学生有志1

投稿日: 2016/04/07 8:06:02

北村諒(政策創造学部・卒業生)

安全保障関連法が可決されて半年がたった。

可決されてしまったからこそ、私たちがあの敗北から何を得ることができるか考えたい。

安全保障関連法案には多くの人が反対した。立憲主義の冒涜、アベ政治を許さない、戦争のできる国造り反対、「民主主義ってなんだ」・・・さまざまな「コトバ」が生まれた。しかし、どれもしっくりこない。そのように表現することによって、何か忘れられているものはないだろうか。

それは「(安全保障関連法に反対する)多くの人」と言われた一人一人が、何を考えたか、ということである。一人一人は間違いなく、この国が戦争をする国になるかもしれないという事実と向き合わされ、「私たちはどんな国で、どのように生きていきたいのか」ということを考えたはずだ。

私も、どのように生きていきたいのかを考えさせられた。私は「いまの日常」を守りたいわけではない。いまが平和だとも思えない。戦後70年間が平和だったとも言うこともできない。

そもそも平和とはなんだろうか。沖縄に基地があっても、平和なのだろうか。働きすぎて斃れる人たちによってつくられた「豊かな日本」は、平和なのだろうか。原発を貧しい地域につくり、被爆をいたるところで強要しても、平和なのだろうか。他国を侵略したということを忘れて、その原因を自ら問い直すことをしないままに、「仕方のないことだった」と繰り返し、金を払うことが平和なのか?

そして、それらを無視しておくる「幸せな日常」は、平和と感じられるのだろうか。

改めて言いたい。平和とはなんだろうか。

それは残念ながら、まだわからない。なぜなら私たちは「戦争がない」状態を知っていても、「戦争を必要としない、戦争を欲しない」世界を知らないから。戦争を必要とする社会だからこそ、あのような強行採決が国会内で演じられているのだ。戦争を求める人がいるから、安倍晋三氏は総理の椅子に座っているのだ。

私は、まだわからないからこそつくりたい。私たちの考える、平和で安心して生きていける社会を。そのような社会をつくる為には、一人一人の思いを繋げて、「私たちの思い」にしていくことが絶対に必要なはずだ。

共に考えよう、学ぼう、そして呼びかけよう。そのような実践は、いまは非常に地味で、目立たない、意味がないと思えることかもしれない。けれども、本当に私たちの国が(言い換えれば私たちが)戦争をするという局面は、このままいけば必ず訪れる。戦争に直面したときに私たちが殺されないために、そして何より殺さないために、「共に考える」という実践は、いま向き合うべきことだと思えてならないのだ。