ゴネ得の人の見分け方と取り扱い方

2018年6月22日

高圧的で理不尽な物言いを押し通すことで、相手を自分のペースに巻き込み、自分にとって都合のよい環境や条件を強要する人は少なからずいる。いわゆるゴリ押・ゴネ得の人々である。実のところ、こういう人々の本性を見抜く力が人を見る目の本質であり、こういう人々に対して免疫や耐性を持つことが人生の成功の要となる。

ゴネ得は中毒である

人間の才能の根幹は、これまでに集めた情報にもとづいて合理的な判断を下す能力である。この基本的な能力に関して誰彼においても大差がつかない。その上で、先天的な感覚の違い、後天的な知識・経験・技能の積み重ね、合理的な判断を下す上での障害の大小によって、個々人の能力に明瞭な違いが現れてくる。

とくに合理的な判断に関わる障害の大小は支配的な要因である。この障害の大小によって、自分とはまったく相容れない考えの人が着想した発想を共有できるかどうかの度量が決まってくる。この度量の違いによって、創造や創発に関する取り組み方がまるで変わってくる。

先天的な感覚を才能と取り違える人は多い。確かに遺伝的要素が人の能力に及ぼす影響は無視できないが、本質的ではない。すぐれた先天的な感覚があろうと無かろうと、非合理な既存の枠組みに安住してしまえば、一生涯にわたり底の知れた安直な発想に終始する。

「今さえ良ければよい、自分さえ良ければよい」という考えの人は、みずから非合理な既存の枠組みに安住することを宣言していることに他ならない。これでは将来性を見込めない。まともな人生を歩みたいのであれば、その甘えた宣言をすみやかに撤回すべきである。

独善は言うまでもなく危うい。独善の人はゴリ押・ゴネ得に対する嫌悪感や違和感を麻痺させやすい。なぜなら、ゴネ得に成功して一時的に有利な立場を与えられることが、「今さえ良ければよい、自分さえ良ければよい」という発想と調和するからである。この感覚に優越感と万能感を見出して、それを快楽とみなせば、さらなるゴネ得を求めることになる。

ゴネ得とは、権利を乱用したり、事実を誇張したり、事実を曲げたりすることで、ウソを押し通すことである。言った言わないの水掛け論に持ち込んで、ウソをウソで塗り固める。昨今、安倍首相の森友加計問題に関する国会答弁、財務省の理財局長であった佐川宣寿氏による森友問題に関する国会答弁、加計孝太郎氏による加計問題に関する記者会見など、一流のゴネ得の人々がその卓越した技能を日本国民の前で披露した。

結局佐川氏はヤブヘビとなったが、現実問題としてゴネ得はまかり通っている。

ところでゴネ得の当人にとって、ウソを擁護しなければならないことに心理的な負担がかかる。すなわち、その分だけ自分の脳内に非合理な思考回路が蓄積することになる。

慰安婦問題に執着する韓国市民や、沖縄基地問題に関わる活動家が、ウソを擁護しているとは決して言えないものの、あまりにも頑なに「日本人=悪」や「沖縄基地=悪」という短絡的な思考に終始しているように見受けられる。結果ありきの断定的な発想において、非合理で短絡的な思考回路が介在していることには疑いの余地がない。

才能豊かに生きるには、できる限りに脳内の非合理な思考回路を死滅させるほうがよく、できる限りに自分の思い込みを捨て去るほうがよい。地道に歴史的背景を精査して、短絡的で非合理な結論への誘惑を避けなければならない。この点においてゴネ得は毒である。ウソをウソで塗り固めることに慣れることは、自分の顔相をペテン師の仕様に仕立てあげることと同じである。

「今さえ良ければよい、自分さえ良ければよい」という考えのもとにいる限り、ゴネ得の指示に抵抗できない。ゴネ得がいかに理不尽であろうとも、現実にまかり通っており、それで旨い汁を吸っている人もいる。誰かのゴネ得に便乗することには旨味がある。日大アメフト部の学生らが監督とコーチの理不尽な指示に盲目的に従ってしまったことは、この好例である。

今回の悪質タックル事件を期に、日大アメフト部の学生らは性根を入れ替える貴重な機会を得たことだろう。ところが、日大アメフト部の前監督ともなると、もはやどうしようもないと思われる。それまでゴネ得で築き上げてきた名誉も地位も、すっかりとふいになってしまった。非合理な思考回路が脳内で肥大化している当人にとって、これまでの経緯を反省をすることよりもむしろ、ただただ現在降りかかっているバッシングに心底から当惑することのほうが支配的であろう。

「今さえ良ければよい、自分さえ良ければよい」という甘い言葉に誘われると、ゴネ得の深みにはまる。これは罠である。ひょんなことで社会的な信用が失われると、今後の人生において抜き差しならない禍根が残る。それで人生設計が破綻したとしても、脳内には理不尽な思考回路ばかりが蓄積しているために、さらなるゴネ得を求めることに制止が効かない。ひとたび、この魔の術中に深入りすると永遠に抜け出せない。

ゴネ得は前々世紀まで有効であった

教育を受ける意義とは、先人の勝ち得た知識や経験を追体験して、個々人の合理的な判断を下す上での目下の障害を取り除き、総合的な論理能力を鍛えあげることで、まったく新しい着想を共有できるだけの実力を蓄えることにある。この学習によって勝ち得た実力でもって、当人は目まぐるしく変わり続ける世界情勢の中で自分の確かな立ち位置を見つけて、創造や創発に関する取り組みを着実に進めることが可能となる。

しかしながら前々世紀までの教育には、それとは違った趣旨のものが含まれていた。欧米列強による世界的な奴隷制度や植民地支配の名残から、支配者階級に対しては高度な教育を与えて、被支配者階級には隷属することのみを教えた。これに関連した男尊女卑の発想のもと、女子生徒に高等教育を与える意義を理解できない人々もいた。

前々世紀まで、洋の東西を問わずに封建主義的な身分制度のもと、支配者階級と被支配者階級の区分が明確であった。支配者階級が被支配者階級に対してゴネ得を要求することは当然であり、被支配者階級は無知ゆえにそれに抵抗する力を持たなかった。その構図のもと「今さえ良ければよい、自分さえ良ければよい」という独善のもと支配者階級にこびる者が優遇される。

「見ざる、言わざる、聞かざる」が聖なる格言となったのは、被支配者階級の人々が支配者階級のゴネ得を制止する知恵も結束力も持たなかったために、支配者の独善のほとんどを見過ごさざるを得なかったからである。

前々世紀の社会事情は比較的に最近のことである。その因習が現在にも居残っており、支配者がゴネるのは当然であり、被支配者はコビるのが当然であるという図式が漂っている。この因習をもとに前国税庁長官と日大アメフト部の前監督はそれぞれの権威をたのんでゴネ得を押し通せると思い込み、そろって同じような愚にはまった。

いずれにせよゴネ得とは旧時代の権威主義に起因する因習であり、めまぐるしく世界情勢が移り変わっている現代において、足手まといである。したがって、すみやかに淘汰されて根絶されるべきである。

ところが「今さえ良ければよい、自分さえ良ければよい」が今時の発想として浮上してしまった。ゴネ得の温床が日本の若い世代において築かれてしまった。日大アメフト部はその氷山の一角である。

ゴネ得の人ほど常識的にふるまう

現代社会には、いまだに前々世紀のゴネ得の感覚が居残っている。近親者、上司、同僚、部下、顧客などの関係からゴネ得の人を探し出すことは、それほど難しいことではない。もしもゴネ得の人が最寄りにいたならば、ひょんなことで降って湧いたように厄介ごとが押し寄せてくることを覚悟すべきである。

ゴネ得の人はその虚勢とは裏腹に、実のところ、とても心細い内面を抱えている。非合理な思考回路が脳内を占拠しているので、自分独自の発想や着想に対して自信を持てない。すなわち自己承認が不得意であり、他者からの肯定的な承認を過剰に求めようとする。見栄えを気にして、空威張りすることに余念がない。それでいて至極に常識的に振舞おうと努力をする。

彼らにとっての常識とは、旧時代における支配者階級と被支配者階級からなる固定的な世界観である。この発想のもと上意下達の原則を絶対として、組織を硬直化させることに貢献する。ゴネ得の人ほど礼儀を重んじて、立場や責任を口実にした因縁をつけやすい。

内面が心細いので、ちょっとした脅威には脆弱である。軽微なことで被害者意識を掻き立て、ゴネ得の口実として利用する。

内面が心細いがゆえに、同類の人々と表面的な結びつきを深めようとする。群れをなすことでゴネ得は苛烈となりやすい。いわゆるイジメの構図である。

ゴネ得の人は自分独自の発想や着想に対して自信を持てないので、自分の終始一貫としたヴィジョンや考えを温めていない。独自性や独創性のない人間として惰性のままに年月を重ねている。そして明らかに無能な人物として成長し続けている。

繊細な内面性ゆえに、自分の無能に関連した事由ですぐに被害者意識を抱いてしまう。若くて有能な人材を潰すことに執心する。このような人が教育者のような立場に立ってしまうと、場合によっては、日大アメフト部の悪質タックルのような事件が発生する。

ゴネ得の人を当たり障りなく扱うことは難しい

ゴネ得の人は、当人の優越感と万能感が保たれている限り、親切に接してくれる。しかしながら、そのような都合のよい状況は長続きしない。ゴネ得の人から厄介ごとを吹っかけられたくないのであれば、すみやかにその人との関係を疎遠にすべきである。

ところが実際の問題として、上司がゴネ得であるからといって、すぐに異動や転職が許されるという話にはならない。親がゴネ得であるからといって、親子の縁を切れるという話にもならない。自分の子の担任教師がゴネ得であるからといって、その子をすぐには転校させられない。

他方で、ゴネ得は当人のためにならないことを、その当人に対して親身に説明することは危険である。他人を例にあげてゴネ得が毒であることを説明している限りであれば、当人はその話を聞いて優越感を味わってくれるので、調子よく相槌を打ってくれる。ところが、その話がその当人にまさしく当てはまることを説明する段に入ると、突如としてその当人が本性を現す。

安倍首相の森友加計問題に関連したゴネ得が現実にまかり通っているが、この状況を非難しても最寄りのゴネ得の人は改心してくれない。現代社会にゴネ得はつきものであると割り切った上で、いかにして自分がゴネ得の標的になった場合にその状況を切り抜けるべきなのかを考えるほうが賢明である。

あらかじめ誰がゴネ得の人であるのかを見定めておけば、こちらとしては心理的な負担を受ける準備を用意できる。そもそもゴネ得自体が理不尽であり、ゴネ得の負担を被ることを今さら理不尽と言っても仕方がない。つべこべ言わずにゴネ得に対峙する覚悟を決めなければならない。その覚悟があれば、その人の過大な欲求を真に受けずに淡々と冷静に処理することができる。こちらが冷静でいればいるほど、相手はひるみやすい。結果としてそれほどに心理的な負担を被らずに済む。

ところが、ゴネ得の人を常識的な人であると見間違えてしまうと、その人の過大な欲求を真に受けてしまい、その人の理不尽な鬱憤を直接的に受け容れてしまう。ゴネ得の人は弱い者には強い。ひとたび、こちらがひるむと、その仕打ちは際限ない。ついには心理的に圧迫されて、日大アメフト部の悪質タックルのような事件に至りかねない。

ゴネ得の人の取り扱いにおいて正攻法はない。ゴネ得の当人が、前国税庁長官の佐川宣寿氏や、財務省の前事務次官の福田淳一氏のような大物であると、おそらく半沢直樹ですら、どうにも手に負えなかったであろう。

ゴネ得の人がいかに日本国の生産性の低迷に貢献しようとも、佐川氏と福田氏が例のように、出世する者は出世する。それを理不尽と言っても、何も始まらない。しかしながら両名は、台風のごとくに猛威をふるい続ける安倍首相の森友加計問題の巻き添えと余波をくらって呆気なく退治されてしまった。

ゴネ得に巻き込まれないためには、自分自身の発想を捉え直したほうがよい

現実的に重要となるのは、ゴネ得の人をどう取り扱うかではない。自分自身からゴネ得に呼応する要素をいかに死滅させるかにある。

非合理な思考回路が過度に発達した人がゴネ得であり、その人はますます非合理な思考回路に執着するので、非合理な発想に支配されるようになる。ところで、多かれ少なかれ、誰しもが同様の非合理な思考回路を温存している。

「世の中とはこういうものだ」、「普通はこうである」、「常識的に考えてこうである」という考え方は、おおかた非合理である。その発想の根拠となる考え方や背景をすっ飛ばして、事実関係を紋切り型に決めつけている。このような短絡的な発想が自分の内側から湧き上がれば、その都度に違和感を抱くべきである。

合理的な思考を好む人は、その非合理な思考回路に違和感をもつので、それを根絶することに意識的になれる。一方で非合理に慣らされていると何ら違和感を抱かない。そもそも何が非合理であるのかを自覚できない。

ここにおいて学習なり教育なりが重要な働きをなす。原因があり結果がある。背景があり事象がある。この関係性を学ぶことでもって合理的な思考を養える。

この関係性をないがしろにすると、韓国の慰安婦問題の活動家のように「日本=悪」や、沖縄基地に反対する活動家のように「米軍基地=悪」という短絡的な図式にはまってしまう。

いくら学習なり教育なりに注力したとしても、教科書において「日本=悪」や「米軍基地=悪」と書かれていたのではどうしようもない。しかしながら合理的な思考を好むことで、こうした短絡的な図式に何ら根拠のないことを明らかにできる。これが一般に言う「常識を疑え」である。固定観念を打ち崩すことは、実のところ半端なことではない。しかし、これこそが才能を豊かにする実践的なトレーニングである。

ゴネ得の人は、こうした合理的な思考を好む人を「面倒臭い人」として軽蔑して嫌悪する傾向がある。彼らは、ウソで塗り固められたウソに執着しており、自分でも心底ではそれがウソではないかと懸念している。後ろめたい気持ちが常につきまとっており、自分の考えに自信を持てない。それを直接的に非難されることを極端に嫌う。

ゴネ得に巻き込まれないためには、自分がゴネ得の人から敬遠される人物となることが、もっとも当たり障りのないスマートな方法と言える。