Ch.11の最後に「Ch.12を読む前に、白鳥を実際に真面目に折ってみるべき」(p.89)とあったので、みなで実際に折ってみます。折り紙は通勤途中に買いました。上記教材で引用掲載されている「白鳥の折り方」の図自体のわかりにくさもあってか、受講者のおよそ半分しかゴールできませんでした。ちなみに私はもっとも早い段階で折れなくなり脱落しました(左端画像。解体してどこでミスをしたか突き止めようとしたものの、無駄な努力に終わりました)。
真ん中の画像は「ゴールしたっぽいやつ」です。私同様(といっても、私よりはマシでしたが)ゴールにたどり着けなかった人の何人かは講義中に自身の折りかけのものを破壊したり、蛙などまったく違うものに変えてしまっていたので写真は残せませんでした。気持ちはわかります。あんなのわかんないよな。
もっとも、「ゴールしたっぽいやつ」もよく見るとみんな同じではありません。半分ぐらいは「ゴールとして示された形状に似せた」だけで、おそらく正しいものではないことがわかります(右端図)ちゃんとしてるっぽいやつも、お手本通りなものからクタ~としてるものまでいろいろです。以上を準備運動としてやったうえで、「1.インストラクションに従った「生きられたワーク」のいくつかの短い記述」について見ていきます。
折りながら自分がなにをどのように見て、どのような推論を働かせ、どのように一定の判断を導いているのかを意識しながら折ってください、という事前に指示していました。それが効いたのかどうかわかりませんが、Livingstonが言うところの「インストラクションに従うために多くの作業をせねばならない。多くの詳細は除外されているようである。 私たちは指示に示されているイラストを『達成する」』ためにワークしなければならない。 私たちは何をする必要があるのかを見つけねばならない」(p.97)「インストラクションは過程しか示していない。インストラクションの実践的妥当性は、インストラクションが私たちに何を指示しているかを発見する私たち自身の作業の中に組み込まれている」(p.98)という記述は実感としてわかるようでした。この「発見する」という点は結構重要そうです。
「発見する」というワークで発見されているのは何かというと、「論理的特性」です。これについては、「初心者として、私たちはインストラクションの秩序を見つけるために実際のワークをする必要がある。これを『インストラクションの達成された秩序の働き』と呼ぶことができる。発見された論理的特性は、それらの指示に従うことを試みるワークの内部に埋め込まれているのである」(p.101※一部略)と説明されています。
インストラクションが作業の流れのどの部分に埋め込まれているのかわかるし、説明書に書かれている他のインストラクションや図と結びつくものとして見ることもできる。これができれば、インストラクションが何を記述しているのかを理解する準備はある程度整う。そしてもし理解できたならば(つまり、そのインストラクションに従って作業を正しく進められたとみることができるならば)、私たちはそのインストラクションの実践的妥当性をしっかり見つけることができたということになる、というかんじでしょうか。ちなみにこの妥当性を見つける能力が「スキル」である、とLivingstonは言っています。
次に「埋め込まれたコーディネート化」について。
これはけっこうシンプルな話で、「インストラクションを行うマテリアル(説明書と関連イラストの両方)が、私たちが折りたたんでいる物理モデルを『コーディネート』していること」(p.102)です。物理モデルと言われているのは、手元でまさに白鳥になりつつある折り紙のことです。そこには3つの重要な観点があるとされます。
インストラクションと物理モデルは異なる種類であること
コーディネートは絶え間なく精緻化されており、ステップごとに変更される可能性があること
(両者の)対応は自動的なプロセスではないこと。
だから、私たちは、インストラクションと物理モデルの対応を見つけるための作業をしなければならないということです。インストラクションや図を見ながら、折り途中の折り紙をひっくり返したり見比べたりしていたことを思い出しましょう。まあ当たり前の話といえばそれまでですが、実際にこういうことをやりますよね、という話です。
この対応付けの作業において、私たちは、インストラクションのインデックス的表現と視覚によって得られた「見え」との関連付け作業をやっているよ、とLivingstonは言っています。インデックス的表現とは、意味の明確さがその使用状況に依存する表現のことです。
これについて、Livingstonは「ルビンの壺」を例に出して説明しています。「2つの顔のシルエットとして図面を見ると、図面の詳細が2つの額、2つの鼻、2つの口、2つの顎として見える。しかし、絵を壺のように見れば、いずれも壺を構成する部分に見える。 図面の詳細をどのように見ているかは、図面全体をどのように見ているか、また相互に、図面全体の構成は細部がどのように構成されているかによって決まる。細部は、図面の局所的、即時的な知覚に対して『インデックス的』である」(p.105※一部をわかりやすい表現にあらためた)、と。ウィトゲンシュタインのウサギアヒルの図の議論と同じ感じですね。
この観点で見れば、折り紙の白鳥のインストラクションもインデックス的表現で構成されていることに気づきます。説明書全体はゲシュタルトであり、インストラクションはその構成要素である、と。実際の作業では、特定のインストラクションの前後を見て自身の作業の妥当性を確認したり、なにをすべきかを探したりしていたと思いますが、そいうことができていたのは、当該インストラクションをそのようなものとして見ていたからだ、ということになります。
デザインの観点でいえば、白鳥の折り方の説明書には、こうした理解の仕方を読み手に方向づけるような工夫が随所にあったことにも気づきます。番号をふるとか、2つの作業を一続きの文章で表現するとか。シーケンシャルに見えるようにするということは、「インストラクションが有する絶望的なまでにインデキシカルな特性を明確にすることができるように」(p.107)するということなわけです。
ずいぶんと当たり前のことを難しげに、仰々しく説明しているなと思ったかもしれませんが、そもそもあまりにも当たり前のことに注目し、さらにそれを言語化するのは実は難しいのです(「当たり前」なものって、そういうことを普段しなくて済んでいるから「当たり前」なのです)。今日の目的はもちろんインストラクションの特性を理解することにありますが、副次的目的として、そういう観点で物事を捉え、かつ実際にやっていることに即した言語化をする練習をしているのだ、ぐらいに思ってください。
次回も文献講読です。今度は受講者のみなさんにバトンタッチです。