邪馬台国の所在に関する考察

2015年11月14日

サマリー

邪馬台国の卑弥呼が親魏倭王とし君臨していた弥生時代の末期、奈良県桜井市の三輪山のふもとに、飛鳥時代の都城に匹敵するほど大規模で計画的な集落が築かれていた。その遺跡(纒向遺跡)を邪馬台国の痕跡と見なす人々もいるが、魏志倭人伝とその遺跡の出土品を矛盾なく結び付けると、その遺跡を邪馬台国を攻略した南方の大国である狗奴国の痕跡と見なさざるを得ない。したがって邪馬台国の痕跡は三輪山より北方の地に探し求められる。

三輪山は、動物霊の白蛇を主祭神とした大神(おおみわ)神社の御神体である。一方で京都の稲荷山は、動物霊のキツネを主祭神とした伏見稲荷大社の御神体である。いずれも日本古来の精霊信仰の原型を継承している。これらは日本で最古級のヤシロの特徴をもつ。

三輪山より北方で、シャーマンである卑弥呼が30あまりの諸国の君主として君臨できる神聖な場所は、伏見稲荷大社をのぞいて探し求めることはできない。すなわち邪馬台国は京都伏見にあった

邪馬台国の行政機関(=大規模な都城の遺跡)は、伏見稲荷山から南2kmの丘陵地である伏見桃山に求められるだろう。そこは淀川、木津川、桂川、宇治川の交わる沼沢地であった巨椋池に面していて水運の便がよいにもかかわらず、高台のために水害にあわない。また高台のために京都盆地を一望できるために防衛上でも利点がある。実際に、豊臣秀吉はそこに伏見城を築いて居城にしていた。伏見桃山に邪馬台国の遺跡が眠っていると思われるが、その丘陵地の高台の大半は、すでに明治天皇伏見桃山陵に占有されて久しい。

日本列島に定住した日本人の歴史の8割は、1万年以上も続いた縄文時代である。狩猟採集生活と縄文土器を組みわせた文化である縄文時代は、長期にわたる持続可能な文化の実現可能性を立証したのちに、約3,000年前から約2,600年前ころにかけて、米作と弥生土器、鉄器、青銅器の組みわせた文化である弥生時代に切り替わった。

この日本の大きな節目となる約3,000年前は、中国でも一つの節目の時期にあった。このころ、殷墟(河南省安陽市)に首都をおく商王朝(=殷王朝)が滅び、西安市(かつての長安)付近に首都をおく周王朝がおこる。商と周との劇的な違いの一つは漢字の利用方法にある。商は、漢字を内密に開発し、それを神聖文字(ヒエログリフ)として使用した。その使用は祭祀や占いの利用に限定され、王を含む神官のみがその読み書きを許された。逆に周は、漢字を意思伝達のツールとして積極的に用いるべく、漢字の存在を広く世間に知らしめた。この命令伝達手法の切り替えにより、周は、その版図を殷のものよりも遥かに広い地域に押し拡げることに役立てた。

表意文字である漢字を用いた中国の古典は、高校で習う漢文の技法さえ理解していれば、漢字文化圏の一員である日本人ならば、誰でも解読に取り組める。これは表音文字で書かれた西洋の古典ではありえない。よほどの高度なトレーニングを積んだ人でもなければ、エジプトやギリシャの古典を原文では読めない。原文に接しなければ、著者のニュアンスを直接に汲み取れない。表音文字であるハングル文字に切り替えて漢字を敬遠した朝鮮半島の人々は、中国の古典との交流を遠慮したことになる。朝鮮半島の人々の知から、中国の古典が切り離されたとも言える。

商から周に革命した際に、商の遺民の一派は周王室の家臣となり、宋という諸侯国を分け与えられた。別の一派は朝鮮半島で箕子朝鮮という新国家を建国した。朝鮮半島へは、殷王朝の首都である殷墟から1,000kmもの距離がある。朝鮮半島南東部から対馬と壱岐をへて北九州にむかう距離(約200km)の5倍である。朝鮮半島にたどりついた後に、さらに北九州にまで、ちょいと足を延ばすことは不自然とは言えない。約3000年前に日本の一部地域に弥生人が到来したことと、同時期に商が崩壊したことには、密接な関係性がありそうだ。

日本列島での弥生時代から縄文時代への切り替わりは、ただちに起きたわけではない。これは、朝鮮半島から日本列島に大挙して移り住む必要のあるほど、朝鮮半島が居心地の悪い地域ではなかったことが理由にある。箕子朝鮮が朝鮮半島で存続した3,000〜2,000年前のころ、ゆるやかに海水面が下降する時期にあった。川の堆積作用によって浅瀬が水平な湿地に変わっていくために、黄海に面した半島西部では水田に適した土地を見つけやすい。同じことは、北九州沿岸、有明海沿岸、瀬戸内海沿岸でも言える。地元で開墾すべき土地をいくらでも見つけられる人が、わざわざ他地域を侵略しようとは思わない。

前漢の高祖劉邦(紀元前256-紀元前195)は、中国を統一したのちに、側近の粛清を行なった。「狡兎死して走狗烹らる」のことわざのように、天下統一を終えると勇猛な武将たちは廃棄処分となる。この粛清の余波が、朝鮮半島にも及ぶ。現在の北京のあたりの燕国を支配する諸侯であった盧綰(ろわん;紀元前247-紀元前194)は、自分が粛清の対象となっていることを自覚して、北方の匈奴に亡命した。盧綰の部下は、朝鮮半島に逃れて、そこで衛氏朝鮮(紀元前195-紀元前108)を建国する。

箕子朝鮮から衛氏朝鮮に切り替わる紀元前2世紀ころ、太宰府と博多の中間地点にある福岡県春日市の須玖タカウタ遺跡で青銅鏡の生産が始まる。朝鮮半島から日本列島に高度な金属加工の技術者が九州北部に渡ったようだ。政権交代によって朝鮮半島でリストラされた技術者が、九州北部の国で再雇用されたのかもしれない。博多はかつて那の津とよばれており、漢委奴国王印を後漢の光武帝からもらった奴国(なのくに)の所在地である。このころ、いち早く、奴国が青銅鏡生産の一つの拠点となったようだ。

高祖劉邦のひ孫である、前漢の武帝(紀元前156-紀元前87)は、朝鮮半島の直接的な支配を試みる。衛氏朝鮮をほろぼして、代わりに漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄莵郡)を半島に設置する。漢四郡は、朝鮮半島の北半分を管理していたが、南半分にまで支配を広げられなかったようだ。朝鮮半島南部には、のちの馬韓・弁韓・辰韓の三韓で総称される小国連合が、紀元1世紀頃から出現しはじめる。朝鮮半島の付け根部分では、紀元前1世紀にその地域に住むワイ族(=穢貊)が高句麗という国を建国する。

紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて九州北部、瀬戸内海沿岸、大阪湾と紀伊水道沿岸では、集落が高台に築かれるようになる:高地性集落。海賊が横行したことに対する防衛策の一つであろう。鬼ヶ島伝説の起源は、この時期に求められる。

海賊が横行すると海運を介した交易がしづらくなる。海賊への抑止力として桃太郎は重宝する。ただ桃太郎を、イヌ、キジ、サルとあそぶ風来坊のままにしていては、いつかは姿をくらます。桃太郎にしかるべき官職を与えて、その官職を瀬戸内海の治安維持のための警察権の根拠とすべきである。中国の皇帝に倭国王と認められた人が、桃太郎に相応の地位を叙任すれば、多くの人が桃太郎のその権威を認めやすい。そして、桃太郎の存在そのものが、海賊への抑止力になる。そこで、とりあえず代表して博多の奴国(なのくに)の王が、漢王朝に朝貢団を派遣して、初代の倭国王に就任した。

奴国からの朝貢団をもてなした漢王朝のホストは、後漢の初代皇帝である光武帝であった。57年、光武帝は奴国に漢委奴国王印の金印を授けた。その50年後の107年、倭国王帥升が、ふたたび漢に朝貢して、生口160人を差し出している。

隣の港町の人々が海賊行為を仕掛けてきたら、報復のために、その隣町を闇討ちすればよい。このような報復を避けるため、海賊たちの母港は、簒奪の対象とすべき港町から遥かに遠いほうがよい。室町時代に中国と朝鮮半島を襲った海賊たちの母港は、日本であった:倭寇。弥生時代の高地性集落の建設を誘発させた海賊もまた、海外に出自をもつ人々の手によるものかもしれない。警察権の曖昧な地域に交易にやってきた外国人が、手のひらを返して、略奪活動に手を染めることは起こりえる。赤ら顔で高い鼻をもつ典型的な鬼のイメージは、外国人による海賊活動の痕跡かもしれない。

紀元前3世紀から紀元2世紀のころ、中国東北部から中央アジアにかけての草原地帯を匈奴と鮮卑の遊牧民たちがそれぞれ支配していた。彼ら遊牧民たちは、チンギス・ハーンのモンゴル帝国のように東洋と西洋を往来できた。イスラエルのイエス・キリストが、十字架にかけられても生き延びて、放浪の末に日本にたどり着いたという説がある。驚異的な生命力でもって処刑による怪我から回復したとする神がかり的な前提条件をパスすれば、その放浪は現実的である。

まず、ローマ帝国内の街道を通ってコーカサス地方にあるアルメニアまで歩く。アルメニアは、301年に世界で始めてキリスト教を国教に定めた国家である。イエス・キリストの存命時から、キリストのパトロンがアルメニアに根を下ろしていたのかもしれない。

アルメニアはコーカサス山脈の南にある。山脈を越えると、黒海沿岸の草原地帯が広がる。そこは遊牧民の世界である。遊牧民には、イラン系、トルコ系、モンゴル系、満州系と複数の系統が混在しており、時として国家を建設して大帝国を築くこともあるが、平時では、交易の儲けを共有する仲間である。

イエス・キリストの存命した紀元1世紀は、5世紀のフン族のアッティラによるヨーロッパ征服が起こる遥かに前であり、東西の交易回廊は開かれていた。イエス・キリストが遊牧民の助けを借りて、コーカサスから中国東北部に行き、交易商人たちとともに朝鮮半島から日本へ向かうことは、現実的に起こりうる話である。

倭国王は、外国人による海賊対策のための桃太郎の任命だけでなく、諸外国から交易に訪れる人々のホストも務める。交易をすれば利潤を得られる。それに対して不平不満をつのらせる分子は必ず現れる。倭国王の特権が周知されれば、人々は倭国王の地位をめぐって対立や反発を企てるようになる。後漢書によれば、後漢の衰退期である桓帝および霊帝の治世する146-189年の間に、日本列島で倭国大乱とよばれる内戦状態に至った。

魏志倭人伝によれば、シャーマンである女王の卑弥呼が立つと大乱はおさまったとある。卑弥呼は50年近くも治安を維持した。卑弥呼は一人の女性とされているが、魏志倭人伝では、誰もその姿を見ることはないと伝えている。琉球王朝の聞得大君(キコエのオオキミ)のように、多数の女官を従えた一大組織であったのかもしれない。

聞得大君には琉球神道という軸の上に立脚する。シャーマンは、独自の自然観や哲学にもとづいて成立しており、安易なオカルトではない。北九州から瀬戸内海までの制海権をにぎる卑弥呼もまた、何らかの由緒ある伝統にもとづいたシャーマンなのだろう。すなわち、人々が卑弥呼をトップに頂いたのは、卑弥呼本人への人気というよりも、むしろ卑弥呼の仕える神への人気が絶大であったことがうかがえる。人間の心を狂気に駆り立てるのも宗教であれば、人間の心を冷静に落ち着かせるのも宗教である。

瀬戸内海および九州北部の諸国は卑弥呼に臣従して、倭国王として推戴した。この結果、中国への朝貢を再開できるほどに海上の治安が安定した。ただ、卑弥呼が直接的におさめる邪馬台国のすぐ南方には、邪馬台国に服従しない国があった。男王のおさめる狗奴国である。

ちょうど卑弥呼の活躍していたころ、飛鳥時代の藤原京に匹敵するほどの広大な都市が奈良県の三輪山のふもとに作られている。纒向遺跡である。纒向遺跡は奇妙なことに、そこから出土する土器の半分は伊勢・東海地方でつくられていた。のこる2割弱が、北陸・山陰地方である。近隣地域である河内や近江ものもあるが、圧倒的に数が少ない。

土器の出自の割合には偏りがあるもの、供給元となる地域は、関東、東海、近畿、吉備、西部瀬戸内海と多種多様である。したがって纒向遺跡が諸国連合の一大センターとしての特徴を満たしていることには、疑いをはさむ余地はない。広大な都市の規模と広域の交易圏の組み合わせから、纒向遺跡を、一大連合国家の領袖である邪馬台国の首都とみなす発想が生まれるのは当然である。ただ、この仮説には以下の2つの難点がある。

(1)もし纒向遺跡が邪馬台国ならば、その支配下にある国である対馬、壱岐(一支国)、長崎県松浦市(末盧国)、福岡県糸島市(伊都国)、博多(奴国)、福岡県宇美市(不弥国)、広島県福山市鞆地区(投馬国)に由来する土器が大多数を占めていても不自然ではない。しかし実際のところ、伊勢・東海系や、北陸・山陰系の割合に比べれば、西部瀬戸内海、吉備、播磨、河内のそれぞれは微々たるものである。

(2)もし纒向遺跡が邪馬台国であるとすれば、そこより南方の敵対勢力である狗奴国の所在をどこに求めればよいのだろうか。纒向遺跡より南方は紀伊山地であり、大人数を養えるような土地はない。南方と東方を取り違えたとして、狗奴国を伊勢・東海地方としても、搬入土器の出身地割合からみて、あきらかに伊勢・東海地方の人々は纒向に対して協力的である。したがって南方にも東方にも敵対勢力を見出せない。

むしろ逆に、纒向遺跡を邪馬台国に敵対した狗奴国と捉えるほうが妥当である。纒向遺跡より北方には、京都盆地がある。纒向は大和川流域であるのに対して、京都盆地は淀川流域であり、双方の下流域である大阪平野の取り扱いを曖昧にしておけば、お互いが水運で競合することはない。さらに現在の奈良市あたりを緩衝地として利用できるので、南北の敵対勢力が並立しても、直接的な衝突を避けやすい。

纒向遺跡の近くには三輪山がある。三輪山をご神体とする大神(おおみわ)神社は古事記に記載があるほど古く、現在でも多くの人々に崇敬されている。白い蛇をトーテムとしているため、大神神社で鶏卵をお供えする人もいる。今なお、精霊崇拝の伝統を残している。

三輪山と同じくらいに古い神社が京都盆地にもある。その神社は、現在、大神神社よりもはるかに多くの人に崇拝されており、外国人観光客の訪問地として第1位の人気を誇っている。すなわち伏見稲荷大社である。この神社もまた稲荷山をご神体としており、キツネをトーテムとしている。精霊崇拝の伝統を色濃く継承している。

以上をまとめると、邪馬台国 vs 狗奴国の対立は、伏見稲荷山の女性神官集団 vs. 三輪山の男性神官の対立と捉えられる。近畿と瀬戸内海沿岸の人々は、交易や商売の実益を祈願して稲荷山にお参りにいく。一方で、伊勢・東海および北陸・山陰の人々は、三輪山と大和三山の威容に敬意をはらう。

三輪山の山頂から纒向遺跡まで2kmほど離れているように、稲荷山から邪馬台国の本拠地も2kmほど離れているとすれば、邪馬台国の首都は、伏見桃山に求められる。伏見桃山は、伏見稲荷山から南に2kmほどのところにある丘陵地である。その丘陵地から南西方向のところに巨椋池(おぐらいけ)とよばれる巨大な沼地があり、宇治川、木津川、桂川、鴨川の水を集めていた。この池から淀川が流れ出て大阪平野に注ぎ込む。伏見桃山は水運に便利であるが、丘陵地のために水害にあわない。また、その丘陵地は京都盆地に突き出た格好になっているので、そこから京都盆地を一望でき、京都盆地内への敵の侵入やその動向を察知しやすい。連合国家の中心地としてふさわしい適地である。

このために安土桃山時代の天下人(てんかびと)である豊臣秀吉は、伏見桃山に伏見城を築城して居住していた。豊臣秀吉だけではなく、桓武天皇と明治天皇もその立地条件のよさを認めており、そこに陵墓を築いている。とくに明治天皇伏見桃山陵の規模は広大であり、丘陵地南方の大半を占有している。遺跡はその陵墓の下に眠っている可能性がある。さしあたり陵墓を荒らすことは許されない。遺跡を発掘するためには、天皇制が廃止されて、皇室がその私有財産を放棄するまで待たなければならない。

魏志倭人伝によれば、邪馬台国は狗奴国からの襲来に脅かされており、卑弥呼が亡くなると、狗奴国の男性の王が倭王の地位を事実上掌握したようだ。前述のように卑弥呼が琉球王朝の聞得大君(キコエのオオキミ)のような一大組織であれば、卑弥呼の死とは、トップの女性とともに多数の女性神官も巻き添えに殺されたことを意味する。仮に、トップの女性のみが死亡したのであれば、サブの女性が卑弥呼を継承することになる。そもそも卑弥呼は誰の目にも触れない貴人であるために、この継承は秘密裏に行える。したがって卑弥呼の死とは、組織の死を意味する。

多くの日本列島の人々は、狗奴国のクーデターの正当性を認めなかったようで、狗奴国の王は倭王として信認されなかった。そこで、邪馬台国の若い女性である台与(とよ)が倭王として君臨した。ただ、台与がいかにして倭国を経営したのかは史料がない。台与が君臨してから150年間ほど、中国の史書に日本に関する記載がない。

記載が途切れる3世紀後半には纒向遺跡の近くに、日本で最古級の前方後円墳である箸墓古墳が作られる。埴輪があり、環濠があり、長さ278m、高さ30mのとても立派な古墳である。それと同時期に、箸墓古墳とまったく同じ形態で3分の1のサイズのものが京都府向日市(むこうし)に作られる。五塚原(いつかはら)古墳である。向日市は、伏見稲荷山と伏見桃山を京都市伏見区に対して、桂川をはさんで西側にある丘陵地である。伏見の向かい側にあるので、向日(むこう)という呼び名がついたのかもしれない。

向日市から北西の老ノ坂峠を越えれば亀岡盆地に入る。そこから山陰地方を横断する山陰道が伸びているし、そこから北に向かえば宮津と舞鶴の港にも抜けられる。向日市は、北陸や山陰の人々が伏見や纒向に向かう際の重要な通過点となる。さらに、天王山や山崎にも近く、巨椋池から淀川に流れ出る水運を監視しやすい。この戦略上の利点から、桓武天皇は平城京に遷都するまえに、向日市からすぐ南の長岡京市に長岡京を建設して遷都している。

箸墓古墳と五塚原古墳の墳墓の形態の類似性から、纒向遺跡を本拠とする狗奴国が、向日市に新しい拠点を置いたことが示される。伏見の邪馬台国の人々が、瀬戸内海沿岸の連合国と連絡をとりあったり、連合国から物資の供給を受けたりする際には、山崎周辺の街道や水運を必ず利用せざるをえない。向日市の新拠点の人々は、山崎周辺で西国と伏見との往来を妨害しやすい。西国と伏見を往来できなければ、中国に朝貢団を派遣することは困難になる。朝貢団を派遣できなければ、倭国王の称号を手放さざるをえない。

いくら狗奴国が倭国の実権をにぎっていたとしても、中国の皇帝は、邪馬台国(あるいは、その後継組織)をさしおいて、狗奴国に倭国王の称号を授けられない。倭国王の系統を安易に変更することは、中国皇帝の血統を安易に変更することと同じ次元の話であり、基本的に許されない。したがって中国の歴史書から日本の記述が150年間抜け落ちているのは、邪馬台国(あるいは、その後継組織)が朝貢団を組織できないほど弱体化していたものの、細々とその独立を維持していたことを示唆する。

纒向遺跡近郊と向日市の前方後円墳は4世紀に全盛期をむかえるが、それ以降は作られなくなる。一方で台頭したのは、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と誉田御廟山古墳(応神天皇)に代表される大阪府の前方後円墳である。そして150年ぶりに倭王が中国の歴史書に現れる。いわゆる倭の五王である。この事由をのべた中国の王朝は、東晋、宋、南斉、梁であり、いずれも建康(現在の南京)を首都にしており、揚子江流域以南(華南)を支配していた。

当時の中国は五胡十六国時代とよばれており、匈奴、鮮卑、羯、氐(=チベット族)、羌(=チャン族)がそれぞれ王朝を立てていた。やがて鮮卑族の北魏によって華北(=黄河流域)が平定される。倭の五王は、この蛮族による王朝には朝貢せずに、建康を首都とした漢族による王朝に朝貢していた。よほどに中国の情勢に詳しかったために、どちらの王朝が正統であるかを峻別できたようだ。

倭の五王は中国名を有していた:讃王・珍王・済王・興王・武王。天武天皇以降の天皇もまた、持統・文武・元明・・・といったように中国名を名乗ったのだが、彼ら以外の飛鳥時代の君主(オオキミ)はみな中国名を持っていなかった。

倭の五王の最後の武王は、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣に刻まれている獲加多支鹵(ワカタケル)大王のことである。この鉄剣は471年の事績をのべている。武王が471年に実在したことを証拠づけており、中国の歴史書での倭の五王に関する記述が正確であることを裏付けている。武王ことワカタケル大王は、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文にも刻まれている。このころには、関東から九州まで倭王によって平定されていたことが明らかである。同じく関東と九州を平定したヤマトタケル伝説は、ワカタケル大王の事績をもとに脚色されたものかもしれない。

中国通であり、中国名をもつ倭の五王は、実のところ、中国人であったと考えられる。150年前の邪馬台国の台与が対狗奴国のために西晋に援軍を求めていた故事をもとに、西晋の後継である東晋の武将が、日本に渡航した可能性がある。邪馬台国の淀川と、狗奴国の大和川の双方の注ぎ込む大阪府に拠点をおき、両国を支配下にすえる。すなわち、神武東征のモデルとなった出来事が想起される。

神武東征では、神武天皇が大阪湾から河内に直接に侵入すると撃退されたので、わざわざ紀伊半島を南に回って熊野から奈良盆地に入ったことになっている。熊野のルートはあまりに悪路であり、進軍はままならない。集落がまばらなので、食糧の補給が途絶える。人口が少ないので、兵力を増強できない。このルートで奈良盆地の政権を倒すことは、まさしく神がかりである。

むしろ邪馬台国の後継者たちのいる京都・伏見に入ってから、かつての卑弥呼および台与の正統な後継者としての倭王の立場を継承する。十分に態勢を整えて、まず向日を破る。そして、京都盆地から大阪平野および播磨平野に抜ける道を確保する。かつての邪馬台国のように、北九州から瀬戸内海沿岸の諸国をたばねて、その兵を生駒山地の西部のなだらかな丘陵地に集結させる。生駒山地の森を密かに進軍し、奈良盆地の斑鳩付近にいたると、突如として圧倒的に大多数の兵力を大和川水系の河原に展開させて、三輪山のふもとの纒向を包囲して威嚇をして、無条件降伏を要求する。こちらの軍事作戦のほうが、はるかに現実的である。

神武東征の神話では新宮川〜熊野川水系と吉野川〜紀ノ川水系沿いにヤタガラスの導きで軍を進めたことになっているが、そのヤタガラスは京都鴨川の下鴨神社(賀茂御祖神社)では主祭神の賀茂建角身命(カモのタケツヌミのミコト)としてまつられている。現在も葵祭(あおいまつり)の神として親しまれている。当の熊野や吉野ではヤタガラスは神として祀られていない。

神武東征では、土蜘蛛(つちぐも)や長髄彦(ナガスネヒコ)が悪党として登場する。土蜘蛛は、脛(すね)が長いことから八握脛(ヤツカハギ)とも呼ばれている。すなわち、土蜘蛛も長髄彦のどちらも長い脚をもつ。土壌中に放線菌やキノコの菌糸が発生すると、まるで蜘蛛の巣のように見えることがある。このように土壌中で菌が活性化すれば、分解のすすんだ堆肥を手早く得られるので、農作物を育てる人にとっては都合が良い。土壌中の菌類を土蜘蛛と称して有り難がるのは、当たり前のことである。土蜘蛛や長髄彦は、もともと農耕の神として祀られていたのだろう。一方で、農耕に関わらない人にとっては、土壌微生物の重要性を理解できない。やがて、土着の知恵や風習に固執して、天皇の命令に従わない人を蔑視するために、土蜘蛛や長髄彦の表現が使われるようになる。後者のニュアンスのものが神武東征の神話で用いられている。

さらに脱線を繰り返すが、世界で一番巨大な生き物は、象・クジラ・セコイア杉ではない。アメリカのオレゴン州東部に生えているキノコ(Armillaria ostoyae)だそうだ。9.65km2にわたり菌糸をひろげている。この生物もまた、おそるべき土蜘蛛の一つである。

神武東征の神話は、敵対するグループの頭目であるニギハヤヒが神武天皇に帰順することで、平和裡に国譲りが行われる。ニギハヤヒを祭神とする神社は、大阪府東部と奈良県北部にかけて点在する。狗奴国(纒向+向日)の遺民には、これらの地域が分け与えられたのだろう。

ニギハヤヒが神武天皇に国を譲るシナリオは、大国主命が天津神に国を譲るシナリオとも絡んでいる。どちらも最終的には、平和的な解決された。

大国主命をまつる神社は、島根県の出雲大社、京都府の丹波国一宮の出雲大神宮、石川県の能登国一宮の気多大社、富山県の越中国一宮の気多神社、新潟県上越市の越後国一宮の居田神社が有名である。いずれも山陰および北陸きっての格式ある神社である。大国主命の人気は、北陸から山陰にかけて根強い。

纒向遺跡に隣接する三輪山を御神体とする奈良県の大神(おおみわ)神社は、主祭神を大物主神としている。大国主命の別名の一つが大物主命であるとする解釈もあるほど、大国主命と大物主命は類縁関係にある。このような背景もあり、山陰・北陸系の土器が纒向遺跡に搬入された土器の割合でナンバー2(17%)に入るほど、山陰・北陸の人々は纒向の建設に貢献した。

搬入された土器の割合でナンバー1(49%)の出自は、伊勢・東海系である。伊勢・東海にも大国主命を祭神とした古社がある:愛知県豊川市で三河国一宮である砥鹿神社、静岡県森町で遠江国一宮である小國神社。加えてニギハヤヒのものもある。ニギハヤヒは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテル、クニテル、ヒコホアカリ、クシタマ、ニギハヤヒのミコト)という正式名称がある。ニギハヤヒの別名の一つに、火明命(ホアカリのミコト)がある。愛知県一宮市にある尾張国一宮の真清田神社は、その天火明命(アメのホアカリのミコト)を主祭神にしている。

ここで、狗奴国=(纒向+向日)=(トーテムとしての白蛇+北陸と山陰の大国神→大物主→ニギハヤヒ)の構図が浮かび上がる。すなわち、古来より三輪山に祀られていた動物霊である白蛇と、北陸・山陰・東海でひろく崇拝されていた大国主命を習合させて、三輪山の大物主命とする。向日では大物主命が名を改めてニギハヤヒとなる。これら狗奴国の信仰は、現在でも、天神地祇のうちの地祇に相当する立場を守っている。

一方で、邪馬台国の稲荷神は地祇にすら成りきれていない。現人神(あらひとがみ)である天皇の由緒ある経緯をつづった日本の神話に、土壌微生物の驚異をものがたる土蜘蛛や、キツネの動物霊である稲荷神を入れ込むことは難しい。ただし、白蛇である大物主命の逸話は巧妙に入れ込まれている。

神話の裏付けはないものの、稲荷神の霊験のあらたかなことは、伏見稲荷の千本鳥居が絶えずに新陳代謝を続けているころから明らかである。稲荷神の加護を受けた人々は、天下人である豊臣秀吉、三井家当主の三井高富を含めて、貴賎上下を問わずにおびただしい。しかも、古代から現在まで綿々と続いている。

中国の皇帝が邪馬台国とその後継組織の正当性を認めていたために、狗奴国には倭国王としての地位が認められなかったものの、狗奴国が一時的に日本列島の覇者となったことは確からしい。纒向遺跡のすぐ近くの箸墓古墳で作られた前方後円墳は、日本全国にその価値が認められた。各地の土豪がみずからの権威を示すためのステータスとして前方後円墳を建設することになる。

狗奴国が列島の覇者になったのちに、日本語の統一事業を行ったことは確実だろう。列島のそれぞれで異なる言語が存在すると厄介であるし、征服者としての立場を明確にする上でも言語の統一は都合よい。同様の理由で、インドでは英語が共通語として定着した。

飛鳥時代まで鼎立していた百済、新羅、高句麗では言語がことなっていたようだ。百済と高句麗のものはワイ族(扶余)の系統であり似通っていたようだが、新羅のものは全くの別物であった。新羅による朝鮮半島の統一により、新羅語の系統のみが残り、現在の朝鮮・韓国語につながる。

日本語がトルコ語に似ていると指摘されている。このことが、トルコ人が日本人に愛着をもつ理由の一つとなっている。この類似性には、いろいろと議論もあるのだろうが、おおむね正しいと思える。この類似性の由来として、狗奴国の人々がトルコ系のグループに属していたことが考えられる。トルコ系の人々はもともとバイカル湖畔から中央アジアのあたりで放牧生活をする人々であった。狄、丁零、突厥、鉄勒といった名前で中国の歴史書にたびたび足跡を残している。これらは全てTurk(テュルク)を漢字で書きなおしたものである。その一派が日本列島にも入り込んだのだろう。日本とトルコは浅からぬ縁で結ばれている。トルコ共和国のトルコ語の表記はTürkiye Cumhuriyetiであり、これもTurkにちなんでいる。

アイヌ語で読み解くと日本の地名の意味を理解できると指摘する人々もいる。彼らの言う通りで、縄文時代から長らく、日本列島ではアイヌ語が使われていたのだろう。有名なところでは、新潟県胎内市のタイナイ(美しい川)がアイヌ語である。私は友達と「胎内めぐり」をしたくて、胎内市に観光に行ったことがあったが、いわゆる「胎内めぐり」らしき観光名所を見つけられなかった。

米国は英語が公用語であるが、米国の地名にはインディアン時代からの地名が踏襲されたものがある。たとえば、ニューヨーク州バッファロー市付近には、次のようなインディアンの地名がある:ナイアガラ(Niagara)、チークトワーガ(Cheektowaga)、トナワンダ(Tonawanda)。地名から過去の痕跡が見つかる場合もある。

ひとたび公用語が定まると、もはや後戻りはできない。これからも世界中の人々は、英語以外の国際公用語をあえて認めないだろう。たしかに国連で定める公用語には、中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、アラビア語がある。ただ、どの国際空港にいっても通用するのは、基本的に英語だけである。

狗奴国ののちに日本を統治した倭の五王は、日本の庶民に中国語を浸透させることはなかった。しかしながら、倭の五王の一人である武王(ワカタケルのオオキミ)の業績を記した鉄剣銘文(埼玉県の稲荷山古墳の出土品と熊本県の江田船山古墳の出土品)は、漢文で書かれている。時代がくだり、聖徳太子の十七条憲法も漢文である。行政に関する文章は、漢文に定まった。

さらに時代がくだり、京都の比叡山で天台宗を開宗した最澄は、漢文の読み書きには卓越していたのだが、中国語の会話をできなかった。中国に渡航する際には、通訳のために弟子である義真の助けを必要とした。20世紀末までの英語教育を受けた日本人も同様で、英文の読み書きをできても、英語を話せない。

倭の五王の到来を待ち焦がれていた邪馬台国の末裔たちは、倭の五王の政策を歓迎したことだろう。その政策の一つに、大阪府内の水田倍増計画があった。大阪府内には、草香江とよばれる広大な潟があった。そこには淀川と大和川が流入して大量の汽水が蓄えられていた。大阪湾の湾岸には南から北に向けて伸びる長大な砂州があったために、その汽水の排水は容易ではなかった。当時の中国人は、万里の長城を築けるほど土木工事にたけていた。淀川の流路を安定させて、草香江から大阪湾に迅速に排水できれば、草香江周辺で水田耕作地帯を増やせることは当然である。それをやってのけたのが、伝説の「難波の堀江」と「茨田の堤」の事業である。

倭の五王は草香江の南方に巨大な前方後円墳を築いていた:百舌鳥古墳群(大阪府堺市)、古市古墳群(大阪府羽曳野市、藤井寺市、およびその付近)。秦の始皇帝以来、中国の歴代皇帝は巨大な墳墓を築いている。したがって倭の五王もまた、みずからのために巨大な前方後円墳を築くことに、何ら違和感を持たなかったのだろう。

前方後円墳とは、その威容でもって人々を畏怖させるために権力者が築き上げるものである。したがって人里離れたところに前方後円墳を作っても意味がない。都市の近くに前方後円墳が築かれる。このために倭の五王の居住した集落は、かならず草香江の南方にあったと推察される。

中国歴史書での倭の五王に関する言及は、502年に武王が征東大将軍の位を与えられたことで終わっている。日本書紀では527年に九州北部で磐井の乱がおこったとある。6世紀には、輝かしい倭の五王の時代は終わり、内戦が散発する時期に入ったようだ。磐井の乱を鎮圧したのは、物部麁鹿火(モノノベのアラカビ)である。物部氏は草香江から南方の渋川(大阪府八尾市のJR八尾駅付近)に拠点を置いていた。物部氏以外には草香江の南方を支配する有力豪族はいなかったようだ。このことから物部氏が倭の五王の後継者であると推察される。

6世紀には仏教が朝鮮半島の百済国から日本に伝えられている。仏教の世界観では貪瞋痴の三毒を戒めている。「貪」は、貪欲のことで、他人のものを欲して、それを食い物にすることである。「瞋」は、怒りにまかせて後先の考えもなく突き進むことである。「痴」は、愚かさである。

巨大な前方後円墳の建造のために、多数の人民にタダ働きを強いることは、為政者の「貪」である。タダ働きに応じない人に刑罰を加えることは、為政者の「瞋」である。そのような強権がいつまで通用すると思うことは、為政者の「痴」である。したがって、前方後円墳の建造を強いる為政者は三毒に染まっている。

6世紀の日本への仏教公伝をへて、人々はふと我にかえり、巨大な前方後円墳を白けて見るようになったことだろう。同じ巨大土木事業でも、茨田堤や難波の堀江の建設は、食糧増産によって明らかに人々の暮らしを富ませる。一方で、前方後円墳の建設は、人々の暮らしを貧しくさせる。巨大な前方後円墳とは、為政者の権威を下々の人々に見せつけるために作られてきたが、それは悪徳である。このような噂が広まると、為政者への求心力が一気に減退する。

587年の丁未の乱をへて物部氏は、草香江の所領を突如として喪失する。丁未の乱は、蘇我馬子と聖徳太子と奈良盆地の人々 vs. 物部守屋と大阪平野の人々との戦いである。乱での敗戦ののちに、物部守屋の家人たちが草香江から東国の縁者を頼って落ち延びたことを示す痕跡がある。長野県の諏訪大社の南方には守屋山がある。その南麓に物部守屋神社がある。茨城県つくば市の筑波山神社は、筑波を開拓した物部氏が創建したという伝説がある。つくば市から筑波エキスプレスで快速で5分のところに守谷市がある。守谷=守屋かもしれない。すなわち、物部守屋の家人が筑波の物部氏をたよりにして、茨城県守谷市まで落ち延びたのかもしれない。

石見国一宮は、島根県太田市にある物部神社である。物部神社は、新潟・富山・山梨・愛知に点在する。物部氏の所領は、大阪府内だけでなく山陰・北陸と東海にも及んでいたようだ。この版図は、纒向の建設に協力的であった山陰・北陸と伊勢・東海の地域と重なる。狗奴国が倭の五王の家系に国を譲ったことは、その家系が狗奴国の宗教と所領を継承したことを意味する。事実上、狗奴国の遺民が倭の五王の家系を自勢力に取り込んだとも言える。勝ち負けは一筋縄ではない。「負けたもの勝ち」という状況もありうる。

草香江付近の物部氏の所領は、蘇我馬子と聖徳太子に山分けされたようだ。聖徳太子はその富でもって、草香江から西方の丘陵地に四天王寺を建てる。さらに東南に斑鳩宮を造営する。斑鳩宮と四天王寺の中間点が、物部守屋の居城のあった渋川である。渋川の富を北西と南東の両方向に引き裂いた形になった。

蘇我馬子や聖徳太子の片腕として働いたのが、京都盆地を支配していた秦河勝(ハタのカワカツ)である。秦氏は秦の始皇帝の末裔とする伝説がある。秦河勝は、京都太秦の広隆寺や蚕ノ社を作った人物でもあり、赤穂市の大避神社の主祭神としても祀られている。実際のところ、瀬戸内海で交易をしていた豪商のようだ。瀬戸内海と京都盆地の組み合わせは、邪馬台国のものと同じである。秦河勝は、かつての邪馬台国の流れを踏襲している。

640年頃に、蘇我馬子の子孫も聖徳太子の子孫も殺される。中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターが勃発して、大化の改新が断行される。首都が四天王寺のある丘陵地(=上町台地)の北辺にある難波宮におかれた。政治的な刷新が行われたとされるが、十七条憲法および官位十二階の聖徳太子の政策とさほど大差があるわけでもなく、斬新な刷新が行われたとは思われない。結局のところ、単なる権力闘争の一つであろう。

ただ、中大兄皇子と中臣鎌足の家系は、京都盆地の神に好まれる。中大兄王子のひ孫である桓武天皇は、平安京(=京都)を首都に定めて、その子孫は代々にわたり天皇の皇位を継承してきた。中臣鎌足の子孫は藤原氏として平安時代の権力者としての地位を確立して、直近の明治以降でも西条実美、西園寺公望、近衛文麿を輩出している。

端的にいえば、落ち目となった物部氏の当主である物部守屋が敗退して、その富が強奪されたのが、587年の丁未の乱である。この騒乱と似通ったものが、約1000年後に、ほぼ同じ場所で起こる。大阪の陣である。落ち目となった豊臣家の当主である豊臣秀頼が敗退して、かつての天下人である豊臣秀吉が貯め込んでいた富が、徳川家康とその下々のものたちによって強奪された。

現在の鉄筋コンクリート製の大阪城には、黒田長政が絵師に描かせた「大坂夏の陣図屏風」がある。豊臣時代の大坂城では、その市街地が城外にはなく、堀や土塀で囲われた城内にあった。このために、大坂城の攻防戦では市街地も戦場となった。大坂城攻めの徳川側の本隊は大坂城の南方にあったので、落城後、丸腰の大坂城内の市民は北方の京都を目指して潰走する。行く手をはばむ大川(=当時の淀川の本流)に流されたり、中津川(=現在の淀川の本流近くを流れる当時の淀川の支流)に流されたりする者もいれば、川を渡りきる間際に徳川方の軍勢の鉄砲に射殺される者もいた。川を渡りきっても、雑兵たちに身ぐるみをはがされる夫婦もいれば、帯を解かれて強姦される若い女性もいた。女や子供を奴隷として回収する人々もいた。雑兵たちは、討ち取った武将の首級の数に応じて恩賞をあずかるので、その数を稼ぐために理不尽にも殺害される男性たちもいた。正規兵である雑兵以外にも、いわゆるヤクザや不良たちも戦場付近に集まっており、大坂から落ち延びてきた人たちから暴力をチラつかせて、金品や衣服を巻き上げていた。

邪馬台国の繁栄をふたたび謳歌した京都、市街戦の恐怖をふたたび再現した大阪。歴史は、繰り返しているように見える。愚かな歴史を繰り返さないためにも、そこから学ぶべきことは多い。