日本で母になる
日本で母になる
今回は、Voice of ASEAN Sempai の特別号です。とても身近なのに、なかなか深く語られることのないテーマ――「日本で母になるという旅路」に、あらためて焦点を当てました。
この号では、これまでの回で登場してくれた3人のセンパイ、**トゥイー・リン(Thùy Linh)― フオン・オアン(Phương Oanh)― トゥイェット・ニュン(Tuyết Nhung)**の物語を、もう一度振り返りながらまとめていきます。
3人の母、3つの状況、3つの道。でも並べてみると、その物語は一つの、とてもリアルな絵を描き出します。――異国の地で母になり、そして「自分自身」をもう一度探していく、ベトナム人女性たちの歩みです。
日本で母として暮らしていると、ふと自分に問いかけたくなる日があります。
同年代の友だちに比べて、私は遅れをとっているのかな?
おむつ替え、送り迎え、家事、家族のケア――そんな毎日を繰り返してる間に、キャリアからどんどん遠ざかってしまうのかな?
そして、いつかもう一度やり直したいと思ったとき――まだ間に合うのかな?
実は、日本にいる多くのベトナム人ママたちが、同じような迷いを心のどこかに抱えています。
状況も、スタート地点も、選んだ道も人それぞれ。けれど共通しているのは、みんなが自分なりのやり方で、一生懸命に踏ん張っているということ。
今回は、トゥイー・リン、フオン・オアン、トゥイェット・ニュン――これまでに Voice of ASEAN Sempai に登場してくれた3人の物語を、あらためて一緒に振り返ってみたいと思います。
それぞれのストーリーは違うけれど、どれも間違いなく「本物」で、母となり、日本での日々を積み重ね、人生を送っているベトナム人ママたちの、確かな一歩一歩が詰まっています。
トゥイー・リン ― 専業ママとしての年月を経て、もう一度キャリアに戻るまで
私が日本に来たのは、上の子がまだ生後6か月のときでした。来る前は「英語が使えれば何とかなる」と思っていたんです。でも現実はまったく違いました。スーパーも、保育園も、子どもの病院も、全部日本語。夫が仕事の日に子どもが熱を出して、私ひとりで抱っこして病院へ行っても、医師の言っていることが分からない。そんなことがありました。そのとき私は、子どものことが心配でたまらないのと同時に、どうしようもない無力感と孤独感に覆われてしまいました。
家の中だけで過ごす時間が続くうちに、私は考えるようになりました。このまま同じ生活が続いたら、私の世界はどんどん狭くなってしまうかもしれない。私はこれまで学び、私自身の計画も持っていたのに。だから、私は日本語を本気で学び直し、N2を目標にすると決めました。
でも、子どもが小さい中での勉強は本当に簡単ではありませんでした。3歳未満の子を預けられる場所を見つけるだけでも大変な挑戦。毎日、子どもが15時まで保育園に行っている間に時間を作って学校へ行き、そして急いで迎えに戻る。そうして1年必死に頑張って、私はN2に合格し、大きな希望を持って就職活動を始めました。
けれど、現実は思ったほど甘くありませんでした。資格があっても、日本語がまだ自然ではないことや、日本での職務経験がないことを理由に、何度も断られました。何度も落ちて、私は遠回りの道を選びました。子どもの送り迎えがしやすいように、家の近くの教室で、子ども向け英語のアシスタント講師の仕事を引き受けたのです。
その仕事は約5年続きました。最初は、授業に立った経験もなく、日本語でのやり取りも多くて、自信が全然ありませんでした。でも私は日本人の先生の働き方をよく観察し、少しずつ学びました。徐々に仕事にも慣れ、日本語の会話もしっかりと上達していきました。何より、子どもたちと向き合う中で、私は「忍耐力」と「理解する力」を身につけました。それは、わが子と向き合うときの自分の姿勢まで変えてくれたのです。
その後、コロナが起きて、私は2人目を出産しました。英語教室の仕事はいったん辞めて、育児に集中することを決めました。この期間、私はベトナムのスタートアップ企業でオンラインの仕事をしていました。生活は安定していたけれど、心の奥にはずっと、「きちんとした形で、もう一度社会に戻りたい」という気持ちがありました。
転機が来たのは、病気の治療をしている両親の世話でベトナムに帰ったときです。病院で外国人患者さんの通訳を手伝う機会がありました。周りの人たちは、私が今は家で育児をしながらオンラインで働いているだけだと知ると、「それはもったいない」と言ったんです。その一言が、私の心に強く残り、そこで気づきました。私はやっぱり働きたい。自分のキャリアをもう一度始め直したい。
2023年の初め、私は日本に戻り、35歳で就職活動を始めました。日本で正社員として働いた経験が一度もない状態での挑戦です。たくさん応募して、何度も落ちました。でも面接を重ねるごとに、私は自分の物語をより明確に語れるようになり、これまでの経験に対して少しずつ自信を持てるようになっていきました。
そしてついに、私は日本の保険会社から内定をいただきました。ベトナム人のお客様をサポートする業務――それが、日本での私にとって初めての「正社員」としての仕事になりました。
今、私は新しい段階に進もうとしています。働きながら、さらに日本語力を高めるために学び続けるつもりです。振り返ると、乗り越えることが一番難しかったのは、「長いブランク」そのものではなく、自分の中にある「怖さ」でした。
安全圏から一歩踏み出したとき、私はようやく分かったのです。母になって、30を過ぎていても、私はもう一度、自分のキャリアに戻れるのだと。
フオン・オアン ― ゆっくりでも確実に、母として、そしてキャリアへ戻るために
学生の頃から、私は目標を立てて早めから準備することに慣れていました。そのおかげで、交換留学で1年間日本に来る機会を得て、その時間がきっかけで「もう一度日本に戻りたい」と思うようになりました。卒業後は、より大きな目標――MEXT奨学金で大学院に進学するために必要な経験を積むため、ハノイ工科大学のHEDSPIで日本語を教えていました。
2013年末、私は奨学金に合格し、2014年に再び日本へ。お茶の水女子大学の大学院に通いながら、専門学校で通訳・翻訳の授業を担当するアルバイトもして、経験を積みました。卒業が近づいた頃、学校側は私をフルタイムで雇いたいと言ってくれました。でもそのとき、夫婦で「卒業後1年以内に子どもを持とう」という計画を立てていたんです。正社員として就職してすぐに産休に入るのは、学校にも申し訳ないと感じました。だから私はその話を断り、まずは出産を優先することを選びました。
娘が生まれたのは2017年末。ここから私は、日本で多くのママが直面する課題にぶつかりました。――働くためには保育園が必要。でも保育園に入れるためには、働いている証明が必要。
当時、私の住む区は待機児童がとても多く、妊娠中から問い合わせていたのに、どこも満員でした。子どもを預けられなければ働けない。働けなければ保育園の条件を満たせない。私は、少しずつでもこの状況を改善していくしかありませんでした。
最初の策は、お茶の水女子大学でパートタイムとして働くことでした。そこには職員向けの保育施設があり、子どもを預けられたからです。毎日、母子で早朝から電車に乗って、ラッシュの人波に揉まれました。学校で働く日はまだ良いのですが、別の場所での仕事がある日は、さらに早く子どもを預けてから職場へ走らなければなりませんでした。
給料はほとんど保育料で消えていきました。でも私はそれを受け入れました。これは「足がかり」だと思ったんです。ここから始めなければ、次のステップに進めないから。
その後、保育園の条件で必要な労働時間を満たすために、ベトナム人支援の団体でもパートを始めました。2つの仕事を掛け持ちして移動し続け、家に帰るころには真っ暗。小さな子を連れてラッシュの電車に乗り、ぶつからないようにずっと気を張り、搾乳機を持ち歩いて隙間時間に搾乳し、夕方には子どもに小さなお菓子を買って空腹をしのがせる……そんな日々は本当に大変でした。
「私、頑張りすぎてない?」と自分に聞きたくなることもありました。「あのとき別の道を選んでいたら、もっと楽だったのかな」と思う瞬間も。けれど過去には戻れない。できることは、ただ前に進み続けることだけでした。
そして、このベトナム人支援団体での仕事が大きな転機になりました。私はずっと、教育や通訳・翻訳の仕事が自分に向いていると思っていました。でも採用支援に関わり、履歴書(CV)を直し、面接指導をし、応募者に伴走する中で、人事という分野をより深く理解し、「これは長く続けられる道かもしれない」と思うようになったのです。
子どもが2歳を過ぎて保育園生活が安定した頃、私はフルタイムの仕事に挑戦することを決めました。すでに30代で、「迷っていたら、もっと始めにくくなる」と思ったからです。約1年のオフィスワークと採用支援で積み上げた経験のおかげで、面接でも自分のストーリーを語れる材料が増え、自信も少しずつ育っていきました。
私はIT企業の人事職として採用されました。内定後も、子どもが新しい保育園に入れるか確定していなかったので、待っている期間はとてもプレッシャーでした。家族では、最初の数か月は祖母(母)に来てもらう案まで準備しました。でも幸運にも、正式に働き始める直前に、延長保育ができる保育園に合格し、大きな荷物を下ろしたような気持ちになりました。
フルタイムで働き始めた頃は、仕事と家庭の両立ができるのか不安もありました。その後コロナが起き、会社はリモートワークに切り替わりました。仕事量が減る時期もありましたが、私はただ待つのではなく、同僚とオンラインで社員をつなぐ活動を企画したり、企業支援の制度を調べたりと、主体的に動きました。そうした経験が、仕事への理解を深め、社内でのつながりも築いてくれました。
今、仕事はより安定しています。でも私は知っています。私の道は、たくさんの小さな一歩と、その先にある粘り強く耐えた時間によって作られてきたのだと。
トゥイェット・ニュン ― ゼロから始めて、日本で自分の道を一歩ずつ作っていく
2014年の初め、私は家族滞在ビザで夫のもとへ来日しました。来る前は、日本での生活について情報をほとんど持っていませんでしたし、「日本語は行ってから学べば遅くない」と思って、事前に勉強もしませんでした。でも実際に来てみると、すべてが想像以上で簡単ではないと痛感しました。
当時の私の日本語はほぼゼロ。住んでいた静岡の町は小さく、東京などの大都市に比べて仕事の機会も少ない。私は梱包工場のような単純作業にも応募しましたが、日本語ができないこと、家が遠いことを理由に断られました。その瞬間、私は大きなショックを受けました。ベトナムではきちんと学び、安定した仕事もあったのに、ここでは基本的な仕事さえ得られないのか、と。
私は気づきました。このままの日本語力でいたら、1~2年後も何も始められないかもしれない。だから、家から50kmも離れた日本語学校に通うことを決めました。毎日、自転車で駅まで行き、電車に乗り、さらに歩く。移動は大変でしたが、「しばらく頑張れば、少しずつ良くなるはず」と信じていました。
ところが数か月通ったところで妊娠が分かりました。遠距離通学は安全ではなくなり、さらに切迫早産の兆候が出て、私は長期間入院することになりました。大きな病院に転院したこともあり、ひとり遠く離れた病室にいる日々。日本語も十分に分からず、夫が来られるのは週末だけ。私は赤ちゃんのことが心配でたまらない一方で、孤独と無力感に押しつぶされそうでした。
幸い、何週間もの治療を経て、子どもは無事に生まれました。ただ、NICUで約1か月過ごす必要がありました。生活が落ち着いてから、私は子どもにコミュニケーションが取れる環境を作ってやりたくて保育園を考えましたが、私は働いていなかったため、申請は落ちてしまいました。
このまま母子だけで家に閉じこもりたくなくて、私は夫に頼んで、時間預かりができないか幼稚園に電話してもらいました。そこで理解のある園長先生に出会い、子どもが正式に入園できるよう支援してもらえました。条件は、私が「学ぶ」か「働く」こと。だから私は日本語学校に戻りました。
その頃は本当に大変でした。毎朝、自転車で約5km走って子どもを送迎し、その後電車で1時間以上かけて授業へ。学べる時間は多くないけれど、続けました。基礎があれば、生活の中で自分がもっと主体的になれると分かっていたからです。
引っ越して新しい地域に移ったあと、私は経験を活かして、まずは保育園の条件を満たすためにスーパーでパートを始めました。区役所の手続きや書類、園とのやり取りも、今度は全部自分でやりました。そのとき私は実感しました。日本語が完璧でなくても、土台さえあれば、自分はずっと自信を持って動けるのだと。
人生の大きな転機になったのは、運転免許を取ると決めたことです。日本語はN3にも届いていなかったので、学科はとても厳しかった。授業では一部しか理解できず、家に帰っては一文一文調べ、読み直し、問題を解き続けました。昼はスーパーで働き、夕方から教習所へ。そんな生活を3か月以上続けて、私は合格しました。
免許は私の生活を大きく変えてくれました。子どもの送り迎えも、買い物も、遠くのボランティア日本語教室に通うことも、自分でできるようになりました。そしてその後、私はN3にも合格し、生活は少しずつ「息がしやすく」なっていきました。
子育てをする中で、私はずっと「子どもが日本で育つとベトナム語力が弱くなるのでは」と不安でした。だからベトナム語の絵本をよく買って読み聞かせていました。同じニーズを持つベトナム人ママが多いことを知り、私はFacebookで小さなグループを作り、ベトナムから本をまとめて取り寄せるようになりました。
すると、想像以上に多くの人が関心を持ってくれました。みんなのために本をまとめて届けるところから始まり、仕入れ先を探し、配送を手配し、次第にオンライン書店として運営するようになりました。仕事が安定し、自分が本当にこの仕事が好きだと分かったとき、私はスーパーの仕事を辞め、個人事業として登録し、書店に専念することを決めました。
今では毎月、何千冊もの本や、知育玩具、中秋節のアイテム、お年玉袋(リシー)など、ベトナム文化を感じられる商品を日本にいるベトナム人家庭へ届けています。子どもたちがベトナム語力を保ち、故郷の文化とつながり続けられるように。
振り返れば、私はゼロから始めました。日本語もなく、仕事もなく、小さな町で暮らし、苦しさや孤独やプレッシャーの多い時期を通ってきました。でも一歩ずつ――日本語を学び、仕事を見つけ、免許を取り、生活の中の小さなニーズから機会を探していくことで、私は少しずつ、自分の道を築いてきました。
日本での生活は簡単ではありません。でも、粘り強く主体的に動けば、誰でも自分に合った道を見つけられると私は信じています。そして時々、子どものために始めたことが、思いがけず「自分自身の新しいチャンス」引き寄せてくれることもあるのです。
メッセージ
3人の母、3つの違う道。でもよく見れば、共通していることがあります。――誰も「もどったり」なんてしていない。ただ、それぞれが「見えにくい道」を歩いているだけ。
日本での暮らしには、小さいけれど大きな努力がたくさんあります。
早起きしてお弁当を用意すること。
ラッシュの電車で子どもを抱きしめて守ること。
医師の言葉が分からないかもしれない不安を抱えながら、子どもを病院へ連れて行くこと。
たった15分の静かな時間を見つけて、リスニング問題を一つ進めること。
疲れて、悔しくて、それでも「きっと大丈夫」と自分に言い聞かせること。
そういうことは、履歴書(CV)には書かれません。
でもそれは、私たちに「持久力」と「忍耐力」と「強さ」を育ててくれます。後から仕事に戻ったとき、資格以上に大切だったと気づく力を。
もし今、家で子どもを見ながら「自分は立ち止まっている」と感じているなら――本当は、立ち止まってなんかいないのかもしれません。
あなたは、別の土台を築いています。異国の地で子どもが安心して育つための土台。そして、いつかあなた自身がまた一歩踏み出すための土台を。
完璧な道なんてありません。あるのは、家族のリズム、子どもの性格、そして自分の心に合った道だけ。
すぐに戻る選択でも、少しゆっくり進む選択でも、ゼロから始める選択でも――あなたは今も、あなたなりのやり方で前に進んでいます。
だから、もし今日あなたが疲れていて、迷っていて、「もう若さを逃してしまった」と怖くなっているなら――どうか思い出してください。
あなたは遅れてなんかいない。
あなたはただ、日本で母として生きている。
そしてそれは、もともと、とても勇気のいる旅路なのです。
2026/2