名古屋哲学会講演会・中部哲学会共催公開シンポジウム「身体、表現、イメージ」

2018年9月30日(日)、台風24号の上陸に伴って、開催される予定の中部哲学会年次大会が中止となり、企画されていたシンポジウムもまた開かれることなく消え去ろうとしていた。大会開催中止の決定から程なくして提題者の方々から中止を惜しむ声があがり、メール上で、互いの予稿をめぐって議論が展開され始めた。企画者の松井と大会実行委員長の奥田はこの展開を重く受け止め、別の形でのシンポジウム開催の可能性を模索した。

その結果、毎年、年末年始頃に開催している名古屋哲学会講演会との共催という形で、消え去るはずだったシンポジウムが開催されることとなった。奇しくも、本シンポジウムは、第60回名古屋哲学会講演会という記念の位置づけをも有する。

予約不要、参加無料。一般聴講歓迎。ぜひ足をお運びください。PDFによるご案内はこちらです。

  • 日時:2019年2月23日(土)14:00-17:35
  • 場所:南山大学D棟DB1教室 http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/navi/nagoya_main.html?4_8_1
  • 主催:名古屋哲学会講演会、中部哲学会
  • 司 会:松井貴英(九州国際大学)
  • 提題者:入不二基義(青山学院大学)、北村明子(信州大学)、青山太郎(名古屋文理大学)
  • プログラム
    • 14:00-14:05 開会の辞 中部哲学会委員長 宮原勇
    • 14:05-14:15 趣旨説明 松井貴英
    • 14:15-14:45 入不二基義「レスリングする身体」
    • 14:45-15:15 北村明子「未知の身体力〜ダンスとの出会い〜」
    • 15:15-15:45 青山太郎「触媒としてのカメラと開かれる身体―― 一と二のあいだを考える ――」
    • 15:45-16:00 休憩
    • 16:00-16:30 パネルディスカッション
    • 16:30-17:30 全体討論
    • 17:30-17:35 閉会の辞 名古屋哲学会講演会世話人 奥田太郎

    シンポジウム「身体、表現、イメージ」開催趣旨文

      松井貴英(九州国際大学)

        たとえば、プラトンにおいて魂の思惟の働きを妨害するものとして扱われたり、近世以降においてはデカルトに代表される二元論的な心身問題の文脈で語られたりしたように、身体は、哲学の対象として、伝統的に、魂や心・精神との対比において考察されてきたように思われます。現代では、そのような二元論的対立への疑問から、身体は、経験の媒体として、生と死の境界で「私」としての身体として、また美術や音楽等、文化の領域における身体性といったように、考察の方向性が多岐にわたるようになってきています。今回のシンポジウムでは、身体の具体的なありようについて、表現やイメージ、また身体とパフォーマンス、あるいは物語やフィクションといったものとの関わりを考察の対象としつつ、身体について考察していくことを目指します。それは、身体を「何かを語るもの」であると解する試みであるとも言えるかもしれません。

        そのようなアプローチから身体に関して考察するならば、例えば、パフォーマンスという語でどのようなものを表すかも問題となるように思われますし(すぐに思いつくものだけでも、サッカーやレスリング等スポーツにおけるパフォーマンス、演劇や舞踊によるパフォーマンス、またプロレスのようなそれらが融合しているようにも思われるもの等が挙げられましょう)、身体が表現しているものあるいは語っているものの身分の特定も問題になるでしょう。さらには、それが身体の領域を脱することがある場合について考えることにもなるかもしれません。このような身体に関する考察には、どのような可能性があるといえるでしょうか。

        それは「身体とは、何をどのようなものとするものであろうか」という問いであるようにも思われます。本シンポジウムでは、身体そのものについての考察はもちろん、上記のような身体から派生するものについての考察、また身体による実践へのアプローチなど、身体を多角的に捉え直す機会としていくことを目指したいと考えています。

            レスリングする身体

              入不二基義(青山学院大学)

                「レスリング(wrestling)」は、領域特定的な意味と通底普遍的な意味の両方を持つ。領域特定的な意味での「レスリング」とは、一定のルールに基づく特定の格闘競技・種目のことを表す(オリンピックルールでは、フリースタイル・グレコローマン・女子の三種に区別される)。一方、通底普遍的な意味での「レスリング」とは、その他の格闘競技・種目の中にも現れる基礎的かつ汎用的な身体所作を表す。たとえば、レスリングではない別種の格闘技の試合においても「レスリングが上手い」と言われる場合が、それに相当する。また、通底普遍的な意味での「レスリング」は、ルールやスタイルの違いも超えたものであり、その意味では相撲もレスリングの一種であるし、着衣のレスリングもある。さらに、通底普遍的な意味での「レスリング」は、格闘技でさえない領域へも浸透していて、二つの身体の絡み合いにおける固有の展開を表す。たとえば、親子のじゃれ合いも恋人どうしの性的行為も、「レスリング」と称されることもある。

                同じく、動詞形の「レッスル(wrestle)」もまた、領域特定的な意味と通底普遍的な意味の両方を持つ。領域特定的な意味での「レッスル」とは、ルールによって制限された、レスリング競技内での格闘行為を表す。一方、通底普遍的な意味での「レッスル」とは、特定のルールやジャンルを超えた「取っ組み合う行為」そのものを表す。だからこそ、レスリング競技ではない他の格闘技の中にも「レッスル」は出現するし、「レッスル」は多種多様なルールやスタイルを纏いながら同じ行為として(人類史的な水準で)出現し続ける。さらに、「取っ組み合う行為」としてのレッスルは、必ずしも「格闘」である必要もなく、皮膚接触的な密着コミュニケーションの遂行でありうる。だからこそ、じゃれ合いや性行為とも地続きなのである。また、必ずしも「対人行為」である必要さえなく、困難な問題や課題に「取り組む」ことも「レッスル」と表現できる。

                「レスリングする身体(wrestl(e)-ing bodies)」もまた、同様の領域特定性と通底普遍性の両方を持っている。「レスリングする身体」とは、特定の競技・種目を実践する身体に留まることなく、いわゆる「組み技系格闘技」と言われるもの全般に潜行する身体のあり方や技法を表すし、さらに「レスリングする身体」は、じゃれ合い・絡み合い・密着し合う行為群の内に広く浸透する接触身体のことでもある。その結果、「レスリングする身体」の広がりは、子ども的な身体の古層を介して、さらに動物的身体の次元へも延びている。私は、10年ほどのレスリング・フィールドワークを通じて、そのような身体の重層性を経験することになった。レスリングの観点から見えてくる身体は、当然のことながら一個体をはみ出すし、さらにはヒトという種をもはみ出す。そして、そのはみ出し(連続性)は、翻って「レスリング」というジャンルの(アメーバ的な)あり方にも通じていて、たとえば「プロレス」という独特の表現形態もまた、その連続性の相の下で見ることができる。

                    未知の身体力〜ダンスとの出会い〜

                      北村明子(信州大学人文学部)

                        ダンスと出会うこと。これは、「ダンス」を生み出す行為の果てに、最終的に得ることができると意図された、あるいは予期せぬ瞬間であり、ダンス作品において、ダンサーや作り手にとっても、観客にとっても最も期待されることである。これは次なる動きへと身体が突き動かされていく瞬間、身体の完全なコントロールから逸脱すること、決められた拍でも音楽の拍でもないリズムを感じて、身体が高揚する瞬間、いわゆる感情を表現することからも離れて、身体自体が身体の動きの流れの中に浸される瞬間、自明の感覚を揺るがされながらもその感覚を更新していくことに喜びを感じる瞬間である。この身体感覚がなければ、ダンサーが行う運動は単なるルーチンワークの繰り返し、あるいは、決められた特定の意味に到達するための一手段、あるいは何の意味もなく身体を消費していくものに過ぎなくなってしまう。

                        ダンスにおける身体を突き動かす衝動とは、身体の運動の加速や高度な技術の達成によってのみならず、身体とその外部にあるものとの関係性の中に新たな発見が見出された瞬間の、さらなる運動の連続性が生み出されていく意識と無意識の錯綜した混沌への希求、越境する快楽とも言える。

                        いわゆる振付とは、ダンスのフォルムを決めると同時に、「ダンス」との出会いが生じるための仕組みを内包し、どんな振付であっても必ずこの両者が睨まれている。ダンスのフォルムとはダンスとの出会いのために通過する、身体の動きに対する指標のようなものであり、明瞭なものであってもなくても(いかなる速度であっても)、それはダンスにとっての最終目的とはなり得ない。フォルムを通過することにより、身体の運動は時間的継続性を持ち、身体の行為に否応なく意味を持たせる。ダンス作品を見る観客は、身体の動きに意味を見出したり、まさにダンスとしか言いようのない感覚を体感したりするわけだが、伝統的なクラシックバレエや、日本舞踊などのダンスの既成の動きとは離れて、身体語彙を模索する方向にあるコンテンポラリー・ダンスにおいては、そのような状況を生み出す構造は単純なものではない。既成のダンスの動きを高い技術によって行うだけでは達し得ない。ダンスとの出会いには、作る者も、見るものもすでにあるダンスの語彙における身体の動きのレベルに加え、さらには動きや作品のコンセプトレベルでのダンスとの出会いを期待し、探求するのである。それはある意味、自己からダンスへのアプローチそのものを持ってダンスとの出会いが成立するとも言える。

                        ダンスは身体を(表現)媒体とするが、そこに身体がある、動きを伴う身体がある、ということだけでは生じることはない。身体の積極的な行為によってその物質性を超え、初めて出会うことができる現象である。言い換えればダンスは、徹底して身体にまつわる出来事であると同時に、身体から生まれてそこから発せられるもの、身体の外に在るものと身体との作用・反作用から生まれ出る出来事である。
                        本発表では、“ダンスとの出会い”という快楽がどのようなものであり、それが何に至る可能性があるのか、ダンス創作現場における振付家・ダンサーの立場から考察したことを紹介したい。

                        うつろいゆく身体、多様化するダンス表現の中で、それらを言語化するのは困難である。しかし、身体感覚の更新による新たな身体現象の創出が、身体そのものの衝動(新たな感覚を発見し感じたいという衝動)と思考によってダンス領域においてこれまでなされてきた事実、そして今後もなされ続けていくであろう、ということに注目することで、身体のもつ力とその意義についてより広い視野から考えてみたいのである。

                            触媒としてのカメラと開かれる身体―― 一と二のあいだを考える ――

                              Camera as catalyst and Body affected 
                              Essay on the territory between MONO and DI

                                青山太郎(名古屋文理大学)

                                  本発表では、知覚や思考の拠点としての身体がカメラという機械を介して変容する過程について、いくつかの事例を挙げて報告する。
                                    ここで念頭に置いているのは、映像制作における「撮る」という行為と「分かる」という感覚の関係である。眼前のイメージから何かを受け取り(あるいは掴み取り)、新たな表現へと昇華していく方法であるという点においては、映像は決して特異なメディアではない。しかし、言葉や絵筆などと異なり、実写映像の撮影では必ずその出来事に臨在し、そこに現れている「何か」をリアルタイムに写し取ることが求められる。とりわけドキュメンタリー要素の強い映像制作においては、「撮る」と「分かる」がある次元においてタイムラグなしに結びついている必要がある。
                                      他者たる被写体を「撮る」というそうした行為には多種多様な方法/方法論があるが、そこには「じっと待つ」と「ぐっと歩み寄る」という少なくとも2つの側面が含まれていると思われる。カメラワークとしては、被写体となるものの動きに依拠し、そのどちらか一方が強く顕在化することが多い。単純化していえば、たとえばカメラを三脚に固定するか、手で持って自ら動くかという選択は被写体の動きの性質によって判断され、そのまま映像表現に反映される。

                                      しかし、カメラと接続する身体はこの両方のふるまいを被写体やそれを中心とする出来事に対して同時に(あるいは交互に)なしていると考えられる。それはどちらも、撮影者が被写体に(ときに被写体もまた撮影者に)「合わせる」という運動を成立させるためのふるまいなのである。

                                      この「合わせる」という動きは、必ずしも合理的な判断や意識といったものを介さず、撮影者と被写体の運動や思考が同期し、まるで混ざり合っているかのような感覚をしばしばもたらす。同時に、「合わせる」においては、カメラや周辺機器の操作という、被写体の動作とはまったく別種の行為を冷静かつ精確に実行することを可能にする、出来事全体への俯瞰のようなものが生じている。言い換えればそれは、被写体を中心とする「いま、ここ」への没入とそこからの離脱が同時に発生しているということである。

                                      ここで自然的身体というものを、習慣化された感覚運動図式をそなえたひとつの機械だと捉えてみる。それはほとんど自動的に主体と客体を分離し、自らの行動に資する情報として対象を認識する。ときにはある種の過剰なイメージに触れることで、思考停止や行動不能に陥るなど、身体的感覚運動の連鎖が中断されることもある。しかし、いずれにしてもそれらは環境依存的に構築された機械的反応だと捉えることができる。

                                      これに対して、カメラを介して「撮る」という行為にはその感覚運動図式を組み換え、新しい回路を挿入する可能性があると思われる。つまり、眼前のイメージに圧倒されるのでもなく、あるいはそれを自らの身体と切り離すのでもなく、まさしくその「あいだ」の領域を創出し、そこに身体を接続する可能性である。そしてそこには、能動あるいは受動のいずれかに回収されるのではない思考――身体的に「分かる」――の契機があるように思われる。
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