2024年5月1日  (水)


 『合気会の段位こそメジャー・タイトル』


合気道や柔道などの武道には修行者の技量を表す段位と云うランク付けがあります。


もちろん、どんな世界にも格差やバラツキがあり、例えば相撲の横綱でも後々の時代まで語り継がれる大横綱、名横綱もあれば『え?そんな横綱も居たっけ?』なんて人々に忘れ去られてしまう様な力士だっている訳で、それはボクシングのチャンピオンやオリンピックのメダリスト等についても言える事です。


ですから、同じ合気道五段、柔道五段と言っても、そのレベルに差があるのは不思議でも、不自然でもありません。自惚れ過ぎるのも良くないし、卑下する必要もないのです。自分自身の段位に誇りを持ちましょう。


そして、忘れてはならないのが、柔道なら講道館、合気道なら合気会と云う本家本元の発行する段位には格別の権威があり、それは日本国内のみならず、世界的規模で通用するライセンスであると云う重要なポイントです。


世の中には、講道館や合気会以外にも「柔道◯段」「合気道◯段」なる称号を出している団体が存在します。そう云う団体から貰った段位では、信用性に疑問符が付く場合がありますから、注意すべきです。


武道を修行するからには、メジャー・タイトルを目指しましょう。 



2024年4月15日  (日)


『行儀や礼儀、道徳や倫理について』


子供に武道を習わせる理由の一つに〝礼儀正しくなるから〟と云う事を上げる親御さんが居られますが、そもそも、人と接して礼を取り、人と付き合う上で節を弁きまえるべきを教えるのは家庭HOME

の責任であり、親の責任であって、道場に入門する以前の問題です。


もちろん〝武道は礼に始まり、礼に終わる〟と、言われる様に、武道には武道独特の礼法があり、武道修行者が礼節を重んじるべく教えられるのは当然ですが、人間としての社会常識は親が教え、各人が幼少期から自得して行くべきが本筋です。


学校で問題が起これば教師の責任、部活動で問題が起これば監督の責任、相撲部屋で問題が起これば親方の責任…と、世間は指導者責任を論げつらいますが、もちろん指導者に責任があるのは当然ながら、結局は各人の責任、自覚が第一であるべきなのです。


人の体や心を傷付けない、自分より弱い立場に在る人を苛めたりしない、人に迷惑を掛けない、人と人との約束を破らない…こんな事は最初から人間一人一人が自覚して置かねば成りません。


斯くの如き自覚の無い人には、そもそも、武道に限らず、何かしらの物事を学ぶ資格など無いのです。


こう話すと、親に虐待され、酷い家庭環境で育った子供は、どうなんだ?世の中には親の無い子供だって居るじゃないか?と、言う人が出て来ますが、それこそ国家と云う家〝家庭〟の問題です。これは社会全体で考えるべき又別の次元の事柄です。 

2024年4月1日  (月)

他武道にも見られる合気


勝率が九割を超える幕末の強豪横綱陣幕久五郎の墓が尾道(広島県)の光明寺境内に、あります。そこには陣幕の句碑もあり『宇計ながら風の押手を柳可那(受けながら風の押手を柳かな)』と、読めます。これは相手の攻撃を強く受け止めてしまわず、吸収する様に勢いをそぐ合気道の理合そのものだと言えます。


私は柔道と合気道のキャリアはあるものゝ空手については門外漢ですから、知ったかぶりは出来ませんが、空手に〝交叉法〟と云う技法があると聞いた事があります。ボクシングのクロス・カウンター等と同様の技法ではないか?と、想像するのですが、柔道にも同種の理合が存在します。大外刈や内股の勢いを利用して隅落しで返す…大外刈の起こりを瞬間的に捉えて背負投げや球車で倒す…これらの技法を〝交叉法〟と、呼べなくはないと思います。或いは〝合気〟と呼んで間違いは無いでしょう。


つまり「合気」と云う言葉を使わなくても「合気」と、同様、同種の理合は他武道にも存在する訳です。よく聞かれる〝呼吸が合った〟とか〝絶妙のタイミングだ〟等と言われる瞬間が、まさにそれです。


合気道を修行する人は他武道やスポーツにも注意を払いましょう。学ぶべきものが少なくありませんからね。 




2024年3月15日  (金)


ライバルを持ちましょう


柔道や相撲の様な競技スポーツにはライバル(好敵手)対決の名勝負物語が付き物です。


スポーツ・アスリートには目標に定めた格上のライバルたる先輩の存在があり、その人に追い付き、追い越そう!と、練習に汗を流します。或いは同格のライバルが居て、互いに後れを取るまいと、切磋琢磨する間柄です。そして、追い掛けて来る後輩と云うライバル『これは、うかうか出来ないぞ!』と、尚一層の努力を怠れません。


ライバルの存在はスポーツ選手を成長させます。


では?試合の無い合気道にライバルの存在は必要ないでしょうか?そんな事はありません。


勝負を争わず、優劣を競わない…と云う合気道の哲理は尊いものですし〝人は人、自分は自分。そんなことには執着しません〟〝他者と自分を比較したりはしません。敢えて言うなら自分自身がライバルです〟と云う考えは立派ですが「あの人みたいな技の名手に成りたい!」「あいつより先に昇段したい!」「先に昇段した先輩に早く追い付きたい!」…と、思うのは決して悪い事ではないのです。


向上心を持つのは大切な事です。具体的な対象を設定するのは修行の励みに成ります。ライバルを持ちましょう! 



2024年3月1日  (金)


合気揚げの大切さ


合気道の修行者たちの中には『「合気揚げ」(或いは「合気上げ」)は大東流合気柔術の練習法であって、合気道には「呼吸法」があるから、別に「合気揚げ」を練習する必要は無い』と、思い込んでいる人が少なくありません。しかし、合気道が文字通り〝合気の道〟である以上、やはり〝合気揚げ〟習得は必須の項目です。


「合気揚げ」は合気道のルーツ大東流合気柔術に伝わる稽古法ですが、合気道の技を身に付ける上に於いても、肝心要の核を成すものですから、しっかり学び取りましょう。


「合気」とは何か?と、問われたとき〝相手との融和〟であるとか〝ハーモニー〟であり〝シンフォニー〟であると云った美しい言葉で答えられる事もあり…更に進んで〝〝合気のアイは愛に通ず〟とか〝我と宇宙を一体化〟させる哲理を身を以て実感する事である…と、云った高邁な思想で語られる場合もありますが〝合気〟は、あく迄も具体的な技法ですから、精神論として理解する前に、まずは技術論で認識する事が大切です。


「合気揚げ」は合気道の技法修得の為の重要な基礎、基本、基盤です。あだや疎かにせず、しっかり稽古に励んで下さい。 

2024年2月15日  (木)


『得意技(フェイヴァリット・ホールド)を持ちましょう!』


柔道には試合がありますから、選手は闘いの中で、自分にふさわしい技を見いだし、得意技を磨き、◯◯選手の一本背負い、◯◯選手の払巻込み…と、云った具合に、各選手の代名詞の様な技が関係者の間に定着していきます。


しかし、合気道には試合がありませんから、ふだんは色んな技を満遍無く稽古するわけで、特に◯◯!と云う技を重点的に身に付けようとする事は少ないかも知れません。でも、きっと各人には、掛けやすい技、這入りやすい技、好きな技があるだろうと思います。その技に特化して、目的意識的に磨きを掛けるのも良い稽古になります。


小手返しなら小手返し、四方投げなら四方投げ…と、お気に入りの技に、こだわり、あらゆる条件設定下、色んな状況の中で、とにかく得意の◯◯投げを掛けてみます。


そのうちに、◯◯投げと言えば◯◯だ!◯◯の◯◯投げは絶品だ!◯◯の◯教は強烈に効く!と、あなたの名前が、あなたの技と共にレジェンドになるかも知れませんよ!





2024年2月1日  (木)


​​​​​『人を傷付けるのは、たやすい。だが、傷付いた人を救うのは難しい。武道家は、それが出来る人間でありたい』


実戦空手で一世を風靡した大山倍達師範の言葉です。


新年早々の能登地方に於ける大震災でも、我が合気道洗心館女子部の監督をつとめる女性(看護師、合気道三段)が緊急援助隊医療チームのスタッフ・メンバーとして被災地に赴きました。大事が起きたとき、たちまち求められる人材は道場の誇りです。


しかし、困っている人を助けるどころか、救うべき人、手を差し伸べるべき弱者を逆に傷付けようとする人達が少なからず居るのも又、世の中と云うものですから悲しい話です。


例えば、強い立場にある人達、権力を持つ人達によって、虐げられ、人間の尊厳を踏み躙られた弱者、犠牲者、被害者が勇気を振り絞って声を上げたとき、そう云う人達に味方しないばかりか、権力側に付き、『なぜ今ごろになって、そんなことを言い出すのか?言いたいことがあったのなら、そのときに言えば良かったじゃないか』『そんな昔の話を蒸し返して、どうせ金目当てだろう』『はっきりした証拠があるのなら見せてみろ!見せられまい。うそつきめ!』と、あげつらう人間が必ず出て来ます。


人を導くべき立場にありながら、そう云う言葉を口にする武道の指導者を私は知っています。全く情けない人達です。


そう云う人間にだけは成ってほしくありません。

2024年1月14日 (日)

『狭い料簡や狡い考えを持つ人間に成らない様に注意しましょう』


今年は、とんでもない幕開けと成りました。幾ら心の強い人でも、大自然の猛威の前に、己れの無力を思い知らされた事と思います。


被災地の方々へは如何なる御悔やみ、御見舞いの言葉を述べても、尽くせません。一日でも早い復興を祈ります。


さて、話は武道についての事です。


心の狭い人達の中には、自分達のやっている武道がマイナーな事にコンプレックスを抱き、メジャーな武道の権威や世間の知名度を利用して、自分達の流儀の凄さを宣伝しようと企む情けない種類の人間がいます。


例えば、柔道はオリンピック種目のメジャー・スポーツですから〝柔道五段〟と聞けば、誰でもが〝強い人間〟をイメージできるでしょう。そう云う一般社会に定着している分かりやすいイメージを狡く使い〝我が流派の技によって柔道五段が、ひっくり返った〟〝柔道五段の猛者が我が流儀の技を味わい、驚愕のあまり声を失なった〟等とやるわけです。


こう云う事をやる人達は、いかにもプライド高く、自らの流派、流儀を誇っているかの様に見えて、実は、その胸に薄暗く陰湿な劣等感を抱いているものです。


個人的な付き合いに於いても、他人の悪口を陰で言う人を誰も好ましく思いません。他者をおとしめて自らの優位を示そうとする人間を誰が尊敬するでしょうか?


何かしらの武道に志す修行者には謙虚さ、他流、他武道を尊重する心構えが必要です。他者をけなしたって何も良い事などありません。己れの価値を下げるだけです。


料簡の狭い、狡賢い人間に成らぬ様に気を付けましょう。





2024年1月1日  (月)

物事の順番、矢印「→」の向き


私自身が柔道畑の育ちで、合気道を始めたのが30歳代半ばでしたから、余計に思うのかも知れませんが〝柔道→合気道〟の矢印の向きを逆さまにして〝柔道←合気道〟とする事は難しいものがあります。


言ってしまえば、柔道は青春を賭けるに相応しい武道、スポーツですが、合気道はズバリ〝大人の武道〟です。


私は若い人達には、先ず柔道、或いは空手でも、剣道でも良いから、勝負を争う世界に身を置く経験をしてもらいたいと思っております。厳しい修行の中で、負ける悔しさ、辛さを知り、勝つ為の苦しみ、勝つ喜びを知るべきです。それは人生の宝となるでしょう。


そうしてこそ、初めて勝負に、こだわり過ぎる〝みっともなさ〟を理解し、人生の意義、価値が〝勝つ〟事のみにあるのではなく、人間には〝負ける〟経験を積む必要のある事が分かるのです。


合気道の教えである〝勝敗を超越した〟哲理は〝勝負の世界〟に生きた経験を持つ人間こそが身に沁みて理解できると言えます。


青春期の人達は柔道や空手を!大人は合気道を!


さて、武道やスポーツの勝ち負けでなくても、競争社会の〝勝ち負け〟に疲れた人は合気道の門を叩くべきです。


新しい世界への道が目の前に、あらわれるに違いありません。






2023年12月15日 (金)


「出稽古に行きましょう。」


自分の所属している道場を大切にするのは人間関係の基礎、基盤ですし、道場生同士相互の関係が良好で、みんなが仲好しであるのは素晴らしい事です。


ただ、そう云う道場の雰囲気が、ぬるま湯的環境を作り出しかねない危険性をはらんでいるのも事実です。


つまり、日常的稽古内容がマンネリ化して惰性的になり、本来なされるべき〝切磋琢磨〟を〝とげとげしい摩擦〟の様に認識してしまい、〝素直さ〟や〝和気藹々〟を勘違いして、稽古相手の技が効いていなくても〝効いたふり〟をして、相手の心を傷付けまい…と、必要以上に気を遣ったり、絶対に人を投げられる道理の無い〝技とも呼べない〟技で、勝手に「受け身」を取って転がってみたり…と、そう云う〝武道として無意味な事〟をやっている人は意外に少なくないのです。


こうした事を防ぐ為にも、出稽古=武者修行を実行しましょう。


研鑽会などに参加するのも勉強になりますが、あまり参加者が多いと、ドタバタしている内に時間が経過してしまい、持ち帰るものが少ない場合もあります。


その点、他の道場の日常的な稽古に参加させてもらうのは、じっくり今迄の自分を見つめなおす機会となって、得るものも多いと思います。


他の道場へ行くと、初めての人と手合わせしますから、緊張感とインパクトがあります。


例えば、自分の道場では、いつも簡単に相手が倒れていた技でも、ここでは相手が倒れてくれない。別に、意地悪したり、無理に頑張っている訳でもないのに…。


先生の教え方も違うでしょう。同じ技の説明でも、正反対の説明がなされるかも知れません。


『ああ!これは、うちの道場のやり方より良い様な気がする!』と思ったり、逆に『これは、うちの道場で、やっている稽古の方が合理的だな!』等と思ったり、色々考えさせられるでしょう。 


[2023年12月1日]


「君子の六芸(りくげい)」


古代中国で言われた君子(人格者~〝士〟と呼ばれる人)が学び、修得しておくべき六つの素養のことです。


『礼・楽・射・御・書・数』


「礼」礼儀作法…礼節。人と接して礼を取り、節をわきまえる事。人間関係の基本であり、敵を作らない〝護身の術〟です。


「楽」音楽の素養、或いは歌心、詩心。〝物の哀れ〟を知る文化的感性です。


「射」弓道のことですが、一般的に言えば、武術、武芸の心得です。


「御」制御のことです。当時としては主に馬術。手綱捌きのことですが、広い意味で、道具や機械を使いこなす技術を意味しています。


「書」書道であり、文章力であり、読解力のことです。そして、言語化能力。自分の考え、思いを正しく言葉にして、相手に伝えられること。


「数」数字、統計、経済を理解することです。健全な金銭感覚を持ち、さらに数理的思考ができること。


武術、武芸以外の事柄についての話が、何故?合気道に関係するんだ?と、思われるかも知れませんが、一社会人としての教養、常識が、意外に〝合気道〟に反映されるものなのです。


万能(オール・マイティー)を求める必要は有りませんが、狭量な人間は宜敷くないですね。〝専門馬鹿〟に成らない様に注意し、バランスの取れた、広い視野を持つ人に成りましょう! 



【2023年11月15日】

「合気道とコミュニケイション能力」

世間には他者の話が聞けない人や、言葉のキャッチ・ボールが出来ない人がおります。

人が、まだ話しているのに、それを遮ったり、例えば、誰かが「先月、沖縄に行って来てね...」と、話そうとすると

「私も沖縄に行った事がある!」と、その人の話の途中で、自分の話をし始めたり(笑い)相手の話なんて、どうでもよく、

頭にあるのは自分の事だけです。

極論を言えば、それが柔道の試合や相撲の土俵なら良いかもしれません。負けた選手や力士がインタビューに答えて言いますよね?

「完全に相手のペースで、全く自分の柔道が出来ませんでした」「完敗です。自分の相撲を取らせて貰えませんでした」なんて...。

しかし、合気道の稽古が、これでは困ります。合気道の稽古は、謂わば ”技と技” ”体と体” ”心と心” の ”対話”が成立しなければ、

意味を持ちません。合気道は勝負を争わず、優劣を競わず、試合を認めない理由、平和、調和の武道と言われる所以を確りと理解、認識

しましょう。

人間力、真のコミュニケーション能力が身に付きます。

【2023年 11月1日】

「言葉だけでは表せない礼儀、礼節」

私が学校の柔道講師であった頃の事です。大会があり、良い試合結果に満面笑顔の学生もおれば、敗戦に涙する学生もおります。

そんな悔しい思いをした学生達の中で、普段から言葉づかいも、しっかりしていて、学業成績も優秀な子。私が慰めの声を掛けてやろうと、他の学生に聞けば『先生!あの野郎!試合に負けて、ふて腐れ、さっさと帰っちまいました!』

一方、ちょっと不良っぽく、あまり目上の人間に対する物の言い方も、わきまえない様な子。自ら私のところへ、やって来て『先生!今日はドジ踏んじまって、自分で自分が嫌になるほど悔しかったけど、出直しや!明日っから又学校でバッシバシ鍛えてや!』言葉づかいは乱暴ですが、柔道に対する情熱、強くなりたい!と云う意気込み、私への信頼、それらがヒシヒシと伝わって来ます。

もちろん、ふて腐れて挨拶もせずに帰ってしまった学生の気持ちも分かるし、この学生だって良い子です。

しかし、礼儀、礼節とは、言葉だけで表せるものでもないな…と、私は、このとき思いました。


【2023年 10月15日】

「体の柔らかさと技の柔らかさは別物」

もちろん、合気道に限らず、どんな武道でもスポーツでも、柔軟性は大切な上達の条件で、体が柔らかいに越した事はありません。しかし、技の柔らかさは又別の問題です。

今は、私も老いて、体の柔軟性が失なわれましたが、現役の柔道選手だった頃は〝軟体動物みたいだ〟〝アクロバット柔道だ〟〝サーカス柔道だ〟と、言われ、それが又自慢でもあった訳ですが、合気道に入門すると〝固い!〟〝もっと力を抜け!〟〝掛ける技が固すぎる!〟と、さんざん注意されたものです。

確かに、先輩には、私の様な体の柔軟性は無くても、実に〝技の柔らかい〟人達が居ました。がっちり相手を固める様に腕を握っても、全くぶつからない角度や体捌きで、技に入って来るのです。この力がぶつからない微妙な柔らかさは衝撃でした。 

言葉で、それを説明するのは難しいですが〝動かない部分は無理に動かそうとはしない〟〝動ける角度、方向を探す〟稽古は焦らず、慌てず、急がず、ゆっくり技を練る事です。それが理解できれば、たとえ体の固い人でも〝柔らかい技〟を身に付けられるのです。


【2023年 10月1日】

「先生への幻滅」

合気道の世界にも、柔道の世界にも、不祥事は起きます。

不祥事を起こした張本人が技に優れ、多くのファンを持つスター的存在であった場合は、人々の落胆、衝撃も大きく、道の修行者への影響も少なくありません。

ましてや、其の人について道を歩んで来た弟子達は、柔道、合気道そのものが嫌になってしまう事だってあるかも知れません。

不祥事と云う程の事でなくとも、その人の〝見たくない一面〟を見てしまった為に、先生への信頼が揺らぎ、幻滅が〝道〟への拒否反応に変わり、その世界を離れる人が居ても不思議はありません。

しかし、これも〝守・破・離〟の一段階だと考え、道場を移り、師匠を換えてでも〝道〟を歩み続けてほしく思います。

人の心とて、千変万化。多面性があり、人生の舞台には色んな場面が現れます。茨を踏みしめ、花も嵐も踏み越えて、行くが武道修行者の生きる道です。


【2023年 9月15日】

「大切なものは〝自己満足〟」

若い頃、柔道の大会で、自分の試合を観戦していた人達に『情け無い内容だな!逃げ回ってばかりいたじゃないか!』と、罵られても、『そんな事を言われたって、相手はどれだけ強かったと思うんだ。あれだけの強豪とでは今の俺には引き分けに持ち込むのが精一杯。今日は満足だ』と思う事もあったし、逆に『良い試合だったなあ!あの大激戦は見応えがあったぞ!』と、褒められても、『いや!あんな勝ち方じゃ駄目だ。もっと上手く綺麗に勝てたはずだ』と、勝っても悔いの残る試合もありました。

要は自分自身が納得できるか?どうか?なのです。

合気道だって、そうかも知れません。合気道には柔道の様な試合はありませんが、『素晴らしい演武だった!』と、賞賛されても『それは「受け」が上手に盛り上げてくれただけで、俺の技って、本当に効かないんだよなあ』と、悩んでいる人も居るでしょうし、『地味で見栄えのしない演武だなあ』と、拍手が少なくても、『何言ってんだい!見る人が見りゃあ分かってくれるさ!あの辺の極めなんて、俺以外の誰ができるってんだい?』と、ひそかに苦笑している人も居るに違いありません。

これも味わい深い修業の面白さと云うものでしょう。

人に褒められようが、貶されようが、人間、自分自身が内に消化不良、欲求不満を抱えた侭では、気分がスッキリしません。自分に正直に、自分を偽らず、自身が心から納得できる内容なのか?それこそが大切なのです。


【2023年 9月1日】

「道場の空気」

 あそこの道場は入るとピィ~ン!と、張りつめた空気が感じられて、身の引き締まる思いがする。…そう云う雰囲気を好む人は、いつの世にも居ます。それを総て悪いとは申しませんが、道場生が萎縮してしまい、先生に聞きたい事も聞けない様では困ります。

和気藹々の道場を〝ダラケている〟と感じたり〝ユル~イぬるま湯状態〟だと捉えるのは、人それぞれの心理でしょうが、指導者を絶対化、絶対視し、道場生が疑問も異論も差し挟めない様な空間を作ってしまっては、生産性が全く期待できません。

植芝盛平開祖が仰有った〝武産合気(タケムスアイキ)〟こそ合気道の本質です。武が武を産み、技が技を産み出す。それは、師匠と弟子、修業者と修業者の稽古、葛藤、試行錯誤の中から生じるものです。

道場生が何んでも、遠慮なく質問ができ、指導者が明確な答を提示できる事。そして、答が見付からないときには、指導者は正直に、それを認め、誤魔化さず、師弟が共に考えられる道場。それこそが良い道場なのです。


【2023年 8月15日】

『武道は自得』

以前、我が道場に通っている人が「指導を担当する先生によって、教え方が違うのには付いて行けない」と言って、やめてしまった事がありました。残念な話です。今しばらく辛抱してもらいたかったですね。

確かに、道場主が「この技は、こう教える」「この技は、こう相手を崩して、こう掛ける」と、細かく指示し、それ以外のやり方を認めない…と云うのであれば、指導員は、そのマニュアル通りに稽古を進め、習う方も分かりやすいかも知れません。

それが少年合気道教室や学校の部活動…三年、四年と云う限られた時間内に於ける練習であるのなら、それも悪くはないでしょう。

しかし、立派な大人…一般社会人の集う道場は、いわば義務教育の場ではなく、高等教育の場なのです。

〝武道は自得〟と言われます。まさに味得心修すべし!です。同じ技でも掛け方に千差万別の変化があり、同種の技だと思えた技にも異質の妙を見出だす…そうやって、悩み、苦しみ、味わいながら身に付けた技は、必ず血となり、肉となります。

現代の上級武士たる高い素養が培われます。それが精進、修行と云うものです。


【2023年 8月1日】

『失なわれたアート』

かつて、プロレスにリアリティーが存在した時代に〝史上最強の男〟と呼ばれた鉄人ルー・テーズは、プロレスラーを3つのランクに分けて論じました。

①ジャーニー・マン(渡り職人、旅芸人)

良きパフォーマーであり、そこそこ見せる試合は演じられるが、優れたレスリング・テクニックは持たない。

②シューター

優れたレスリング・テクニックの持ち主であり、エキスパートではあるが、グッド・アマチュアのレベルで、サブミッション・ホールドを持たない。

③フッカー

アマチュア・レスリングの試合では認められないサブミッション・ホールド(関節技や絞め技)を心得ている。

しかし、こうした技術は遠い追憶の彼方に忘れ去られたアートなのだ…と。

これは、合気道の世界にも同様の事が言えるかも知れません。

演武の上手なパフォーマーは少なくないけれど、本当に効く技を持つ人は決して多くはありません。もちろん、関節技や投げ技に優れた人達は居ますが、では?〝合気〟の心得があるか?と、なると、はなはだ疑問です。それが証拠に、かなり技の達者な人でも「受け」が手をはなすと「手をはなさないで!」「しっかり持っていて!」と、注文をつけたりしますからね。

私は自分を優れた〝合気〟の使い手だと、豪語できるほどの自信家ではありませんが、「失なわれたアート」の欠片くらいは持っているつもりです。

見に来て下さい!


【2023年 7月16日】

『相手の心を読んで』

私が柔道を志した少年時代。我々柔道少年の憧れは〝柔道の神様〟と、謳われた稀代の名人、三船久蔵十段でした。

よく三船先生は「相手の心を読んで」と、おっしゃいました。柔道の試合では、相手の体の動き、反応を感知するのみならず、心理状態も推し測り、相手を心身にわたり、コントロールせよ…と云う意味です。

合気道には柔道の様な試合がなく、普段の練習では「正面打ち」「横面打ち」「突き」「片手取り」等々、あらかじめ状況設定がなされている為に、先手を取ろうと思えば、取れる訳ですが、それを良いことに、早めに技を仕掛け、こうやれば、相手をコントロールできる等と、短絡的に思い込んでしまうのは、非常に危険です。

ましてや、演武会等で時折り見られる、片手を取れ…と、自分の手首を指さしたり、自分の指で横面を斬るジェスチャーをして「受け」に合図を送るなど、決して、ほめられた行為ではありません。

合気道の稽古にリアル・ファイトを持ち込む必要は、ありませんが、リアリティーは絶対に必要です。

柔道の様な「乱取り」と迄は行かずとも、たまには、状況設定を崩し、相手に自由に打ち込ませて、それを捌く稽古をしてみるのも、悪くないかも知れませんね。


【2023年 7月1日】

「イジメ」と「シゴキ」

相撲の世界には「可愛がり」と云う言葉があって、新弟子、後輩を強くする為に、兄弟子、先輩が猛烈にシゴき、鍛え抜くことです。文字通り、そこには愛情があり、いわゆる〝愛の鞭〟なのですが、今の時代では「イジメ」と、捉えられかねません。

私の青春時代、友達に〝イジメられっ子〟が、おりました。彼が『俺もイジメられない様に、お前みたいに柔道をやろうかな?』と言うので、私は『何を始めるにせよ、まずは土台作りが必要だ』と言いながら、ボディー・ビル・ジムを紹介しました。柔道を一緒にやっても良かったのですが、柔道の世界も相撲界と似た様なものですから、イジメで傷付いている彼の心が、先輩のつけてくれる猛稽古…シゴキを『又ここでもイジメられるのか?』と、認識してしまうのではないか?と懸念した訳です。

ボディー・ビルを勧めたことは大正解でした。ムキムキのマッチョに成った彼をイジメようなんて、誰も思いはしませんからね。結局、柔道には無縁でしたが、彼は自分自身にプライドを持てる様に成りました。

合気道の世界、特に大学合気道部などにも、シゴキはあります。厳しい先輩の荒稽古は同志愛、友情のあらわれなのです。シゴキとイジメは似て非なる、全く異なるものです。楽をして強く、上手に成れるほど武道は甘くありません。

もっとも、我が合気道洗心舘には、もちろんイジメはないし、シゴキもありません。一般社会人の為の道場ですから。

しかし、時には自虐的に、自分で自分を徹底的に追い込む、ご自身のシゴキも悪くないかも知れませんね。


【2023年 6月14日】

「合気」の3ポイント

①「後の先(ゴノセン)」を心掛ける。

起勢(相手が攻撃を起こそうと云う気配)を読みましょう。先手を取るのではなく、受け止めるわけでもなく、こちらはコンマ数秒わざと遅れて行動に移り、吸い込む様に応じて、衝撃を緩衝させ、相手を制します。いわば〝後出しジャンケン〟です。

   

②「気の結び目」を解かない。

〝気の結び目を解くな〟と云うのは植芝合気道開祖の言葉ですが、相手が掴んでいる箇所を無理に振りほどこうとしたり、動かせない所を力ずくで動かそうとしたりしない事が大切です。そこは、そのまゝにしておいて、動ける方向や角度を見つけ、自分からの間合いを計って、自由が利く位置取りを確保しましょう。


③相手の「防御本能」「防衛本能」を刺激する。

この侭では腕を折られる、前につんのめる、後ろに倒れてしまう…と云う様な、相手の危機意識、危機感を利用して、強引に相手を動かそうとするのではなく、相手自らが動かざるを得ない状態に追い込みます。


以上の三点をイメージするだけでも、何かしらピンと来る筈です。


【2023年 6月1日】

〝男女の体格差、体力差について〟

  当道場には女子部があり、いきなり体力の優る男性と取り組むことに、ためらいや不安を抱く女性のために、女性指導者が参加者の要望に合わせて教えております。

 しかし、稽古に慣れて来て、ある程度の自信もつき、技が出来る様になったつもりでも、一般部で屈強な男性と組んでみると、全く通じなかったりするものです。

 これは仕方のないことで、厳しい〝現実〟を思い知らされるのも大切なのですが、それか?と言って、あきらめてしまう必要などありません。

 稽古を続けて行くと、いかに体格の良い男性でも、ある角度や方向によっては意外なほど簡単に崩れ落ちるのが分かる様になりますから、この微妙なコツを会得すべく、しっかり勉強することです。

 練習の要諦は、こうしたコツを見付けることです。

〝良い汗をかいた〟〝仲間達と楽しい時間を過ごせた〟は大事な感覚ですが、それだけでは道場へ来る意味がありません。ある程度は苦しみましょうね!


【2023年 5月16日】

『殿中武芸』とは何か?

 合気道のルーツである大東流合気柔術は甲斐の武田家から会津藩へと伝えられ、門外不出の〝お留め流〟となった殿中武芸だと言われて来ました。最近では歴史家の研究が進み、そうした伝承は史実ではないとの説が有力になりましたが、長きにわたり、人々が、それを信じるに足る内容が大東流合気柔術に含まれている事は間違いありません。

 お城の中で、殿様と直接、顔を合わせ、言葉を交わす事が許される〝御敷居内御目見得(オシキイウチオメミエ)〟と呼ばれる家老クラスの上級武士が素養として学び、身に付けた武術の技で、もしも城内に、狼藉者、乱心者が現れた場合、殿中を血で汚す事なく、この技法をもって、これを取り抑えたと伝えられます。

家老クラスの上級武士ともなれば、若者ではありません。今で言えば、大企業の役員や高位級の政治家の様な立場にある人達ですから、ある程度の年輩者です。そうした人達が駆使できる様に体系づけられた技法ですから…だからこそ、現代に於いても、中高年の方々にも学べるわけです。

現代の上級武士たらんと志す貴方!ぜひとも、道場の門を叩いて下さい!


【2023年 5月1日】

『太刀の速きに、こだわることなかれ』

宮本武蔵の「五輪の書」の中に出て来る教えで、相手と対した状況次第で、それに即したスピードをもって剣を振るえば良く〝速さ〟に心を奪われてはならない。要は〝間に合えば良い〟のだ…と、説いています。

これは宿命のライバル佐々木小次郎との伝説的な巌流島の決闘を踏まえて、その経験をもとに、剣の速さを誇った小次郎を倒した事を念頭に著したのではないか?と、推測する人もおります。

この〝間に合えば良い〟と云う教えは大切で、合気道にも当てはまる事柄です。日頃の稽古の中でも、やたら、せっかちに技を掛けて来たり、相手が充分に崩れてもいないのに、強引に倒そうと焦ったりする人を見掛けます。先生の中にも、技の速さを極端に重視する人がいて、速く!速く!まだ遅い!まだ遅い!と、急き立てます。

しかし、特に稽古の中では、ゆっくり、正確に、技を身に付ける事を心掛けるべきです。大丈夫!正確な理合に基づいて身に付けた技は、速く使おうと思えば、速く使える様になりますから!

速くやると、相手が合わせてくれるから〝演武〟は上手になるかも知れませんが〝お芝居〟が、うまくなっても、仕方がありません。

〝合気〟を体得するには、自分でも〝これ以上は出来ない〟と云うくらい、ゆっくり稽古した方が良いのです。慌てる必要は全くありません。


【2023年 4月17日】

「武道修行と年齢の問題について」

合気道を始めるのに年齢的上限がありますか?入門するのに年齢的な制限があるのでしょうか?と尋ねてくる人は少なくありません。確かに、競技者年齢と云うものがある柔道であれば、十代から二十歳までの若い時代に始める方が良いに決まっています。しかし、試合制度の無い合気道なら、慌てる必要はありません。

ですから、四十代と言わず、五十代、六十代でも間に合います。

但し、55歳よりは50歳、65歳よりは60歳で始める方が良いのは当然です。

例えば、70歳の人であれば、先ずは自分自身に問い掛けてみることです。「自分の体には若さが残っているだろうか?」と。99%「いやあ!年が年だからなあ!」と弱気の割合が心を占めていても、1%でも「やってみようかな?」との思いがあるなら、道場の門を叩くべきです。世間で良く言われるように「今日より若い日は二度と来ない」のですからね。

とにかく始めてみることです。もしも「こりゃ無理だ!」と思ったら、やめれば良いだけの話です。或いは、他の道場を覗いて見るのも一つの方法です。〝見学のハシゴ〟だって悪くはありません。三つくらいの道場を覗けば〝ここなら!〟と気に入るところが見付かるかも知れないですから。

物事は考えてから動くのではなく、動きながら考えるべきなのです。


【2023年 4月1日】

「理にかなう」とは?どう云う事か?

合気道の基本的な稽古に「片手取り転換」と云うものがあります。片手を握った相手の側面に180度、自分の体を並べて、導き出す動きです。しかし、最初に、これを習うと、横に来た人の手を握り続けるのが無理なので、たいていの人は当然の様に、持っている手を離してしまいます。すると、先生や先輩が「離さず、しっかり持っていて下さい!」と言うので、しがみつく様に持たざるをえず、腰を落として、すがり付く格好になってしまいます。いくらなんでも、これは不自然です。

ところが、こうした稽古が多くの道場で行なわれているのです。

ですから、私は180度、転換する前の90度、つまり、相手と自分が「丁の字」状態に成る段階で動き出す様に教えています。こうすれば、手が切れてしまうこと無く、自然に相手を導けるからです。

或いは?私が間違っていて、もっと有効な方法があるのかも知れません。私が言いたいのは「持っていろ」と相手に注文を付けない限り、自然の動きの中では、相手が持っている手を離してしまうのが当たり前の様なやり方をその侭にしておいて良いのだろうか?と云う事です。

「今までも、こうして来た」「先生や先輩がそう仰有った」では説明に成りません。

これが試行錯誤と云うものです。これは修行過程に於いて絶対に必要なものなのです。


【2023年 3月15日】

『洗脳されてはいけません』


本当に人を投げられる技術を持っている人なら、相手が〝受け身〟を知らなくても、危なくない様に投げる事が出来ます。


『最初は〝受け身〟の稽古だと思って自分から転がりなさい』と言う指導者には要注意です。


もちろん技に掛かるまいとして踏ん張ったり、投げられるのが恐くて、しがみついたり、倒れまいとバランスを崩しながら抵抗したりするのが良くないのは当然です。しかし、相手が自分から転がらない限り投げられない様な(人を投げる真似だけをする)〝技〟で〝受け身〟を取るくせがついてしまうと、それが習慣化し、相手が動くだけで、自ら転がったり、飛び上がって宙返りしたりする事が目的化して、互いに無意味な内容の練習を繰り返す事にもなりかねません。


これは一種の〝洗脳〟と云うものです。こんな事で、本当に人を投げられるなんて思い込んだりしたら大変です。


無理に頑張らなければ自然に倒れる技か?投げた側が投げられた人が頭を打たない様にコントロールしてくれているか?を冷静に判断しましょう。


こうした事を理解してこそ正しい技が身に付くのです。


【2023年 3月1日】

白刃、前に交われば流矢を顧みず

戦場で敵と刀を交えて闘っている最中に、何処からか矢が飛んで来るかも知れない…なんて心配していたら、当面の敵に斬られてしまうぞ!と云う古代中国の教えです。

柔道は1対1の試合競技が主体ですが、合気道に於いては常に多数の敵を想定すべきであって、目の前の相手のみに気を取られていては背後の敵に攻撃される可能性があるから、隙を見せてはならない…と教えられます。しかし、普段の稽古で、そうした事を気にし過ぎると、これはこれで又、技の習得に集中できなくなります。

先ずは目の前の相手に掛ける技の正確さに、こだわり、専念しましょう。これは、どんな場合にも言える事で、あれこれ悩み過ぎない事、考え過ぎない事が大切です。

今、一番重視すべきなのは何か?物の順番を間違ってはなりません。

確かに、結果として思わぬ所から飛んで来た矢に射られて倒れるかも知れません。それはそれで仕方が無い…と、諦めてしまう事、いわゆる〝諦観〟も、時として必要なのです。


【2023年 2月15日】

『素人でも刃物は斬れる』

「姿三四郎」と云う有名な柔道小説の中に、主人公の三四郎が博徒と喧嘩になり、ドス(刃物)を手に襲いかかる数人のヤクザ者を次々に叩きのめす場面が出て来ます。

それを聞いた柔術の大家、村井半助は『姿三四郎と云う奴は相当に出来るな。恐るべき腕前だ。侮れぬ』と、唸ります。三四郎のライバルである村井の弟子、檜垣源之助は師匠に、くって掛かり『先生は敵をほめるんですか?素人相手の喧嘩に勝ったくらいで威張られたんじゃあ、僕は、たまらん!』と反論します。村井は冷静に弟子を叱り『檜垣君!素人でも刃物は斬れる』と戒めます。

実際に、私の少年時代…当時〝強い男〟の代名詞みたいな存在だったプロレスラーの力道山はヤクザに刺殺されましたし、私の柔道の先輩も、たいそう強い人でしたが、同様に刃物の前に命を落としてしまいました。

柔道にも剣や短刀、ピストル迄もを持つ相手を想定した「形」があり、合気道でも対武器の技の演武は華やかです。しかし、幾ら練習していても、そう簡単に使える様になる等とは思わない事です。よほど、胆のすわった人でも、刃物をさばくことは、なかなか出来るものではありません。

対武器の技の稽古は間合いの取り方や〝入り身〟〝転換〟の妙を会得する上で、非常に重要ですが、総てに於いて、慎重になるべき事を忘れてはならないのです。


【2023年 2月1日】

『武道の国際化について』


日本を発祥の地として長年に亘り、受け継がれて来た武道の多くは海外へ進出し、広く普及が、はかられ、国際化が著しい昨今です。

 

ところが、合気道や柔道の世界には、未だに本家意識から脱け出せず、「外国人に日本武道の心は根本のところで理解できない」とか「あゝ云う振る舞いは日本人なら絶対に行なわない」等と、差別意識を隠そうともせず、それが恥ずかしい事だと気付きもしない人が存在します。それは、日本の文化を愛し、伝統的なものを重んじる気持ちとは全く異なる思考の持ち主たちです。

 

例えば、1億人以上もいる日本人が、みんな同じ考えではなく、様々である様に、3億人以上もいるアメリカ人、14億人~15億人と云う中国やインドの人達を一括りに論じる事など絶対にできないのは自明の理です。

 

「いや!民族性ってものがあるんだ」「民度の違いがある」と、頑なな人が居ますが、多くの場合、海外で暮らした経験も無く、外国人の友達も、いない様な寂しい人達です。

 

この洗心館にも海外の友人達が来て、皆さんと稽古をしながら、親しく交流する事があります。楽しい時間を共有すれば、更に世界は広がり、喜びは何倍も大きく成るのです。


【2023年 1月16日】

『八百長に投げは打たない』

柔道の「形」にせよ、合気道の「演武」にせよ、「受け」(投げられる役)が、大きな受身を取って、派手なシーンを演出するのが悪いとは申しませんが、日常の稽古で大切なのは、技も効いていないのに、自分から勝手に跳んだり、転がったりしないこと。そして、それと共に、相手が自分を崩して来たら、無理に頑張ったりせず、素直に崩れてやることです。

つまり、相手の〝崩し〟を理合を踏まえて受け、崩れてやる…ここ迄は、ある意味〝八百長〟で良いのです。しかし、崩れた相手を〝本当に〟投げるのは、技を掛ける側(「取り」)の仕事です。ここからは〝八百長〟であっては、なりません。ここで、技を掛けられた方(「受け」)が自ら飛んでしまったりすれば、いつまで経っても〝本当に効く〟技は身に付きません。

馴れ合いに終始した稽古で〝お芝居〟が上手になっても、武道の意味は、ありません。

もちろん、関節を極めた侭で投げようとする相手の技を〝飛び受け身〟で回避する技術に関して言えば、これは、また別の話です。

ここを間違えない様に気を付けて日々の稽古に臨んで下さい。


【2023年 1月1日】


〝苦手〟を克服する


合気道の稽古の中では、誰しも〝やりにくい相手〟と云うものが存在します。意識的に技に掛かるまいとして頑張る人も居れば、投げられるのが恐くて無意識に腰を引いたり、痛いのは、かなわんと腕に力を込めて、技をブロックしようとする人も居ます。いくら、そう云う稽古の姿勢は宜しくないと諭しても、改めない人との稽古は骨が折れるものです。


しかし、そう云う人を相手にするのも、全く意味が無い訳ではありません。技を掛けるときに、ぶつからない角度や方向を探したり、投げきってしまう事は出来なくても、崩せるところまで崩し、相手のバランスを奪うには、どうしたら良いか?を考えたりする勉強にはなります。


避けなければならないのは、相手が技に掛かるまいと頑張るなら、こっちにも考えがあるぞ!と、ばかりに意地の張り合いに終始して、膠着状態に陥ることです。


こちらは相手の技に掛かってやりましょう。向こうは『こいつの技は俺に掛からないけれど、俺の技は、こいつに掛かるんだから、俺の勝ちだ!』と、思うかも知れませんが、それも又よし!場合によっては〝負けるが勝ち〟と云う訳です。


稽古しやすい人も居れば、お相手するのが嫌になる人も居ます。選り好みはせずに色々な人達との稽古を経験しましょう。総てが勉強です。


【2022年 12月14日】

『君子は和して同ぜず。小人は同して和せず』

 

徳のある人は、誰とでも仲良くできるが、今の言葉で云う〝同調圧力〟に負けたり、他人の意見を自分の意見の様に吹聴したり、付和雷同したりはしないものです。

 

しかし、深く物事を考えない人、愚かな人は、周囲の雰囲気に負け、多数意見に直ぐ同調して、それを無批判に受け入れてしまいますそのくせに、本当の意味で、人と仲良くできないものだと云う孔子の教えです。

 

多数意見を単純に受け入れてはならないし、短絡的に多数決を信じてはなりません。

 

昔の人々は大地は動かず、太陽や月、星が空を回っていると思っていました。当時の人々の殆んどが天動説を信じ、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイらは狂人あつかいされ、残酷な弾圧を受けました。世の中の事を総て多数決で運ぼうとするのは間違いです。

 

合気道の世界も同じです。「昔から、こうやって来た」「先生が、そう言った」と云う様な〝あなた任せ〟の考えは捨てましょう。自分の頭で物事を考え、自らの実体験に基づいて〝できる事〟と〝できない事〟を判断しましょう。妄信は打破すべきです。


【2022年 12月1日】

 

”合気道のアイは愛に通ず”

 

武道家の中には他流や他武道にケチをつけたがる人がいます。「今の柔道は完全にスポーツ競技化して武道の本質を失なった」「体重別制度が導入される以前の柔道五段の権威と価値たるや現在の比ではない」云々。しかし、その人は柔道のジの字も知らないくせに、聞きかじりの知識をひけらかし、知ったかぶりをしているだけなのです。段位制度と体重別制度の間には何んの関係もなく、柔道の昇段試合は体重無差別で実施されるのですから、議論そのものが的はずれで、成り立ちません。

 

いくらスポーツ化しても武道は武道。それを言い出したら、どんなに武道性を追求しても、科学兵器の発達した現在、ドローンだミサイルだ…はては核兵器だ…なんて話になり、切りがありません。

 

それを防げるのは人間の知恵と胆力。戦争を起こさない勇気と理性です。戦場に於ける武勇伝を語る豪傑より、戦争を瀬戸際で阻止した武人の方が人間の質は遥かに上であり、その努力を怠り、勇ましい言葉をもてあそぶ人間など絶対に信用しないことです。

 

〝合気道のアイは愛に通ず〟と仰有った植芝盛平開祖の教えを忘れてはなりません。武道家が求めるべきは〝争い〟ではなく〝争い〟を止め得る心と技です。


【2022年 11月15日】

魂の避難所

 

中学、高校の柔道部や大学の合気道部といった、ほゞ毎日の様に休みなく稽古に励む環境に置かれた青春の日々はともかく。

 

社会人が合気道を始めるきっかけには、また青春期とは異なる動機があるものです。例えば、柔道の経験はあるのだが、年齢が年齢だから、今さら柔道を再開して試合に追いまくられるのも嫌だし、合気道なら試合がないからマイペースでやれそうだ…とか。もともと武道の技を身に付けたく思っていて、その望みを胸に抱きながら年齢を重ねてしまったが、今なら自分の時間を作り出せそうだ…とか。

 

人それぞれではありましょうが、大切なのは、道場という特殊な空間に於いて、武術修行という非日常的な時間を持つ事です。この〝時空間〟が、あなたにとっての〝魂の避難所〟になれば言う事はありません。

 

〝避難所〟と言っても、決して〝逃げ場〟ではなく、この場に於ける取り組み方次第で〝豊かな魂〟が育まれ、ともすれば弱気になりがちな自分自身の心を支える精神の強さを獲得できる場所になるのです。


【2022年 111日】

”本当に効く技を身に付けましょう!”


「いつも僕は先輩に何回も投げてもらい、受身の稽古をしています」と、得意気に動画まで流している人を見かけます。しかし、実際には決して〝投げられて〟なんかおらず、ただ、左右に体を開く相手の動きに合わせて、自分から勝手に前回りしているだけ…と云う場合が意外に多いものです。これでは別に相手なんか必要なく、単独の受身の稽古をすれば事足りるはずです。


人を投げ、人に投げられるには理合が有り、理合を無視しては稽古に成りません。


演武会のパフォーマンス、ショー・アップのための練習ならともかく、せっかく貴重な時間を作り出して、道場に来るのですから、しっかり本当に相手を投げられる技を稽古すべきです。


相手に自分から転がってもらわなければ、或いは跳んでもらわなければ、成立しない様な〝技〟は〝技〟とも呼べません。こんなものを百回、千回と繰り返しても意味が有りません。


武道の修行は難しく、苦労、苦心が伴なうものですが、安易な方向に流されてしまわない様に注意しましょう!


【2022年 10月16日】

用心深い武士は礼儀正しいものだ


時代小説の中に、こんな師匠と弟子のやりとりが出て来ます。師匠が弟子に問いかけます『お前は何故に礼儀作法と云うものがあると思う?』弟子が『人と接して礼を取り、節をわきまえるのは人の道、倫理、道徳です』と答えると、師匠は『お前の言う事は正しい。もちろん、お前の言う通りだ。しかしな、武士にとっての礼儀作法とは最大の護身術、一つの技なのだ』と諭します。


『いかに腕が立ち、剣の技量が優れていても、それを鼻に掛け〝俺は強いぞ〟〝誰にも負けぬ〟と傲慢な態度が表に出る武士は接する人を不快にさせ、作らずとも良い敵をわざわざ作り出し、愚かにも自らを危うくしている。だが、礼儀正しい武士は接する人を知らず知らずのうちに気持ちよくさせるものだ。すぐれた武士は己れの腕前を殊更に語ることもなく、技量の劣る人を決して見下さない。用心深い武士は礼儀正しく、人に敵意を起こさせない。そう云う〝術〟の持ち主なのだ』


弟子は『ご教訓、身に沁みて』と、胆に銘じ、修行に励むのでした。


【2022年 103日】

〝気〟を導くのは「取り」ではなく「受け」の役目

剣術には「打太刀(ウチタチ)」「仕太刀(シタチ)」と云う言葉があります。打太刀は「師の位」、仕太刀は「弟子の位」と呼ばれ、師匠、先生である打太刀が上手に太刀筋を導き、正確な技をいわば〝気の流れ〟の中で作り出し乍ら、弟子の仕太刀に打たれてやる訳です。

柔道でも昔は「形」を打つ場合、「受け(投げられる役)」を先生、先輩が引き受け、弟子、後輩が演じる「取り(投げる役)」を導き、崩されるべき方向、角度に崩れてやり乍ら、正しい軌道で投げられたものです。

いつの間にか、上位者が「取り(勝つ役)」、下位者が「受け(負け役)」を演じるのが慣習に成ってしまいましたが、合気道の演武に於いても、だいたい先生、先輩が「取り(投げる役)」で、弟子、後輩が「受け(投げられる役)」を務めると云うのが定番です。

然し、本来的な意味では、先輩が後輩を正しく導いてやり乍ら、上手に投げられる稽古の大切さを再認識し、良く理解すべきなのです。

最近では、「投げる」とか「投げられる」とか云う以前の事柄に心を奪われ〝派手に飛ぶ為の練習〟なんかに血道を上げる人の出て来る始末。情けない話です。

合気道は武術ですから、その本義を忘れてはなりません。


【2022年 9月15日】

「心の修行」について

世間には或る種の思い入れというか、そうであってほしいという願望があって、それは力士であれ、柔道家であれ、横綱や大関、チャンピオンやメダリスト、高段者…といった人達には即ち人格者であってもらいたいという気持ちです。

 

合気道は特に〝「合気」の「アイ」は「愛」に通ず〟等と言われ、合気道を修行すれば、人格が陶冶され、心が磨かれると思われがちです。確かに、他の武道の様な試合が無く、勝敗や強弱を争わないというのが合気道の要諦であって、技の練り合いが日常的な稽古の内容ですから、相手に合わせる調和と感応の心が研ぎ澄まされるのは間違いありません。しかし、意識過剰になる必要もありません。

 

合気道の世界にだって、人を傷付けようとする人も、それを自慢する人も居ます。『俺の体が小さいと思ってナメて来やがったから思い切りキメてやった!野郎の腕がミシミシ音を立てたぜ!』なんて武勇伝を語る〝豪傑〟も居るから困ったものです。

 

結局、心の修行というものは各々の人々が毎日の暮らしの中で、地道に精進して行くべき事柄なのです。

 

どんな時でも泰然自若。沈着冷静な自分を保つには、苦しくても、辛くても、寂しくても、悲しくても、無理にでもニッコリ笑ってみる事です。きっと何かが分かると思います。


【2022年 9月1日】

「守破離(シュ・ハ・リ)」について

武道に関心を抱いた事のある人なら、一度くらいは聞いた言葉だと思います。


「守」入門して、初心者の間は、素直に師匠の教えを受け入れ、「学び」は「真似び」だと認識して、師匠の示す技を、いわばコピーする段階です。


「破」しかし、いつ迄も、弟子が師匠のコピーの侭であって良いはずがありません。いかに尊敬する師匠の技といえども、どこかに疑問を抱き、ある種の綻びを見出だす段階が、いつしか、やって来ます。そこには武道家としての自我を確立させるための萌芽があります。


「離」師匠の技から解き放たれ、一個の武道人として別人格を持ち、一人歩きが可能になる段階です。別に、新流派を立てるとか、自分の道場を持つとか云う事はなくても、〝巣立ち〟の時だと言えるでしょう。だからといって、親は親であり、子は子であって、親子関係が断絶するわけではなく、各々が一人前の武道家としての人生を歩み出すと云う段階です。


これは何も武道に限った話ではなく、人生…と云うものについて、言える事かも知れませんね。


【2022年8月15日】

「段位」について

日本の国技である大相撲の番付と西洋スポーツのランキングの大きな違いは、チャンピオン(横綱)が一人では不自然、不安定だと考えるところです。西洋競技に於いてはチャンピオン、金メダリストは唯一人ですが、相撲の場合は東西に横綱が一人ずつ二人居るのが自然で、それが天下の泰平、安寧を象徴すると考える訳です。もちろん、横綱に準ずる大関も、その下の関脇、小結も一人ではありません。


合気道は人と勝負を争わず、優劣を競わない事を修行の要に据えていますが、「段位」と云うものは存在します。そして、それは或る種、相撲の番付に似た概念で、各道場に五段は何人迄、全国に六段は何人迄…等と決まっている訳ではありません。ですから、「あの道場には参段以上が五人も居る」とか、「五段の人が三人も居て色々教えてくれるらしい」と、評価が高くなるのです。


「段位」に、こだわり過ぎて、名誉欲に取りつかれるのは、よろしくありませんが、「段位」は修行の道標、関所ですから、楽しみの一つと考え、励みにすれば、自分への素敵なプレゼントになりますよ!


【2022年8月1日】

「実戦的」とは、どう云うことか?

武道の世界では、よく〝実戦的〟と云う言葉が使われます。では、そもそも〝実戦〟とは、どう云う状況を想定しているのでしょうか? スポーツとしての柔道やボクシングの試合の様な格闘競技でしょうか? 或いは、ストリート・ファイト(喧嘩)の場面か? 極論ですが、戦場に於ける敵兵との組み討ちでしょうか? もちろん、武道のルーツを辿れば〝戦場の組み討ち〟に到達します。しかし、近代兵器で戦われる現代に、それを論じ出せば、切りが、ありません。


武道修行の要諦は、ある程度の肉体的な痛みを受け止め得る強靭な忍耐力と、己れの尊厳を守り抜く心を支え得る精神力を身に付けることにあります。


合気道でも柔道でも、入門すれば、待っているのは〝受け身〟の稽古です。〝受け身〟とは、言ってしまえば〝負ける技術〟です。近代武道は〝負ける事〟を前提に成り立っているのです。〝負けるが勝ち〟とは、負け惜しみの言葉でも、敗者の逃げ口上でもありません。武道を学べば、その意味が理解できる様になるでしょう。



【2022年7月21日】

「護身術」について

合気道の源流である大東流合気柔術の秘伝書には〝御信用之手〟という記述があり、これは〝護身用之手〟の書き間違えではないか?との説があります。講道館柔道に〝護身術の形〟として大東流合気柔術~合気道の技(当時は植芝盛平合気道開祖も大東流を名乗っておられました)が保存されている事からも、それが、うかがえます。


つまり、合気道は護身術に結び付けられやすい武道であり、それは殆んどの技の成り立ちが、例えば〝「突き」小手返し〟であるとか〝「片手取り」四方投げ〟であるとか、或いは〝「正面打ち」入り身投げ〟であるとかいう様に、まず相手の攻撃アクションが前提条件にあって、それに応じる形、すなわち〝後の先(ゴノセン)〟で対処する構造であるからです。


ただ、それに、こだわりすぎると、「こう来たらこう!」「こうされたら?」「いきなり、こんな事をする人って居るかな?」等と、切りの無い議論になり、袋小路に迷い込んでしまいかねないので、あまり考えすぎないことです。


もちろん、万能ではありませんが、合気道の技が身についてくれば、必ず〝護身(心)〟の役に立ちますから!



【2022年71日】

「技の峻烈さ」?

「受け」も思わず尻込みする強烈な技の斬れ味!気の抜けた「受け」をした為に峻烈な技によって骨折してしまった!等と云うエピソードを合気道の凄味を証明する武勇伝の如く語る人がいます。困ったことです。

合気道の稽古では相手が自分を崩して来たら、素直に合わせ、相手が技を掛けて来れば、それをブロックしたりはしません。それに、初めから相手が掛けて来る技は分かっている訳ですから、掛からない様に防ごうと思えば難しいことではないのです。それを良いことに相手の技を事前にブロックし「それじゃあ掛からん!」と、意地悪をしてみたり、逆に相手が合わせてくれているのを承知の上で、危険な目に会わせるなど絶対にやってはならない行為です。

相手に怪我を負わせるなんて下の下です。ましてや、先輩が後輩を負傷させるのは文字通り〝情け無い〟話です。稽古の厳しさや〝荒稽古〟の意味を取り違えてはなりません。


【2022年6月15日】

『合気道に「形(カタ)」は無い』

合気道は試合の無い事から〝「形」武道〟等と呼ばれますが、厳密に言えば、合気道には「形」と云うものは有りません。


柔道の場合は稽古法に「形」と「乱取」が有り、『「形」は文法。「乱取」は作文』と教えられます。柔道の「投の形」を例に取ると、礼法や「取」(投げる側)と「受」(投げられる側)双方互いの間合いの定め方にも、非常に細かい約束事が存在し、一切違えられません。技の掛け方についても『「払腰」は後ろ回り捌きで』『「釣込腰」は前回り捌きで』等と決められていて、「形」の演武者は異なる方法を絶対に許されません。これが「武術手形」と云うものです。


しかし、合気道の演武には、こんな取り決めは全く存在せず、総てが自由です。つまり、合気道には「乱取」も無ければ、「形」も無いのです。


ある意味、これは合気道の長所にも欠点にも成り得る要素です。この自由闊達さが感性に優れた天才的な武道家を生み出す可能性と共に荒唐無稽な方向へと走り出しかねない危険性も、はらんでいるからです。


修行者は、よくよく心すべき点ですから、胆に銘じて下さい。



【2022年6月1日】

『館長の一言』

今ではプロレスとアマレスは全く別物。アマチュア・レスリングは純粋スポーツで、プロレスはエンターテイメント、ショー・ビジネスと認識されていますが、昔はプロレスラーも、ジムのトレイニングではアマチュアと変わらぬレスリング・テクニックを磨き、それに加えてアマチュア・ルールでは認められない関節技や絞め技等のサブミッション・ホールドを稽古していました。

 

観客を前にしたプロレスの試合は初めから〝勝ち役〟と〝負け役〟を決めてあるアクション・ゲームですが、ジムでやるスパーリングはプライベイト・マッチと呼ばれるリアル・ファイトで、プロレスラーの仲間内に於いては〝誰が本当に強いか?〟が、分かっていた訳です。

 

言ってしまえば、合気道の演武会と日常稽古の関係も似ています。演武会では、見に来てくれるお客さん達に合気道の素晴らしさをアピールするために、技をデフォルメし、例えば、小柄な女性が屈強な大男を空中高く投げ飛ばし、叩きつける…なんてシーンを演出します。もちろん、お客さんは大喜びです。しかし、こんな事ばかり、道場の日常稽古中でやっていたら、お芝居や立ち回りは上手になるかも知れませんが、武術の本質的な部分から離れてしまいます。

 

道場に於いてなすべきは地道な稽古の積み重ねであり、派手な演出など考える必要はありません。


【2022年5月15日】

なぜ合気道には試合がないのか?


合気道には柔道の様な試合がありません。試合制度を取り入れている団体や会派も存在しますが、柔道の講道館に相当する本家本元の合気会は試合を認めていません。


それは乱取(空手で言えば自由組手)形式のコンバットのみならず、「演武」(柔道や空手の「形」の様なもの)の巧拙を競うコンテスト形式のものも認めないと云う徹底した方針です。


その理由は、勝負を争う事や人各々に優劣をつけるのは、和合を尊ぶ合気道の精神に反するものだと云う理念が第一に上げられます。


第二には、試合制度を導入すれば、参加選手の安全を確保するためにルールを制定しなければならず、技に制限を設けざるを得なくなるからです。柔道の試合ルール改訂の歴史を見れば分かりますが、少なからぬ貴重な技が禁止技として使えなくなり、忘れ去られつつあります。嘆かわしい話です。その点、合気道は技に制限がなく、可能性は無限です。


そして、柔道の様に、選手として試合に追いまくられるプレッシャーもありませんから、焦らず、慌てず、心静かに技の練磨に集中、専念できます。合気道が青春期を過ぎた人でも修行に励める武道である所以です。


【2022年5月1日】

「勝負」「強弱」或いは「技の巧拙」について

 

先に合気道と柔道の関係について述べましたが、共通性もあれば、もちろん違いのあるのが両道です。合気道は「勝負」を争うものではありませんが、実際に手を取り合って稽古をしてみると、技の質が分かる様になり、「あゝこの人は格闘になったら強いかも知れないけれど、あんまり気持ちの良い技じゃないな」なんて感じたりする事があります。私の様に、合気道と柔道を並行して修行していると、「こう云う〝強さ〟だったら、柔道の世界には山ほど存在する訳で、こんな〝強さ〟を求め、身に付ける為になら、わざわざ柔道と別個に合気道を学ぶ必要などないんだよなあ!」と思う事が度々ありました。合気道の世界には、合気道の武道性に疑問を抱く外野席からの野次を気にするあまり、殊更に合気道の技の〝凄さ〟や〝強烈さ〟を示そうと、荒々しい振る舞いに及ぶ人がいます。合気道の技の効き目は、そんな行為で表現できる性質のものではありません。合気道家は「強弱」になんか拘わらず、技の「巧拙」、技の質を気にしてほしいものです。


【2022年4月14日】

合気道と柔道の関係

「合気道の根本は剣の理合であって、柔道の論理で推し測ろうとしても理解できない」とか「合気道は合気道、柔道は柔道であって、全く違うものだ」と云う人が居ます。本当に、そうでしょうか?合気道も柔道も母体は古流柔術です。柔道が起倒流と天神眞楊流と云う流儀から生み出された様に、合気道の技術的根幹をなすのが大東流合気柔術です。

大東流中興の祖(事実上の開祖)武田惣角翁の門下には様々な人達が集まりました。数多の弟子達の中でも特に秀逸な存在であったのが植芝盛平合気道開祖でした。

講道舘柔道の創始者 嘉納治五郎師範は植芝開祖の合気道技に感嘆の声を上げられ「これこそが私の理想とする〝柔道〟だ」と、おっしゃいました。そして、選りすぐりの柔道家達を植芝門下に送り出されたのです。合気道も柔道も広義の意味に於ける〝柔ら〟です。共通点の無い訳がないのです。

講道舘には〝護身術の形〟として、大東流合気柔術(合気道)の技法が保存されています。この〝形〟は柔道六段に昇進する為の審査要項ですから、柔道家も高段位に至れば、合気道的領域を避けて通る訳には行かないのです。

合気道と柔道の縁は深いと言うべきでしょうね。


202244日】

「持たれる」のでも「持たせる」のでもなく「持ってもらう」

合気道の日常的な稽古の中には「両手取り」「片手取り」等と云うシチュエイションが良くあり、これを「敵の攻撃」だと認識する人がいて「持たれてしまってからでは遅い」とか「自分から相手を誘導し、こちらに有利な様に持たせるのだ」等と説きます。

もちろんルーツを辿れば、武家社会に於ける諍いで剣を抜こうとする手を相手が抑える→それを許さず。こちらは相手の力を逃がし・・・と云う攻防の中に生まれた術理であることは間違いありません

しかし、武士の時代が終わったとき、武田惣角翁や植芝盛平合気道開祖は、そこに”合気”の妙を見出されたのです。あえて、自分不利に手を抑えさせる→こちらは力を出しにくいので、力を抜かざるを得ず、結果として、相手の力を逆に利用し、相手をコントロールしてしまう・・・と云う不思議な技が身につく”合気”の理合を。つまり、敵対する者同士の諍いを”互いの技の練りあい”に昇華せしめた訳です。

 先ずは、相手に、しっかり手を握ってもらいましょう!


【2022年3月13日】

「気の結び目」を解くな

植芝盛平合気道開祖の言葉です。

つまり、相手が握っている手や掴んでいる衣服の箇所を無理に振りほどこうとするな……、と言うことであり、良く言われる「持たれてからでは遅い!」とか「相手主導で持たれるのではなく自分有利に持たせるのだ」等といった指導法とは異なる概念です。

実際、相手の持っている部分を気にせず、動かしづらい所を動かそうとしないで、自分が動いてしまえば結果として相手を動かしたのと同じ状況が作り出せます。

一方、こちらが主導で相手との接点を作る場合には繊細にして微妙なる触れ方で相手を崩します。この感覚を会得すると”宇宙と一体”ならぬ”相手との一体感”を自覚でき、ひるがえって「”気”の力で相手に触れず倒す」なんて話が荒唐無稽であることが分かるようになるでしょう。


【2022年3月1日】

「合気の概念」

「合気」とは何か?と、いきなり聞かれて即答できる人は、それほど多くないでしょう。

大きな命題として説く人は「宇宙と己を一体化させる事だ」、とか「天然自然の理に己れを合する事だ」とか言うかもしれません。もちろん、これは大切な教えで、合気道修行者が心得るべき哲理です。

ただ、修行者は術理としての「合気」を理解しなければなりません。例えば、合気道には「二教」とか「二ケ条」と呼ばれる技法があります。逆関節を極めるのではなく、順逆という手法で、相手の手首や腕を曲がる方向に曲げてやりながら、微妙に捻りを加えつつ相手の牙城を崩し落とします。つまり「腕を折られたくない」相手の「気」に「合わせて」相手をコントロールしてしまう訳です。これが術理としての「合気」の一例です。こうした術理のコツを分かりやすく、お伝えするのが当道場です。


【2022年2月14日】

鍛錬について」

 柔道やレスリングの様なパワフルな格闘技と異なり、合気道は全く力を必要としない不思議な武道だとの思い込みが世間にあり、合気道の世界にも「力なんて不要だ」「重い負荷を掛けるトレイニングなんかやると筋肉が付き過ぎ、百害あって一利無しだ」と主張する人がいます。

 もちろん”力を抜く”技術は合気道の要諦です。しかし”力の無い人には”力を抜くことができません。そもそも、抜くべき”力”の蓄えが無い訳ですから。”力の蓄え”は、”力を抜く”為の大前提です。決して鍛錬を怠るべきではないのです。もし”筋肉が付きすぎる”練習法なんてものがあれば、スポーツ界にドーピング問題など起こらないでしょう。安心して鍛錬に励んでください。


【2022年2月1日】

「基本、基礎について」

 精妙な技法で人々を魅了する合気道ですが、もちろん最初から体系付けられた今の形式があった訳ではありません。

それは、総べての武道やスポーツに言えることで、基本とか、基礎、或いは武術の「形」等と呼ばれるものは、先人の試行錯誤や熟考熟慮が重ねられ、最後に作り出されたものであり、「こうすれば上達が早い」「この道を通れば早く技術を身に付けられる」として到達した、先達の歴史や経験知の結晶化したものです。

 ズバリ! 最初に極意あり! です。

 当道場には「隠し事」なんてありません。お待ちしております!