【傍聴記】
2023年の12月は、最高気温が20度にも迫るような暖かい日々の続く冬でした。12月16日土曜日、2023年度立教英米学会は青山学院大学から寺澤盾先生をお招きし、特別記念講演を賜りました。 寺澤先生は「父と母なる神 ─インクルーシヴな英訳聖書の試み─」と題し、近年の多様な聖書英訳の試みを通じて、英語という言語への今日の社会的関心の反映を示されました。聖書はキリスト教社会において最も重要なテクスト群であり、これまでの英米社会に密接に存在し続けてきました。遡れば古英語の時代から、その時々の英語話者のために翻訳され、その言語を記録に残してきた、まさに英語史の生き証人です。現代でも様々なニーズに応えながら、新たな聖書翻訳が出版され続けています。現代において改訳が試みられる動機はさまざまであり、英語学習者にも分かりやすい翻訳の試みや、身体的な差別表現を排するための改訳など、多様なアプローチが行われているそうです。冒頭でいくつかの例をご紹介いただきましたが、とりわけジャマイカ・クレオール英語による聖書翻訳は、聴衆にも新鮮に映ったのではないでしょうか。このような聖書翻訳の豊富なバリエーションについての網羅的な議論は、先生のご著書に預けることになるでしょう。本会のご講演では特に、性的マイノリティに対する差別的な言説の排除の試みに光が当てられました。 LGBTQ+については、現代社会で最も関心を集めるトピックの一つであり、そのような社会全体を取り込むトピックが言語使用に影響を与えるのは必至だといえるしょう。聖書翻訳においても同様で、ジェンダーの観点で「インクルーシヴ」であろうとする試みが、先生の詳解を通じて実に多面的に表れてきました。総称としてのmanやheの使用を避ける、同性愛を批判する言説を排除するなどといった工夫は、我々にも多かれ少なかれ意識する機会があるでしょう。あるいはより急進的な聖書翻訳では、Our FatherをOur Father-Motherと改めたり、復活後のキリストを指してのSonをChildとしたりと、神の男性性を薄める意識もみられるそうです。これらの解説は常に複数の翻訳聖書やバージョンによる例を併置しながら展開されましたが、それぞれの翻訳態度の違いが如実に浮かび上がってくるのは、大変興味深い示唆であったと感じます。 さて、性別の特定できない語を人称代名詞で受ける際に何を用いるかという問題は、現代にあって英語を用いる我々にとっても身近なトピックでしょう。ここに、先生が今回、講演のインタラクティブ性のために組み込まれていたギミックについても、ぜひ記録しておきたいと思います。今回配布されたハンドアウトの中には、Google FormへのリンクとなるQRコードが印刷されており、リンク先には聴衆の代名詞使用に係る意識調査のためのアンケートフォームが用意されていました。これに応え、聴衆の各々が手持ちのデバイスを取り出してコードを読み取り、アンケートに回答するという一幕がありました。感染症対策下のオンライン体制で何度となく触れたGoogle Formの活用は、コロナ明けの今でこその感傷を喚起したのではないでしょうか。このアンケートの結果によれば、he or sheあるいはこれを活用した形が八割を超える聴衆から支持され、singular theyの支持は全体の六〜七割程度に留まるようです。一方で、総称としてのheの使用を支持する回答は全体の四分の一にも届かず、2020年代の英語使用者の意識を適確に表す結果であったと感じます(ただし、文意や文構造によってより自然に受け入れられる表現は一様ではなく、本講演中での文脈の影響を、ここでは示しきれないことをお断りしておきます)。 このような言語使用意識の変遷を俯瞰する中で、先生があくまでそうした改訳や新たな言語使用の潮流に対してニュートラルな立場を保たれていたことを注釈しておかなければならないでしょう。社会の変化に対応するために成されている種々の試みは、いずれも可能な論理づけがなされている一方、翻訳としては簡便ではありません。総称のheを避けるためにhe or sheを多用したり迂遠な表現を用いたりしては、文章が冗長になりがちですし、あるいは差別表現に配慮した単語の置換によって、旧来の翻訳にはあった頭韻が失われてしまうという例もありました。先生はたびたび朗誦性という観点に言及されましたが、こと聖書翻訳においては、必ずしも「インクルーシヴな」表現の中に最も好ましい翻訳を見出せるわけではないでしょう。 最後に先生は、こうした英訳聖書の試みやそれが抱える問題について如何に考えるかという問いを以て、講演を締めくくられました。社会と言語が絶えず変容している中で、場に応じた言葉の適切性について単一の正解を用意することは不可能でしょう。しかし少なくとも、我々がパブリックな場で言葉を用いる際には、必ず責任が伴います。この日、先生が現代英訳聖書を紐解きながら示された諸問題を通じて、我々も改めて襟を正すことができたのではないでしょうか。
2024年2月13日英米文学専攻博士課程後期課程1年 西尾純一朗