学術論文

 1981年 11月

「メラネシアの他界観」 『南方文化』Vol.8 天理南方文化研究会 pp.109-131  

 

 本論の目的は、メラネシア文化、社会理解にとって基本的重要性をもつその世界観を他界観の検討を通して明らかにすることである。この研究課題は当該地域の文化・社会研究の中で中心的課題としてこれまでにもしばしば論じられてきた。その業績をふまえ、本論ではさらに社会関係と儀礼過程の分析に力点を置き、生者と死者世界とのダイナミックな連関を示すことによって、他界観研究を展開させた。


1981年 

“LE CULTE DES MONTAGNES AU JAPON L'EXEMPLE DU PELERINAGE AU MONT ONTAKE” L'Ethnographie No.85 1981-2 La Societe d'Ethnographie de Paris pp.103-123

 

 本論文はフィールドワークに基ずく御嶽信仰の人類学的分析を目的としている。従来からの歴史民族学的な視点に加え、現在実践されている御嶽信仰の儀礼に分析の力点を置き、登拝過程を巡礼として位置づけている。きわめて伝統的であり、かつ現在も活況を呈する信仰の現代的意味を、象徴論的及び社会的な解読を通して明らかにしようとするものである。


1982年 2月

「メラネシアの『他界観』-『他界』現前の諸相と意味-」『年報人間科学』 第3号 大阪大学人間科学部 社会学・人間学・人類学研究室 pp.25-42

 

 多くの文化において、他界観は死者の世界が象徴的に表現される儀礼の場を通して表われている。本論文は、メラネシア社会の事例から、儀礼分析を演劇論的に行なう方法の当否を検討し、共同体の他界観を成立させる解釈枠組みを共有していく過程として儀礼を位置づけた。


1984年 6月 

「フィジーのveiqaravi - Feasting の意味論的分析に向けてー 」 『民族学研究』 日本民族学会 49巻 1号 pp.27-62  

 

 フィジーで行なわれる全国首長会議の実地調査を中心に、異なった集団間の出会いにみられる社会関係の儀礼と祭宴を分析した論文。歓迎儀礼と宴を社会関係とコスモロジーが密接に連関して表現される際だった場と位置づけ、政治的・社会的交流の文化的背景を述べている。


1985年 2月

「フィジーのパフォーマンスに見る文化変容の一側面」『年報人間科学』第6号 大阪大学人間科学部、社会学・人間学・人類学研究室 pp.113-130

 

 今日フィジー社会では、伝統的な儀礼的贈与交換にともなうスピーチ、宴、踊りなどの文化的パフォーマンスにとどまらず、キリスト教の導入以来盛んになった合唱、ドラマの上演及び観光客対象の踊りなど新しいパフォーマンスが頻繁に行なわれている。本論文の目的は、新旧の文化的パフォーマンスの比較を通して、社会及び文化の変容過程を明らかにし、伝統文化と外来文化の接触によって生ずる問題に展望を与えることにある。


1985年 5月

「フィジーの火渡り -ツーリズムの人類学的研究- 」『社会人類学年報』 Vol.11  弘文堂 pp.167-181  

 

 現在のフィジー社会・文化の諸相をツーリズムと文化変容の視点から論じている。観光客を対象としてショーとして上演される火渡りと、伝統的な村落儀礼との比較を通して、儀礼をめぐる象徴的コミュニケーションの2つのタイプを明らかにし、伝統の変容と新たな文化の創造について述べている。


1986年 3月

「キリスト教と他界観 -フィジーにおけるキリスト教受容のドラマをめぐって-」『年報人間科学』第7号 大阪大学人間科学部、社会学・人間学・人類学研究室 pp.83-102

 

今日フィジー社会は一応キリスト教化されているが、その受容のあり方は、文化接触という点できわめて興味深い。本論は、キリスト教が、フィジーの伝統的な宗教的世界観の枠組みの再構成を経て受け容れられたことを明らかにする。


1987年 2月

「フィジー人とキリスト教 -キリスト教活動の実状とフィジー人のアイデンテイテイー」『年報人間科学』 第8号 大阪大学人間科学部 社会学・人間学・人類学研究室  pp.145-163

 

 フィジーにおいては土着のフィジー系住民の人口は、英国の植民地政策で連れてこられたインド系住民より少なくなっている。インド系住民はフィジーの経済活動の諸分野を占拠しており、他方フィジー系住民は政治面を占めている。特にフィジー系住民は自らのフィジー人としての存在基盤を、ヒンズー教徒またはイスラム教徒であるインド系住民との差異性を明らかにするためにも、キリスト教に求めている。日常的なキリスト教会活動を描く中で、フィジー系住民のアイデンテイテイを探っていく。


1988年 3月

「第三世界における『民主主義』 -フィジーのクーデターが提起したもの-」『静岡県立大学短期大学部紀要』 創刊号 pp.1-16

 

 1987年5月フィジーにインド系住民が支持する労働党・フェデレイション党連立内閣が発足した。フィジー系住民は先祖代々の土地の売買を許す法律を新内閣が作るのではないかと恐れ、軍隊がクーデターを起こした。本論では、自民族の土地が危機にさらされる「民主主義」とはなにか、特に第三世界における「民主主義」に焦点を絞った問題提起を行なった。


1988年 3月

「『観光』人類学の問題点」『日本文化研究』第1号 静岡県立大学短期大学部本文化研究室  pp.37-46

 

 観光は、特に第三世界にとっては経済的な面では大きな収入源になっており、無視できない大きな問題である。また文化的には観光開発に伴なう文化破壊の危険性も常に語られている。本論では観光の持つ世界的な性格を分析する中で、観光の楽しみとは何かをレジャーや遊び、フロー理論などとの関係で述べている。そして観光の否定的側面だけを強調するのではなく、むしろ異文化との接触によって別の新しい形の文化的な分野が成立していることを指摘した。


1989年

 2月

「フィジーに於けるキリスト教受容の過程と実態 - 文化変容再考 -」国立民族学博物館研究報告別冊6号 『オセアニア基層社会の多様性と変容 -ミクロネシアとその周辺- 』 pp.407-428

 

 1835年がフィジーにキリスト教が上陸した年だと言われている。西洋からの宣教師と艦隊、そして銃などの強力な西洋文明との接触の後に、キリストの神が白人に与えたものを、キリスト教に改宗すればわれわれも与えられるだろう等という地元の論理体系を明らかにしつつ、文化変容をコミニケーション・コード理論から解明していく。2つの限定コードの出会い、新たな精密コードの成立、そしてその精密コードの新たな限定コードへの転換という過程を経て、今のフィジー・キリスト教ができあがっている。その過程は、フィジー・キリスト教がフィジーに独特のキリスト教となっていることを証明するものである。


1989年3月

「社会劇と文脈の転換 -フィジーの争いを扱って-」『静岡県立大学短期大学部紀要』 第2号 pp.1-13

 

 社会的な葛藤においては、それぞれの文化が問題解決の方法を準備している。それが事件になるのは、当事者がその葛藤がおかれている文化的・社会的な文脈が提示している問題解決の方法をうまく読み取れないか、または無視をした場合である。本論ではフィジーの家庭における夫婦喧嘩と兄弟喧嘩を扱い、その勃発から謝罪の儀礼までの過程を描き、フィジー社会において何が重要とされているか、彼らの価値観・人生観についての言及を行なっている。


1989年

 3月

「カーニヴァルとツーリズム -ミス・ハイビスカスとフィジー-」『静岡県立大学短期大学部紀要』 第3号 pp.1ー9

 

 1988年 8 月の末に1年のブランクをおいてフィジーの首都スヴァ市におけるハイビスカス・カーニヴァルが再開された。1987年の軍事クーデター以降近隣の国々からの経済援助を打ち切られ、大きな収入源だった観光客も激減した中での国家の再生をかけたカーニヴァルであった。カーニヴァル、その中でも特にフィジー系住民の希望と理想を表徴したその年のハイビスカス・クイーン(フィジー系の女性が選ばれた)の分析を中心に主催者が表に向けてどんなメッセージを発したのか、その意味論的な分析とカーニヴァルに必要ないくつかの要素を指摘した。


1989年 3月

“ Fijian Christianization : A Multidimentional Approach to Third World Christianity " Man and Culture in Oceania, Vol.5. pp.1-19.The Japanese Society for Oceanic Studies.

 

 先の論文の文化変容の過程を踏まえて、フィジーのキリスト教の現状を多元的に提示し分析する試みである。都市を村人が捉える時、彼らは仕事がある場所、何にでも金がかかる場所、誘惑の多い場所、暮らしにくい場所、といった捉え方をする。都市は憧れの場所だが、恐い場所であり、酒で暴力沙汰を起こし散財し家族に迷惑をかける「悪魔(tevoro)」的な場所だと規定する。都市の捉え方一つにしても、経済的、文化的、宗教的に多元的に捉えなければ現在の現象について何一つ語れない。特に宗教的な現象をいかに捉えるかについてのいくつかの試みを本論では行なった。


1991年 3月

「フィジーにおける観光の諸問題」単著 静岡県立大学短期大学部紀要 第4号 pp.17ー29 

 

 1988年の調査をもとに、まず今や砂糖黍栽培よりも外貨を稼ぐ観光の現状とその果たす役割についてのレポートを行なった。次に1つのジャンルとして地元民が享受している文化とは異なった、観光客と地元民が相互に了解性を確立した上で成立する「観光文化」の存在の可能性を探り、文化破壊という否定面だけでなく、観光の持つ肯定的な側面にも焦点を当てようと試みた。最後に、第3世界の観光にとって、先進国の抱くイメージからの脱却の必要性を強調した。


1991年 3月

「観光開発と新植民地主義 - その1 観光開発の鏡として -」 単著 日本文化研究第3号  静岡県立大学短期大学部日本文化学会 pp.51ー58

 

 南太平洋で観光立国を目指す島嶼国家にとって、将来の姿を考える上で常に観光開発の典型として意識されるワイキキの1990 年の調査をもとに、まず植民地時代 の社会・経済構造を明らかにした。次に「観光文化」という概念を提出し、ツーリズムの発展にともなってリゾート・コンプレックスが「植民地時代」の構造を新たにしただけの「新植民地」的状況であることを指摘した。


1992年 3月

「観光開発と新植民地主義 - その2 日本人ツーリストとハワイ-」 単著 日本文化研究第4号 静岡県立大学短期大学部日本文化学会 pp.20ー30

 

 前掲論文を受けて「新植民地」的状況にあるハワイを訪れる日本人観光客を分析を行った。現地調査を踏まえて、ハワイで無料で配布されているパンフレットなどのテキストの分析を通し、日本企業が手の届く外国である香港やハワイを「ヨーロッパ化=無国籍化」している様子を紹介し、かつアメリカ本土、中国、フィリピン、韓国の文化そしてそれらの影響を受けた地元文化の担い手も多民族化している現状が、ハワイの観光文化を形作っていることを明確にした。


1992年 5月

「『通過儀礼』としての新入社員研修」 単著 秘書教育研究第1号 秘書教育全国協議会 pp.25-31

 

 現代において、節目及び儀礼の前後で社会的・精神的に著しい状態の変化を経験する「通過儀礼」の代表的な事例は、企業において新入社員を「社会人」に変える事を目的として行われる「新入社員研修」である。この研修は、新人を職業人に変換させ、さらに全体が見渡せるような「一人前」になることが期待される。それまでの見習い期間中は、異文化・異世界に統合するまでの過程だと言うことができる。


1992年 3月

“Redefining the Image of Fiji : The Anthropology of Tourism” 単著 Man and Culture in Oceania Vol.8 The Japanese Society for Oceanic Studies pp.89-111

 

 観光は第3世界にとっては外貨獲得のためには不可欠な産業である。南太平洋の楽園のイメージは西洋によって作られたものである。フィジーでは 1960 年代から「観光会議」が開かれている。その会議の内容から変化するツーリズム観を分析して行く。ナイーヴなツーリスト観からホスト社会のためのツーリズムへの変換、ホスト社会のための新たな大衆文化の創造、「楽園」イメージをホスト社会が発信するイメージに変換させる意図が示すホスト社会内部の新たなツーリズム観を明確にした。


1993年 3月

「フィジーにおけるツーリズム観の変遷」『日本文化研究』 単著 日本文化研究第5号 静岡県立大学短期大学部日本文化学会  pp.77ー88

 

 南太平洋諸国、特にフィジーが抱える観光の問題点を時代を追って考察する。各時代の特徴を、ただ観光客を迎えてサービスを提供するだけの観光から、世界の観光市場の分析を始め、焦点をオーストラリアやアメリカからアジアの市場の動向を調査し対応を考えるまでの変遷を負っている。特に日本人客を、「個人的に親しくなってからはじめて商売を始め」、「精神的に満たそうと旅に出る」「日本人のための努力を、非常に高く評価する」などとの分析が取り沙汰されているところが興味深い。


1994年 3月

「スポーツ人類学の可能性」『日本文化研究』第6号 (静岡県立大学短期大学部日文化学会) pp.27ー40

 

 スポーツの何が楽しみとされるのか。人間の未知なる「身体性」に直面する「高度化」したスポーツに感動する先進国の場合。西欧との接触後近代スポーツを始め、旧宗主国に勝つことで民族としての自信をつけた第3世界の国も多い。社会科学諸分野での成果と批判、フィジーにおけるフィジー系住民のラグビーとインド系住民のサッカーを「スポーツとエスニシティ」の具体的な事例として分析した。


1994年 3月

「訪問と接待」 静岡県立大学短期大学部研究紀要 第7号 pp.9-21

 

 観光人類学の基礎的な研究である。訪問と接待ではゲストとホストとの差異性と統合性のダイナミックスが見られる。異邦人として迎え、親族として送り出す。この異人性と親密性との使い分けに焦点を当てることが必要である。フィジーにおける個人的な訪問から村落を挙げての訪問の例を挙げ、他所者が親族へ変換する文化的装置、また食物のタブーに見る欠性対立と社会的差異の関係などを検討した。


1995年 3月

「『開発』が目指したもの - フィジーにおける『開発』のディスクール -」 静岡県立大学短期大学部研究紀要 第8号 pp.9-22

 

 第3世界は西欧との接触が始まって以来絶えざる「開発」の触手に晒されてきた。近年近代化・西欧化を目指した「開発」は随所で破綻し、「開発」の相対化が試みられている。本論では、フィジーのキリスト教受容による「文明化」や政府の設立から、植民地時代を経て、「民主主義」に基づく「国民国家」の運営、そして現在の「開発・援助」政策への取り組みと批判、「開発」を押し付けた側の意図と受容を強いられた地元側の反応を検証した。


1998年 7月

「世界化と土着化 -オセアニアのスポーツ-」 民博通信 1998 No.81 pp.25-33

 

 フィジーにおいて国民的スポーツと言われるラグビーが、いかに「土着化」しているか、その様子を分析した。7人制ラグビーの世界選手権でフィジーは連続優勝し、7人制で世界水準に達したと思ったフィジー人ラガーが15人制で通用せずに戸惑っている事例、15人制の国内リーグ時に見られる「伝統的」な接待の事例などを通して、フィジーのラグビーの世界化と土着化の2つの側面を明らかにした。


1999年 3月

 「1870年代のフィジーとブラウン・コレクション」国立民族学博物館調査報告10 『ジョージ・ブラウン・コレクションの研究』石森秀三・林勲男編 pp.49-64 国立民族学博物館

 

 フィジーが英国の植民地となった1874年の翌年ブラウンはフィジー人宣教師を募ってニューブリテン島の布教をはじめた。その時の選抜の様子、そして1870年代のフィジーの社会的・政治的・宗教的な状況、およびブラウンのフィジーでの収集品と収集行為を説明した。また当時フィジーで収集をしたフォン・ヒューゲルの収集法との比較や、「食人用フォーク」がいかに西洋流に「流用」されていった経緯も検討した。


2000年 3月

「フィジー諸島共和国憲法と国家統合への道」『オセアニアの国家統合と国民文化』 JCAS連携研究成果報告2 須藤健一編 pp.61-82 国立民族学博物館 地域研究企画 交流センター

 

 1970年の独立以来フィジーはクーデターと3つの憲法を経験している。インド系住民にも平等な権利を認める民主的憲法と、先住民の利益を優先する憲法とが交互に発布されている。その憲法が制定される経緯と、経済的な弱者である先住民にとって「民主主義」とは何かを検討した。


2000年 12月

「フィジーの二つのクーデター」『Newsletter』No.68 pp.1-11日本オセアニア学会

 

 フィジー始まって以来のインド系首相が政権を1年間担当した後、2000年5月19日に起こったクーデターにより、更迭された。クーデターとそれに関する言説のなかで、現在フィジーが抱えている問題を明らかにした。経済的な問題が多く語られているが、本質的問題は、民主主義的視点から「犠牲者となるインド系住民」より、世界的状況のなかで文化的な「犠牲者となるフィジー系住民」に視点を当てた。


2001年 6月

「観光研究の再考と展望」『民族學研究』Vol.66 No.1 pp.51-67 日本民族学会

 

 本稿においては、エコ・ツーリズムをその代表とする「オールタナティヴ・ツーリズム」に対する批判を概観し、「観光文化」研究の必要性を強調した。「観光文化」が「ツーリスト文化」といかに異なるかを論じ、また文化研究の一つとして「観光文化」研究をいかに位置づけるかを試みた。最後にフィジーの観光開発の現場から、「知識は力なり」を実践したフィジー人首長の実践を紹介し、したたかに先進のホテル経営のノウハウを「流用」、自らのものにしていったかを紹介した。


2001年 7月

"Fijian Christianity and Cultural Drama" People and Cutlture in Oceania Vol.17 pp67-82. The Japanese Society for Oceanic Studies

 

 フィジーのある村における兄弟間の紛争において、ある出来事が事件にまで発展する経過を文化的ドラマとして捉え、ドラマの各段階において次の段階へ発展させる要素を分析した。とくに最終の調停過程において介入したキリスト教牧師の役割を、ドラマにおける局面の打開者と捉え、何故彼がその役割を担うことが可能か、「フィジー・キリスト教」という文化的背景から明らかにした。


2002年 5月

「スポーツにおける語りと土着性 -近代スポーツの土着性-」スポーツ人類学研究   第3号 pp.1-17  日本スポーツ人類学会 

 

 近代スポーツの世界的な伝播と「土着化」の問題を、とくにフィジーのラグビーを事例として、受容者が地元流にアレンジし、自らのものにしていく過程に注目した。インドのクリケットの土着化を扱ったアパドュライ、カバディが世界化する過程を扱ったアルターなどの議論と比較しながら、今やフィジー文化となったラグビーに関わる人々の語りを分析する。その中でキリスト教のフィジー化・土着化との類似性を指摘し、外来の要素が「伝統」となる土着化の過程を明らかにした。


2002年 10月

「文明かマナか」『福音と文明化の人類学的研究』杉本良男編 国立民族学博物館

  調査報告 pp.249-269

 

 1796年にロンドン伝道協会は白人宣教師をタヒチに派遣し、改宗のために「文明化」を進めたが16年間改宗者を得られなかった。一方1875年フィジーの島嶼人宣教師はニュー・ブリテン島に、聖書のみを携えて派遣された。マラリア罹患や殺害などの困難にもかかわらず多くの改宗者を得た。白人宣教師は「文明」を布教の道具と考えた。現地人宣教師は何を使用したか。現地の文化的文脈を駆使して聖書の力を現地流の「マナ」の力に再文脈化して、改宗をしたと考えられる。


2003年 12月

「国民和解と国家再建 -フィジーにおける2000年クーデターをめぐる論争-」 『オセアニアの国家統合と地域主義』 山本真鳥・須藤健一・吉田集而編 国立民族学博物館 地域研究企画交流センター(JCAS)) pp.161-187

 

  2000年にフィジーで起きたクーデターの経緯と、その後に研究者によって分析された原因について批判的な考察を行った。インド系の識者が主張する多文化主義・多民族主義は、結局は英国植民地時代の統治者による分離統治の繰り返しにすぎず、フィジー系住民もインド系住民もともに変わることを主張する新たな動きが今日において持つ意味を分析した。


2006年 10月

「『宣教の歴史』から『土着協会成立の歴史』へ A.ティペットの戦略」『キリスト教と文明化の人類学的研究』 杉本良男編 国立民族学博物館調査報告 62 pp95-112

 

  フィジーにおいては第二次大戦後西洋人宣教師の指導・支配から脱し、教会を先住民による先住民のための「土着教会」にしようとする動きが起こった。白人宣教師Aティペットの「土着教会」運動を追い、「土着教会」という概念がいかに生成してきた過程を明らかにし、宣教の歴史が「辺境創出」の歴史であったことを明らかにする。


2008年 3月

「地域文化観光と地域性 -真正性の議論を超えて-」『京都文教大学人間学部研究報告』 第10集 pp.19-34

 

  地域文化観光の実践を湯布院や内子などの調査を通して紹介し、「地域文化」や「地域性」を従来の真正性の議論にとらわれずに、創造されるものとして捉え、新たな創作でも「地域性」として育て上げる「地域文化観光」の実践に焦点を当てて研究する必要性を説いた。


2009年 3月

「観光経験と真摯さ -実存的アプローチに向けて-」『京都文教大学人間学部研究報告』 第11集 pp.1-15

 

 観光対象が持つ「真正性」についての議論は現場ではそれほど重要視されていないが、観光者自身がその観光経験をどう評価するか、「真正なる観光経験」についての考察は重要であるが、これまであまり問題にされてこなかった。本論では地元住民と観光者が相互行為の中に見いだす「誠実さ、真摯さ」という価値に焦点を当てた考察を行った。


2012年 3月

「観光人類学から見たスポーツ文化」『生涯スポーツ学研究』 Vol.8 No.2 pp.57-64

 

 「大阪マラソン」の開催に伴って、「市民マラソンが生み出すイノベーション-新たなスポーツ文化の可能性-」というシンポジウムでの基調講演である。スポーツが伝播され、土着化し、「国民スポーツ」となっていく過程と、観光の現場での「地域文化観光」の生成過程とを重ね合わせて分析し、新たな「大阪マラソン」が地域文化となる可能性について言及した。


2012年 3月

「 ポスト・『ポスト・コロニアル』状況における軍事政権 -フィジー、2006年ミリタリー・クーデターのその後-」『京都文教大学人間学部研究報告』 第14集pp.47-62

 

 本論では、2000年のクーデター平定語以後に成立したフィジー系のガラセ政権と同じくフィジー系住民を中心に編成されている軍隊のバイニマラマ司令官との同民族内での対立と、その両者の対立がついには2006年の軍事クーデターに至る経緯と、その後のフィジーの状況を取り上げた。この先住のフィジー系同士の「民族内対立」を「ポスト・『ポスト・コロニアル』状況」と捉える。


2013年 3月

「観光学の新たな展望 ―なぜ、いま『観光経験』なのか」『観光学評論』 Vol.1-1 観光学術学会 pp.19-34

 

 用語も研究方法も異なる多様な専門分野の研究をどのようにして新たな「観光学」として統合できるであろうか。研究者独自の学問分野でテーマとすべき細部の差異に徹底的にこだわりつつ、その際が次々に連接されて一つの「現実」に行き着くようなイメージを持つ、「部分的連接」によるアプローチの有効性を提案した。特に圧倒的多数を占める大衆観光者に取っての『観光経験』に商店を当て、個別で部分的な観光経験の細部に徹底的にこだわりつつ、部分的連接を繰り返して、いかに全体像となる「観光の現実」に連接していく研究方法について述べている。


2016年 3月

「スポーツ観光研究の理論的展望―「パフォーマー・観光者」への視点」『観光学評論』 Vol.4-1 観光学術学会 p.3-17

 

 『スポーツ観光』研究の理論的な展望をパフォーマンスに注目して切り拓くものである。観光者自らが本格的なマラソン大会や「YOSAKOIソーラン祭り」などのパフォーマンスに参加する動機焼き県、社会的実践、そして真正化の動きなどを明らかにするための理論的な展望を提示することを目的とし、「さらなるパフォーマンスへの転回」を提唱する。「パフォーマー」による行為が集中することにより場所が聖地化し、その聖地で「パフォーマー・観光者」による行為が繰り返されることでさらにその聖地が真正化されるという再帰的循環が成立する。今や「スポーツ観光」は観光にとって重要な領域を形成しはじめており、この領域に注目することが観光研究にとって新たな展望を切り拓くことを指摘している。