雨がふると、大垣輪中南部は,ふきんの川の底が高く,輪中の中の水を出すことができずたまってしまう。作物は水ぐされをおこし,数年に一度しかとれないようなありさまであった。また,雨がふりつづくと輪中内の水が集まりすぐに大水にみまわれるような場所であった。
水がたまるので、川の下にトンネルをほり,そこを通してたまった水をだそうと計画した。完成すれば川の水が高くても,輪中の水をだすことができるようになる。
工事をすすめていくために,藩は幕府のゆるしをえるひつようがあった。工事は3年にわたり,7200両というばく大な費用をかけて行われた。工事後,5236石(約785400kg)米が多くとれるようになった。この伏越樋は,30年ごとにつくりかえられ,明治時代になってはい水機ができるまで,大きな役割をはたした。
「鵜森伏越樋工事絵図屏風」より
鵜森伏越樋は三川分流工事の完成によってその役割を終えたが,川の下にトンネルを通して排水をする伏越は,今も活用されている。大垣市には中之江川の下を通る伏越が3ヶ所(犬ケ渕,東前,築捨)ある。
写真は犬ケ渕伏越である。ここで排水路の水が落ち込んでいる。堤防の向こうの中之江川の下を通っていく。