傍聴記
2024年12月21日、立教学院創立150周年企画のクリスマスマーケットで池袋キャンパスが賑わうなか、2024年度の立教英米文学会が開催されました。本年度は、成蹊大学名誉教授の下河辺美知子先生をお招きし、特別記念講演を賜りました。下河辺先生は、「研究者像の自己プロデュース――文学研究から逸脱するスリル」と題し、ご自身がこれまで歩んで来られた研究者としてのキャリアを振り返ることで、研究者の自己像をどのように形成することができるかについてご講演されました。
下河辺先生にとって、若手研究者時代にイェール大学へ留学した経験がその後の研究者人生に大きな影響を与えました。ただ、その留学への道のりも平坦なものではなかったようです。東横学園女子短期大学に専任教員として就職された若手のころ、下河辺先生は海外留学を志します。しかし、女性研究者が四年制大学に就職することが困難だった当時、アメリカ文学研究者を支援するフルブライト奨学金では、四年制大学の専任ではない研究者は応募が認められなかったそうです。それでも留学を諦めなかった下河辺先生は、学際研究が求められるアメリカン・スタディーズを支援するAmerican Council of Learned Societies (ACLS)のフェローシップに応募します。下河辺先生はフェローシップの応募に際し、これまでの文学研究をより広い学際研究へと発展させるためにはどのような視点を取り入れることができるか、研究者としての自己像をプロデュースすることに自意識を持つ良い機会を得たと当時の「困難」を肯定的に回顧されたのがとても印象的でした。
無事ACLSのフェローシップを獲得し、1988年8月にイェール大学へ留学された下河辺先生は、アメリカという国家の卓越性を証明するために構築されるアメリカン・スタディーズの様相を体感します。その一方で、研究者としての自己像に大きな影響をもたらす学問の「うねり」に巻き込まれていきます。それは、イェール大学で繰り広げられた「脱構築(deconstruction)」に関する論争です。「学問は虚構である」という脱構築の考え方は、結果として研究機関である大学そのものに挑戦する形となり、当時イェール大学において非常に評判が悪かったそうです。下河辺先生は脱構築を「批評」ではなく「メッセージ」と捉え、先生ご自身が持っていた知的好奇心の根底に、知を成立させている虚構性に対する懐疑があったからこそ、知の枠組みそのものを疑う「メッセージ」を抵抗なく受け止めることができたと振り返りました。
留学時代を振り返る下河辺先生は、ショシャナ・フェルマン(Shoshana Felman)との出会いについてもお話されました。ユダヤ系の研究者によって推進された脱構築の「うねり」の中にいた下河辺先生は、イェール学派の中心人物であったポール・ド・マン(Paul de Man)がベルギーの新聞に親ナチスとみなされる記事を書いていたというスキャンダルによってイェールが揺れる現場を目撃します。ド・マンの親しい友人であったフェルマンは、ド・マン問題について考える授業において、彼がかつてベルギー語で翻訳出版したというメルヴィルの『白鯨』(Moby-Dick, 1851)を読む課題を提示したといい、修士論文を『白鯨』で執筆していた下河辺先生はここでメルヴィルと「再会」することになります。規範から逸脱していたと思っていた研究者としての自己像が、実はアメリカ文学がご自身の「いかり(anchor)」となっていたことに気づく出来事であったと述べられました。
さらにイェールでの出会いを回顧する下河辺先生は、ホロコーストの証言を集めたクロード・ランズマン(Claude Lanzmann)監督の9時間半にも及ぶ映画『SHOAH ショア』(Shoah, 1985)との出会いについて語られました。この視聴経験は、後に「歴史と証言」をテーマに取り上げた『現代思想』1995年7月号のご論考「トラウマの記憶――画像、音声、そして証言」にまとめられることになります。そして1994年に成蹊大学へ異動され、2000年に初めての単著『歴史とトラウマ――記憶の忘却のメカニズム』(作品社)を出版されます。アメリカ文学研究の「規範」から「逸脱」しながら研究者として様々なトピックを扱ってきた中で、「トラウマ」というメタレベルでのテーマのもとで単著を出版できたことは幸運であったと回顧されました。
続けて、ご自身のキャリアを振り返る中で、これまでに発表されたご論考やご著書、積極的に携わってこられた研究プロジェクトについてお話されました。特に、研究プロジェクトについては、現在立教大学で教鞭を取られている舌津智之先生、新田啓子先生、古井義昭先生もご参加されたものがあり、下河辺先生は多くの仲間に恵まれて研究プロジェクトを継続することができたことに幸せを感じていると述べられていました。文学研究というと、一般的には閉鎖的なイメージが抱かれやすく、そもそも一体何をしているのかと聞かれることが私自身よくあります。しかし、文学はテクストを通じて多くの人々と繋がり対話をすることができる非常に開かれた学問であり、下河辺先生の研究者としてのキャリアは文学研究のネットワークそのものを物語っているように思います。
今回のご講演において、下河辺先生は繰り返しご自身を「行儀悪い研究者」と表現されていました。先生ご自身が明言していたように、それは決して卑下する意味ではなく、19世紀アメリカ文学を拠点に、関心を寄せるトピックに飛び込み続けた下河辺先生の研究者としての「自己像」そのものなのだと思います。尾崎豊やSMAP、マイケル・ジャクソンなどの大衆文化について執筆されていたり、現在は「空間感覚(Spatial Orientation)」というテーマにご関心を寄せていたりするように、下河辺先生のキャリアはアカデミックな彩りに満ちています。
ご講演を締めくくるにあたって、下河辺先生は「中間(inter-)」という単語を使い、自分の立ち意識を意識しながらも、周囲を見渡して新たな出会いを受け入れる姿勢を持つことの重要性を説かれました。修士論文の口述試験において、伝えたかったことが面接官の教授に伝わらなかった挫折感に襲われた下河辺先生は、ご自身が掴んだ感覚を失うことなく、その後も批評理論に対するアンテナを張り続けることで研究者としての「自己像」をプロデュースしてきたと言います。特に若い研究者に対して、自分の研究に対してどんなに評価が悪くとも決してめげないようにと強調されていました。私は、この春に前期課程を修了し、一般企業に就職する道を選びました。研究者の自己像をどのようにプロデュースするかというケーススタディをご提示された下河辺先生のご講演は、自分の人生をどのようにプロデュースしていくのかというより広いテーマに接続されるものであったと思います。
2025年2月11日
英米文学専攻博士課程前期課程2年 小笠原菜津子