研究テーマ

理論物理学の目標は自然に潜む普遍的な法則を体系化し、そこから既知の物理現象を説明したり、未知の現象を予言することですが、私が考える理論物理学はもう少し広く、理論に内包されている必ずしも現実世界に関係するとは限らない「非物理的な」問題も含みます。このような「遊び」の部分も含めると理論の研究は著しく多様化します。例えば極微の素粒子の世界は「標準模型」と呼ばれる場の量子論の1つのモデルによって記述されますが、場の量子論の枠組みは標準模型よりも遥かに広範で、場の量子論それ自身が非常に面白い研究対象です。その中には当初は数学的産物に過ぎないと思われていたモデルが、後に現実と関係すると分かったという例がいくつもあります。また現在進行中の数学の発展とも深く関わっています。固定観念に囚われずに広い視野を持って自由な発想で研究を行うことが重要だと考えます。 

私自身の主な研究対象は場の量子論や弦理論周辺に現れる数理物理学です。もう少し具体的に述べると、理論物理の様々な分野に現れる微分方程式を場の量子論や弦理論の手法を使って調べることに最近は特に興味を持っています。弦理論は量子重力理論の候補として期待されている試みで、広い意味での理論物理学の範疇です。この理論の奥が深い所は、一見すると無関係に思われる様々な事象の間に隠された関係性を予言することです。数学サイドではカラビ・ヤウ多様体におけるミラー対称性、物理サイドではAdS/CFT対応(ゲージ・重力対応やホログラフィック対応とも呼ばれます)が特に有名です。このような隠れた関係を積極的に利用することで、これまで解けなかった問題が解ける可能性があります。

以下で私が最近興味を持っている具体的なトピックをいくつか挙げます。これら以外にも新たに興味を持ったことには分野にとらわれずに取り組んでいくつもりです。

ブラックホールの摂動論と超対称場の量子論

ブラックホールは一般相対性理論における最もエキサイティングな研究対象だと思います。ブラックホールは当初は現実には存在しない数学的なものだと思われていました。しかし現在では私達が住む宇宙に無数のブラックホールが存在すると広く信じられています。最近ではブラックホールの影を直接観測できるところまで来ているそうです。また重力波の直接観測においてもブラックホールは極めて重要な役割を果たしました。立教大学ではブラックホールの研究が非常に活発に行われており、私もすっかり感化されました。

ブラックホールはアインシュタイン方程式の解の一種ですが、この解に微小な変化を加えると、その応答としてブラックホール固有の減衰振動モードが見られます。このような減衰振動モードは連星ブラックホールの合体によって放出される重力波の波形に実際に現れると考えられています。この減衰振動モードはアインシュタイン方程式から導かれる線形微分方程式によって決定されますが、これと全く同じ微分方程式が高い超対称性を持つ場の量子論にも現れることを共同研究者に教えてもらいました。これは両者の背後に同一の数学的構造があることを示しています。高い超対称性を持つ場の量子論は極めて精緻に解析可能なので、その結果を利用することで回転ブラックホールの固有振動数を計算できることをこの研究で指摘しました。超対称場の量子論はそれ自身は現実とは直接関係しない数理物理学的な研究対象ですが、この関係により間接的にではありますが、現実のブラックホールの解析に利用できることがわかりました。またその後の研究では場の量子論の対称性をベースにブラックホール摂動論に対する新たな見方を提示しました。このような隠れた対応は様々なブラックホール解に対して広く存在します。今後はこの対応をさらに推し進めてブラックホール物理の本質を理解することを目指します。

非摂動効果とリサージェンス理論

摂動論は物理学において非常に強力な解析手段です。物理量はたいてい理論のパラメータに関する級数展開の形で計算されます。しかしこの摂動級数は一般に収束しません。さらに物理量は摂動級数だけでなく、非摂動補正と呼ばれる特殊な項を持ち得ます。このような摂動論における発散級数の問題は数学的にも興味深い構造を持っており、その一般的枠組は(やや不正確ですが)リサージェンス理論と呼ばれています。リサージェンス理論によると、摂動展開と非摂動補正の間には何らかの関係が存在することが示唆されます。つまり摂動展開だけから非摂動補正を含む全体を再生 (resurgence) できる可能性があります。

諺に「木を見て森を見ず」というものがありますが、リサージェンス理論の思想はある意味で「木だけを見て森を知る」ことだと言えます。ドイツで研究していたときに同僚にこのような常識を覆す発想を教えてもらい、軽い衝撃を受けました。いくつかの簡単な問題でこの構造を詳しく調べました(例えばこの研究この研究)。今後は場の量子論や弦理論などの複雑でより重要な問題に対してリサージェンス理論を理解することが目標です。

AdS/CFT対応とラージN

AdS/CFT対応とは弦理論と場の量子論の間に存在すると信じられている等価性です。前者は重力を含む理論ですが、後者は含みません。つまり量子重力理論が非重力理論によって理解できることを主張しています。この驚くべき主張を調べるためには、ラージN極限と呼ばれる特別な状況を考える必要があります。この研究では、3次元時空における高い超対称を持つ場の量子論の分配関数のラージN展開を完全に解明しました。これはAdS/CFT対応を通じて量子重力理論に対する重要な予言を与えます。その後の研究で、非常に多くの拡張や応用が見出されています。

磁場中の2次元電子系

2次元面上の電子は凝縮系物理において重要な役割を果たしますが、磁場中の2次元電子系と弦理論に現れるカラビ・ヤウ多様体の間に不思議な関係があることをこの研究で発見しました。いくつかの拡張もできました。カラビ・ヤウ多様体という高度に数学的な空間が、現実的な電子系を記述し得るという事実に驚きました。今は量子ホール効果への応用に興味を持っています。

可積分系のスペクトル問題

弦理論を量子可積分系の固有値問題に応用することにも興味を持っています。これまでいくつかの量子可積分系に弦理論の結果を応用することに成功しました(この研究この研究この研究)。最近は特にスペクトル曲線の量子化や完全WKB解析と弦理論の関係に興味を持っています。