沖縄戦(おきなわせん)
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年3月から9月にかけて、沖縄本島を中心に展開された日米間の激戦です。沖縄戦において、日米両軍は、総力を挙げて死闘をくり広げました。米軍は物量作戦によって、空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾が打ち込まれました。この「鉄の暴風」は、およそ3カ月におよび、沖縄の風景を一変させ、軍民20万の死者を出す凄まじい戦いとなりました。宮古・八重山やその他の離島の多くは、空襲や艦砲射撃を受けましたが、地上戦は行われませんでした。しかし、住民は食糧不足による栄養失調やマラリアに苦しめられ、数千人の犠牲者が出ました。
広島および長崎における原爆投下(ひろしまおよびながさきにおけるげんばくとうか)
第二次世界大戦末期の1945年、アメリカによる原子爆弾が日本に投下されました。8月6日、広島にリトルボーイという原子爆弾が、その3日後の8月9日には長崎にファットマンという原子爆弾が投下されました。原子爆弾の投下は爆風と熱による壊滅的な被害を両地域にもたらしただけでなく、見えない放射線の影響で白血病や脱毛症といった健康被害をも与えました。被爆者たちは後遺症によって経済的に困窮したり、差別や偏見をうけたりしました。現在でも補償問題への対応など多面的な課題があり、今もなおその影響が残り続けています。
2.28事件(ににはちじけん)
2.28事件は、第二次世界大戦終結後の1947年の台湾で、一人の市民が警察に誤射されて死亡する事件を契機に勃発した台湾市民と中華民国政府間の大規模な衝突です。誤射事件をきっかけにして、台湾市民は政府にこれまでの不満を爆発させ、瞬く間に台湾全土にデモ活動が拡大しました。このデモに対して政府は大規模な鎮圧で応じ、多くの一般市民が拘束され、その後長く続く台湾の弾圧時代の契機となりました。
済州4.3事件(ちぇじゅよんさんじけん)
済州4.3事件は、1948年4月3日に発生した騒乱とその後の1954年9月21日までの期間、韓国の済州島で起きた武力衝突とその鎮圧の過程で多くの島民が犠牲になった事件です。太平洋戦争が日本の降伏で終わった後、独立国家を樹立する能力を備えるまでという条件のもと、朝鮮半島は南北でそれぞれ米軍とソ連の統治下に置かれました。北と南で別々の政治体制が構築されていく中で、済州島では非暴力かつ民主的な方法で統一国家を目指す運動が始まりました。しかし、米軍と韓国中央政府はこれを共産主義者による活動として弾圧を開始し、また済州島民の一部は弾圧に対する抵抗運動を開始しました。結果としてこの事件で済州島の多くの住民が命を落としました。
ベトナム戦争(べとなむせんそう)
ベトナム戦争は、ベトナムとその周辺国における社会主義の拡大を防ぐためにアメリカが介入した、ベトナムの植民地解放戦争です。1954年のインドシナ戦争終結後、ベトナムは暫定的に北緯17度線を境に南北に分断され、北側はソ連が支援するベトナム民主共和国、南側はアメリカが支援するベトナム共和国となりました。しかし、南側では反政府勢力が発足し北ベトナムはこの動きを支援し、アメリカとの本格的な戦闘に発展しました。この戦争で米軍は、爆撃だけでなく大量の枯葉剤を散布しました。枯葉剤は自然環境破壊だけでなく、土壌汚染や先天的な奇形児の問題等、戦後も長期に渡る影響を残しました。
ポル・ポト政権下の虐殺(ぽるぽとせいけんかのぎゃくさつ)
ポル・ポトは、1975年のカンボジアの内戦を制したクメール・ルージュ(共産主義運動)の指導者であり、政権掌握後、住民の強制移動や通貨制度の廃止、強制結婚などを含む独裁的な政治を行いました。ポル・ポト政権下では旧政権の関係者や知識人、外国人、その他政府の意向に従わない者は例外なく投獄・拷問ののち処刑され、わずか3年ほどでカンボジア人口700万人のうち200万人前後が命を落としたとされています。政権が崩壊した現在も、カンボジアには大量の地雷・不発弾が残留しており、人身事故や農地開拓停滞など、当時の負の遺産によってさまざまな影響を及ぼし続けています。