京都伏見で50年間愛された、両親の食堂を復活させたい!
地元の良い食材、製品を紹介する地域のハブスポットへ生まれ変わらせたい!

1966年2月

201310

今回お店を継いだわけ

初めまして、小川健太郎と申します。このプロジェクトをご覧いただき、ありがとうございます。

僕が今回挑戦するのは、両親が経営していた食堂を復活させて

「京都伏見深草で地域貢献できるお店を作りたい」というプロジェクトです。

ここは私の父が昭和41年(1966年)に27歳の時に母(22歳)と開業した大衆食堂でした。
写真の右端が父、武利、左から2番目が母、信栄です。
 
定食が中心、とにかく爆盛りで近隣の大学の運動部系の学生さんで溢れていたものです。
何せ、この地域は3つも大学があるのです。(龍谷大学、京都教育大学、聖母女学院)
京都深草という地域に愛され、50年続いた大衆食堂でした。

当時の龍谷大学生さんが置いて行かれた言わば遺産?学園祭の告知ボードだと思います。
先代曰く「ずいぶん古いよ」らしいです。

忙しいお店でしたので、夜ご飯を両親と食べた記憶は殆どありませんが店舗兼住宅でしたので
そんな両親の姿をいつも見ていました。厨房の中を踊るように動く父と母の姿は「かっこいい」と思えたものです。
小学校のよくある作文「将来の夢」を書くときは、いつも「お店を継ぐ」と書いていました。

「飲食店をやりたい」ではなく「お店を継ぎたい」です。

とは言え、そんな私も成長につれ、別の道に進み、結局はまずは会社員になります。
そして、某生命保険会社の営業所長として日本全国を転勤、転勤で巡っていました。いわゆる転勤族ですね。
その最後の赴任地の福島県郡山市で東日本大震災を直接被災したことが転機で、2012年11月に地元京都に戻って参りまして現在に至ります。。

福島では色んな事がありました。

やりたいことをやるべきと一念発起して、地元に戻って起業したわけです。
10年前のことです。
今ももう一つの顔、経営者向けのコーチングとコンサルティング、個人起業家向けのオンライン講座を運営しております。


そして今度はコロナ禍です。大きな災害を契機に気づくことは多いですね。
コロナ禍以降、京都のビジネスの中心地、四条烏丸に構えていたオフィスも引き払いました。私もいつの間にかほぼ完全在宅ワークです。
気がついたら殆ど家の中で仕事が完結する生活になっていました。

周りを見ても働き方を大きく変えている方も多いと思います。
一つの収入源にとらわれず複数の仕事を副業ではなく、パラレルで営んでいる方も増えてきました。

私も起業家の顔と合わせて、もう一つの顔として封印していた小学生の時の「両親の食堂を継ぐ」という夢を叶えようと決心しました。
コロナがなければこういう考えには至らなかったのでないかと思います。

新しい生き方として「実業」+「オンラインビジネス」というのは今後も有り得ると思います。

現在の両親
運転席にいるのが息子の私、後部座席におりますのが先代、私の両親です

私は転勤族サラリーマンであった期間を通して赴任地域の郷土料理を食べ歩きました。
日本はやはり広くて、自然も豊かでその土地土地で特徴のある食材がたくさんあります。

また料理人であった両親に小学生から仕込まれた調理技術(といっても必要最低限なものですが)で、赴いた土地の食材を使った健康的な自炊を行ってきました。

その頃から気づき始めました。食べたもので日々の体調や心理に良くも悪くも影響が出るのです。それを様々な土地での食材、レシピを試すことで実感しました。良いものを食べれば心身ともに溌剌とするんです。

大発見でした。

それ以来、持ち前の探究心で論文、書籍、そして行きつけのお店の料理人さん、美味しい地元野菜の農家さんからの教えを取り入れ、食事でひとのパフォーマンス、体調、メンタルを上げる研究にのめり込んでいきました。


それを自分の家族、友人、そして自分の会社の仲間にも振る舞い続けてきました。
やはり腸に良いもの、カビ毒に侵されていない保存の良いものは
体調にもメンタルにも良いようですね。


現在はその会社も辞めて地元京都に戻り、そのノウハウを活かし
今度は地元の生産者さんたちの協力も受け、
その地元の生産者さんの作物や製品を紹介して
地元地域へ貢献するためにも両親の残した食堂を再建することに邁進しています。

両親はこの小さな店だけで僕と姉の二人を大学に行かせてくれました。

↓真ん中の写真で母に抱かれているのが僕。父に抱かれているのが年子の姉です。

このお店は、どんなお店だったかというと、近隣の体育会系の学生が夜な夜な集まる定食の美味しい、学生街の大衆食堂、そんなお店でした。

毎晩溢れるくらいの学生さんで一杯でした。とにかく爆盛りだったのです。

父は「安く美味しいもので、お客さんのお腹を一杯にしたい」と常々行っていました。
夜は学生さんが多いので、漫画のような盛りのご飯に食らいつく姿に自分の子供のように思っていたのかも知れません。
父は無銭飲食の学生さんを追いかけなかった男です^^

今回、息子の私が地域の中のお店として受け継ぎます。

僕のお店は、先代とはまた違って、静かに本を読んだり、勉強したり、思索したり、何も考えずにぼーっとしたり
もちろん健康的な食事ができて、古書も買える読書カフェとして生まれ変わります。
そういう「場」として地域に貢献していきます。 

「お客さまにホッとリラックスしてもらって、明日への活力になる」
そんなお店にしたい、これが息子の思いです。

そんなお店も現在は父の体調もありますが、両親も高齢になりお店は閉まっていて、開店休業状態に陥っていました。
お店はこのような状態でした

※昭和47年に一度改装しています。

今現在、両親との思い出のお店は閉店して時間が経ち、お客さんが来なくなって

その役目を終えた姿を地域に晒しています。どんどんさびれていっています。


新しく地域で知り合いになった人に、ふとしたタイミングで聞いても

「あそこにそんな食堂なんてあったっけ」という返事が帰ってくるようになりました。

とうとう地域の記憶の中からも消えかけています。


あーこれは悔しいな。これが息子としての本音です。小学生の時の

「お店を継ぐ」という気持ちを果たしたいと思いました。

両親に復活したお店の姿を見せたい、心の底から思っています。

実はこれが一番のこのプロジェクトを起こした一番の原因でもあります。

僕が両親から受け継ぐお店は古本&読書カフェ  大力餅として復活します。


お店のコンセプトは

「地域の方に読書にも適した静かな空間を提供します」

「健康的な食材で健康的な食事を提供します」

「興味の入り口となる偶然の出会い(セレンディピティ)のあるお店にします」

「地域の良いものを紹介するハブのようなお店になります」


地元の地域活性化に貢献できるお店を目指しています。地元深草は、京都の中心部から5km程しか離れていません。

とは言え中心部とは違った京都の下町としての趣があり、かつては特徴的な個人商店も数多くありました。


ところが、1975年に某大型スーパーが鳴りもの入りで開店して以降、そのスーパーにお客さまを奪われる形で個人商店が次々と閉店し、今では特徴のある個人商店がすっかり姿を減らしてしまいました。

その某大型スーパーも2013年に閉店しました。よく言われる大型商業施設の進出と撤退による所謂「空洞化」がこの地域にも起こっています。

そんな中、地元を盛り上げようと頑張っている「伏見わっか朝市」を運営する皆さんと知り合いになりました。

この朝市では毎週土曜日、この地域の無(減)農薬、化学肥料を使わない新鮮なお野菜やお米、平飼いの卵、豆腐などの製品を生産者さんが持ち寄り地域の方に提供されています。既に認知もされていて毎週盛況です。

この朝市を通じ、地域の活性化に取り組んでおられる方の姿を見る中で
「自分も地域の活性化の一助となるような取り組みを行っていきたい」と考えるに至り、両親に復活したお店を見せたい、という気持ちと共に今回の店舗復活への取り組みへと繋がりました。

伏見わっか朝市さんの様子

両親は爆盛りで
僕は健康的な食事と地域のハブとして

この伏見、そして深草という地域への大きな想いがあります。

このお店が面している直違橋通りは、ここから5分も徒歩で北上すると
伏見稲荷大社の正門に着くそんな好立地でもあり
もちろん学生さんも多く、以前は特徴的な個人商店がたくさんありました。

ところが

・お漬物を量り売りしてくれる食料品店
・お豆腐などをお使いで買いに行っていた公設市場
・中学の制服を作った洋品店
・毎日の小遣いを握って通った駄菓子屋さん
・店頭でお茶を焙じていた老舗のお茶屋さん
・図鑑を買ってもらった個人経営の本屋さん
・キャラクター運動靴を買ってもらった靴屋さん
・ガチャガチャをしに行ったお菓子屋さん
・サンリオの文具専門店だったファンシーショップ
・匂い付き消しゴムを初めて買った文房具屋さん
・合鍵をすぐ作ってくれた金物屋さん

このお店から200メートル以内のこれらのお店は今はもうありません。


僕が小学3年生のに3階建て大型スーパーができてから
じわじわと櫛の歯が抜けるように閉店されていきました。

その鳴り物入りで回転した大型スーパーも37年営業した後に2013年に閉店し
跡地も今はマンションです。よくある現象だそうですし
そのスーパーさんだけのせいではありませんが、大型商業施設の進出撤退による
地域の空洞化というものらしいです。

あなたも見掛けられたともあると思います。
多くの地方都市で起こる現象です。シャッター街とかですね。

私の近所はシャッターを下ろした店になり、その後更地になり
他の建物になったパターンです。


でも、です。

この深草、藤森地域にはそれでも生き残ったり、新しく価値
提供している面白いお店が実は沢山あります。

私のお店では、食材などはできる限り、これらのお店や生産者さんから調達し
実際にお店で食べてもらったりしながら、ご紹介していきます。
気に入られたり、興味を持たれたらぜひそちらへもご訪問いただけると嬉しいです。

そういう良いものが手に入るお店のストックがあなたに沢山ある方が
生活が豊かになると思います。

近隣の良質なもの、それを紹介するハブスポットになります。

両親は爆盛りで地域のお客さまのお腹を満たすという価値を提供していました。


僕は健康的な食事と読書カフェという静寂な空間、そして地域のハブとしての価値を

提供していきたいと思います。

そして復活したお店を両親に見せたいと思います。

深草の昭和以前の古写真のアーカイブサイトです

深草地域の文化「保存・継承・創造」プロジェクト実行委員会

※上記実行員会様の二次使用条件に則って掲載させて頂いております

当店の前の道「直違橋通り」の少し南ですね。懐かしい森澤酒店さんのトラックが見えます。それもそのはずで撮影者は森沢さんですね。
撮影時期1963年ですが何となくどこかわかりますねー