そまつな衣服に身をつつみ、やせ細った体の百姓たちか、あぜ道で何やら話しています。
「なあ、これか田んぼといえるじゃろうか。このどろぬまの中でどうやって米を作ったらいいんだ。」
「ほんにのう。わしらの田んばは、まるで水鳥や魚のすみかじゃもんな。」
「こんなひくい土地で米作りをせにゃならんとは酷というもんじゃ。せっかく植えたなえも、水にうもれて全部くさってしまうわい。」
これは、安永のころの横曽根村のようすです。このあたり一たいは、昔から大へん土地がひくく、大雨のたびにおそろしい洪水にいためつけられてきました。一たん大雨になると木曽川や長良川の水が揖斐川に流れこみ、その水が揖斐川本流やその支流の牧田川・杭瀬川・水門川などに逆流し、ひくい土地のこのあたり一面を水でつつんでしまうのてす。田や畑はいつまでも水につかったままてす。そのうち、生き生きしていた稲も元気がなくなり、ぐったりしています。
「ああ、これで今年もまたお米にありつけんのか。わしら百姓はどうやって生きていけばいいんじゃ。」
悲しさに力つきた百姓たちのこんなすがたに、当時の大垣の殿様・戸田氏教も大へん気をやんでおられました。なんとかせねばならん。苦しんでいる百姓たちをすくうためにも、そして藩の財政をたて直すためにも、と。
こうした長い思案の中で決断され、取りかかったのが、『鵜森伏越樋』をつくることでした。そして、このエ事の全責任をおって仕事を進めたのが、郡奉行の伊藤伝右衛門だったのてす。
伝右衛門は、寛保元年(1741)安八郡西条村(輪之内町楡俣)の百姓の子として生まれました。幼い時、大垣藩士の養子となり父の後をついで役人となります。伝右衛門が、この『鵜森伏越樋』をつくる責任者となったのは、郡奉行で、南や風でいたんだ川や橋を直す係を受け持っていたからです。
『鵜森伏越樋』のしくみを考え出すまてに、伝右衛門は大へん苦しみつづけました。
「ここまて育ちなから根ぐさりか。くやしい。くやしい・・・。」
と、どろ水につかって声をふるわせる百姓たち。それを見る伝右衛門もまた、ひかれるようにどろ田へ入り、言うのでした。
「ぅーん。この水をどうにかせねばならん。何か方法はあるはすだ。」
そんな日が、いく日もいく日もつづきました。
そうしたある時、伝右衛門は、
「今まて百姓をなかせてきた悪水たつには、やはりこうするより外にない。」
と、自信にみちてうなずきました。
伝右衛門のしきのもとに取りかかった、悪水をぬきとる方法とは、大垣南部の五つの村(浅草三郷・横曽根村・外淵村)にたまった水を、一か所に集めて、その水を揖斐川のそこにうめた伏越樋に通し、塩喰村に流し出すことでした。流れ出た水は、塩喰村に排水路を通して揖斐川にすてられるしくみになっています。
しかし、この計画は、そうぞうをこえる大へんな工事でした。工事は、台風かこなくなる十月ごろから始め、よく年のつゆに入る五月ごろまでに終わっていなければなりません。
しかも、この工事には、7200両というばく大なひ用かかかるのに幕府から出してもらえるお金は半分ほどです。のこりのひ用をうみ出すために、伝右衛門は、寝食をわすれて金集めに走りまわらなければなりませんでした。でも、百姓にとっては金など出せるはずかありません。できることといったら、人そくとしてはたらくことしかないのてす。
「なあ皆さん、えらかろうが力を合わせてたのむぞ。」
と、よびかけて、人そくをもとめる伝右衛門に、百姓たちは、
「お上がわしらを助けてくださる。ありがたいことだ。」
と、心よく協力するのでした。
ところかこの工事には、もう一つ大きな問題かありました。それは、堤防をはさんだ、となりの塩喰村の人たちか、大きなふあんをもっていたことてした。
「この工事がせいこうするという保障は、どこにもない。失敗でもしようものなら、わしら小さな塩喰村は、おし流されてしまう。その上こえた土地まで水路のために取られてしまうではないか。」
伝右衛門は、塩喰村の人々のひなんの声を背に受けなからも、この工事の仕方をわかってもらおうと、せっとくにつとめました。こうした中でエ事はどんどん進み、やがて半年の月日が流れました。松や桧などの木材が組み立てられ、堤防の下にみごとな水のトンネルかでき上りました。
「ああ、これで米ができる! わしらの田に・・・。」
百姓たちの、あふれんばかりのよろこびの声か聞こえてきます。その声を聞きながら、伝右衛門の心もまたうれしさで一ぱいでした。工事かんせいをいわって、大垣の殿様からはむろんのこと、将軍家斎様からも、おほめのことばと品々をいただいたほどでした。
ところが、こんな悲しいことがあっていいものでしょか。工事がかんせいしたというのに、この年の天明四年は、いつになく大雨がふりつづいて、せっかくつくった伏越樋は役目をはたさず、たまった水もいっこうにひかなかったのです。
「わしら百姓が血の出るような思いではたらいたというのに何ということだ。もしやあの時、伝右衛門が工事ひをごまかして、手ぬきをしたのでは。」
思ってもみない人々のうわさに、伝右衛門の心はいたみました。くちびるをかたくかみしめ、くやしさにたえる伝右衛門。
そんな中でふたたび、工事のやり直しか始まりました。
こんどのエ事は、石堰を取り除いて、排水路を塩喰村の一番南のはしまでのばしてから川に流し出すしくみです。この工事はよく年(天明五年)の春にかんせいしました。
それからというものは、どんな大雨の年も、悪水になやまされることはなくなりました。それどころか、米の収穫はめきめきと上がり、村の中に排水路が通してある塩喰村へは、お礼として米までそえられるようになったのです。あれほど反対した塩喰村の人々にとっても、こんなにありがたいことはありません。
どろぬまだった田一面には、緑のジュータンがびっしりしきつめられたようになえが育ち、秋には、ふさふさとした黄金の稲穂がたれるようになったのです。
それはあたかも、みごとに実った稲の一株一株か、『ありがとう。この低地に、すばらしい知恵と、生きる勇気をあたえてもらって。』と、伝右衛門に深く頭をさげてかんしゃしているようでした。
-『郷土を支えた人々』(昭和62年 大垣市教育委員会発行)より-