徳経(老子)
底本:馬王堆漢墓帛書甲乙本徳経ほか
持ち前の着想でもって独自の地平を切り開く。約2,400年前の古典である「老子」はこのシンプルな生き方を説いている。
世間一般で流布している「老子」の写本は、「道可道非常道」の出だしから始まる「道経」と「上徳不徳是以有徳」の出だしから始まる「徳経」の二部で構成されている。「道経」が前編で「徳経」が後編という順序から両者の頭文字を取って「老子道徳経」とも呼ばれている。
これら両部の内容を慎重に吟味すればするほど、それらの論旨が根底から矛盾していることが明らかとなる。すなわち「道経」が空虚なスピリチュアルに傾倒するのに対し、「徳経」は冒頭のシンプルな現実主義の域を出ない。論旨がまるで噛み合わないにも関わらず、この約 2,400年間、何らかの一貫性があると勝手に妄想されてきた。この経緯を下記の時系列でまとめる。
(1) 2,400年前ころの春秋時代、周王朝の政府高官(太史寮の長官;太史儋)が「徳経」を作成した。ちなみに彼は占術家として有名であったようで、秦から覇王が出現することを予言した(司馬遷「史記」)。このように占術に卓越した人物が、卑弥呼が例のように連合王国の首長に担ぎ上げられたり、諸葛亮が例のように新興国の宰相として手腕を振るったりと、国家の重責を担う例は古代において珍しくはなかった。
(2) 同じく2,400年前ころ、のちの道教の原型となる神仙思想が当時の知識階級を通じて形成されつつあった。この手の空虚なスピリチュアルに傾倒した人々が「徳経」に触発されて「道経」を編纂したようだ。「徳経」は畳み掛けるような重厚な文体で、論旨が明確で一貫している。他方で「道経」は根拠に欠ける断定的な物言いを好み、神秘主義的な表現のもと自己陶酔している。
(3)見掛け倒しで中途半端な人々は、同じく見掛け倒しで中途半端なものを偏愛しがちである。したがって「道経」が蛇足として排除されることはなく、むしろ丁重に受け入れられた。それでも当初、あくまでも「道経」は「徳経」の付録としての位置付けであった。オリジナルの「徳経」が前編で、スピリチュアルの「道経」が後編という順序のもと写本が流布した。近年、その2,200年前ころの写本が前漢初期の貴人の墳墓から発掘された(馬王堆漢墓帛書甲乙本)。
(4)1,900年〜1,800年前ころの後漢末期から三国志の時代にかけて、社会不安を背景にした新興宗教(太平道、五斗米道)が大々的に流行した。これら教団は既存の政権を打破して無政府状態を実現するための起爆剤として機能した。「老子」はすでに当時からして数百年来の古典であり、教団の権威づけには打って付けであった。教団の関係者からすれば、「徳経」の重厚な現実主義よりも、「道経」の空虚なスピリチュアルのほうが使い勝手がよい。そこで「徳経」と「道経」の順序が主客転倒した「老子道徳経」の写本が重用された。以来「老子道徳経」のみが一般に流布している。
(5)三国時代(184-280)、五胡十六国時代(304-439)、南北朝時代(439-589)にかけて、中国で大乱が続いた。その間、精緻なインド哲学を土台にして豪奢な大乗仏典のいくつもを開花させた仏教が中国全土で一斉に受容され始めた。この高度にインテリ過ぎる外来宗教の蔓延に対峙するべく、神仙思想を含む中国の土着信仰の数々は「老子道徳経」を主たる経典とすることで不老不死と現世利益をかたる一つの信仰体系として定型化した。これが道教のおこりである。
(6)その後の1,500年間におよぶ道教の影響力は絶大であり、本サイト以外の「老子」の訳や解釈のことごとくが「老子道徳経」の写本に基づいている。すなわち「道経」の空虚なスピリチュアルの世界観のもと「徳経」の字面をなぞるスタイルが無批判に踏襲されてきた。
本サイトは「道経」を偽書とみなして、そもそも採用していない。さらに、2,300〜2,200年前ころの発掘された写本である馬王堆漢墓帛書甲乙本および郭店楚簡の「徳経」を底本として用いることで、道教が本格的に普及する以前の時代に立ち戻っている。結果として、天才の発想性とはいかなるものかを原作者の意図に沿って素直に展開させるに至った。
[第1章] 上徳不徳是以有徳、下徳不失徳是以無徳。上徳無為而無以為也。上仁為之而無以為也。上義為之而有以為也。上礼為之而莫之応也則攘臂而扔之。故失道而后徳。失徳而后仁。失仁而后義。失義而后礼。夫礼者忠信之薄也而乱之首也。前識者道之花也而愚之首也。是以大丈夫居其厚而不居其薄。居其実而不居其花。故去彼取此。
上徳は徳とせず、是(ここ)を以って徳有り。下徳は徳を失わざる、是を以って徳無し。上徳は為すこと無し、而(しか)も以って為すこと無し。上徳は之れを為し、而も以って為すこと無し。上義は之れを為し、而も以って為すこと有り。上礼は之れを為し、而も之れに応じること莫ければ、則ち臂(ひじ)を攘(はら)いて、之れを扔(つ)く。故に道を失いて后(のち)に仁あり。仁を失いて后に義あり。義を失いて后に礼あり。夫れ礼は、忠信の薄きにして乱の首(はじめ)なり。前を識る者は、道の花にして愚の首なり。是を以って大丈夫は、其の厚きに居て、其の薄きに居らず。其の実に居て、其の花に居らず。故に彼を去り、此を取る。
すぐれた徳の人は、徳のあるべきようを始めから受け付けない。それゆえに徳がある。
くだらない徳の人は、徳が失われまいかと不安がり、あえて型にはまろうとする。それゆえに徳がない。
すぐれた徳の人は、目的を持たず、したがって結果もない。
すぐれた仁の人は、思いやりと気づかいを生き甲斐とする。その結果、誰がどうなろうと、当人にしてみれば全くの関心外である。
すぐれた義の人は、与えられた責務をまっとうして、相応の評価を期待する。
すぐれた礼の人は、ヒエラルキーにおける上下関係に忠実で、その秩序を受け付けない者がいようものならば、勢い込んで腕をまくりあげて、その者を容赦なく突き飛ばす。
このように、道が失われると、徳が意識される。徳が失われると、仁が意識される。仁が失われると、義が意識される。義が失われると、礼が意識される。
そもそも礼の人は、場当たり的で軽薄である。トップが置き換われば、風見鶏のように自分の主義主張を総入れ替えする。それでいて「正義感」を振りかざして、勢い込んで腕をまくりあげるものだから、争乱の火種が撒き散らかされないハズがない。
未来を予知する人は、出来事の背景にある諸事情をすっ飛ばして、目新しくて断片的な情報ばかりを拾い上げる。その短絡的で断片的な物言いを好むバカばかりが聞き手として集まる。
こういうわけで大丈夫たる人物は、現実的で一貫性のある見識のもと冷静に問題に取り組んで、場当たり的な対応をしない。出来事の背景にある諸事情の複雑なさまを一つひとつ体系的に把握しようとして、短絡的で断片的な物言いを避ける。つまり、あれを去って、これを取る。
[第2章] 昔得一者。天得一以清。地得一以寧。神得一以霊。谷得一以盈。侯王得一以為正。其至也。謂天毋已清将恐裂。地毋已寧将恐発。神毋已霊将恐歇。谷毋已盈将恐渇。侯王毋已貴以高将恐蹶。故必貴以賤為本。必高矣而以下為基。夫是以侯王自謂孤寡不穀。此其賤之本与、非也。故致数誉無誉。是故不欲碌碌若玉珞珞若石。
昔の一を得たる者、天は清を以って一を得たり。地は寧を以って一を得たり。神は霊を以って一を得たり。谷は盈を以って一を得たり。侯王は正を為すを以って一を得たり。其の至りなり。謂(おも)うに、天が已(すで)に清きこと毋(な)くんば、将に恐らくは裂(さ)けんとす。地が已に寧(やす)らけきこと毋くんば、将に恐らくは発(お)こらんとす。神が已に霊(とうと)きこと毋くんば、将に恐らくは歇(つ)きんとす。谷が已に盈(み)ちること毋くんば、将に恐らくは渇(か)れんとす。侯王が已に高きを以って貴ばれること毋くんば、将に恐らくは蹶(たお)れんとす。故に必ず貴(とうと)きは賤(いや)しきを以って本と為す。必ず高きは下(ひく)き以って基と為す。夫れ是を以って侯王は自ら孤・寡・不穀と謂う。此れ其の賤しきの本なるか。非らずや。故に誉を数うるを致さば無誉なり。是(こ)の故に碌碌たること玉の若く、珞珞たることを石の若くを欲せず。
かつて一を得た者がいる。天は清澄であるがゆえに一を得た。地は安寧であるがゆえに一を得た。神は霊妙であるがゆえに一を得た。渓谷は多様で豊富な恵みで満たされているがゆえに一を得た。諸侯と王は領国の秩序を維持することで一を得た。いずれも、そのさまが行き届いている。
もしも天が清澄でなければ、今まさに成層圏が宇宙空間に向けて四部五裂していたことだろう。もしも地が安寧でなければ、今まさに全球が破局噴火で跡形もなくなっていたことだろう。もしも神が霊妙でなければ、今まさに消え入っていたことだろう。もしも渓谷が多様で豊富な恵みに満たされていなければ、今まさに枯死していたことだろう。諸侯と王がその高い地位でもって貴ばれていなければ、今まさに失脚していたことだろう。
すなわち、貴いものは必ず賤しいものを底辺に置いている。高いものは必ず低いものを土台にしている。だから諸侯や王は、孤児、やもめ、乞食を自称する。なぜなら彼らの身分は、そのような賤しい身分を底辺にして成立しているから。違うのか。
だから、名誉を数え上げて虚栄を誇ろうとすれば、その名誉は元より無に帰す。このようなわけで、大切な宝玉をそこらに打ち捨てて、何の価値もないゴロ石を首飾りにして着飾るような真似を望まない。
[第3章] 上士聞道勤能行之。中士聞道若存若亡。下士聞道大笑之。弗笑不足以為道。是以建言有之曰、明道如費、進道如退、夷道如類、上徳如谷。大白如辱、広徳如不足、建徳如偸、質真如渝。大方無隅、大器晩成、大音希声、天象無形。道褒無名、夫唯道、善始且善成。
上士が道を聞かば、勤めて能く之れを行う。中士が道を聞かば、存(あ)るが若く、亡(な)きが若し。下士が道を聞かば、之れを大いに笑う。笑われざるは、以って道と為すに足らず。是を以って言を建てて之れ有るに曰く、道を明らかにするは、費(つい)えるが如し。道を進むは、退くが如し。道を夷(たい)らかにするは、類(まつ)るが如し。上徳は谷の如し。大白は辱(はづかし)められるが如し。広徳は足らざるが如し。徳を建てるは偸(ぬす)むが若し。真(まこと)を質(ただ)すは渝(か)わるが如し。大方は無隅なり。大器は晩成す。大音は希声なり。天は無形を象(かたど)る。道は無名を褒(ほ)む。夫れ唯だ道のみなり。善く始め且(か)つ善く成す。
すぐれた志士が道を聞けば、真面目に取り組む。中途半端な志士が道を聞けば、うやむやにする。くだらない志士が道を聞けば、大笑いする。そこらの奴らに嘲笑されないレベルのものを道とするには不十分である。このことを踏まえて下記の格言を記す。
【明道如費】惜しげもなく散財するかのような気概で、道を明らかにせよ。
【進道如退】退却でもするかのような慎重さで、道を突き進め。
【夷道如類】生物分類でもするかのような厳密さで、道を捉えよ。
【上徳如谷】すぐれた徳は渓谷のように多様で豊富な恵みを養い育てるキャパをもつ。
【大白如辱】寸分の非もないと信じる人ほど、恥知らずはいない。
【広徳如不足】広大な徳のある人ほど、そのキャパが十分ではないことを自認している。
【建徳如偸】徳を打ち立てたいのなら、まずパクれ。
【質真如渝】ぬらりくらりとして真贋を見極めよ。
【大方無隅】世界は果てしない。
【大器晩成】人生の集大成は晩年にこそある。
【大音希声】妙なる音はかすかな響きの中にある。
【天象無形】天は無形をかたどる。
世の中のありようは、計り知れないし、常に変わり続けている。あえて、そのさまを具体的なイメージとして捉えようにも、そもそも不可能であるし、やっても無意味である。
【道褒無名】道は無名を褒める。
世間から高く評価されようが、低く評価されようが、無視されようが、いずれも意に介せず、何の期待も抱かず、無名の人としての当たり前の生き方を貫けば、道(宇宙的な無限の創造性)から庇護を受ける。そのおかげで、持ち前の着想と行動力でもって独自の地平を切り開ける。
つまるところ、道につながれば、始まりが良く、仕上がりも良い。
[第4章] 反也者道之動也。弱也者道之用也。天下之物生於有、有生於無。
反は道の動なり。弱は道の用なり。天下の物は有より生じ、有は無より生ず。
揺り戻しが道の動きである。柔弱が道の働きである。世の中にある全ての物は、有限の事象をもとに生起している。有限の事象は、無限の創造性をもとに生起している。
[第5章] 道生一、一生二、二生三、三生万物。万者負陰而抱陽。中気以為和。天下之所悪、唯孤寡不穀。而王公以自称也。故物或損之而益、或益之而損。故人之所教、我亦教之:強梁者不得其死。吾将以為学父。
道は一を生む。一は二を生む。二は三を生む。三は万物を生む。万者は陰を負(お)いて陽を抱き、気を中(あつめ)て以って和を為す。天下の悪(にく)む所、唯だ孤・寡・不穀のみ。而(しか)して王や公は以って自称す。故に物は或いは之れを損(へ)らして益し、或いは之れを益して損らす。故に人の教わる所、我れも亦た之れを教えん:強梁者は其の死を得ず。吾れ将に以って学父と為さんとす。
道は一の太極を生む。一の太極は二の両極を生む。二の両極は三の多様性を生む。三の多様性は万物を生む。万物は陰を背負って陽を抱いている。陰陽の気を自己の中心に集めて、そのバランスをゼロに中和させる。世の中の誰もが、孤児、やもめ、乞食になることを嫌がる。だからこそ王や諸侯はこぞって、それら底辺の身分を自称した。このように損して得をする者がいれば、逆に得して損をする者もいる。人々が教訓とするものを改めて紹介しよう。
【強梁者はその死を得ず】強引かつ上から目線の人間は、その死を得ない。
強引を押し通せば没落を早める。上から目線でいれば自滅を早める。したがって、たまたま巡ってきた高い地位のもと威張り散らそうものならば、遅かれ早かれ行き詰まりを迎える。ところが当人としては高慢に過ぎてその社会的な死を受け入れられない。
私は今まさにその人物を学びの父としている。
[第6章] 天下之至柔馳騁乎天下之至堅、出於無有、入於無間。吾是以知無為之有益也。不言之教、無為之益、天下希能及之矣。
天下の至柔は天下の至堅を馳騁する。無有より出て、無間に入る。吾は是を以って無為の有益を知る。不言の教え、無為の益、天下能く之れに及ぶものは希(まれ)なり。
世の中で最も柔らかな物は、世の中で最も堅い物をすり抜ける。形の無い所から現われて、隙間の無い所へ入り込む。私はこのことから「無為(目的も結果もないさま)」が有益であると知る。「不言の教え(世の中の本質や成り行きを理解している人であれば、短絡的で断片的な物言いを避けるために、あえて語らずという教え)」、「無為の益」、これらに匹敵するものは世の中に滅多と存在しない。
[第7章] 名與身孰親、身與貨孰多、得與亡孰病。甚愛必大費、厚藏必多亡。故知足不辱、知止不殆、可以長久。
名と身、孰(いず)れか親しき。身と貨、孰れか多(まさ)れる。得と亡、孰れか病(うれ)える。甚しく愛(いつく)しめば、必ず大いに費(つい)える。厚く藏(たくわ)えれば、必ず多くを亡う。故に足るを知れば、辱(はずかし)められず、止まるを知れば殆(あや)うからず、以って長く久しかるべし。
名声と身体のどちらが、自分と近しい間柄にあるのか。身体と財貨のどちらが、自分に多くの機会と経験をもたらすのか。得ることと失うことのどちらが、自分を病ませるのか。愛着が過ぎれば、それだけ出費がかさむ。高価なものを貯め込めば、それだけ損失のリスクが高まる。ゆえに、自分が一体に何に満足するのか、そのツボを押さえていれば、みじめな思いをしない。あれこれと手出しをせずに、ポイントをしぼって止まることを知れば、危険な目に遭わない。結果として長生きをして、久しく将来を見通せる。
[第8章] 大成如欠、其用不敝。大盈如沖、其用不窮。大直如詘。大弁如訥。大巧如拙。大贏如絀。躁勝寒、静勝熱。清静可以為天下正。
大成は欠くるが如し。而し用いて敝(やぶ)れず。大盈は沖(わきうご)くが如し。而し用いて窮(きわ)まらず。大直は詘(つ)まるが如し。大弁は訥(ども)るが如し。大巧は拙(つたな)きが如し。大贏は絀(かが)むが如し。躁(さわ)げば、寒さに勝つ。静(しず)かなれば、熱に勝つ。清静以って天下の正を為すべし。
完璧に仕上げられたものは、どこか欠けているように見えて、使っても壊れない。とうとうと満たされたものは、深く静かにたたえていて、使っても枯れない。的確な指摘ほど回りくどい。弁舌に優れた人ほど言葉控えめである。精緻な技巧ほど自然でシンプルである。大金持ちほど腰が低い。はしゃぎ回れば寒さに打ち勝ち、静かであれば熱そのものに打ち勝つ。清く静かであればこの世の閉塞感を打破できる。
[第9章] 天下有道、却走馬以糞。無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲。禍莫大於不知足。咎莫憯於欲得。故知足之足恒足矣。
天下に道が有れば、走馬を却(しりぞ)けて以って糞とする。道が無ければ、戎馬が郊に生まれる。罪は欲すべきより大なるは莫し。禍は足るを知らざるより大なるは莫し。咎は得を欲するより憯(いた)ましきは莫し。故に足るを知るの足るは常に足る。
天下に道があれば、足の速い馬は糞の運搬に用いられる。道が無ければ、軍馬が都市近郊で生産される。欲望が肥大化することほど、大きな罪は無い。満足を知らないことほど、大きな禍(わざわ)いは無い。欲得にまみれることほど、見るに耐えない咎(とが)は無い。自分が何に満足するのか、どの程度で満足するのか、その理解が十分であるならば、常に能動的に満足できる。
[第10章] 不出於戸、以知天下。不窺於牖、以知天道。其出弥遠、其知弥少。是以聖人不行而知、不見而名、弗為而成。
戸を出ず、以って天下を知る。牖(まど)を窺(うかが)わず、以って天道を知る。其の出ずること弥(いよいよ)遠ければ、其の知ること弥少なし。是を以って聖人は行かずして知る。見ずして名づけ、為さずして成す。
自分の満足に見合う世界から戸外へ出ず、天下を知る。窓からのぞき見をせず、天の道を知る。遠く離れれば離れるほど、自分の情熱と探究心の対象となるべきものが少なくなる。だから聖人は、どこへも行かずに知り、見ずに名付け、為さずに完成させる。
[第11章] 為学者日益、聞道者日損。損之又損以至於無為。無為而無不為。将欲取天下也、恒無事。及其有事也又不足以取天下矣。
学を為せば日に益(ま)し、道を聞けば日に損(へ)らす。損の又損、以って無為に至る。無為にして、為さざるは無し。将に天下を取らんと欲さば、恒に無事なり。其の有事に及びては、又天下を取るを以って足らず。
学習をすれば情報量が増える。道を聞けば情報量が減る。情報量を減らして、ごくごくシンプルなものに落とし込めば、「無為(目的も結果もないさま)」に至る。「無為」ならば、実現できないことが何も無くなる。天下を取りたいのであれば、いつでも無理をするな。無理をする必要があるならば、そもそも天下を取る器ではない。
[第12章] 聖人恒無心、以百姓之心為心。善者善之。不善者亦善之。得善也。信者信之、不信者亦信之、得信也。聖人之在天下歙歙爲天下渾心。百姓皆注其耳目焉聖人皆咳之。
聖人は恒に無心なり、百姓(ひゃくせい)の心を以って心を為す。善者は之れを善とし、不善者も亦之れを善とす。善を得る。信者は之れを信とし、不信者も亦之れを信とす。信を得る。聖人の天下に在るや、歙歙たり、天下を渾心と為す。百姓皆其の耳目を注ぐ、聖人皆之れを咳(あや)す。
聖人はつねに無心である。なぜなら「百姓(ひゃくせい;もろもろの人々)」の心を自分の心として受け入れているからだ。善人がその心を善と見なし、不善人もその心を善と見なす。これで善を得る。信頼に足る人がその心を信頼し、信頼に足りない人もその心を信頼する。これで信を得る。聖人の天下でのありようとは、空気を一気に吸い込むようなもので、天下をまるまる自分の心として取り込む。民衆の誰もがその耳目をそば立てると、聖人の誰もが屈託のない笑顔で会釈をかえす。
[第13章] 出生入死、生之徒十有三、死之徒十有三、而民生生、動皆之死地之十有三。夫何故也、以其生生。蓋聞善執生者、陵行不避兕虎、入軍不被兵革、兕無所椯其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。夫何故也。以其無死地焉。
生を出て死に入る。生の徒は十に三有り。死の徒は十に三有り。而も生を生とすべく、皆を動かして死地に之くの十に三有り。夫れ何故か。其の生を生とするを以って。蓋(けだ)し聞く、善く生を執(と)る者は、陵行して兕や虎を避けず、軍に入りて兵や革を被らず。兕は其の角を椯(つ)く所が無い。虎は其の爪を措(お)く所が無い。兵は其の刃を容れる所が無い。夫れ何故か。其の無死地を以って。
安全地帯を出て、危険地帯に入る。生き残る者が三割。死にゆく者が三割。自分たちの命だけでも助かろうと、徒党を組んで危険地帯に深入りする者が三割。なぜ彼らは危険地帯に深入りするのか。生き残りたいからだ。次のようなことを聞く。よく命を大切にする者は、山麓の道を進んでも野牛や虎を避けない。軍隊に入っても武具や甲冑を装備しない。水牛が襲い掛かろうにも、その角を突きつけれる箇所がない。虎が飛び掛かろうにも、その爪を引っ掛けれる箇所がない。武器で攻撃しようにも、その刃で切り掛かれる箇所がない。それはなぜか。そもそも命を粗末にしないので、危険地帯に居ないからである。
[第14章] 道生之而徳畜之、物形之而器成之。道之尊也、徳之貴也。夫莫之爵也。而恒自然也。故道生之、畜之、長之、育之、亭之、毒之、養之、覆之。生而弗有、為而弗恃、長而弗宰、是謂玄徳。
道が之れを生じ、徳が之れを畜(やしな)う。物が之れを形(あらわ)し、器が之れを成す。道の尊、徳の貴。夫れ、之れ爵は莫けれど、恒に自然なり。故に道は之れを生じ、之れを畜い、之れを長じ、之れを育て、之れを亭(とど)め、之れを毒(てあつ)くし、之れを養い、之れを覆う。生じて有さず、為して恃まず、長じて宰(つかさど)らず、是れを玄徳と謂う。
宇宙的な無限の創造性である道が生み出したものを、個人の創造意欲である徳が収集して活用する。物として形作られたものを、器として完成させる。道は尊いし、徳も貴い。しかし、どちらにも爵位などない。ただ常に当たり前に存在する。道は、生み出し、養育し、成長させ、生育させ、休息させ、繁茂させ、養生し、死滅させる。生み出しても所有しない。成し遂げても成果を誇らない。トップに立っても支配しない。これを「玄徳」という。
[第15章] 天下有始、以為天下母。既得其母、以知其子。既知其子、復守其母、没身不殆。塞其兌、閉其門、終身不勤。啓其兌、済其事、終身不棘。見小曰明。守柔曰強。用其光、復帰其明。毋遺身殃。是謂襲常。
天下に始まり有り、以って天下の母と為す。既に其の母を得て、以って其の子を知る。既に其の子を知りて、復(ま)た其の母を守る、身が没するまで殆(あや)うからず。其の兌(よろこ)びを塞(ふさ)ぎ、其の門を閉じれば、身を終えるまで勤めず。其の兌びを啓(ひら)き、其の事を済(わた)せば、身を終えるまで棘(と)まらず。小を見るを明と曰う。柔を守るを強と曰う。其の光を用いて、其の明に復た帰る。身の殃(とが)を遺(のこ)す毋かれ。是れを襲常と謂う。
天下に始まりがある。これを天下の母とする。既にその母を心得ていれば、その心得のもとその子を知る。既にその子を知っていれば、立ち戻ってその母を守れるので、生涯にわたって危険な目に遭わない。
直前の第14章とのつながりを考えると、「天下の母」とは宇宙的な無限の創造性としての道を指し、「その子」とは個人の創造意欲である徳を指す。道を理解していれば、徳を理解できる。徳を理解していれば、その知性の根源である道にまで意識が及ぶ。こうして道とつながれば、「道褒無名」の格言のとおり、無名の人としての当たり前の生き方を貫けるので、生涯にわたって危険な目に遭わないで済む。
他者との比較で優越感を得ることに何ら意味を認めず、自分の満足に見合う世界に引きこもれば、終身にわたって労苦はない。世間や社会からの高い評価を求めて序列を争えば、終身にわたって、どこにも行きつかない。
些細な変化を見抜くことが明察である。柔弱な働きを守ることが頑健である。その光を用いて、その光源に復帰する。身にカルマを残してはならない。そうすれば、ありふれた日常を踏襲できる。
「その光を用いて、その光源に復帰する(用其光、復帰其明)」は「既にその子を知っていれば、立ち戻ってその母を守れる(既知其子、復守其母)」の内容と同じで、道(宇宙的な無限の創造性)と徳(個人の創造意欲)の関係性を述べている。持ち前の着想と行動力を意識すれば、道につながる。道につながれば、他者との比較で優越感を得ることに何ら意味を認められなくなる。だから、身にカルマを残すこともなく、ありふれた日常を重ねられる。
[第16章] 使我介有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、民甚好解。
我をして介として知を有らしめ、大道を行けば、唯だ施(なび)くのみを是畏れん。大道は甚だ夷(たいら)なるが、民は甚だ解を好む。
もしも私が、何らかの思い込みを抱えたまま大道を行けば、正しく進んでいるか不安がるだろう。大道は平らで広々としているのに、民衆はわざわざ袋小路の横道ばかりを選り好みする。
[第17章] 朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文釆、帯利剣、厭食而資財有余。是謂盗夸、非道。
朝は甚しく除(はら)払われ、田は甚しく蕪(あ)れ、倉は甚しく虚(むな)しい。文釆を服(つ)けて、利剣を帯び、食に厭(あ)きて、資財に余り有る。是れを盗夸(とうか)と謂う、非道なり。
朝廷は隅々まで掃き清められているが、田畑は荒れ放題である。色彩きらびやかな衣装をまとい、利剣を帯びて、食に飽き、財貨を有り余らせる連中がいる。彼らのことを「盗夸(とうか;盗みを続けて、驕慢の限りを尽くす)」という。非道である。
[第18章] 善建者不抜、善抱者不脱、子孫以祭祀不絶。修之身、其徳乃真。修之家、其徳有余。修之郷、其徳乃長。修之邦、其徳乃豊。修之天下其徳乃溥。以身観身。以家観家。以郷観郷。以邦観邦。以天下観天下。吾何以知天下之然哉。以此。
善く建てた者は抜けず、善く抱いた者は脱げず、子孫は祭祀を以って絶えず。修の身、其の徳の真。修の家、其の徳は有り余る。修の郷、其の徳の長。修の邦、其の徳の豊。修の天下、其の徳の溥。身を以って身を観る。家を以って家を観る。郷を以って郷を観る。邦を以って邦を観る。天下を以って天下を観る。吾は何を以って天下の然りを知るや。此れを以って。
周到に設計された建物は吹き飛ばない。大切に抱きかかえられた宝物は抜け落ちない。子々孫々、それほど入念な心構えでもって祭祀を絶やさない。
このように自身を修めれば、その徳は揺るぎない。このように家を修めれば、その徳は有り余る。このように郷を修めれば、その徳は長らえる。このように天下を修めれば、その徳はあまねく広がる。
人をもって人を観る。家をもって家を観る。郷をもって郷を観る。国をもって国を観る。天下をもって天下を観る。私は何をもって天下のさまを知るのか。「これ」をもって。
本章末尾の「これ」とは、1章末尾の「あれを去って、これを取る」の内容を踏まえている。すなわち、現実的で一貫性のある見識のもと冷静に問題に取り組むこと。出来事の背景にある諸事情の複雑なさまを一つひとつ体系的に把握しようとすることを意味している。
[第19章] 含徳之厚者、比於赤子。蜂蠆虺蛇弗螫、攫鳥猛獣弗搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之会而朘怒、精之至也。終日號而不嚘、和之至也。和曰常。知和曰明。
含徳の厚き者は赤子に比す。蜂蠆虺蛇弗が螫(さ)さず、攫鳥や猛獣が搏(とら)えず。骨は弱くて筋は柔らかいが、握れば固い。未だ牝牡の会を知らざるが、朘怒する、精の至りなり。終日、號んでも嚘(か)れず、和の至りなり。和を常と曰う。和を知るを明と曰う。
徳の厚い人は、赤ちゃんに例えられる。ハチ、サソリ、トカゲ、ヘビに刺されることがなく、猛禽や猛獣に襲われることもない。骨は弱く、筋は柔らかいのに、握りしめれば固い。オスとメスの交尾のさまを知らないのに勃起する。これは精力がみなぎっているからである。一日じゅう大声を出しても、声がかすれない。これは調和が行き届いているからである。調和とは、ありふれた日常のことである。調和を知るとは、明察のことで、日常にひそむ些細な変化を捉えて見逃さないことである。
[第20章] 益生曰祥。心使気曰強。物壮則老。謂之不道。不道早已。
生を益す、曰く祥なり。心が気を使う、曰く強なり。物が壮んなれば、則ち老いる。之れを不道と謂う。不道なれば、早く已む。
カラ元気は不吉である。人間関係で気を使うことは無理強いである。血気盛んであれば、たちまち老いる。いずれも道理から外れている。このように空回りであれば、早々に持続不能となる。
[第21章] 知者弗言。言者弗知。塞其兌閉其門。和其光同其塵。挫其鋭解其粉。是謂玄同。故不可得而親也、亦不可得而疎。不可得而利、亦不可得而害。不可得而貴、亦不可得而賤。故為天下貴。
知者は言わず。言者は知らず。其の兌を塞ぎ、其の門を閉じる。其の光を和らげ、其の塵と同じくす。其の鋭を挫き、其の粉を解く。是れを玄同と謂う。故に得て而も親しむべからず、亦得て而も疎(うと)むべからず。得て而も利するべからず、亦得て而も害するべからず。得て而も貴ぶべからず、亦得て而も賤しむべからず。故に天下の貴を為す。
世の中の本質やその成り行きを理解している人は、短絡的で断片的な物言いを避けるために、あえて何も言わない。短絡的で断片的な物言いをしている人は、何ら本質的なことを理解していない。
他者との比較で優越感を味わうことに何ら意味を見出さず、自分の満足に見合う世界に引きこもる。あえて頭角を現さず、無名のまま過ごす。あえて才能を発揮せず、こまやかに地味を楽しむ。これを「玄同」という。本質的に言えば、どのような存在であれ、取り立てて親しい間柄にはなく、取り立てて疎遠な間柄にもない。どれ一つとして取り立てて利益となるものはなく、取り立てて損害となるものもない。誰一人として取り立てて高貴であるわけでもなく、取り立てて卑賤というわけでもない。このように自分の満足に見合う世界に引きこもることで、天下の偉業をなす。
[第22章] 以正之邦、以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然也哉。夫天下多忌諱、而民弥貧。民多利器、而邦家滋昏。人多智慧、而奇物滋起。法物滋章、而盗賊多有。是以聖人之言曰:我無為也、而民自化;我好静、而民自正;我無事、而民自富;我欲不欲、而民自樸。
正を以って邦を之(すす)める。奇を以って兵を用いる。無事を以って天下を取る。吾は何を以って其の然るを知るや。夫れ天下に忌諱が多ければ、民は弥(いよいよ)貧(まず)し。民が利器を多くすれば、邦家は滋(ますます)昏(くら)し。人が智慧を多くすれば、奇物は滋起こる。法物が滋章(あき)らかなれば、盗賊は多くを有す。是を以って聖人の言曰く:我が無為なれば、民は自(みず)から化(かわ)る。我が静を好めば、民は自から正す。我が無事なれば、民は自から富む。我が不欲を欲せば、民は自から樸なり。
正義でもって国を運営する。奇策でもって軍隊を動かす。無理なく天下を取る。何をもって私はこのようなことを知ったのか。そもそも世の中にタブーが多ければ、市民は萎縮して貧弱となる。国民が殺傷能力に優れた武器を大量に流通させてしまえば、国家はいよいよ混乱する。人が理屈や知識でもって頭でっかちとなれば、奇怪な商品や思想がますます生み出される。法律の条文がますます繁多となれば、人々から公然と搾取する盗賊が富み栄える。ここで聖人は次のように言う。私が「無為(目的も結果もないさま)」であれば、人々はみずからを教化する。私が冷静を好めば、人々はみずからを正す。私が無理をしなければ、人々はおのずと富む。私が欲せざるを欲すれば、人々は自然に純朴となる。
[第23章] 其政閔閔、其民屯屯。其政察察、其民欠欠。
其の政が閔閔なれば、其の民は屯屯なり。其の政が察察なれば、其の民は欠欠なり。
政治が国民目線のもと常に国情を憂慮していれば、国民は安心して純朴となる。政治が上から目線のもと常に国民を監視していれば、国民は萎縮して世知辛くなる。
[第24章] 禍、福之所倚。福、禍之所伏。孰知其極。其無正也。正復為奇、善復為妖。人之迷也、其日固久矣。是以聖人方而不割。廉而不刺。直而不紲。光而不燿。
禍は福の倚(よ)る所なり。福は禍の伏せる所なり。孰か其の極みを知らん。其の正の無きや、正は復(ま)た奇を為し、善は復た妖を為す。人の迷い、其の日は固(もと)より久し。是を以って、聖人は方なれど割かず。廉なれど刺さず。直なれど紲(つな)がず。光なれど燿(かがや)かず。
禍は、福が寄り集まる所。福は、禍が待ち伏せる所。禍福の絶頂を誰が知っていようか。正義はそもそも存在しない。いずれ正義は、奇怪な本性をあらわにする。いずれ善意は、不吉な素性をさらけ出す。人はいつから迷いに囚われるようになったのか。その日、もとより久しい。このことを踏まえて、聖人は規範を示すが、区分しない。清廉であるが、強制しない。実直であるが、同調を求めない。才能にあふれているが、発揮しない。
[第25章] 治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以早服。早服是謂重積徳。重積徳則無不克。無不克則莫知其極。莫知其極、可以有邦。有邦之母、可以長久。是謂深根堅柢、長生久視之道也。
人を治めて、天に事(つか)えるに、嗇に若くは莫し。夫れ唯だ嗇のみなり。是を以って早服す。早服、是れを重積徳と謂う。重積徳、則ち無不克。無不克、則ち其の極みを知ること莫し。其の極みを知ること莫ければ、以って邦を有すべし。有邦の母、以って長く久しかるべし。是れを、深根堅柢、長生久視の道と謂う。
人を治(おさ)めて、天に事(つか)えるにあたり、無駄を省くことに及ぶものはない。無駄を削ぎ落とすから、早々に問題の核心を押さえられる。早々に問題の核心を押さえることで、徳を重積させられる。徳を重積させれば、克服できない問題がなくなる。克服できない問題がなくなれば、禍福の極まりを知る必要もなくなる。禍福の極まりを知る必要が無いのであれば、国家を領有すればよい。
国家を領有する上での根本は、国家の行く末を見通して、その長期にわたる安定したビジョンを打ち出すことである。これがまさしく、深く根を張って根底を強固にし、長く生きて久しく視るという道である。
[第26章] 治大邦若烹小鮮。以道立天下、其鬼不神。非其鬼不神也、其神不傷人也。非其神不傷人也、聖人亦弗傷也。夫両不相傷、故徳交帰焉。
大邦を治めるは小鮮を烹(に)るが若し。道を以って天下を立(つく)れば、其の鬼が神ならず。其の鬼が神ならざるのみに非ず、其の神が人を傷つけず。其の神が人を傷つけざるのみに非ず、聖人も亦(また)傷つかず。夫れ、両(ふたつ)が相(あい)傷つかざるが故に、徳は交(こもごも)に帰する。
大国を治めるとは、小魚を煮るようなものである。
小魚は煮崩れしやすい。大国も同様で、むやみに手を加えると国ごと破綻する。
道のもと天下が存立していれば、死者の霊魂が天神地祇の神霊と混同されない。死者の霊魂が天神地祇の神霊と混同されなければ、神霊が人を傷つけることはない。神霊が人を傷つけなければ、聖人もまた傷つかない。そもそも人も聖人も共々に傷つかないのだから、徳はお互いのもとに帰る。
道理が通る世の中であれば、ブッダ、キリスト、ムハンマドが神格化されることがない。トランプやマスクが大金持ちでという理由だけで尊敬されることもない。彼らが崇拝の対象となる根拠である権威主義や拝金主義といった価値観に人々が固執することもない。その奇怪な価値観に固執した人々がすぐれて合理的な考えの持ち主を迫害することもない。そもそも、権威主義や拝金主義といった非合理な価値観が幅を利かせたり、すぐれて合理的な考えが社会から抹殺されたりしなければ、そのすぐれて合理的な考えのもと世の中がより豊かに発展する。
[第27章] 大邦者下流也、天下之牝也、天下之交也。牝恒以静勝牡。為其静也、故宜為下也。故大邦以下小邦、則取小邦。小邦以下大邦、則取於大邦。故或下以取、或下而取。故大邦者不過欲兼畜人。小邦不過欲入事人。夫皆得其欲、則大者宜為下。
大邦は下流なり、天下の牝なり、天下の交なり。牝は恒に静を以って牡に勝る。其の静を為す、故に宜しく下るを為すべし。故に大邦は小邦に下るを以って、則ち小邦を取る。小邦は大邦に下るを以って、則ち大邦に於いて取る。故に或いは取るを以って下り、或いは下りて取る。故に大邦は人を兼畜するを欲するに過ぎず。小邦は人を入事するを欲するに過ぎず。夫れ皆其の欲を得るに、則ち大者が宜しく下るを為すべし。
大国は下流である。天下のメス牛である。天下の交わる所である。メス牛は常に冷静であることでオス牛に勝つ。冷静であるから喜んで低姿勢で居られる。もしも大国が小国に対して低姿勢で接するならば、小国を傘下に取り込める。もしも小国が大国に対して低姿勢で構えるならば、大国に対する影響力を乗っ取れる。すなわち、取り込むことを意図して低姿勢で接する場合もあれば、低姿勢で構えた結果として乗っ取る場合もある。大国は同時に多数の国民を養いたいだけである。小国は一人ひとりの国民に取り入って奉仕したいだけである。皆がそれぞれの思いを実現したいのであれば、大国のほうが喜んで低姿勢で接するべきである。
[第28章] 道者万物之注也。善人之宝也、不善人之所保也。美言可以市。尊行可以加人。人之不善也、何棄之有。故立天子置三卿雖有共之璧以先四馬、不若坐而進此。古之所以貴此道者何也。不謂求以得、有罪以免與。故為天下貴。
道は万物の注なり。善人の宝なり。不善人の保つ所なり。美言は以って市(あきな)うべし。尊行は以って人に加うるべし。人の不善、何の棄つるや、之有らん。故に、天子を立てて、三卿を置くに、四馬に先んじるを以って共の璧を有すと雖も、坐して此れを進めるに若かず。古の此の道を貴ぶ所以は何ぞ。求むれば以って得られ、罪を有すれど以って免ると謂わずや。故に天下の貴を為す。
道は万物に注ぎ込む。善人の宝であり、不善人の存在根拠でもある。美しい言葉は売り買いの対象になる。尊い行いは人々に恩恵を与える。一方で不善人ときたら何の役にも立たない。だからといって彼らを見捨てて良いという話にはならない。天子が即位して、三卿と呼ばれる高官が置かれる際、四頭立ての馬車の前で玉壁を両手で捧げ持つ儀式が執り行われるのだが、むしろ座って「これ」を進呈するに及ぶものはない。太古から「これ」の道が貴ばれた理由は何か。求めれば得られ、罪があっても赦免されると言われているから。だからこそ天下の偉業をなす。
「これ」とは、1章末尾の「あれを去って、これを取る」の内容を踏まえている。すなわち、現実的で一貫性のある見識のもと冷静に問題に取り組むこと。出来事の背景にある諸事情の複雑なさまを一つひとつ体系的に把握しようとすることを意味している。
[第29章] 為無為。事無事。味無味。大小多少。報怨以徳。図難乎其易也。為大乎其細也。天下之難作於易。天下之大作於細。是以聖人終不為大、故能成其大。夫軽諾者必寡信。多易必多難。是以聖人猶難之、故終於無難。
無為を為す。無事に事なす。無味を味わう。小を大とし、少を多とする。徳を以って怨みに報いる。難を図(はか)るや、其の易き。大を為すや、其の細(かすか)。天下の難は易きに作られる。天下の大は細に作られる。是を以って聖人は終(つい)に大を為さず、故に能く其の大を成す。夫れ軽諾者は必ず信に寡(すく)なき。多易は必ず多難なり。是を以って聖人は猶(なお)之れを難(かた)しとす。故に無難に終える。
「無為(目的も結果もない)」をなす。無理なく従事する。無味を味わう。些細な変化から大局を見極める。少ない手がかりから多くを引き出す。徳でもって怨みを晴らす。
難事に取り組むといっても、実際にやっていることは、無数にある平易な問題を一つひとつ地道に片付けていくだけの話である。大事をなすといっても、実際にやっていることは、無数にある些細な課題の一つひとつを地味に解決していくだけの話である。
こういうわけで聖人は、ついぞ大事に手を付けなかった。だから首尾よく大事を成し遂げられた。そもそも安請け合いする人は、例外なく信頼に足りない。一つひとつの問題がたとえ平易であろうと、それらが幾つも集まると、必ず多難となる。こういうわけで聖人は、いかなる平易な問題であろうと難事とみなして、心して取り組んだ。だから無難に終えている。
[第30章] 其安也易持。其未兆也易謀。其脆也易判。其微也易散。為之於其無有也。治之於其未乱也。合抱之木、作於毫末。九成之台、作於蔂土。百千之高、始於足下。為之者敗之。執之者失之。是以聖人無為也、故無敗也、無執也、故無失也。民之従事也、恒於其成而敗之。故慎終若始、則無敗事矣。是以聖人欲不欲、而不貴難得之貨。学不学、而復衆人之所過。能輔万物之自然、而弗敢為。
其の安きは持ち易し。其の未兆は謀り易し。其の脆は判じ易し。其の微は散じ易し。之れを其の無有に為す。之れを其の未乱に治める。合抱の木は毫末より作(な)す。九成の台は蔂土より作す。百千の高みは足下より始まる。之れを為す者は之れを敗(そこな)う。之れを執る者は之れを失う。是を以って、聖人は無為なり、故に無敗なり。無執なり、故に無失なり。民の従事するや、恒に其の成るに之れを敗う。故に終わりを慎しむこと、始めの如くなれば、則ち事を敗うこと無し。是を以って、聖人は不欲を欲して、難得の貨を貴ばざる。不学を学んで、衆人の過ぐる所に復(かえ)る。能く万物の自然を輔(たす)けて、敢えて為さず。
安静であれば抱きかかえやすい。兆しすら表れていない状況であれば対策を講じやすい。脆ければ分割しやすい。軽微であれば吹き飛ばしやすい。
問題が表面化する前に解決する。混乱が生じる前に鎮圧する。両手を広げて抱えるほどの大木も、芽生えから生長する。九層からなる築山も、一介の土くれから作られる。百千の高みも足下から始まる。
目的を持てば当てが外れる。固執すれば取り逃す。聖人は「無為(目的も結果もない)」なので失敗しない。固執しないから取り逃さない。
民が仕事に従事するにあたり、いつも完成間際で失敗する。始まりと同じように終わりも慎重であれば、事を仕損じることは無かっただろうに。
こういうわけで聖人は、欲せざるを欲して、得難い財貨を貴ばない。学ばざるを学ぼうと、衆人の過ぎ去った所に立ち帰る。万物が自然のままであることを助けるべく、敢えて何もしない。
[第31章] 古之為道者、非以明民也、将以愚之也。夫民之難治也、以其智也。故以智知邦、邦之賊也。以不智知邦、邦之徳也。恒知此両者、亦稽式也。恒知稽式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣。与物反也、乃至大順。
古の道を為す者は、以って民を明らかにするに非らず、将に以って之れを愚かにせんとした。夫れ民の治め難きは、其の智を以って。故に智を以って邦を知(つかさど)れば、邦の賊なり。不智を以って邦を知れば、邦之徳なり。恒に此の両者を知りて、亦(また)式を稽(かんが)える。恒に稽式を知る。是れを玄徳と謂う。玄徳は深く、遠い。物を与えれば反(かえ)る、乃至(ないし)大いに順(したが)う。
かつて道を実践していた人は、国民を啓蒙しようとはせず、むしろ愚直のままにした。国民が治め難いのは、彼らの持っている情報ゆえである。情報を操作して国を統治することは、ペテン師が国を乗っ取るのと同じやり口である。情報を操作せずに国を統治すれば、国の徳となる。常にこの両者の違いを理解すれば、モラルの重要性について理解が深まる。どうすれば適切にモラルが向上するのかを常に理解しているさまを「玄徳」という。「玄徳」は奥深くて遠大である。物を与えれば返ってくる。その結果として国民のモラルは従順に向上する。
[第32章] 江海所以能為百谷王者、以其善下之也。是以聖人之欲上民也、必以其言下之。其欲先民也、必以其身後之。故居上而民弗重也。居前而民弗害。天下皆楽推而弗厭也。以其不争与。故天下莫能与争。
江海の能く百谷の王を為す所以、其の善く之れを下げるを以って。是を以って聖人の民を上げるを欲すに、必ず其の言を以って之れを下げる。その民を先んじるを欲すに、必ず其の身を以って之れを後(おく)らす。故に上に居て、而し民は重からず。前に居て、而し民は害されず。天下の皆は推すを楽しみて而も厭わず。其の争わざるを以って。故に天下に能く与(とも)に争うこと莫し。
長江と大海が百谷の王たる理由は、百谷よりも低い位置に甘んじているからである。このような訳で、聖人は民に敬意を示そうと謙遜し、民を優先させようと譲歩する。聖人が上にいても、民にとって重しとならない。聖人が前にいても、民にとって害にならない。天下の皆が楽しんで聖人を推して嫌がることがない。なぜなら、聖人は誰とも争わないからである。このため天下で聖人と争える者はいない。
[第33章] 小邦寡民。使有十百人器而勿用。使民重死而不遠徒。有舟車、無所乗之。有甲兵、無所陳之。使民復結縄而用之。甘其食、美其服、楽其俗、安其居。鄰邦相望、鶏犬之声相聞。民至老死、不相往来。
小さき邦、寡(すく)なき民。十百人の器が有れども、用い勿(なか)らしむ。民をして死を重んじせしめ、而も遠徒せしむ。舟や車が有れども、之に乗る所無し。甲や兵が有れども、之れを陳(つら)ねる所無し。民をして結縄を復せしめ、而も之れを用いせしむ。其の食を甘とし、其の服を美(ほ)めて、其の俗を楽しみ、其の居に安らぐ。鄰邦は相望み、鶏犬の声相聞く。民は老いて死ぬに至るも、相往来せず。
小さな国、少ない住民。十人隊長や百人隊長になれる器量の人物はいるけれど、登用されない。住民は死を重く受け止めて、遠方へは徒歩で出かける。舟や車はあるが、乗って行く先がない。甲冑や武具はあるが、陳列する場所がない。住民は結縄を復活させて利用している。その土地の食を味わい、その土地の服をめで、その土地の習俗を楽しみ、その土地の住まいに安らぐ。隣の国とはお互いに眺められ、鶏や犬の鳴き声すらもお互いに聞こえるが、住民は老いて死ぬまでお互いを行き来しない。
[第34章] 信言不美。美言不信。知者不博。博者不知。善者不多。多者不善。聖人不積。既以為人、己愈有。既以予人、己愈多。故天之道、利而不害。人之道、為而弗争。
信言は美ならず。美言は信ならず。知者は博ならず。博者は知ならず。善者は多ならず。多者は善ならず。聖人は積まず。既に以って人に為(な)して、己は愈(いよいよ)有る。既に以って人に予(あた)えて、己は愈多なり。故に天の道、利して害さず。人の道、為して争わず。
信頼に値する言葉は美しくない。美しい言葉は信頼に値しない。知っている人は博識ではない。博識な人は何も知らない。善人は多くを持たない。多くを持っている人は不善人である。聖人はため込まない。すでに人のために使っていて、それでいて、ますます豊かである。すでに人に与えていて、それでいて、いよいよ多くを持つ。このように天の道とは利して害さない。人の道とは為して争わない。
[第35章] 天下皆謂我大、不肖。夫唯大、故不肖。若肖、細久矣。我恒有三宝:之一曰慈;二曰倹;三曰不敢為天下先。夫慈故能勇。倹故能広。不敢為天下先故能為成事長。今舎其慈且勇、舎其倹且広、舎其後且先、則死矣。夫慈、以戦則勝、以守則固。天将建之、如以慈垣之。
天下の皆が我大なれど不肖と謂う。夫れ唯だ大なるのみ。故に不肖なり。若し肖なれば、細なりて久しい。我恒に三宝を有(たも)つ:之れ一曰く慈、二曰く倹、三曰く敢えて天下の先を為さず。夫れ慈なる故に能く勇なり。倹なる故に能く広し。敢えて天下の先を為さざる故に能く成を為し長を事(つか)える。今、其の慈を舎(す)て且に勇ならんとし、其の倹を舎(す)て且に広からんとし、其の後ろを舎(す)て且に先んぜんとすれば、死せん。夫れ慈は以って戦えば則ち勝ち、以って守れば則ち固し。天将に之れを建てんとす、慈を以って之れを垣するが如し。
天下の皆が、私のことを偉大であるが、不肖であると言う。そもそも発想のスケールが大きいから、不肖なのである。もしも常識的な人間であれば、とうの昔から先細っていたことだろう。
私は常に三つの宝を大切にしている:一つ目が「慈(養って育てるという意味での慈愛)」、二つ目が「倹(無駄を省く)」、三つ目が「敢えて天下の先を為さず(敢えて世界の先頭を行かない)」。
そもそも慈愛があるから、勇敢になれる。日頃から無駄を省いているから、いざという時に手広く応対できる。敢えて世界の先頭を行かないから、地道に実績を積んで、順々にトップとしての任を果たせる。今もし、その慈愛を放棄して勇敢に振る舞い、その無駄を手放さずに手広く応対し、その後塵を拝さずに先頭ばかりに固執すれば、死あるのみ。
そもそも慈愛を宝にしていれば、戦えば勝ち、守れば固い。なぜなら慈愛をもって庇護される境遇にあるから。
「慈」、すなわち、養って育てるという意味での慈愛は、第14章の「故道生之、畜之、長之、育之、亭之、毒之、養之、覆之」の内容と関係しており、宇宙的な無限の創造性としての道につながっている。したがって、第3章の「道褒無名」と同様で、道から庇護を受ける立場にある。すなわち、持ち前の着想と行動力でもって独自の地平を切り開くことを意味する。
[第36章] 善為士者不武。善戦者不怒。善勝敵者弗与。善用人者為之下。是謂不争之徳。是謂用人。是謂配天。古之極也。
善く士を為す者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与(くみ)せず。善く人を用いる者は之れ下を為す。是れを不争の徳と謂う。是れを用人と謂う。是れを配天と謂う。古の極みなり。
戦士として優れた人は、猛々しくない。戦いに卓越している人は、怒らない。敵に勝つのに秀でた人は、交戦しない。人を働かせるのに巧みな人は、腰が低い。これを「不争の徳」という。「用人(人を働かせる)」とも言う。「配天(天命に合致する)」とも言う。いにしえの極みである。
[第37章] 用兵有言曰:吾不敢為主而為客、不敢進寸而退尺。是謂、行無行、攘無臂、執無兵、扔無敵。禍莫大於無敵。無敵近亡吾宝矣。故抗兵相若、而哀者勝矣。
用兵で言有りて曰く:吾れ敢えて主を為さずして客を為す。敢えて寸を進まずして尺を退く。是れを無行を行く、無臂を攘(はら)う、無兵を執る、無敵を扔(つ)くと謂う。禍は無敵よりも大なるは莫し。無敵は吾が宝を亡(うしな)うに近し。故に兵を抗すに相若しけば、哀者勝つ。
「用兵(戦いでの兵の動かし方)」について、次のようなことが言える:こちら側としては、敢えて攻撃の態勢を取らずに、防御の態勢を整える。一寸(約3cm)でも進軍さえようとはせずに、一尺(30cm)でも退軍させようとする。相手側としては、進軍しようにも、その進むべき先がない。腕をまくり上げようにも、その腕がない。武器を手に取ろうにも、その武器がない。敵を突き飛ばそうにも、その敵がいない。敵を見失うことで災禍は莫大となる。敵を見失うことは、私の三つの宝を失ったも同然である。拮抗する兵力が交戦した場合、命が犠牲になることを哀しむ陣営のほうが勝つ。
[第38章] 吾言甚易知也、甚易行也。而天下莫之能知也、莫之能行也。夫言有宗、事有君。夫唯無知也、是以不我知。知者希、則我貴矣。是以聖人被褐而懷玉。
吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易い。而し天下之れ能く知るは莫く、之れ能く行うも莫し。夫れ言に宗が有り、事に君が有る。夫れ唯だ無知のみ。是を以って我を知らず。知る者は希、則ち我は貴。是を以って聖人は褐を被りて玉を懷(いだ)く。
私の言っている内容は、とても理解しやすいし、すぐにでも実行しやすい。ところが世の中でこの内容を理解できている人はいないし、実行に移せている人もいない。そもそも、言葉には意図があり、物事には要点がある。そこを無視して自分勝手な解釈を始めるから、私の言っている内容を一向に理解できない。理解できる人が稀なので、私の言っている内容は貴重である。こういうわけで聖人は、地味な身なりだが、宝玉を懐にしている。
[第39章] 知不知尚矣、不知不知病矣。是以聖人之不病也。以其病病也。是以不病。
知らざるを知るは尚。知らざるを知らざるは病。是を以って聖人の病まざる。其の病を以って病とす。是を以って病まざる。
知らないということを知っているのであれば、それは素晴らしいことである。知らないということを知らないでいると、それは病んでいることになる。聖人は病まない。その病を病として認識しているから。だから病まない。
自分が一体に何について理解が足りていて、何について理解が足りていないのか、まったく判然としない。だから自分の知性に絶対的な自信を持つことほどバカバカしいことはない。むしろポンコツで病んでいるとして卑屈になったほうが、遥かに健全である。
このような健全な認識であれば、自分の理解が足りていないポイントを積極的に探し出そうと常日頃から強く意識する。もしも怪しげなポイントを見つけ出せれば、吉祥到来とばかりに、それに関連した内容を補充すべく学習意欲が湧いてくる。結果として思い込みや偏見を可能な限りに排除できる。
他方で、自分の知性に絶対的な自信を持っている人は厄介である。自分の見識を改める必然性を感じないので、他人と意見が衝突すれば、他人の見識の至らなさばかりを徹底して批判する。典型的な老害である。第5章の「強梁者不得其死」のパターンにはまりこんでいく。言うまでもなく、病んでいる。
[第40章] 民之不畏威、則大威将至矣。毋狎其所居。毋厭其所生。夫唯弗厭、是以不厭。是以聖人自知而不自見也。自愛而不自貴也。故去彼而取此。
民の威を畏れざる、則ち大威の将に至らんとす。其の居する所を狎るなかれ。其の生きる所を厭うなかれ。夫れ唯だ厭わざるのみ。是を以って厭われざる。是を以って聖人は自ら知りて、而し自ら見(あらわ)れず。自ら愛でて、而し自ら貴ばず。故に彼を去って此れを取る。
民が権威を畏れなくなったということは、 より強大な権威がまさに到来しつつあることを意味する。民の住まいをあなどるな。民の生活の場を嫌うな。そもそも、こちらが嫌わなければ、嫌われる筋合いはない。こういうわけで聖人は、自分を知っているが、自分を目立たせない。自分を愛しているが、自分を貴ばない。すなわち、あれを去って、これを取る。
本章末尾の「あれを去って、これを取る」とは、1章末尾の同じ表現の内容を踏まえている。すなわち、風見鶏のように場当たり的な対応を取らず、現実的で一貫性のある見識のもと冷静に問題に取り組むこと。短絡的で断片的な物言いを避けて、出来事の背景にある諸事情の複雑なさまを一つひとつ体系的に把握しようとすることを意味している。
[第41章] 勇於敢則殺。勇於不敢則活。此両者或利或害。天之所悪、孰知其故。天之道、不戦而善勝。不言而善応。不召而自来。坦而善謀。天網恢々疎而不失。
敢えてするに勇なれば則ち殺され、敢えてせざるに勇なれば則ち活きる。此の両者、或いは利し、或いは害す。天の悪む所、孰か其の故を知らん。天の道、戦わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ずと来て、坦にして善く謀る。天網恢々、疎にして失わず。
敢えて取り組むことに勇敢であれば殺され、敢えて取り組まないことに勇敢であれば生きる。この両者、一方に利があり、他方に害がある。天が憎悪する所、誰がその理由を知ろう。
天の道、戦わずして善く勝つ。言わずして善く応答がある。招かずして自らやって来る。坦々として手抜かりがない。「天網恢々、疎にして失わず(天の網は広くて大きく、隙間だらけに見えるが、一つとして取り逃がすことはない)」
[第42章] 若民恒且不畏死、若何以殺懼之也。使民恒且畏死、而為奇者、吾得而殺之。夫孰敢矣。若民恒且必畏死、則恒有司殺者。夫代司殺者殺、是代大匠断。夫代大匠断、則希不傷其手。
若し民恒に且に死を畏れざらんとすれば、若何んぞ殺を以って之れを懼れしめんや。民をして恒に且に死を畏れんとせしめ、而も奇を為させしむ。吾得て之れを殺す。夫れ孰か敢えてせん。若し民常に且に必ず死を畏れんとすれば、則ち恒に司殺者有る。夫れ司殺者に代わって殺すは、是れ大匠に代わって断つ。夫れ大匠に代わって断てば、則ち希に其の手を傷まず。
もしも民が常に死を恐れなかったとする。一体どうすれば、死刑でもって彼らを怯えさせられるのか。民が常に死を恐れ、しかも奇怪な振る舞いをしていたとする。そこで私がその者を捕まえて死刑を執行するとする。ところで、どこの誰が、自分の手で赤の他人の死刑を執行したいなどと思うのか。もしも民が常に必ず死を恐れているのであれば、常に死刑執行人が必要となる。死刑執行人の代わりに死刑を執行することは、大工の代わりに斧やクサビを使って立木からを板材を切り出すことと同じぐらいに困難なことである。そもそも、大工の代わりに手仕事で製材をして、どこも怪我をしないで済む者は稀である。
[第43章] 人之飢也、以其取食税之多、是以飢。百姓之不治也、以其上之有以為也、是以不治。民之軽死也、以其求生之厚也、是以軽死。夫唯無以生為者、是賢貴生。
人の飢えるや、其の食税の多くを取るを以って、是を以って飢える。百姓の治まらざるや、其の上の以って為す有るを以って、是を以って治まらず。民の死を軽んじるや、其の生の厚を求めるを以って、是を以って死を軽んじる。夫れ唯だ生を以って無と為す者のみ、是れ生を貴ぶより賢(まさ)る。
人が飢えるのは、食糧を税として多く取り過ぎているためだ。だから飢える。百姓(ひゃくせい)が治(おさ)まらないのは、上の者が結果ばかりを求めるからだ。だから治らない。民が死を軽んじるのは、自分たちだけでも生き残ろうと危険地帯に深入りするからだ。だから死を軽んじる。自分の命を無価値と悟った者は、自分の命を貴ぶ者よりも賢明である。
[第44章] 人之生也柔弱、其死也堅強。万物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故曰堅強死之徒也、柔弱生之徒也。是以兵強則不勝。木強則兢。故強大居下、柔弱居上。
人の生は柔弱、その死は堅強。万物草木の生は柔脆、その死は枯槁。故に堅強は死の徒、柔弱は生の徒。是を以って兵強ければ則ち勝たず、木強ければ則ち兢(おそ)れる。故に強大は下に居り、柔弱は上に居る。
人の生身の肉体は柔弱であるが、死体は堅くこわばっている。あらゆる動物や植物も同様であり、成長中のものは柔らかくて脆いが、死んだ途端に枯れてしおれる。だから、堅くてこわばっているものは死のたぐい、柔らかく弱々しいものは生のたぐい。こういうわけで、兵も屈強であれば勝てない。木も旺盛であれば伐採される。ゆえに、強大なものは下にいて、柔弱なものが上にいる。
[第45章] 天之道、猶張弓也:高者抑之、下者挙之、有余者損之、不足者補之。故天之道、損有余而益不足。人之道、損不足而奉有余。夫孰能有余而有以取奉於天者乎。唯有道者乎。是以聖人為而弗有。成功而弗居也。若此其不欲見賢也。
天の道、猶弓を張るがごとし:高きは之れを抑え、下(ひく)きは之れを挙げ、余り有るは之れを損(へ)らし、足らざるは之れを補う。故に天の道、余り有るを損らし、足らざるを益す。人の道、足らざるを損らし、余り有るに奉ずる。夫れ、孰か能く余りを有し、而も以って取りて天に奉ずるは有るか。唯だ道を有(たも)つ者のみや。是を以って聖人は為して有せず、成功して居らず。かくのごとく、その賢を見せるを欲せず。
天の道とは、弓を張る所作と似ている。高ければ抑え、低ければ持ち上げ、余り有れば減らし、足らなければ補う。つまり天の道とは、余り有る所を減らして、足らない所をおぎなう。ところが人の道とは、足らない所からさらに減らして、余り有る所に差し出す。そもそも、自分の余り有るものを天に差し出すような人物がいるのだろうか。道を保持している者だけである。こういうわけで聖人は成し遂げても、その成果を自分のものとしない。成功しても、その功績に固執しない。自分が賢明であるさまを見せたがらない、それだけである。
[第46章] 天下莫柔弱於水。而攻堅強者莫之能先、以其無以易之也。柔之勝剛也、弱之勝強也、天下莫弗知也、而莫之能行也。是故聖人之言云曰。受邦之詬、是謂、社稷之主。受邦之不祥、是謂、天下之王。正言若反
天下水より柔弱なるは莫し。而れども堅強を攻むるに、之れ能く先んずるは莫し。その之れを易える無きを以って。柔の剛に勝つ、弱の強に勝つ、天下の知らざるは莫きも、而れども之れ能く行うも莫し。是を以って聖人の言が云うに曰く、邦の詬(そしり)を受くる、是れを社稷の主と謂う。邦の不祥を受くる、是れを天下の王と謂う。正言は反するがごとし。
天下で水ほど柔弱なものは無い。それでいて堅強なものを攻略すると、水より先に突破するものはない。なぜなら、水ほど柔軟に形を変えられるものが、世の中に存在しないからである。柔が剛に勝ち、弱が強に勝つ。天下で知らない者はいないが、実践できる者もいない。そこで聖人は言う。国のそしりを引き受ける者が、「社稷(国家が尊崇する神霊)」の主。国家の凶事を引き受ける者が、天下の王。正言とは、あべこべである。
[第47章] 和大怨、必有余怨。安可以為善。是以聖人執左契而不以責於人。故有徳司契、無徳司徹。天道無親、常与善人。
大怨を和するも、必ず余怨有り。安んぞ以って善を為すべけんや。是を以って聖人は左契を執りて、以って人を責めず。故に徳有るは契を司り、徳無きは徹を司る。天道は親無く、常に善人に与(くみ)す。
根深い怨みが和解しても、割り切れない思いは必ず残る。どうしてそれで善いことをしたと言えるのか。そこで聖人は、借用書をとっておくが、支払いを要求しない。徳の有る人は借用書を管理する。徳の無い人は借金を取り立てる。天の道は人を選り好みしない。常に善人に味方する。