2017年ノーベル経済学賞
安部浩次
凌霜2018年1月号, 学園の窓
リチャード・セイラー[1]が行動経済学への貢献でノーベル経済学賞を受賞しました。行動経済学とは、ざっくりと言えば、従来の経済学理論では人間の意思決定と無関係とされている要因(例えば、感情のような心理的要因)を考察対象に取り込むことで、従来の経済学をより豊かな学問に再構築する学問と言えます。安部ゼミナールではちょうどセイラーの研究について議論をしていたところですし、いい機会ということで彼の研究の一部を説明しながらその行動経済学への理論的・政策的貢献を見ていくことにしましょう[2]。
既存の経済学理論では説明できない例外事象を経済学アノマリーと言いますが、セイラーは単にものめずらしい一つのアノマリーも数多く揃えば類型を成立させるだろう、そして、その類型の認識によって経済学理論は進化するのだと主張します[3]。そして、彼は正にアノマリーの系統性を考察することで経済学理論の発展に貢献しました。例えば、彼は2002年ノーベル経済学賞受賞者である心理学者ダニエル・カーネマンとその共同研究者である故エイモス・トベルスキーが提唱したプロスペクト理論を経済問題に応用した最初の経済学者ですが、それは彼がアノマリーの系統性を生む要因をプロスペクト理論(もしくはそれを自身で発展させた理論)に見出したからです[4]。
例を見ましょう。神戸大学のロゴ入りマグ(カップ)を持っていない人が、マグを購入するために支払ってもよいと考える最大の価格(支払意思額)よりも、マグを与えられた後にそれを売ってもよいと考える最小の価格(受取意思額)の方がずいぶんと高くなると聞いてどう思うでしょうか。取引で利益を得るという観点から、買い手は安い値付け、売り手は高い値付けをするというのは当たり前なので、正しくそれぞれの意思額を引き出せなかっただけではないかと考えるでしょうか。それではうまく引き出せていたとしたらどうでしょう。マグの保有はその個人を少しお金持ちにしていることに他ならないわけで、単にお金持ちはマグによりお金を払ってもよいと考えているという事実にすぎないと考えるでしょうか。これは経済学で所得効果と呼ばれる効果を考えれば当然だという意見です。しかし、セイラーらは(正にマグを使った)実験をうまく設計し、(正しく引き出された)意思額の差は所得効果だけでは説明できないことを検証しました[5]。セイラーはこのアノマリーを保有効果と呼びます。財の保有自身がその評価に効果を持つという意味です[6]。そして、マグを失う状況で引き出された受取意思額の方がそれを得る状況で引き出された支払意思額よりもずっと高くなるのは、人間は報酬を得る喜びよりも損失から発生する負の感情の影響を強く受けるというプロスペクト理論で損失回避性と呼ばれる性質を有するからだと考えました。つまり、マグの保有は(その魅力を高めるというより)それを諦めることの痛みを強くするので、その痛みを補うように受取意思額は高くなると説明したのです。さて、一般に人間は現状維持バイアスを持つと言われます。これはその名のとおり、人間には現状を維持する傾向(惰性)があることを意味しています。なぜでしょうか。人間は、損失回避性によって、現状を変更することから生じる損失を得られる利益よりも大きく感じるからだというのが保有効果との類型から導かれる一つの有力な説明になります[7]。
セイラーは行動経済学の知見を積極的に社会に還元しようとします。リバタリアン・パターナリズムという立場を提唱し、この立場で成果を還元するよう努めています[8]。リバタリアン(自由主義的)に選択の自由を選択者に残しつつ、パターナリズム(家長主義)的に選択を誘導することを意図しており、簡単に言えば、人間の行動特性を利用してより良い行動に(強制することなく)うまく誘導するということです。うまく誘導するために肘で軽く突くことをナッジ(Nudge)といいます。男子用小便器に焼き付けられたハエの絵は有名な例でしょうか。
セイラーが提案したナッジで最も有名なものは確定拠出型企業年金に関するスマート・プランでしょう[9]。Save More Tomorrowの略語SMTをスマート(SMarT)と読むのですが、このプランは簡単に言えば、もっと貯蓄すべきだと考えているのに何故かできない従業員がそれを達成できるように考案された年金プランのことです。その特徴は拠出率(年金積立率)を自動的に引き上げることを約束させるということです。まずデフォルトをこのプランへの加入にすることで(現状維持バイアスにより)加入率を上げることができます。また、昇級ごとにデフォルトで拠出率が上がっていくので、そうでない場合に比べて貯金が増えるようになります。もちろん、プランの変更・脱退は自由なのでこれは選択を単に誘導(ナッジ)しているだけです。他にも様々な行動経済学的知見が活用されています。例えば、通常の年金プランの場合、多くの個人は将来に拠出率を上げようと考えますが、いざ将来が現在になるとそれができません。これは、人間が近視眼的であり将来よりも現在を重視する性質を有しているからと考えられます[10]。ところが、そのような近視眼的な人間であれば、将来の拠出率の増加に対しては将来起こることなので現在は寛容であるはずです。したがって、加入時に将来のプランを決めさせるというのは理にかなっています。さらに、拠出率が上がるのは昇級時なので、そのことを損失と認識しにくいことも損失回避性の観点からは注目すべき点です。このように、行動経済学の知見を十分に生かして作成されたものがスマート・プランです。結果として、現在では多くのアメリカ企業がこのプランを模した年金制度を採用するに至りました。
セイラーの貢献で、ナッジは様々な種類の制度設計に考慮されるようになっています[11]。国家レベルでナッジによる政策ユニットも立ち上がっています。日本でも平成29年4月14日に環境省が日本版ナッジ・ユニットを発足すると発表しています[12]。セイラーが蒔いた種は世界中で芽を出しているのです。彼のノーベル経済学賞受賞は大変喜ばしいことだと思います[13]。
シカゴ大学経営大学院教授(ロチェスター大学Ph.D)
セイラーの研究は非常に多岐にわたります。ここで紹介する研究以外に、心理会計、社会選好、そして行動ファイナンスに関する研究がノーベル財団によるノーベル経済学賞プレスリリースで彼の貢献として紹介されています。
セイラー,リチャード(2007)『セイラー教授の行動経済学入門』篠原勝訳,ダイヤモンド社.
Thaler, R. H. (1980) “Toward a Positive Theory of Consumer Choice,” Journal of Economic Behavior & Organization 1 (1) pp. 39-60.
Kahneman, D., J. L. Knetsch, and R. H. Thaler (1990) “Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem,” Journal of Political Economy 98 (6) pp. 1325-1348.
彼らの実験は保有効果には即効性があることを示唆しており、人の評価はどの程度安定して存在するものかという非常に大きな問題を提起していることになります。結果として批判的なものも含む後継研究が数多く展開されています。
次の書籍の中で、セイラーは彼らの実験の後継研究がマグを使っているという事実が現状維持バイアスの良い事例だと言います。そして、結果としてマグがたくさん売れたことを自身の貢献として挙げていることは彼のユーモラスな人柄を連想させます。
セイラー,リチャード(2016)『行動経済学の逆襲』遠藤真美訳,早川書房.
Thaler, R. H., and C. R. Sunstein (2003) “Libertarian Paternalism,” American Economic Review 93 (2) pp. 175-179.
Thaler, R. H., and S. Benartzi (2004) “Save More Tomorrow: Using Behavioral Economics to Increase Employee Saving,” Journal of Political Economy 112 (2) pp. 164-187.
Thaler, R. H. (1981) “Some Empirical Evidence on Dynamic Inconsistency,” Economics Letters 8 (3) pp. 201-207.
例えば、報酬の教育効果に関する実験で、結果に報酬(トロフィー)を出す効果を測るというものがあります。テスト終了後に結果がよかった生徒に報酬を渡す場合と、テスト終了前に皆に報酬を渡しておいてテスト終了後に結果が悪かった生徒から報酬を没収する場合を比べるのです。(報酬はひそかに渡されます。例えば没収実験の場合、テスト終了後に全てのトロフィーを回収し、その後結果がよかった生徒にひそかにトロフィーを渡すという実験設計です。)どちらの方がよい結果を誘導するでしょうか?考えてみてください。
Levitt, S., J. A. List, S. Neckermann, and S. Sadoff (2016) “The Behavioralist Goes to School: Leveraging Behavioral Economics to Improve Educational Performance,” American Economic Journal: Economic Policy 8 (4) pp. 183-219.
「日本版ナッジ・ユニットを発足します!」(環境省)
http://www.env.go.jp/press/103926.html(2017年10月23日アクセス)
本稿はセイラーの貢献の簡単な説明をしました。そして、ナッジという魅力的な概念が登場しました。しかし、もちろんナッジの適用には十分な注意が必要です。この点に関して、大阪大学の室岡健志先生がいくつかの留意点を解説しています。とても参考になるので読んでみるといいと思います。(この脚注は2019年9月18日に本稿をこのページに転載した際に追記したものです。)
室岡健志(2018)「ナッジ:公共分野における適用可能性および留意点」 『行政&情報システム』2018年2月号