東 大 阪 怪 談 2019


石 田   聖 二

2019年8月10日

東大阪てのひら怪談の受賞作(優秀賞)

筆名           : eccentric pages


■作品タイトル

まちがっても美女堂氏(びんどうし)遺愛碑(いあいひ)をあなどってはならない


■本文

美女堂(びんどう)という姓の一族が東大阪市南部、かつての中河内の若江村にいた。祖は平安中期の武将である源満仲の子の美女丸である。美女丸は高僧である源信に師事した。源信が執筆した「往生要集」は日本の浄土信仰に火をつけた:宇治に平等院、奥州平泉に金色堂が建立され、浄土宗と浄土真宗が順次台頭した。美女丸の子孫はこの浄土信仰の熱狂に便乗して八尾別当職を世襲した。ところが南北朝時代、一族の当主が豪族として南朝にくみしたことが災いして、足利幕府のもと八尾別当職はその権威もろとも全否定された。一族は恥をしのんで凡夫として若江城下で命脈を保った。江戸時代、その血脈が衰微して尽き果てようとした頃、往時の栄華をはかなんで建てられたのが表題の石碑であった。石碑は当初、若江の村落の西の端に置かれたようだが、明治時代には最寄りの寺へ移された。大正時代、その寺は失火で消失した。檀家の一人の言うことには「そもそも石碑は自分の屋敷の敷地内にあった。寺を再建しない以上、元あった場所に戻す」。その家は代を重ねるごとに不運を招き入れた。平成に入った頃には当主と跡取りが相次いで自殺し、屋敷は取り壊され、その敷地も売り払われた。石碑は若江小学校から府道24号線をはさんだ向かい側、若江幼稚園に隣接する若江公民分館の脇にある横断歩道の手前、若江城本丸跡に移設された。悪運の石碑には良からぬ霊が集う。これら怨霊は一つの思いを共有している:自分たちの惨めな境遇をより多くの人々と分かち合いたい。石碑は繁華な地にあり、その通りを無防備に通り過ぎる人は多い。もしも彼らが退嬰的な無気力に落ち入ったとして、その原因を敢えて路傍の石碑に求めるだろうか。抑圧しがたい無気力を覆い隠すべくカラ元気を演じようにも、やがて来る強烈な呪いゆえの衝動で自滅の運命に深入りする。石碑が現在地に移されたことで、怨霊は効率よく通行人を道連れに加え入れている。


■参考

石碑 (Google maps, street view