top > lecture > 科学技術論演習Ⅰ> 科学技術論演習Ⅰ:第4回(12月10日)

今回は、関連する文献をみなで読み、より視野を広げ、対象に対する理解を深めます。前々回に「これは検討しましょう」となったトピックのうち、以下2項目について検討します。

関連文献として読んだのは下記2本です。報告者2名がそれぞれレジュメを作成し、内容について報告してくれました。

佐伯(1992)

まずは佐伯(1992)。UI/UXについてこうもいろんな業界・人が議論していたひとときを経た(あるいはいまも?)現代の私たちから見ると、トピック自体は今さら感はあるものの、刊行から26年経った今読んでもなかなか興味深い論点が含まれています。

論文内で本人も「分析の発見法的側面の方に注意を向けて」ほしいとう点を強調したうえで「あえて戯画風に類型化」したと述べており(佐伯 1992, 11)、自覚的であるとはわかっていもなお文化概念使用のどうしようもない曖昧さはやや気になるものの、ユーザ側の文化と企業側の文化の交流の場としてインタフェースを考えるというのは、今や多くの人がおそらく(現代の基準からすれば当たり前ですが)同意する主張でしょう。

さて、この論文の(本講義にとっての)興味深さは、ハイテク機器に見られる「ブラックボックス主義」に関する議論をまとめ、それに対する佐伯の見解が述べられている点にあります。ブラックボックス主義については、初回の講義で読んだ小林(1998)を復習しましょう。小林(1998)ではヒューマンインタフェース研究におけるブラックボックス主義についての先行する議論がまったく参照されていなかったので、ここで両者を接合して考える視点を得たいと思います。

佐伯は「ブラックボックス主義」について、「その機器がどういう仕組みと原理で作動するのかについて、ユーザには一切『わかる必要がないこと』ときめつけ、ユーザにはひたすら『操作の手順』のみを明確に提示すればよい、とする考え方」(佐伯 1992, 17)と定義しています。そのうえで、このブラックボックス主義に対して批判を行うわけですが、それに対する批判的応答を以下3つにまとめています(以下、秋谷による要約)。

1.と3.については、「素人の科学的知識の欠落」というよりは、不慮の事態に対してユーザを無知の状態にとどめようとしていることが批判の主眼であると述べています。2.については程度問題であるとばっさり切り捨てています。そのうえで、ブラックボックス主義を、「作業が非定常的な、不可測的な事態…トラブル、エラー、状況の変化、目的の変化、など…で作業がブレイクダウンしたとき、『これこれこういう理由で、ここは対処すべきだ」という処方が出せないし、そういうときの対処の仕方の『理由』となるものを知ることができなくなっているものを指す」(佐伯 1992, 19)と再定式化しています。ここまで読む限りでは、2018年時点にいる私たちからすれば、「そらそうやな」で終わってしまうところですが、「しかし、本当はそうではないのだ…[略]…もっと本質的なところで『ブラックボックス主義の問題」(佐伯 1992, 19)がある、と。どういうことでしょうか。

Wengerの議論が引かれていたりしてなかなか難しげに感じますが、つまりは、「Wengerは道具はつねに認識を拡大させていくときの媒体であるとみなしている」(佐伯 1992, 20)という点を踏まえたうえで、「ブラックボックス主義を批判する根拠は、それがユーザにある限定した操作だけをさせて、あらかじめ設定された世界にユーザを閉じ込め、『認識世界の拡大』をストップさせる、という点にあるとすべきであり、仕組みや原理を明らかにしていない、ということだけをあげるわけにはいかない」ということです。この批判は取扱説明書にも向けられており、取説における操作のステップをただ命令調で述べる記述はよくないと佐伯が断ずる理由は、「ユーザの認識が真性の文化の営みに拡大していこうとすることを、ピタリとブロックしているからにほかならない」と述べています。だから、デザイナーは実際のユーザの道具使用の「活動の流れ」をつぶさに観察し、そこを出発点に、「ユーザの認識が真性の文化の営みに拡大していくこと」を可能にするようなデザインを考えましょう、と。

この論文は「文化」という扱いが難しい概念を使うことにより議論の抽象度が上がり、無駄に難しくなっている側面がありますが、ここでは、ユーザが実際に特定の道具を使用する活動の文脈のなかで、当該組織やコミュニティにおける慣習や作業のルーチンといったものにうまくそれを馴染ませることが可能になること、そして、それによってさまざまな活動が可能になることを「真性の文化の営みに拡大すること」だと理解しておけばさしあたりは問題ないかと思います。いや、やっぱり難しいですね。「文化」のような曖昧な概念使用はいかなる目的があっても慎重にありたいものです。

もっとも、この講義においては、ひとまず「実際にどうデザインすべきか」は主たる課題ではなく、取扱説明書に書かれているインストラクションがいかなるものなのかを徹底的に解剖することにあるので、ブラックボックス主義の良し悪しについてはいったん脇に置いておきましょう。実際、佐伯(1992)単体では、具体的にどのようなインタフェース(&取説)がよいのかについて実例が示されず、ほぼステートメントに終始しているので、実際どうなるとよいのかよくわからないということもあります。

さて、佐伯(1992)の議論の一部――「ブラックボックス主義はユーザの行為の可能性を、デザイナーが設定した機能論理的関係にのみ閉じ込めている」という主張はどのように評価できるでしょうか。前回読んだLivingston(2008ab)の議論では、インタフェース(&取説)のインストラクションは、ユーザの行為を制限するものというよりは、ユーザの行為を可能にするリソースとして参照されること、そして、目的を達成するために、インストラクションに書かれていたこと以外のことをユーザは実際にはたくさんやること、インストラクションはインデキシカルな性質をもつものであることが示されていました。両者はいずれもインストラクション(あるいはインタフェース)の機能論理的関係に焦点化したインストラクションのデザインに注目しています。しかし、観点や立論は異なります。この違いはなにによってもたらされているのでしょうか。比較して読んで、考えてみましょう。よい機会なので先に配布したLivingston(2008ab)のレジュメと、このサイト上の講義記録「3」を読んで復習してみるとよいと思います。

中村(1999)

Livingston(2008ab)と(対象は異なるが)ほぼ同じ議論をしているのが中村(1999)です。Livingstonのような議論にもう少し馴染めるように、次は中村(1999)を読んでみます。

科学的合理性と常識的合理性の弁別にまつわる議論の系譜については、おそらく初めて聞いた話だと思うのでちょっととっつきにくかったかもしれません。ポイントとしては、「どんな科学実践の中にも常識的合理性が埋め込まれていること」(中村 1999, 56)です。それは社会科学の実践もまた例外ではない。それを例証する。その対象として、社会理論における図を取り上げる。以上が著者の問いと具体的な分析対象になります。この講義に関連して重要なことは、図を読み解くという実践を可能にする図に埋め込まれている「常識的合理性」はいかなるものなのか、という点です。

さて、中村(1999)では、社会学の論文で用いられている図や表、グラフといったものを、「『現実』の『表象』としての役割が何らかの形で与えられている」(中村 1999, 57)とします。したがって、その表象が現実を把握したものになっているかどうかの基準が必要になるとも言えます。

表においては、以下のようなことが言えると著者は述べています。すなわち、「読者は、前後の文章にちりばめられた諸概念と、表におけるその他の要素がいかなる関係にあるのか理解するために、前後の文章と表とを行き来しなければならない…[略]…この特性を読解の予期的/遡及的特性と呼んでおきたい」(中村 1999, 58)、と。Livingston(2008)で述べられていた「実践的妥当性を探すワーク」と似た話です。ただし、後者には「作業順」が説明書に埋め込まれていました。順番に見ることを強く要請するデザインのものについては、おそらく「実践的妥当性を探すワーク」もまた強く要請されるし、それの達成の有無が「読み解く」作業において決定的に重要になるかと思います。では、社会学論文における表や図はどうでしょうか。「実践的妥当性を探すワーク」を要請するものなかどうか。その強度はどのようなものか。このあたりを気にしておきましょう。

社会学における図は、「理論研究者が自ら提唱する概念を説明したり、または特定の理論家の概念の複雑性をわかりやすく呈示するためにしばしば用いられる」(中村 1999, 58)ものです。この点が、自然科学における「現実-表象」の手続きと異なる点です。自然科学では、写真画像(これ自体も本来は「表象」なのですが)と図を並置することにより、前者を「オリジナル」すなわち「現実」、後者を「表象」として見るように方向づけます。また、「表象」は「現実」から見るべきポイントを具体的に取り出し、わかりやすくしたものであるという点で、指示的関係にあるとも言えます。しかし、社会学理論では、そもそも「表象」に対置される「オリジナル」すなわち「現実」を置くことができません。その点で、自然科学における図と同じように扱うことはできません。著者は、社会理論の図の特徴を以下3点でまとめています(中村 1999, 60)。

以上の点により、社会理論における図は「空虚である」と述べます。私個人としてはかなり強く同意するところであり、この手の図を見るたびに「なんだこの図」と毒づいていたわけですが、著者は私とは違うので、それを踏まえてしっかりと分析に進みます。「読解の予期的/遡及的特性」がないならば、テクストから切り離して、図それ自体の理解可能性がいかにして成立しているのかを検討しよう、という方針です。その際、Michael Lynch(1991, 10-11)で述べられていた、「図が端的に理解できるのは、ラベルのついた図形・線・矢印・それらの配置といった、我々が日頃から慣れ親しんでいる数学の校正的特性からその図が成り立っている」(中村 1999, 61)という主張を軸に据えます。著者は、その主張を以下4点に定式化します(中村 1999, 61)。

著者はこの4点を出発点に、社会理論における図を分析していきます。いろいろ分析がなされますが、面白いなと思ったのは、「図において現れている同等性・非同等性・対称性・非対称性の全てが議論において用いられるとは限らない」(中村 1999, 67)という箇所です。理論家が期せずしてか、あるいは狙ってやっているのかはわかりませんが、しばしばやる「図にする」というワークは、そこで用いられる線や矢印の数学的特性により、本文に書かれていない要素を読み込むことをも可能にしてしまいます。この図とテクストの不一致に対して、読み手は「何らかのやりすごしや解釈を行う」(中村 1999, 68)というわけです。スムーズな読みを阻害するようなこの特性は、まさに「図と前後の議論との予期的/遡及的特性」である、と。この点で、実は「空虚ではない」という知見が導かれています。

もっとも、数学的特性すべてが読み込まれるわけではなく、その多くはその読みにおいて(「比率」など一部の例外を除いては)消去されるとも指摘されています。「計算可能性としての合理性は社会学の図に関わる議論の関心事では決してない」(中村 1999, 70)わけです。どういうことかというと、「数学的構成要素を用いつつもその計算可能性を消去」(中村 1999, 70)するというワークがそこでなされていると指摘できます。

実際、「数学的構成要素を用いつつもその計算可能性を消去」(中村 1999, 70)するというワークは、社会理論家だけでなく、私たちも図を作る際によくやってることだと思います。もっとも、そこで使用された数学的構成要素が当該図の読みにどれほど参照されるものであれかは個別に検討する必要がありますが。

では取説ではどうだろうか?今回の議論を踏まえて分析してみると楽しそうですね。次回はまた別の文献を読みます。