番隊隊長 相楽総三)
1月23日 庄内藩江戸市中取り締まり廃止となる。
2月4日 藩主忠篤、大砲組を家臣にすることを請い、許される。大砲組を新整組と改名する。
2月8日 庄内藩に、府内取り締まりならびに大砲組付属云々の褒賞として、村山郡の天領74000石の収納を委任される。
2月20日 藩主忠篤、帰国のため出立。
2月26日 新徴組一,二番組、庄内入りのため出立。
2月27日 新徴組三,四番組同じく出立。
3月朔日(ついたち) 五,六番組同じく出立。
3月3日 赤報隊相楽総三、下諏訪磔田にて斬首。
3月4日 新整組野秋弥一右衛門の組、庄内入りのため江戸出立。
3月15日 新徴組一番組湯田川温泉到着。引き続き20日まで毎日1組ずつ六番組まで、この地に到着する。
3月19日 奥羽鎮撫軍が松島に上陸、仙台に入る。
3月24日 新整組野秋弥一右衛門等、鶴岡に到着、城内に泊まる。
3月25日 新整組第一、二班、湯野浜温泉に移る。野秋組は油屋新五郎方に入る。
4月2日 庄内藩追討の令が出る。
4月6日 前幕府勘定奉行小栗上野介、上州権田村にて斬首。
4月11日 江戸城開城。
4月17日 奥羽鎮撫軍沢為量(ためかず)副総督一行が山形城下に入る。
4月19日 庄内藩国境に兵を派し、これを守らしむ。新徴組戦時編制完了。
4月24日 官軍清川口を急襲す。酒井了恒、組持番頭として応援出征し、引き続き天童攻めに従う。
4月25日 新撰組局長近藤勇、江戸板橋にて斬首。
閏4月4日 庄内兵、天童城を攻略する。
閏4月19日 奥羽列藩同盟成立。
閏4月20日 総督府下参謀世良修蔵、仙台藩有志のため福島において斬られた。
閏4月28日 新徴組一番隊木の沢越え。
5月1日 新徴組一番隊肘折に駐屯。
5月5日 新徴組一番隊肘折出立。鶴岡に帰る。
5月15日 酒井了恒、鶴ケ岡に帰陣。これより先、米沢に赴き、奥羽諸藩の動向を探る。
5月15日 上野の彰義隊に大村益次郎率いる新政府軍が総攻撃を行う。
5月22日 益満休之助、上野にて死亡。
5月26日 石原美和、新整組取り扱いを命ぜられ、朝比奈長十郎と交代する。
5月30日 沖田総司、療養先の千駄ケ谷にて病死。
6月 酒井了恒、中老となる。新整組は新編制により新整隊となる。
6月18日 天童藩家老吉田大八、天童小路の観月庵で切腹。
7月4日 秋田藩士が、仙台藩の使節一行を惨殺。
7月6日 酒井了恒、第二番大隊長となり鶴岡を進発、新庄、秋田を攻め、連戦常に勝つ。
7月11日 新整隊、三番大隊応援の命を受け鶴ケ岡出立。
7月12日 新整隊、吹浦に到着、直ちに陣地配置完了する。
7月14日 一、二番大隊新庄城を攻略する。
7月16日 新徴組は清川を経て新庄攻略に向かったが、新庄すでに陥落すると聞き、さらに吹浦救援の命を受け、引き返して酒田にいたる。
7月19日 本間群兵衛、酒田にて毒殺される。
7月21日 新徴組の所属する四番大隊が矢島城を攻略する方途について会議あり。
7月25日 庄内藩中老石原倉右衛門成知、新潟松ケ崎浜村にて太夫浜上陸の官軍(長州軍)と遭遇、戦死。
7月27日 新徴組が鳥海山登山、頂上に宿泊する。
7月28日 新徴組が鳥海山矢島口を下り、矢島城を攻略する。
8月5日 新徴組の一部、山田の戦いに参加。
同日 幅山の戦、激戦。新整組浦西東一郎、中村清一郎の二人討死。木村寅吉は負傷。
8月8日 新徴組矢島引き揚げ。
8月11日 横手城落城。
8月14日 新徴組鶴岡を経て、湯田川温泉に帰る。
8月15日 新徴組小鍋口警備を命ぜられ、ただちに出立。
8月21日 新政府軍、会津国境の母成峠を突破。
8月23日 新政府軍、会津城を包囲。城下に火を放ち、それを見た白虎隊士が自刃。
8月24日 四番大隊が雄物川を渡る。庄内兵は秋田兵を散々に蹴散らす。
8月26日 新徴組一番隊、中の峰、日本国山で戦う。岩間七郎戦死。
8月27日 若林宗兵衛、山熊田峠にて活躍。
明治元年-9月から(1868)
9月11日 四番大隊、椿川新城を陥れようとしたが、官軍は一夜にして南北一里余の胸壁を築き、多数の兵を配し、万全不敗の態勢ができていた。この日の新整石原隊の死傷者は16人。四番大隊は全面的撤退した。
9月12日 吉岡谷蔵、木立山にて活躍。
同日 関川に救援に向かった二番隊、地形不利のため苦戦。山田官司、水野令三郎、佐々木貞三郎の3名は負傷し、湯田川に後送せらる。(三名とも後に死去)
9月14日 上山藩、米沢藩降伏。一番、二番の両隊長、引き揚げを決意す。
9月16日 関川奪回戦。大内志津馬戦死。深更、一番、二番両大隊が撤退を開始する。
9月22日 会津藩降伏。
9月23日 藩主忠篤、罪を謝し降を乞う。
9月26日 官軍参謀黒田清隆、鶴岡に来り、藩校到道舘に入る。藩主忠篤、禅竜寺において謹慎。
9月27日 官軍、庄内に入る。西郷隆盛北越より酒田に至って上陸、鶴岡にはいる。
9月28日 新徴組、山五十川(やまいらがわ)に移る。庄内藩中の武器、ことごとく鶴ケ岡、亀ケ崎の両城に差し出すべき旨の通達あり。
9月29日 西郷隆盛、黒田清隆、新発田に出立。
同日 吹浦守備の三番大隊、帰鶴。酒田に軍務官と民政局を置き、軍国の政を行う。
10月10日 新徴組、湯田川温泉に帰る。
10月12日 庄内藩、17万石没収せらる。
12月7日 忠篤の弟忠宝、酒井家の家名をつぎ、12万石下賜。
12月24日 庄内藩に、会津若松転封の命が下る。
明治2年(1869)
1月 中老菅実秀東京にて黒田清隆を訪ね、庄内藩降伏の際の事情を聞く。
2月 御用金を士族はじめ、各組各村に割り当て。庄内2郡の百姓、転封阻止の直訴始める。
5月4日 庄内藩に若松転封見合わせの命あり。
5月20日 山形藩家老水野三郎右衛門元宣、山形長源寺にて刑死。27歳。
6月4日 酒井忠宝、磐城平に改めて転封命ぜられる。
6月5日 酒田本間家に対し、東京会計官より五万両の調達を申しつけられる。本間家では、これを八月から九月にかけて納入した。
同月 酒井忠宝、版籍奉還を許され、庄内藩知事となる。庄内藩兵制改革、1350名を備える。
7月19日 伊牟田尚平、京都にて斬首。
7月22日 平転封中止につき、庄内藩に70万両の献納命令あり。本間家はその中49500両を献金する。
7月22日 酒井了恒、大泉藩権大参事となる。
9月29日 庄内藩が大泉藩と改称する。
11月 農民のための税政改革運動である天狗騒動が始まる。
11月 新整組が湯野浜から鶴ケ岡に移転。
同月 庄内大凶作。公役、浮役免除、夫食米借入嘆願運動起こる。
明治3年(1870)
1月1日 椿佐一郎の妻死去。
2月 川北の百姓ら、天狗騒動を起こす。明治5年まで続く。
8月 隠居忠篤、親書を島津忠義、西郷隆盛に送って交誼を結ぶ。
9月 椿佐一郎、赤川舟上にて暗殺される。常備兵制改革の令あるも、大泉藩これに従わず。
10月 忠篤、藩士50名を率い、鹿児島留学。
同月 大宝寺村、道形村に新徴屋敷を賜う。
12月28日 雲井龍雄、小伝馬町牢屋敷にて斬首。小塚原で梟(きょう)首。27歳。
明治4年(1871)
3月 天野静一郎、強いて切腹する。
4月 菅実秀、初めて西郷隆盛に会う。清河八郎の父雷山没。
7月 廃藩置県。 大泉藩が大泉県になる。
7月14日 酒井了恒、廃藩置県に伴い大泉県権大参事となる。
8月 兵制改革により常備兵解散。大泉県開墾事業発表。
11月2日 第2次酒田県発足。参事松平親懐、権参事菅実秀。
明治5年(1872)
4月 士族隊六隊、盟約を結ぶ。ついで新徴組士、新整組士も同じく盟約を結ぶ。
同月 士族隊六隊、横内地区他二ヶ所の開墾を始める。
6月 開墾隊三十四組編成。
7月22日 新徴組、新整組八十余名脱走。
7月26日 山寺宿にて稲田隼雄自決。尾崎恭蔵捕えらる。
8月17日 後田山開墾鍬(くわ)初め。
10月7日 貢米取立法第二二二号により、田租も金納許可となる。
10月15日 後田山改め松ケ岡、開墾成る。この夜桂田寛吾切腹を強いられる。
明治6年(1873)
2月 27日 新徴組26名脱走。
3月 松ケ岡開墾士族騒動。脱走組、酒田県の非道私曲を司法省に告訴する。
4月17日 赤沢源弥他新徴組六名、酒田から東京鍛(たん)治橋監獄に送らる。
5月 金井質直、本多充釐(いんり)「県官奸悪十カ条」を司法省に提訴。(ワッパ事件)
7月 司法省より早川判事派出、開墾士族捕縛、拘留、県官士族十数名有罪。
8月19日 酒田臨時裁判所にて新徴組裁判の公判始まる。
10月23日 西郷隆盛、職を辞し、鹿児島へ帰る。
11月27日 松平参事、貢米は港で受け取るまでは民費に課すことを戸長に口達。
明治7年(1874)
1月 山浜通の百姓、石代勝手を県庁に嘆願。
2月22日 佐藤八郎兵衛、白幡五右衛門、富樫勘助、斎藤甚助、渡会重兵衛ら捕縛、投獄される。
3月28日 本多允釐(いんり)、農民四名、木戸孝允に嘆願。
3月 新徴組裁判判決申し渡し。
4月23日 上清水村外十五か村石代納の顛末を、松平参事、内務省へ上申。
6月2日 松平参事、石代納一件について内務卿大久保利通へ報告書提出。
7月6日 金井質直、内務省に五右衛門らの釈放を訴える。
7月15日 内務少丞松平正直、取り調べ判決。入牢中の百姓を釈放。
7月 金井県を秘密裏に作る。本拠は上清水村隆安寺。戸長、肝煎に諸帳簿公開を要求。
8月1日 黒川村春日神社、田川村八幡神社などで百姓大集会、石代会社設立案を提示。
8月7日 酒田県石代納一件について、県庁より内務省へ上申。
8月16日 帳簿公開要求激化。海老島村伊藤戸長、割腹自殺。
9月9日 県は太政官から臨機処分の権限を受け、大検挙に着手。開墾士族を含め千名を臨時守卒捕吏とす。
9月10日 菅実秀、内務卿伊藤博文へ騒擾(そうじょう)鎮静後の処分について届け出る。
9月12日 池田徳太郎、青森県権令在職中に死亡。
9月 百姓大挙して蜂起。入牢者放免を叫ぶ。惨殺される者も出る。剣持寅蔵、大友宗兵衛、森藤右衛門、白幡五右衛門ら、次々に上京。
10月3日 松平参事、内務卿伊藤博文へ農民騒擾鎮静の報告書提出。
10月9日 森藤右衛門 、左院へ県治の儀について建白。
10月10日 金井質直、司法省へ出訴。かえって拘留さる。上京中の百姓たちも捕縛、12月に県へ護送されれんごく繋獄(けいごく)。
11月 菅実秀、酒田県権大参事を退職する。
10月3日 酒井了恒、勝山重良とともに玄武丸に乗り組み、調所廣丈ら間使の一員として清国へ向かう。
12月16日 三島通庸、酒田県令となり赴任。参事松平親懐留任。
明治8年(1875)
1月8日 三島県令、一揆の検挙をいっそう強行するよう各区長戸長へ通達。
1月17日 森藤右衛門、三島県令へ申し立て。同様のこと、24日には内務省出張、林茂平に訴える。
3月 松平参事、 戸長以下取り扱い不都合につき進退伺い。
4月7日 百姓代表五名警視庁へ嘆願、受理されず。
5月5日 森藤右衛門、酒田県を被告として、県官曲屁圧政を司法省へ訴える。
5月12日 森藤右衛門、元老院へ申し立て。建白書「報知新聞」に掲載。
6月7日 「東京日日新聞」に森藤右衛門の投書掲載。松平参事狼狽。
6月20日 訴願すべて却下され、万策尽きた百姓代表帰県。
7月15日 松平参事、長文十か条の弁明書を元老院へ提出。
8月1日 地租改正につき、大蔵省の測量士、村々を測量す。
8月31日 酒田県を廃し、鶴岡県を置く。庁舎は旧致道舘として9月13日移転。
10月3日 元老院権大書記官沼間守一 出張。大昌寺において裁判を開設。
12月5日 森藤右衛門、匿名で「曙報知新聞」に三島県令の遊蕩ぶりを投書、掲載さる。
この年鶴岡城解体。
明治9年(1876)
2月5日 酒井了恒、死亡(33歳)。
2月24日 森藤右衛門、明治6年以来の県治について申し立て。
3月2日 児島惟謙 五等判事、鶴岡出張を命ぜらる。児島来たるとの報に旧藩士激昂。
4月27日 児島判事来鶴。花畑御殿において臨時裁判所開設。
6月26日 鶴岡朝賜学校竣工。
8月20日 帰京後判決するといって、臨時裁判所を閉鎖。
8月21日 鶴岡県、置賜県廃止され、山形県に合併。県令三島通庸 。
9月19日 太政大臣三条実美、参議山県有朋、伊藤博文の一行、朝賜学校視察。本間光輝、金盃三つ重ね一組、明治天皇に贈る。
明治10年(1877)
1月7日 金井質直と百姓代表上京、判決の催促。
2月 西南戦争起こる。
4月 開墾士族ら鹿児島暴徒に応ずるの形跡ありと、山形県は仙台鎮台兵二個中隊を鶴岡に招く。士族は菅の一喝で安定。
9月24日 西郷隆盛城山にて自決。西南の役終了。
10月22日 大友宗兵衛上京。判決の催促。
この年から、庄内の租税悉(ことごと)く金納となる。
明治11年(1878)
6月3日 鶴岡県出張臨時裁判所にてワッパ事件判決申し渡しあり(児島惟謙 の判決)。農民の勝利となる。
6月11日 松平親懐、禁獄235日に処さる。
明治14年(1881)
10月3日 原告大友宗兵衛、被告森藤右衛門裁判(経費分配争い)判決。
森藤右衛門、庄内最初の新聞「両羽新聞」発行。17年廃刊。
明治16年(1883)
3月 この月より3回にわたって、石坂周造が清河八郎顕彰の上申書を岩倉具視に提出。
明治18年(1885)
9月16日 森藤右衛門、県会議員として山形市の旅館で没す。44歳。
明治19年(1886)
2月5日 本多充釐(いんり)、福島県警察部長として在職中に死亡。
明治21年(1888)
三島通庸、警視総監を経、子爵正三位勲二等。この年没す。
明治25年(1892)
4月3日、松森胤保(68歳)、没す。
明治32年(1899)
9月 石坂周造、石油採掘事業成功。
明治41年(1908)
9月9日 清河八郎に特旨をもって正四位を贈らる。
明治42年(1909)
2月6日 旧新徴士会主催「清河八郎贈位報告祭」挙行。
明治44年(1911)
4月15日 旧新徴士会主催「回天唱始正四位清川八郎五十年祭」挙行。
明治45年(1912)
5月30日 清川にて「清河八郎五十年祭」開催。
大正5年(1916)
5月1日 中村紫明筆「清河八郎遺像」完成。
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参考文献
1)小山松勝一郎、清河八郎 新人物往来社 昭和49年
2)小山松勝一郎, 新徴組 国書刊行会 昭和51年
3)小山松勝一郎、山崎利盛, 庄内藩新整組 十万苑 昭和61年
4)加藤省一郎,臥牛 菅實秀 致道博物館 平成2年
5)坂本守正, 酒井玄蕃の明治 荘内人物史研究会 昭和57年
6)佐藤三郎, 庄内藩酒井家 東洋書院 平成3年
7)佐藤三郎, 酒田の本間家 中央書院 1972年
8)佐藤三郎、酒田の歴史 東洋書院 昭和59年
9)佐藤治助, ワッパ一揆 東北農民の維新史 三省堂 昭和50年
10)佐藤治助、自由民権の先駆者 森藤右衛門 鶴岡書店 平成14年
11)佐藤誠朗、ワッパ騒動と自由民権 校倉書房 1981年
12)磯田道史、龍馬史 文藝春秋 2010年
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Masaharu Amagasa 2007.4〜