甚目寺南大門は、建久7年(1196年)に梶原景時が源頼朝の命を受け、建立したと伝えられる、約八百年の歴史を持つ県内最古に位置する国指定重要文化財です。
しかし、長年の風雨で損傷がひどく、前回の修復から40年以上が経過しました。この大切な文化財を次世代に残すため、令和6年から令和8年にかけて「令和の大修復」を行います。
どうか、この歴史的な修復プロジェクトにご理解とご協力をお願いいたします。あなたさまの思いと願いが、甚目寺南大門建立八百年の歴史を未来へつなぎます。
鳳凰山甚目寺(甚目寺観音)は推古天皇5年(西暦597年)に創建され、1400年以上の歴史を持つ全国でも有数な古刹です。創建当時はまだ伊勢湾が大きく内陸まで入り込み、甚目寺の南は海でした。その沖で甚目龍麻呂と称す漁師が漁をしていると、その網に黄金の観音様がかかり、近くの浜(現在の甚目寺観音境内)に観音様をお奉したと伝えられます。
境内からは白鳳期の瓦が出土しており、飛鳥時代には伽藍が既に整えられたことが分かっています。鎌倉時代には当寺中興の聖観上人によりさらなる伽藍の整備がすすめられ、この時代には南大門が建立され、また、一遍上人聖絵には時宗の宗祖一遍上人が七日乃行法を厳修したと記されています。戦国時代には、信濃善光寺の御本尊様が一時期ご遷座されました。さらには、織田信長から賜った燭台(現存はしていない)、豊臣秀吉や織田信雄から寺領を賜った朱印状があり、慶長2年(1597年)には南大門に奉られている仁王像吽形阿形が福島正則により寄進され、尾張出身の名高い武将との繋がりがあった事が分かっています。江戸時代には隆盛を誇り、名古屋の人々も多く甚目寺に参拝されたことが張州雑誌等からうかがえます。
このような長い歴史があり、国指定重要文化財としても不動明王図、涅槃図、愛染明王坐像、東門、三重塔、そして、南大門と絵画、彫刻、建造物と多数を有しています。その時代の有力者や民衆、甚目寺を支える方々の努力により、歴史そして文化財が守られてきました。
寺院離れが進む中、伝統的な祭りや行事を行い、また、新たに毎月定期的に地域の方々による朝市などを開催して精進をしてまいりましたが、コロナ禍を経て、これらいくつかの伝統的な祭りや行事を行い、文化財、伽藍を維持していくのがとても厳しくなっております。伝統、文化、歴史は目に見えるものだけではありません。しかし、歴史、文化、そして、伝統をつなぐ思いや願いがあったからこそ、ランドマークとしての歴史的建造物が現存し、そして、その願いや思いが、文化的、歴史的、伝統的なお祭りや行事にあらわれていると思います。
どうかこの願いと想いに共感していただき、この願いと想いを次へつなぐためにご理解とご協力を、切に切にお願い申し上げます。
合掌
鳳凰山 甚目寺
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甚目寺観音は、地方豪族時代に創建され、1400年以上の長きにわたり同じ場所に存在し続ける、全国的にも稀有な寺院です。それは、そこに甚目寺を守り続けてきた人々の思いと願いがあるからにほかなりません。
南大門の建立
甚目寺南大門は源頼朝が、梶原野景時を奉行として建立したと伝わっています。現在では、その史実を伝える資料は残されていませんが、伝承として伝わり、江戸時代に発刊された「じもくじ道しるべ」には、昔は棟板があり、そこに梶原野景時が奉行として建立したと記されていたとの説話もあります。今では、塗料は落ちていますが、甚目寺参詣図に描かれた姿からら想像するに、創建当時は朱色、緑、白に塗装されており、壮麗な山門だったと想像されます。
天正地震と修復
建久7年(1196年)に建立された南大門は、天正13年(1585年)の天正大地震で被害を受けますが、天正18年(1590年)に屋根が修復されたことが、明治の修復時に発見された楔に記されています。
「二王門者、建久七年(1196)之造営也今度屋根下地、修復終天正十八年(1590)八月吉日 」延瑜代(法花院中興1世)
(二王門は、建久七年(1196年)に造営されたものである。このたび、屋根の下地の修復が完了した。天正十八年(1590年)八月吉日。)
仁王像と正保の修造
慶長2年(1597年)には、福島正則が仁王像を寄進します。また、正保3年(1646年)には、南大門の古材から何らかの建物が修造されたことが確認でき、南大門関しての記述も確認できます。
「こやの、はそんは、正保三年(一六四六)に仕候(つかまつりそうろう)が、門のたちたることは、いかほとになるか、□こうしれず、およそ八百年に□なり、戌正保三年五月吉日」
(この小屋の破損は、正保三年(1646年)に修理いたしましたが、門が建てられたのがいつのことなのかはよく分かりません。おおよそ八百年ほどになるかと思われます。正保三年(1646年)五月吉日。)
元禄地震とその後
元禄16年(1703年)に地震があり、仁王像が倒れ足を損傷します。
明治の火災と濃尾地震
明治6年(1873年)に本堂などが火災で焼失しますが、南大門は焼失を免れます。しかし、明治24年(1891年)の濃尾地震で被害を受けたと推測されます。
明治の解体修復とその後
明治33年(1900年)には旧国宝に指定され、解体修復が行われます。その後、昭和9年(1934年)、昭和32年(1957年)、昭和56年(1981年)に屋根葺き替えの修復が行われてきました。
天正地震以前の南大門
(甚目寺参詣曼荼羅より)
江戸後期の南大門
(甚目寺境内図より)
明治35年 修理前の南大門(正面)
明治35年 修理前の甚目寺南大門 (斜め後ろ)
昭和中頃の甚目寺南大門 (正面)
昭和中頃の甚目寺南大門 (西側から)
令和7年3月14日、甚目寺南大門の「令和の大修復」工事に向け、工事安全祈願法要が行われました。
当日は晴天に恵まれ、甚目寺本堂には僧侶の皆さま、寺院関係者、地元自治体の方々、そして工事関係者や地域の皆様が集まりました。厳かな雰囲気の中、参加者一同が心を一つにして工事の安全を祈願しました。
本堂での法要後、一同は南大門へ移動。工事期間中の安全を祈って特別な加持を行い、参列した皆様も真剣な表情でその様子を見守りました。
南大門の修復工事は今月末に始まる予定で、工事関係者や地域の皆様が安全に工事を進められることを願っています。皆様も甚目寺の歴史的な南大門が再び美しく蘇る日を、ぜひ楽しみにお待ちください。
工事安全祈願が厳修されてから、早くも5か月が過ぎました。春の柔らかな空気はあっという間に去り、ここ甚目寺も今では連日の猛暑日が続いています。
この間、愛知県岡崎市にある瀧山東照宮へ視察に伺ったり、各関係機関との調整や現地での指導をいただいたりしながら、耐震に関わる検討を重ね、申請書類の準備など水面下での様々な動きがありました。
そしてついに、観音様のご縁日である18日に、待ち望んだ工事が本格的に始まりました。祈りと願い、そして多くの想いがようやく形となり動き出したことに、胸が揺さぶられる思いです。これもひとえに神仏のご加護、そして支えてくださる皆様のおかげと、心より感謝申し上げます。
これからの工事が無事に進み、南大門が新たな姿で蘇る日を、ぜひ共に楽しみにお待ちください。
現在、南大門を守ってきた木柵が撤去され、普段は決して見ることができない姿を目にすることができます。木柵のない南大門は、この工事期間中だけの特別な景観です。
近づいてみると、普段は気付かない細部までじっくりと観察できます。特に目を引くのは、南大門を支える柱と、その足元にある礎石との接合部分です。驚くことに、石を削って柱をはめ込むのではなく、柱の底を丁寧に加工して石に合わせてあります。そのため、まるで鍵と鍵穴のようにぴったりと組み合い、何百年もの風雨に耐えてきたのです。
「縁の下の力持ち」という言葉がぴったりの礎石と柱。その確かな存在感に、先人の知恵と技術の高さを感じずにはいられません。
仮足場の機材搬入と設置が始まり、あっという間に足場が組み上がっていきます。猛暑の中、工事関係者の皆様のおかげで準備が着々と進んでいます。改めて多くの方々のお力添えを感じます。 有難うございます。
文化庁の現地指導が行われました。細部にわたり丁寧にご覧いただき、改めて「国の文化財」として守り伝えていくには、多くの方々の経験や知恵が必要だと実感しました。こうして支えていただけることに、ありがたさをしみじみと感じています。
境内では足場もだいぶ組みあがり、いよいよ工事が本格的に進んでいることを実感します。暑さの中で作業を進めてくださる工事関係者の皆様にも、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
今日は大きなクレーンを使って、南大門を覆う足場の組み立てが行われていました。屋根を覆う部分は、一部を地上で組み立ててからクレーンで持ち上げて設置していきます。その様子はまるで巨大なパズルを空中で組み合わせているようで、思わず見入ってしまいました。
普段はなかなか意識することのない足場ですが、今回の工事では1年以上にわたり南大門を守り続ける大切な存在になります。そのための基礎や構造は想像以上に複雑で、精密な計算と職人さんたちの技術が詰まっています。